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第五章:因果去来編
第四話「人形狂想曲」その四
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王子、と呼ばれることには慣れていた。
しかしそれが敬意や義務からではなく、一種の渾名として定着するとは考えもしていなかった。
「王子様、進路どうするんだ?」
皇立学究院初等部。
その三年次の終わりが迫る頃、生徒たちには最初の進路希望調査が行われようとしていた。
当然、教室内はその話題で持ちきりになる。
マイセルがいる三年十九組の教室もまた、各所で同じようなやりとりが行われている。
「進路って……僕は別に……」
「ん? 国から何か言われてるのか?」
アクィタニア王国次期国王ともなれば、すでに取るべき道は定まっているのだろうか、とマイセルの級友たる市井の酒屋の息子、バーンツ・ミドウェイは自分の生まれと比較して考える。
皇国の学校教育に於いて、級友が同じ年齢になるとは限らない。何歳でどこの学校に入学させるかは本人とその周辺の者たちが決めることで、国は一切そこに掣肘を加えない。
無論、学習の円滑化のために入学試験を課すことはあったが、年齢からその人物の学歴を言い当てることはほぼ不可能だった。
このふたりにしても、バーンツはすでに十二歳だったが、マイセルはまだ一〇にも届いていない。
皇都ではなく地方出身のバーンツは、かつて地方に暮らしていた頃に親から勉学を学んでいたが、三年前、皇都に済む祖父母の家に厄介になることになって学究院の初等部へと入った。
幸か不幸か入学試験はそれほど難しくはなかったが、今となっては日々の学習についていくのがやっとという状況だ。
マイセルはそんなバーンツが指導者として頼りにする友人のひとりだった。しかし頼られてばかりでは男が廃る。バーンツはことあるごとにマイセルの助けになろうと、彼の動向に気を配っていた。
「――ううん、父上も母上も、特にはなにも」
「へえ、そうなのか。別の組にいる貴族の奴なんて、親からくそ分厚い専門科目の資料送られて、真っ青な顔してたぞ」
「へえ、そりゃ見てみたいな」
「お、見にいくか?」
「やめておくよ。僕が同じ目に遭ったときに笑われたらいやだから」
マイセルは幼い見た目に反して、他人の機微を可能な限り斟酌しようとした。
お陰で友人の数も少なくなく、放課後にひとり退屈な時間を過ごすようなこともなかった。
「んーと、あ! じゃあ、陛下からなにか言われるのか?」
バーンツはマイセルの義理の兄のことを口にした。
すると、周囲にいた級友たちの声が僅かに小さくなり、ふたりの会話に意識を向けるような気配があった。
マイセルはそれに戸惑いながらも、曖昧な笑みを浮かべた。
「ううん、義兄上も、なにも……」
更に言えば、姉であるマティリエもとくにマイセルの将来について口に出すことはなかった。
マイセルはそれが寂しくもあり、嬉しくもあった。
獣人である彼にとって、国という枠組みは自らを縛る枷でしかない。そこにどれだけの義務感と責任感があろうとも、本能は自分の立場を邪魔なものとして認識していた。
姉であるマティリエが自分よりも更に自由のない立場にいるという事実がなければ、誰彼構わず文句を言っていたかもしれない。
「じゃあ、何にも予定がないってんなら、一緒の研究科に行かねえ?」
「どこか希望があるの?」
「ああ、ここじゃあんまり人気はないんだけどよ、大学部の研究室に商業学のお偉い先生がいるんだ。あの妖精女王の弟子だぜ」
「へえ、ルキーティ様の……」
マイセルはバーンツの言葉に興味を刺激された。
商業学に興味があるのではなく、あの妖精の下で勉学に励むという奇特な経験をした人物に深い関心を抱いたのだ。
「妖精が人にものを教えるなんてことがあるんだ」
「なんか、無理やり弟子入りしたんだってよ。――ここだけの話、たまにその妖精女王が授業をしてくれるんだと」
「――そうなんだ」
