白の皇国物語

白沢戌亥

文字の大きさ
上 下
507 / 526
第五章:因果去来編

第五話「深き海の底から」その一

しおりを挟む
 海中は、人が生きるにはあまりに過酷な環境だ。
 陸上の生きる人間たちも、海棲種であっても、広大な海の片隅で暮らしているに過ぎない。
 それ以上深い場所を目指そうとすれば、多くの困難を乗り越えなくてはならないだろう。
 しかし、海は多くの富を抱え込んでいる。
 五百年ほど前、ある研究者が陸上の地下資源は海洋の百分の一にもならないと断言した。大半の者たちはそれを一笑に付した。
 その本質を理解していない者たちからすれば、海など塩辛い水たまりでしかなかったのだ。
 ただ、現在の研究では、陸上の百倍とまではいかないものの、地上部分よりも海底の方がより多くの地下資源を埋蔵しているというのが定説となっている。
 論理的な学術研究に基づく情報と、積み重ねた技術。人々が様々な努力を払うに十分な下地が、そこにはあった。

                            ◇ ◇ ◇

「深度一〇〇〇に到達。周辺に反響ナシ」
「よしよし、機関出力落とせ。維持出力だ」
「了解、船長。機関出力下げ、環境維持出力」
 耳障りだった重低音が遠ざかり、薄暗い室内に男たちの呼吸音だけが残る。
 男たちは緊張した面持ちで互いの顔を見遣った。
「――ここいらを縄張りにしてるヘビはいないな?」
 ヘビ――海竜のことだ。
 大半の海棲水竜が蛇のような体を持っていることから、海で生きる人々は海竜をそう呼ぶ。
「ええ、ここらは餌が少ないですからね。龍もいないはずです」
「ならいい。だが、念のために一日はこのまま待機だ。渡りの龍かヘビがいたら、さっさと逃げなきゃならん」
「了解、交替で休みます」
「おう、頼んだ。俺は部屋に戻る」
 水軍時代の制帽を被り直し、船長と呼ばれた男は一段高い場所にあった船長席を後にする。
 船橋内の部下たちの肩を軽く叩き、彼は水密扉を潜った。

 航海日誌、聖ロデューの月十二日。
 目的地に到着し、海底に身を潜める。
 周囲に水竜及び海龍の姿はない。エリュシオンが根こそぎ捕獲するか打ち倒したと喧伝しているが、おそらくそんなことはないだろう。
 龍たちは必要以上に餌を食わない。餌が少なくなれば、別の場所を縄張りにするだけだ。
 長老はそうすることで海の中の生命の循環が保たれると言っていたが、生憎俺にはどちらの知り合いもいない。
 このまま異常がなければ、明日にでも海底の調査に入る。バウントリッテンの連中が南の海溝で大物を見つけたと言っていた。潮の流れを考えれば、こちらにも何か落ちている可能性は高い。
 連中の落ち穂を集めるのは腹立たしいが、俺たちのような海虫乗りが稼ぐには地べたを這いずり回るようなこともしなければならない。
 可能ならば、子どもたちにはこんな仕事には就いて欲しくないと思う。
 いくら俺たちの国がちっぽけで屑鉄引き揚げと海虫乗りぐらいしかまともな仕事がないとはいえ、鯨乗りならば俺たちのような死に方はしないだろう。
 こんな海の底で、誰にも気付かれずに朽ちていくような――。

