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第五章:因果去来編
第二話「それは緩やかな」その六
しおりを挟む『警告、貴船はアルトデステニア皇国の領海に接近している。ただちに針路を変更し、退去されたし。機関及び舵機の異常ならば、当該状況を示す旗旒信号を直ちに掲揚されたし。本艦はアルトデステニア皇国海軍第四艦隊所属、哨戒巡洋艦〈グランシェール〉。本艦は皇王陛下より領海侵犯艦船の即時撃沈許可を得ている』
拡声機と指向性通信によって行われる警告は、多いときは一日に数度にもなる。
特に北方の帝国との境界線付近では、帝国の国旗を掲げた大型漁船などが皇国の領海に接近することが多く、領海警備任務中の海軍艦艇は忙しく海上を走り回ることになる。
「漁船、針路変わります。北へ退避する模様」
「分かった。念のために警戒水域を出るまで監視を怠るな。観測器でも落としていくかもしれん」
「了解。当該船舶を監視対象三号に追加、追尾開始」
哨戒巡洋艦〈グランシェール〉の艦橋は、哨戒を目的とするだけあってかなり広めに設計されている。その中央近くにある艦長席にいるのは、人間で言えば年の頃十ほどの小柄な少女だった。
「まったく、退屈な仕事かと思えばいちいち面倒なことばかりだ」
「ははは、突撃艦隊から領海警備ですからな」
彼女はヴァリー・ド・パルシェ。今年で三十九になる海軍中佐だ。隣で笑い声を上げる航海士官をじっと睨み、座布団でかさ上げされた艦長席でふんぞり返る。
「どうにもこの哨戒巡洋艦というのも好きになれん。寝台や廊下が広いし、揺れも少ないが、オレが前に乗っていた雷装巡洋艦と較べると大人しすぎる」
「まあ、長期航海のためのフネですからね。それに警防官も乗り込んでいる」
「あの頭でっかちどもか……」
海軍の正規艦隊のうち、偶数の艦隊は防衛型艦隊として編制されている。割り当てられた海域での防衛と哨戒任務がその主任務であり、他国であれば専門の沿岸警備組織などが行う警察任務も彼らの仕事だ。
そのため、奇数艦隊と偶数艦隊が同じ泊地に碇を下ろしているとき、両者は簡単に見分けることができる。
奇数艦隊は海上迷彩が施されている艦がほぼ総てであるのに対し、偶数艦隊は哨戒艦艇に遠目からも識別が容易になるよう明るい色で塗装されているからだ。
武装も比較的軽装で、同排水量の同一種艦艇と較べれば些か貧弱な感は否めない。
「アイツら、少なくとも船酔いくらい克服してから船上勤務すればいいものを……」
「法務官として上から命じられたらどうしようもないですよ。艦長と一緒です」
「むむぅ」
皇国の領海警護の艦艇には、法の専門家として最低ひとり以上の警防官が乗り込んでいる。
彼らは大抵の場合皇国司法院の職員であり、海上での勤務経験がない。当然、海上で生活する上で避けられない諸問題にもぶつかり、その都度海軍の乗組員に莫迦にされていた。
「いい加減、うちにも司法学校の卒業生回ってこないものかね」
国際法に精通した専門家として哨戒艦隊の業務を下支えするのが警防官の役目だ。その業務は内部向けの法務官とも違い、対外的な窓口としても機能する。
状況の変化で司法院からの出向人員だけでは人手が足りなくなったこともあり、海軍は優秀な警防官を自分たちで育成するべく海軍司法学校を作った。
「士官学校の中でも司法畑に適性のある連中を集めて、ようやく五〇名って話ですから。うちみたいな小さなフネに配属されるのは当分先じゃないですかねぇ」
艦隊司令部には何人か配属されたみたいですが――航海士官の他人事のような物言いに、ヴァリーは青筋を浮かべる。
「うちの警防官殿なんぞ、不審船追っかけてる間中、ずっと隣で吐きそうになってるんだぞ。気が散るなんてもんじゃない」
「そりゃ気になりますね。それでも吐かないだけマシってもんですよ。中央指揮所で吐いた莫迦もいますからね」
密室で吐瀉物の掃除をしたことがある航海士官は、当時のことを思い出して胃が軋んだような気がした。
幸いなことに食事は半時間後だ。それまでに調子を整えればいいだろう。
「とりあえず、じっくりいきましょう。そうそう戦争なんて始まるもんでもないですしね」
「はぁ、その楽観が羨ましいよ」
ヴァリーは溜息とともに怒りも吐き出し、制帽を被り直して遠ざかる漁船の姿を見送る。
「ま、楽観しているくらいがちょうど良いのかもしれないな」
その通りと頷く航海士官を視界の脇に捉え、ヴァリーは今日の食事の献立を思い浮かべる。
結局のところ、彼女たちには日々の任務を忠実にこなす以外の過ごし方など考えられない。
今、自分たちの目の前から去っていく漁船が特殊工作船であり、事細かに周辺の情報を集めていたとしても、このときの彼女たちの任務は、それを見送ることだった。
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