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第五章:因果去来編
第一話「神の贄」その五
しおりを挟む「陛下」
城に戻ったレクティファールを待っていたのは、赤絨毯に杖を突いた宰相のハイデルだった。
小言でもあるのかと身構えたレクティファールであるが、ハイデルはそれ以上何かを言うでもなく、執務室へと進み始めたレクティファールの後ろにひっそりと追従する。
「ハルワントの戦ですが、掃討戦に入ったようです。公使館から引き上げの打診が来ておりますが……」
「外務卿に任せる。私が信任状を届けさせたのはハルワント王だ」
「畏まりました」
それはハルワント王国がその主権を失った瞬間、皇国はあの地から手を引くということだ。ハルワントの王族は反対するだろうが、今の皇国に遠い異国同士の戦いに介入する理由はない。
「いささか、焦っておりますな。ウォーリムは」
「統合が上手くいっていないのだろう。一千年の間戦争をしていた国同士が、たかだか十年と少しで同じ国になれる訳がない」
いかに神帝ふたりが国民に支持されているとはいえ、様々なしがらみがある。
「なんとか娘の代になる前に国を纏めたいのだ。周辺国にとっては面倒なことこの上ないが」
神帝夫妻には一粒種の娘がいた。両国統合の象徴であり、真の意味で千年の戦争を終わらせる唯一の鍵とも言われている。
「ふたりの神帝にとっては娘が跡を継ぐまでに国内を纏めたい。それに反対する者たちは、何とかそれを頓挫させたい」
「まあ、最後の機会でしょう。これで統合に失敗すれば、あの国はさらに千年は争い続ける。そうなったら、エリュシオンに呑まれます」
エリュシオンが最近になってウォーリム領土を脅かそうとする姿勢を見せ始め、周辺国はふたつの超大国の間で高まる緊張に怯えていた。
いつ大陸を沈め合うような大戦が始まるとも知れず、皇国も無関係ではいられない。
「個人的には勝手にやっていてほしいものだが……」
「某もまったく同じ考えですが、向こうがどう考えるかは分かりませんな」
「トランの方は人心地ついたというところか」
「本土まで脅かされるのではと戦々恐々としておりましたからな……」
トラン大同盟から皇国に対して内々に同盟の打診があったのは、今回の騒動よりも前のことだ。
エリュシオンとの間で戦端が開かれ、後背を脅かされては堪らないと思ったのかもしれない。少なくともアルマダ大陸の半分を実質的に支配している皇国が敵にならないならば、一方の敵に集中できる。
ただでさえも複数国家の連合国家であり、足並みがまったく揃わないトラン大同盟にとって、多方面戦争など悪夢でしかない。
「そろそろ海軍工廠機能が追い付かなくなりますぞ。新造にせよ改修にせよ、急ぎすぎとは申しませんが……」
「やれるうちにやっておくしかない。死んだ兵は鍛えられんし、沈んだフネは改修できん」
「しかし、これ以上軍に人材を取られては市井が立ち行かなくなりますぞ」
「分かっている。軍の増員はとりあえず打ち止めだ」
軍の要求を満たすための増員を行い、四軍合計で百万と少し、これまでの皇国史上もっとも軍の人員が多くなっていた。
帝国のように別の職を持っている者を強制的に兵にすることはできないため、これ以上兵員を増やすのは不可能だった。
「なんとか兵を使わずに勝ちたいものだ。――外務院はその方向で動いているのだろう?」
「はい、帝国では上手く後継者の各勢力を均衡状態に保っています。グロリエ皇女についてはそもそも自らの派閥を作っていないのでどうにもなりませんが……」
「彼女は父である帝王が後ろ盾だったからな。本人に国を盗る気がないのだからどうしようもない」
「いっそ、国を盗ったら陛下と思い切り戦えると嗾けましょうか? そうすれば、一年程度で帝王になっているやもしれません」
「ははは、愛が重いぞ」
「羨ましい限りですな」
レクティファールは足を止めて振り返り、廊下に置いてある観葉植物を眺めているハイデルを睨んだ。
そして嘆息した。美姫に愛される、確かに羨ましいことだろう。
自分だって、他人がそのような状況になっていれば羨むはずだ。
「私は帝国を火の海にはしたくないぞ」
「某も同じです。難民の流入が処理能力を超えるでしょうから」
グロリエが積極的に民を巻き込むことはしないだろうが、相手側がそうだとは限らない。そして相手が民を巻き込めば、グロリエは相手に対する身内へのいたわりを忘れ、敵として討つことを選ぶ。
皇国としてはその状況を望むことはない。少なくとも、今はそうだ。
「では、方針に変更はないということでよろしいですな?」
「ああ」
ハイデルに頷いてみせ、レクティファールは到着した執務室の前で歩いてきた廊下を振り返る。
「――――」
長い廊下だ。
埃ひとつ落ちていない。誰かが掃除をしているからだ。
だが、これから自分が進もうとする道は、誰も掃除などしてくれない。
荒れ果て、巨岩が転がり、渓谷が口を開けているだろう。
「なにか、気になることでもありましたか?」
「いいや」
ハイデルは主君の内心を半ばまで察した。それ以上は僭越だと理解していた。
自分は決して主君の行く道を共に歩めない。
今になって、あと少し寿命があればと思う。あと少しだけ身体が持ち堪えられれば、この主君を世界の覇者にするという夢を見ることができただろう。
しかし、今となっては、その夢は今わの際に見る最後の夢になる。それまでは楽しみに取っておくのだ。
「では、仕事を始めようか」
「はい、我が陛下」
扉を開け、ふたりは秘書官たちの待つ執務室へと入る。
ほんの僅かな、戦争と戦争の間の季節だった。
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