 轟音。
 そして船体が上げる甲高い悲鳴。
 遠くから部下の叫び声が聞こえ、小さな破裂音が連続する。
「!?」
 私物の航海日誌に走らせていた鋼筆がどこかに飛んでいき、厚手の仕切り布を開けて若い水夫が顔を出した。
「船長!」
「何が起きた!!」
 部下が答えるよりも先に近くにあった温水管が破裂し、ふたりはずぶ濡れになる。
「畜生! 閉めろ!!」
「了解!」
 ふたりで協力して閉鎖弁の把手を回し、熱水の噴出を止める。
 しかし、水夫の報告などよりも、噴き出した熱水の方が彼に船の状況を良く教えてくれた。
 彼はずぶ濡れのまま走り出し、水夫はそれを追いかける。
「船の状況は!?」
「詳しいことはわかりません! ただ、何かに捕まってどこかに持っていかれてます!」
「持っていくだとぉ……?」
 彼は水竜の一部が自分たちの乗っている海虫を玩具にすることをよく知っていた。
 彼らなら耐えられる深海に海虫を引き摺りこみ、どの程度まで耐えられるか確かめようとするのだ。
 まるで子どもが虫の四肢を千切って遊ぶかのように、彼らは欠片の悪意もなくそれをやってしまう。
 そして、海虫にはそれに抵抗する手段が無い。
 彼らの乗っているのは軍事用の戦闘型潜航艇ではなく、払い下げられたそれを民間用に改造した『海虫』なのだ。
 短い円筒形の船体が葉巻の吸い殻か、芋虫のようだから、と呼ばれるようになったその名は、なるほど水竜を前にすればこの上なく相応しい名前に思える。
 芋虫が人の手で簡単に潰されてしまうように、自分たちもこの海の中では簡単に踏み潰されるような存在なのだ。
「くそ! 衝撃放射装置は使ったんだろうな!?」
「最初に破壊されました」
「くそったれめ!!」
 衝撃放射装置は海虫に搭載された数少ない自衛装置の一つだ。
 船体から突き出した端子に雷気を集め、それを周囲に放つ。多少大型でも通常の海棲生物ならばこれで撃退できる。
 彼はそれが破壊されたと聞き、悪罵を放つと同時に冷静な判断も下していた。
 ゆえに、彼は船橋の水密扉を潜った時にはもう、覚悟を決めていた。
「退船はできるか?」
 副長に確認すると、返ってきたのは否定の仕草だ。
「救命艇の射出口が破損して開きません。まあ、櫓の水密扉は開くようですから、潜水具を着けて海面まで泳ぐことはできるかもしれませんね」
「――深度一二〇〇で、人が生きていけると思うか?」
「無理でしょうね。なんの準備していませんし」
 このまま船外に出れば、彼らの体は簡単に水に押し潰されてしまう。
 彼らの持っている潜水具は浅い海で用いることを目的としたもので、深海用ではなかった。
「なら、決まりか」
「ですね。酒でも持ってきますか」
 副長は諦念と共に苦笑を浮かべ、上着の襟元を緩めた。
 これ以上できることはほとんど残っていない。相手は水竜だ。そして、ここは相手の領分。同じ海虫や戦闘用の潜水艇相手ならばまだ対処方法はあるが、いかんせん相手が悪すぎた。
「ひょっとしたらヘビが飽きるかもしれん。持ち場を離れるな。その上で好きにしろ」
「了解、船長。聞こえたな、お前たち」
『おおっ!!』
「では――」
 副長が自室の戸棚に仕舞った秘蔵の琥珀酒を頭に思い浮かべながら命令を下そうとしたその瞬間、再度彼らの船を大きな衝撃が遅う。
 水夫たちが把手や手摺りに抱き付き、船長は自分の席の肘置きを強く握ることで耐えた。
 これで終わりかと誰もが覚悟を決め、各々の神に祈りを捧げようとした。だが、彼らの神は彼らが自らの下へ来ることを拒んだらしい。
「これは……!!」
 水圧計を見詰めていた水夫が、驚愕の表情を浮かべる。
 これまでぐんぐん大きくなっていた数字が、急速に低下しつつあった。
 急浮上しているのかとも思ったが、それにしては浮上に付きものの体重が僅かに増したような感覚がない。
 そうこうしているうちに、水圧計の目盛りは〇を指した。
「船長……水圧、〇です。船体各部への負荷もなし」
「海上か? それにしちゃ、揺れもないが……」
 潜航艇が海上に出れば、その小さな船体に相応しく波に翻弄されることになる。
 だが、今彼らはその揺れをまったく感じていない。
「まさか、いつの間にか冥界に来ちまったか?」
「冥界でも船長と一緒とは、あまり嬉しくありませんね。できるなら去年死んだ家内に会いたい」
「俺も喧嘩別れしたクソ親父を一発殴りてえよ」
 船長は自分の椅子から立ち上がり、船橋上部の水密扉へと梯子を登っていく。
 そこで少し悩み、どうせ死ぬのは変わらないと思い、思い切り把手を回した。
「ぐ……」
 重い耐圧扉を押し上げる。
 そう、彼の力で耐圧扉は開いた。海中であれば水圧によって開くことがない扉が。
「さて、ここはどこかな」
 船長はそう呟き、耐圧扉から身を乗り出す。
 そして――
「動かないでください」
 六つの魔動式連弩を突き付けられ、ぴくりとも動けなくなった。
「――あんたらは」
「我々はアルトデステニア海軍の者です。これ以上はお答えできません」
 船長は戦闘服に身を包んだ若い男としばし見つめ合い、口を開いた。
「ここ、煙草は?」
「指定時間に、指定場所でならば」
「――分かった。大人しくしよう。うちの海虫よりも居心地が良さそうだ」
 そういった彼は、彼の潜航艇が固定された船台の上から、巨大な空間を見回した。
 彼の海虫は、より巨大な潜航艦の中にいた。
しおりを挟む
感想 68

あなたにおすすめの小説

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

てめぇの所為だよ

章槻雅希
ファンタジー
王太子ウルリコは政略によって結ばれた婚約が気に食わなかった。それを隠そうともせずに臨んだ婚約者エウフェミアとの茶会で彼は自分ばかりが貧乏くじを引いたと彼女を責める。しかし、見事に返り討ちに遭うのだった。 『小説家になろう』様・『アルファポリス』様の重複投稿、自サイトにも掲載。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました

kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」 王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。

【一話完結】断罪が予定されている卒業パーティーに欠席したら、みんな死んでしまいました

ツカノ
ファンタジー
とある国の王太子が、卒業パーティーの日に最愛のスワロー・アーチェリー男爵令嬢を虐げた婚約者のロビン・クック公爵令嬢を断罪し婚約破棄をしようとしたが、何故か公爵令嬢は現れない。これでは断罪どころか婚約破棄ができないと王太子が焦り始めた時、招かれざる客が現れる。そして、招かれざる客の登場により、彼らの運命は転がる石のように急転直下し、恐怖が始まったのだった。さて彼らの運命は、如何。

婚約破棄の後始末 ~息子よ、貴様何をしてくれってんだ! 

タヌキ汁
ファンタジー
 国一番の権勢を誇る公爵家の令嬢と政略結婚が決められていた王子。だが政略結婚を嫌がり、自分の好き相手と結婚する為に取り巻き達と共に、公爵令嬢に冤罪をかけ婚約破棄をしてしまう、それが国を揺るがすことになるとも思わずに。  これは馬鹿なことをやらかした息子を持つ父親達の嘆きの物語である。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。