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第二部 第一章
第一話「同盟締結」2
しおりを挟むマルファスは議場での仕事を終えると、いくつかの式典に参加してから本国への帰途に就いた。
彼の見送りには各国の同盟代表部大使が姿を見せ、たった一日の同盟議長に対する最大限の敬意を示してくれた。
彼らは同盟設立のために奔走したマルファスを信頼していた。積み重ねてきたその信頼こそが、彼が外交官として生きた八〇余年の集大成といってもいい。
皇国の支援で新たに敷設されたグラッツラーの鉄道に乗り、マルファスはそれまでの外交官人生に思いを馳せながら祖国へと帰還した。
皇国に戻ったマルファスは、外務院での報告を終えるとすぐに登城した。
事前に時間を知らせてはあったものの、今の彼は無官の立場である。大々的な出迎えはなく、担当の係官がひとり待っているだけだった。
「ご苦労」
しかし、その扱いにマルファスは満足気に頷いた。
役人たちは皇国すべてに対して奉仕しなければならない立場であり、無官の前外務総裁に必要以上の人員を割くべきではない。
特にここは皇城であり、マルファスがここを訪れたのも仕事の結果を報告するという意味以上のことはないし、そうでなければならない。
マルファスは皇王の信頼の下で外務院総裁としての任を勤め上げ、また諸国家同盟という難しい仕事も完遂した。ならば最後まで皇王の信頼する臣下として、与えられた役目に相応しい態度を示さねば、これまで受けた信頼を損なうことにもなる。
「マルファス、戻ったか!」
係官に付き添われて皇城の受付を抜け、各部署へ通じる入口広間に差し掛かったところで階段の上から彼の名を呼ぶ者が現れた。
宰相長衣を纏った老人、皇国官僚一万人の頂点に立つ男、ハイデルだ。
「これは、宰相閣下。ご健勝そうでなによりです」
「若い連中がよく働いてくれる故、それを監督する儂も歳を取る暇がないのだ。特使殿は儂が案内する、お前は仕事に戻るように」
「はっ」
係官に戻るよう命じると、ハイデルはマルファスを先導して歩き出した。
ほんの一年と少し前まで、マルファスはほぼ毎日この老人と顔を突き合わせては喧喧と議論を交わしていた。
外交問題は刻一刻と変化し、それに対する皇国の方針もまた常に変化を強いられる。変化させるためには働きかけが必要で、政府と外務院の責任者同士であるふたりは自然と意見を戦わせることが多かった。
配下の実務者がほとんどの協議を行うとはいえ、生来の性格か、このふたりは自らの言葉と頭で仕事をすることを好んだ。
ときには丸一日以上、休憩を挟みつつ議論を交わし、部下たちのほうが先に参ってしまうこともあった。
そんな相手であるからこそ、ハイデルは宰相の忙しい仕事の合間を縫って会いに来たのだ。
「だいぶ静かになっただろう」
「はい」
皇城の廊下といえば、市場の競りの会場かと思えるほどに喧騒が満ちていた場所だった。
各地の役人が皇城で顔を合わせてはそこかしこで打ち合わせを始め、ときには掴み合いの喧嘩にまで発展するのが常だった。
しかし、今の皇城にそんな喧騒はない。
それがマルファスにはなんとも寂しく感じられた。それはハイデルも同じだったようだ。
「皇城まで役人が出向かなくて良いほど、国内が安定してきたということだ。今ではわざわざ廊下で話し合わずとも、会議室の数も足りている」
「それは何より。陛下も膝元が騒がしくては色々差し支えがありましょう」
「陛下の周りはいまでも騒がしいからな。気付いておられないのかもしれん」
ハイデルの本気か冗談かわからない台詞に苦笑しつつ、マルファスは皇城の広い廊下を眺める。
もはやここをこうして歩く機会もないだろう。
貴族院で何らかの役職を仰せ付かる可能性も否定できないが、外務院総裁だった頃と比較すれば暇なものだ。
「暇が疎ましいならば、宰相府で仕事を用意してやっても構わんぞ?」
