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第五章:因果去来編
第一話「神の贄」その二
しおりを挟む窓の外で爆音が連なる。
その音を聞きながら、彼は自分が行うべき仕事をこなしていた。
「公使閣下、王宮より使いです」
「ん、分かった」
ハルワント王国駐箚のアルトデステニア公使は、部下の言葉に頷き、手元の磁碗に残った王国産の紅茶を飲み干す。
これでしばらくこの味ともお別れかと思うと、さほど洗練されていない茶の味が妙に美味く感じられた。
「王子殿下、王女殿下を伴われております」
「――そうか、では貴賓室にお通ししろ。ああ、革椅子はどかした方がいいな、彼らは身分が高ければ高いほど、床に座る」
「畏まりました」
部下が部屋から出て行くと、公使は衣裳掛けに引っ掛けておいた山高帽を手に取り、細かな埃を払い落とした。
先ほどから地面を揺らすような砲撃が続いているため、天井の埃がふわふわと落ちてきている。
「次の掃除婦は、もう少し丁寧な者に頼もう」
それがいつになるか分からないが、と心の中で付け加えつつ、彼は公使執務室を出て螺旋階段を降りていく。
部下に付き添われた豪奢な衣裳の男女が彼の姿を認め、潤んだ目を向けてきた。
「こ、公使殿……」
年嵩の王子が、弟や妹を庇いながら公使に向かって何かを言おうとする。
それが命乞いの言葉であることは分かっている。
今、彼らを外の連中に差し出すかどうかは、傍目には公使の胸先三寸のように思える。だが、とうの公使本人は、怯えきった王子たちの様子に同情を抱くことはあっても、それ以上の感情を持つことはなかった。
「街の者たちも幾らか避難してきておりますが、少なくともこの建物の敷地内にいらっしゃる限りは、当職が皆様の安全を可能な限り保証いたしましょう」
「感謝する……!」
王子は礼を述べ、足早にその場を立ち去る。
それを見送り、果たして自分の国の皇族ならばこのようなときにどのような態度を取るかと考えて見た。
「いや、私の考えることではないか」
そうならないようにするために自分たちがいるのだ。
彼は杖を突き、努めて平静を保ちながら玄関の向こう側に意識を向ける。
どうやら公使館の前にはウォーリム軍の兵士が集まってきているらしい。
それはそうだろう。
戦争が始まって以来、未だに帰国命令が出ていない公使館はここだけだ。
つまり、ウォーリムにとって王宮よりも厄介な場所がここなのである。
「公使閣下」
「ああ、君か」
公使の下に駆け寄ってきたのは、この公使館に詰める駐在武官の陸軍少佐だった。
この地に来てから各国の武官と知己を得て、様々な情報を集めていた。
「どうするね? 君の友人も向こう側にいるのではないかな?」
「いるでしょうが、彼も軍の命令には逆らえませんよ。できれば屋上の星龍旗に気付いてくれると嬉しいんですがね……」
「気付いてはいるようだ」
公使が呟くと同時に、公使館の敷地外から大音声が木霊する。
《我らは大神バムハシードの地上代行たる神帝メルギマルガスト三世聖下より、この地の邪教徒を討滅せよとの聖令を受けし者なり、龍国、アルトデステニア皇国公使閣下にお目通りを願いたい》
公使はやれやれと肩を竦め、少佐は制帽を目深に被って表情を隠した。
「――近所迷惑だ。ちょっといってどいてもらうとしようか」
「お付き合いしますよ」
公使は少佐を伴い、公使館の玄関を開いた。
あっさりと姿を見せたアルトデステニア皇国の公使に、ウォーリム軍の兵士たちは僅かながら動揺したようだった。
彼らは公使が公使館のなかで怯えていると思っており、こうも簡単に姿を見せるとは思っていなかったのだ。
自分たちは最新装備に身を固めた十万規模の軍勢である。数名の駐在武官がいるだけの公使館など、簡単に制圧できるのだ。街中で出くわした未開人のように、自分たちに泣いて命乞いをするのが当然ではないのか。
「私に何かご用でも?」
公使はまったく怯えを感じさせない態度で門扉の辺りまで進み出た。
狙撃どころから通常の突撃銃でも連弩でも撃ち放題の位置だ。
隣にいる武官は一応武装をしているようだが、せいぜいが個人携行用の小弩だろう。
それを見て取ったウォーリム軍の士官は、大きく胸を張って声を上げる
「この建物にハルワント王族が匿われているとの情報を得た。これはすでに確認された情報であり、隠し立てすることは我国と貴国の友情に――」
「おりますが、それが何か?」
ウォーリム士官の言葉を遮るように、穏やかな声で公使が答える。
言葉を途中で打ち切られる形になった士官は一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、次いで怒りで頬を染め、最終的には無理やりそれを押さえ付けた引き攣った表情で頷いた。
「なれば、それを引き渡して頂くことが、我々とあなた方の友情に適うことであり……」
「お断りいたします」
再び言葉を遮られ、士官は今度こそ怒りを隠せない。
背後の兵士たちが笑いを堪えているのが分かった。
「それは如何なる理由によるものか……?」
士官は怒りを抑え込みながら、公使を威嚇する。
自分が一つ命令を下すだけで、公使館など簡単に吹き飛ばせるのだと示したいらしい。ただ、公使にとってはその程度の威嚇など威嚇にもならない。
彼の前職は、比較的皇王と皇妃に近かった。
つまり、概念兵器と龍の喧嘩にも近かったのだ。
それに較べれば、この状況など春の穏やかな昼下がりのようなものである。
「如何なるもなにも、我々は本国と通信を遮断されておりません。つまり、本国からいつでも訓令を受け取れる状況にあるのです。そして我々が受けたもっとも新しい訓令は、皇国の名誉を重んじ、他国の名誉を毀損することのないように、とのものです」
公使は穏やかに続ける。
「ハルワント王族の方々は、すでに我国の賓客でありますので、それを陛下のお許しなくそちらに引き渡すことは、両国の名誉を汚す行為であり、本職にはそれを行う権限がありません」
公使のその言葉に、ウォーリム側が動揺する。
通信の遮断は作戦の最初期に行われているはずだった。
それによって公使館が孤立し、総ての判断が公使に委ねられているはず――だからこそ、彼らはこうして武力を背景に王族の引き渡しを要求したのだ。
公使館の館員の安全を確保するためには、王族に対する非礼など然したる問題ではない。そう脅しつけるつもりだった。
「本国は貴国との争いを望んでおりません。それだけはお伝えしておきます」
「――聖下にお伝えしよう」
少なくとも皇国は王国に与することはしないと言外に告げられ、士官は渋々頷く。
これで彼の判断による公使館への攻撃は不可能となった。
もしもここでウォーリム軍が公使館に攻撃を加えれば、それは戦意のない相手に対して一方的に武力行使を行ったということになる。
彼らがどれほど強大な力を持っていたとしても、今皇国とことを構えることは得策ではないし、皇国以外の国に自国への攻撃の口実を与えることも避けたかった。
「では、私はこれで失礼致します」
公使が武官を伴い、くるりと反転する。
それを見送ったウォーリム兵士は、ただただぽかんとして自分たちの上官を見詰めるしかなかった。
その上官と言えば、一族郎党を殺されたかのような目で公使館の屋上に翻る皇国の国旗を睨み付けるだけだった。
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