マイセルはますます興味を刺激された。
姉や義兄から聞かされる妖精女王の有り様といえば、生まれついての愉快犯としかいえないようなものばかりだ。
妖精たちは自分本位でしか物事を考えられない。
常に自分を中心に思考し、自分の利益しか考えることはないのだ。
ルキーティと呼ばれる妖精が皇国に根を張っていること自体が妖精の生態への挑戦であり、或いはルキーティなりの悪戯としか思えなかった。
「まあ、特に先のことは考えてないから、僕はそれでもいいかな」
「お! 言ってみるもんだな。他の連中にも声を掛けたんだけど、数字ばっかりの研究はいやだって言ってさ」
「気持ちは分かるよ。僕は好き嫌いできないけど」
然るべき立場になるためには、然るべき知識が必要になる。
少なくともそうしたものから逃げることはマイセルの立場では難しかった。
逃げられないのならば、せめて友人と一緒に過ごした方が気が紛れるだろう。マイセルはそんな考えでバーンツの誘いを受けた。
「じゃあ、さっそく研究室に所属希望届出そうぜ。早めに出せば、向こうの教授が飯くらい奢ってくれるかもしれないし」
どこの研究室も新たな学生の獲得には余念がない。特にマイセルたちのように初等部の頃から研究室に所属しようという熱意ある学生は研究室にとってこの上ない存在だった。
そうした学生たちに里心を抱かせようと、教授や研究者たちは様々な手段を講じているのである。もちろん、これは学校規則に照らし合わせればかなりぎりぎりの線である。
「ついでに教科書代とかも補助してくれるといいんだけどなぁ」
「あはは、僕にはなんにも言えないかな。ここの授業料も教科書代も、義兄上から貰ってるお金だから」
「あ、そういやそうか。羨ましい奴だぜ」
「その分、成績とかは全部明かさないといけないんだよ。考課の点数もね」
「げ、そりゃ勘弁して欲しいな」
賑やかに教室を出て廊下を進んでいくふたりの学生。
王族と平民という組み合わせが当たり前のように日常の中に溶け込むこの場所こそ、マイセルの父親が理想として願ってやまないものであり、今の帝国では決して実現しない夢物語だった。
しかしそれが敬意や義務からではなく、一種の渾名として定着するとは考えもしていなかった。
「王子様、進路どうするんだ?」
皇立学究院初等部。
その三年次の終わりが迫る頃、生徒たちには最初の進路希望調査が行われようとしていた。
当然、教室内はその話題で持ちきりになる。
マイセルがいる三年十九組の教室もまた、各所で同じようなやりとりが行われている。
「進路って……僕は別に……」
「ん? 国から何か言われてるのか?」
アクィタニア王国次期国王ともなれば、すでに取るべき道は定まっているのだろうか、とマイセルの級友たる市井の酒屋の息子、バーンツ・ミドウェイは自分の生まれと比較して考える。
皇国の学校教育に於いて、級友が同じ年齢になるとは限らない。何歳でどこの学校に入学させるかは本人とその周辺の者たちが決めることで、国は一切そこに掣肘を加えない。
無論、学習の円滑化のために入学試験を課すことはあったが、年齢からその人物の学歴を言い当てることはほぼ不可能だった。
このふたりにしても、バーンツはすでに十二歳だったが、マイセルはまだ一〇にも届いていない。
皇都ではなく地方出身のバーンツは、かつて地方に暮らしていた頃に親から勉学を学んでいたが、三年前、皇都に済む祖父母の家に厄介になることになって学究院の初等部へと入った。
幸か不幸か入学試験はそれほど難しくはなかったが、今となっては日々の学習についていくのがやっとという状況だ。
マイセルはそんなバーンツが指導者として頼りにする友人のひとりだった。しかし頼られてばかりでは男が廃る。バーンツはことあるごとにマイセルの助けになろうと、彼の動向に気を配っていた。
「――ううん、父上も母上も、特にはなにも」
「へえ、そうなのか。別の組にいる貴族の奴なんて、親からくそ分厚い専門科目の資料送られて、真っ青な顔してたぞ」
「へえ、そりゃ見てみたいな」