「生憎ですが、しばらくは暇な貴族生活を送らせて頂きますよ。領地もずいぶん長い間代官に任せたままですので」
「それは結構なことだ。君の領地はたしか、黒龍公の所領に近かったな」
ハイデルの頭の中には、大小すべての皇国貴族の領地の場所と、その主な特徴が記憶されている。
マルファスの領地が黒龍公領の隣にあり、そこから運び出される資源の加工を主な産業にしていることも知っていた。特に魔導装置に用いる結晶型記憶端子の製造に秀でており、それらの工房が建ち並ぶ街には常に賑わいがあった。
「工業製品にはこれからも需要が拡大し続けるだろう。それらを製造する場所も必要とされる」
「――陛下は戦争を望んでおられるのですか?」
「陛下の望みはこの国がもっとも平穏に暮らすことだ。そのために戦いが必要だと結論付けたならば、あの方はそうするだろう」
「やはり、ただ見掛けの平穏では満足してくださらないのですね」
マルファスは今回の同盟によって、帝国の侵攻の意思を挫くことができるかもしれないと期待していた。
いくら帝国が様々な事情から戦争を志向したとしても、損失が得られる利益を上回るようならば戦いは起きない。そのはずだ。
ただ、皇国政府の首脳部はそう考えていない。マルファスはそう強く感じていた。
「あえて宰相として意見を述べるならば、国同士の戦争ならばまだいい。お互いに落とし所を見つけることも可能だ。しかし、どちらかの政治的秩序が崩壊したことでなし崩しに戦争が始まってしまえば、その結末は悲劇的なものになるだろう」
「はい」
戦争とは外交手段のひとつである。
逆に言えば、外交手段のひとつでなければ戦争ではない。
歴史の中には、この戦争ではない戦争がいくつも転がっている。
秩序の崩壊した国で複数の武装勢力が覇を競い、その争いが国境を越えて飛び火する。巻き込まれた国は、飛んできた火の粉を振り払うことはできる。しかし、事態を収拾するために話し合うべき相手がいない。
その相手を作るために争いに介入する羽目になり、結局泥沼の長期戦に沈み込んでしまう。そのような事例はなんら珍しくないのだ。
「君ならばわかるだろう。あの国は実に危うい状態にある。いっそ前皇太子を再び後継者に指名して欲しいくらいだ」
前皇太子とは、皇妃マティリエの父のことだ。
しかし一度廃嫡されたこともあり、彼自身に帝位を志す意図はないように見えた。
支援者に何度再起を促されても、彼は首を縦に振らないという。
「本人にその意思がなければ、帝位など望むべきではない。どれだけ能力があったとしても、だ」
ハイデルの低く実感のこもった言葉に、マルファスは小さく頷く。
望まぬ地位を得た者の結末は、その大半が不幸なものだ。それも本人だけではなく、周囲の者までも不幸に巻き込むのが常だった。
「皇妃殿下の父として振る舞うこともしないのだ。帝王など望むまい」
時節の挨拶を欠かすこともなければ、子どもたちの記念日の贈り物も忘れたことはない。
良き父だろう。だが、帝王にはなれない。
才覚は間違いない。だが、意思がない。
ならば、あてにはならない。
「第十三姫も同じだ。我々が帝王に、と思う者ほど帝王になりたがらない」
「優秀な者であれば、あのような立場は望みますまい」
君主などなるものではない。
君主としての才覚を持つ者ほど、そんな結論に至る。
「陛下も最初は自ら望んで立ったわけではないと聞く。妃殿下たちがいらっしゃらなければ、今この城にあの方はいまい」
運命とは本人の意思とは関わりなく選択を強いる。
マルファスもそうした経験はあったし、この老宰相とて同じことだ。
「それでも、我らの皇王は陛下おひとりです。あの方がその立場にある限り、我らはそれを盛り立てるまで」
「陛下には恨まれるぞ」
「理由も分からず恨まれるのならば気も滅入りましょうが、そうでないのならば胸を張るのも臣下の勤め。我らを恨むことで陛下の気が紛れるならば、それでいいではありませんか」
