白の皇国物語

白沢戌亥

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第四章:万世流転編

第十一話「意志の鉾先」 その四

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 互いの息が掛かるような距離まで距離を詰められ、ハイドリシアは少しでもそこから逃れようと身体を揺らした。
 殺される。
 何の意味もなく殺される。
 久しく感じていなかった恐怖が湧き上がってきた。
「思い出せ」
 低い声。
 ハイドリシアはひっ、と悲鳴を上げたものの、それを拒否する手段をとることが出来なかった。
 レクティファールは何一つ特殊な手段など用いていない。ただ、ハイドリシアが自ら恐怖という底なし沼に沈んでしまっただけだ。
 ハイドリシアは一切の抵抗手段を用いることがないまま、自分の記憶の中に放り出された。
「其方の勝利を願った無垢な子どもの顔」
 戦場へ向かう仲間たちと一泊した農村。
 そこでは村長以下村人全員が彼女たちを歓待してくれた。村の広場で行われた宴の場。ハイドリシアの武勇伝を聞きたいとせがんできた子どもたちに対し、仲間のひとりだった魔法使いの少女が、その明るい声と大きな身振り手振りで子どもたちを楽しませた。
 ハイドリシアが恥ずかしがって止めようとしても、子どもたちは次から次へと新たな物語をせがむ。やがて子どもたちが睡魔に負けて親に抱きかかえられて去って行くまで、ハイドリシアは子どもたちの曇りのない羨望を受け続けた。
「其方の凱旋を信じた母たちの顔」
 戦況が悪化し、王都へと避難する民を護衛した。
 避難民の中にはハイドリシアたちを責める者もいたが、多くの人々は教会の布告通り、この避難が一時的なものだと信じていた。
 ハイドリシアは避難民の中に、身重の女性を見付けた。
 その女性は避難行の最中に産気付き、野営地の一角で赤ん坊を出産した。ハイドリシアはアーリュと共にその手伝いを買って出た。
 疲れ切った母親は、しかし自分の赤ん坊の顔を見ると涙を流しながら喜んだ。ハイドリシアに何度も礼を言い、我が子の生きる時代は平和であって欲しいと言っていた。
「其方の仲間たちの最期の顔」
 魔王連合の本陣を強襲した仲間たちは、次々と倒れていった。
 ハイドリシアよりも若かった神官見習いの少年は、王都にいる両親を想いながら先輩であるアーリュの腕の中で息絶えた。
 老若男女揃った仲間たちの間を取り持っていた経験豊かな傭兵は、その厳つい顔に似合わぬ美人の細君の写真を胸にハイドリシアたちの退路を開くべく突撃し、命を落とした。
 お調子者の王国騎士の青年は、何度もハイドリシアを口説き、結局最期まで彼女を頷かせることはできないまま、魔獣の巨大な顎門で上半身を失った。
 王国随一と言われた魔法使いの老婆は、孫でもある魔法使いの少女を庇って敵の魔法の中に消えていった。その孫は祖母の死から一瞬の後、呆然としたまま振り抜かれた巨人の棍棒の直撃を受け、ばらばらになった。
 優秀な狩人だった森の民の男は、戦いの中でただ叫びながら矢を放つだけの存在となり、上空から飛来した怪鳥に捕まり、そのまま姿を消した。彼の放った最後の雄叫びは、まだ耳に残っている。
 ハイドリシアが密かに憧れていた王国騎士団の副団長は、殿軍として部下であった二人の騎士を連れて敵陣に飛び込んでいった。ハイドリシアの肩を叩き、国を頼むと言い残していた。
「思い出せ、総てを思い出せ。それこそが其方の望んだ罰。其方の受けるべき償い」
「う……うう……」
 次々と故郷の光景が蘇ってくる。
 春。多くの花が溢れる城の庭で姉と言葉を交わした。
 夏。仲間たちと森の中の湖で過ごした。
 秋。夕暮れに輝く黄金色の麦畑を前に、この世界を守るのだと決意を新たにした。
 冬。修練のために訪れた山中の村で、村人たちと酒を酌み交わした。
「いやだ……思い出したくない……」
 涙と鼻水で、ハイドリシアの顔はぐちゃぐちゃになっていた。