「お、見にいくか?」
「やめておくよ。僕が同じ目に遭ったときに笑われたらいやだから」
マイセルは幼い見た目に反して、他人の機微を可能な限り斟酌しようとした。
お陰で友人の数も少なくなく、放課後にひとり退屈な時間を過ごすようなこともなかった。
「んーと、あ! じゃあ、陛下からなにか言われるのか?」
バーンツはマイセルの義理の兄のことを口にした。
すると、周囲にいた級友たちの声が僅かに小さくなり、ふたりの会話に意識を向けるような気配があった。
マイセルはそれに戸惑いながらも、曖昧な笑みを浮かべた。
「ううん、義兄上も、なにも……」
更に言えば、姉であるマティリエもとくにマイセルの将来について口に出すことはなかった。
マイセルはそれが寂しくもあり、嬉しくもあった。
獣人である彼にとって、国という枠組みは自らを縛る枷でしかない。そこにどれだけの義務感と責任感があろうとも、本能は自分の立場を邪魔なものとして認識していた。
姉であるマティリエが自分よりも更に自由のない立場にいるという事実がなければ、誰彼構わず文句を言っていたかもしれない。
「じゃあ、何にも予定がないってんなら、一緒の研究科に行かねえ?」
「どこか希望があるの?」
「ああ、ここじゃあんまり人気はないんだけどよ、大学部の研究室に商業学のお偉い先生がいるんだ。あの妖精女王の弟子だぜ」
「へえ、ルキーティ様の……」
マイセルはバーンツの言葉に興味を刺激された。
商業学に興味があるのではなく、あの妖精の下で勉学に励むという奇特な経験をした人物に深い関心を抱いたのだ。
「妖精が人にものを教えるなんてことがあるんだ」
「なんか、無理やり弟子入りしたんだってよ。――ここだけの話、たまにその妖精女王が授業をしてくれるんだと」
「――そうなんだ」
マイセルはますます興味を刺激された。
姉や義兄から聞かされる妖精女王の有り様といえば、生まれついての愉快犯としかいえないようなものばかりだ。
妖精たちは自分本位でしか物事を考えられない。
常に自分を中心に思考し、自分の利益しか考えることはないのだ。
ルキーティと呼ばれる妖精が皇国に根を張っていること自体が妖精の生態への挑戦であり、或いはルキーティなりの悪戯としか思えなかった。
「まあ、特に先のことは考えてないから、僕はそれでもいいかな」
「お! 言ってみるもんだな。他の連中にも声を掛けたんだけど、数字ばっかりの研究はいやだって言ってさ」
「気持ちは分かるよ。僕は好き嫌いできないけど」
然るべき立場になるためには、然るべき知識が必要になる。
少なくともそうしたものから逃げることはマイセルの立場では難しかった。
逃げられないのならば、せめて友人と一緒に過ごした方が気が紛れるだろう。マイセルはそんな考えでバーンツの誘いを受けた。
「じゃあ、さっそく研究室に所属希望届出そうぜ。早めに出せば、向こうの教授が飯くらい奢ってくれるかもしれないし」
どこの研究室も新たな学生の獲得には余念がない。特にマイセルたちのように初等部の頃から研究室に所属しようという熱意ある学生は研究室にとってこの上ない存在だった。
そうした学生たちに里心を抱かせようと、教授や研究者たちは様々な手段を講じているのである。もちろん、これは学校規則に照らし合わせればかなりぎりぎりの線である。
「ついでに教科書代とかも補助してくれるといいんだけどなぁ」
「あはは、僕にはなんにも言えないかな。ここの授業料も教科書代も、義兄上から貰ってるお金だから」
「あ、そういやそうか。羨ましい奴だぜ」
「その分、成績とかは全部明かさないといけないんだよ。考課の点数もね」
「げ、そりゃ勘弁して欲しいな」
賑やかに教室を出て廊下を進んでいくふたりの学生。
王族と平民という組み合わせが当たり前のように日常の中に溶け込むこの場所こそ、マイセルの父親が理想として願ってやまないものであり、今の帝国では決して実現しない夢物語だった。
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