「それもそうか。この三年、恨まれるのには慣れた。どうせ後先短い老いぼれの命だ。せいぜい恨みを買って生きるとしよう」
ハイデルは嬉しそうに笑った。
自らの命の使い道に満足している者の笑みだ。
「さ、儂は仕事に戻る。陛下がお待ちだ」
「お体にお気を付けください」
「誰ぞに刺されない限り、死にはせんよ。まだまだ仕事は残っているのだからな」
ハイデルはそう言いながら去っていく。
その背筋の伸びた長衣姿に、マルファスは人間の強さを感じた。
「…………」
老宰相の背に自然と頭を垂れ、マルファスは皇城内庭園へと通じる扉に向かう。
衛兵がマルファスの姿を認め、扉をゆっくりと開いた。
「陛下は南の池のあたりにおられるようです」
「わかった。ありがとう」
衛兵に見送られながら、マルファスは綺麗に整えられた庭園へと足を踏み入れる。
城内という環境のせいもあってさほど広さはないが、配置の妙で狭さを感じさせることはない。
要人との会談のために作られた遊歩道を進むと、木立の向こうに池が見えてくる。
その畔に立つ白い長衣姿の青年を認め、マルファスは呼吸を整えた。
「皇王陛下、臣マルファス、参りました」
「うん」
青年が振り返り、その銀の眼がマルファスを捉える。
自分とは違うなにかの視線を受け止めながら、マルファスはその場で皇王の許しを待つ。
「こちらに」
「はっ!」
許しの言葉をもらい、青年の傍らへと進む。
庭園で飼われている鳥たちがふたりの頭上をぐるぐると回っている。
「ご報告いたします。同盟締結式典、滞りなく終了致しました」
「ご苦労でした。長い間、交渉の任を務めてもらい、感謝しています」
「もったいなきお言葉」
「ハイデルから小言でも聞かされましたか?」
「いえ、そのようなことは……」
皇王の正体を思えば、先ほどまでのハイデルとの会話など秘密にもなりはしない。
その気になれば、彼の知覚はこの街すべてに及ぶ。秘密など作りようがない。
「まあいいでしょう。むしろ彼には私のほうが小言をいいたいくらいです」
「と、いいますと?」
「老体を労れといっても聞く耳を持たない。仕方がないので、皇妃を通してご夫人にお願いすることにしています」
「そうでしたか」
夫人には夫人同士の繋がりというものがある。
それを使ったほうが物事が簡単に済むこともあるのだ。
「あなたも私に同じ面倒を掛けさせないよう。自分の身を労るようにお願いします」
「は……ははっ」
マルファスは若干の恐縮とともに敬礼する。
個人的に接する皇王とは、このような存在だったのかと驚きさえ感じていた。
「また、なにか頼むこともあるでしょう。今回得た友人たちとは交流を保っておくように」
「――はっ」
皇王の言葉に、マルファスはわずかに目を見開く。
マルファスという政府外の者を使って、同盟に働きかける必要がある事態など、そう多くはない。
だが、皇国貴族として求められたのならば、それを全うするのが務めである。
「先ほど、帝王が倒れたと急報が届きました」
「なんと……」
いつかそうなるとは思っていた。
だが、実際にその情報を目の前にすれば、マルファスのような歴戦の外交官とて動揺する。
帝王クセルクセス一〇世とは、それほどまでに大きな存在なのだ。
「病状は安定しています。すぐにどうこうとはならないでしょう。ですが、以前のような働きはできません。彼が抑え込んでいたものは、すでに解き放たれていると見て間違いない」
「承知しました。友人たちとも緊密に連絡をとるようにいたします」
「よろしく頼みます」
「はい」
マルファスは自分の悠々自適な隠居生活が遥か遠くへと逃げ去ったことを自覚した。
否、皇国すべての民の未来から、平穏というものが消え去った。
彼は自分の足元の遥か下に、黒く冷たい何かが蟠っているように思え、ほんの少しだけ震えた。
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