 レクティファールの瞳の向こうに、故郷の在りし日の姿が見える。そこには平穏な世界があり、彼女を受け入れてくれる暖かな人々の温もりがあった。
「其方は何をした? 彼らに何と答える? 憎き敵に蹂躙され、滅んでいった者たちの顔が見えるか?」
 憎まれているだろうかと思った。
 憎まれているだろうと確信した。
 彼らは勇者というたったひとつの希望のために、その総てを差し出してくれた。
 老いた男さえ槍を取り、老いた女さえ額に汗して糧食を作った。
 幼子は泣くことを堪えて怪我人の治療を手伝い、家族を失った者はその悲しみに暮れる間もなく土嚢を作った。
 総てはハイドリシアのため。
 それが王国と教会によって作られた『勇者』という虚像のために行われたものだったとしても、彼らの行動は総てハイドリシアという現実の糧になった。
「いや……いやぁ……」
 頭を振る。
 耳を塞ごうとする。
 しかしその両手はレクティファールの片腕に絡め取られ、ハイドリシアは刑場の柱に吊り下げられた罪人のように泣きわめくしかない。
「人々の怨嗟が聞こえるか? 其方に総てを託し、そして裏切られた者たちの叫びが聞こえるか?」
 聞こえている。
 心の奥底。人々が罪悪感と呼ぶ部位から、彼女が出会い、別れてきた総ての者たちの声が響いてくる。
 何故、何故、何故、何故、何故。
 死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない。
「ああああ……」
 ハイドリシアは大きく目を見開き、その幻の声から逃れるべく身体をよじる。
 怨嗟の声が、憎悪の顔が、彼女に向かって迫ってくる。
「あ」
 逃げよう。
 そう思った瞬間、ハイドリシアは最後の心の支えを失った。
 彼女は人々の悪意から逃れる手段を求め、実行した。それはふるさとの民であることの否定。勇者であった自分の否定だった。
「あはは……」
 そうだ、勇者でなければいい。
 自分は勇者ではない。だから、人々に憎まれる訳がない。
「其方は――」
 レクティファールは目の前の女性が、精神を保持するための重要な柱を総て喪失したことを確信した。
 長い年月を掛け、彼女を勇者として欲する者たちによって作られた『勇者ハイドリシア』という存在は、レクティファールとハイドリシア自身によって否定された。
 ならば、彼の告げるべき言葉は多くない。
「ハイドリシア」
 名を呼ばれ、ハイドリシアは不思議そうな顔でレクティファールを見た。
 そこには幼子染みた澄み切った瞳があるだけで、かつてのような戦意は欠片もない。
「我が槍となれ」
「槍……」
 掴んでいた腕を解放すると、ハイドリシアの両手は力なく寝台の上に落ちた。
 レクティファールはその手を取り、指を絡める。
「其方は我が勇者」
「わたしは勇者」
 ハイドリシアの瞳に意思が宿る。
 勇者として生きるべく育てられたハイドリシアにとって、その言葉は記憶よりも本能に刻まれているものだった。
 リリスフィールは「それは洗脳だろう」と大いに笑っていた。
 人も魔族も大した違いはない。違いがないからこそ、争うのだと楽しそうに笑っていた。
「そうだ、私の勇者だ」
 その言葉は、ハイドリシアが憎悪の中で求めていた言葉だった。
 人々に否定され、自分自身でも否定した己の価値。
 それが認められようとしている。
「あ……ああ……ああああああぁぁぁあああ……」
 歓喜。
 ハイドリシアの心はそれに埋め尽くされた。
 そして彼女の心は、自らの維持するための支柱としてレクティファールの言葉を中央に据えた。
 彼女の価値観は、その瞬間総て入れ替わった。
 総ては己の心のままに、総ては自分を肯定する存在のために。
「これを授ける」
 レクティファールは寝台から立ち上がり、虚空に手を伸ばした。
 その手のひらに光が集まり、かつての神槍とは別の銀色の槍が形成される。
「〈グランデア〉」
 偉大なる世界。
 その名を冠した銀槍を前に、ハイドリシアは寝台から降り、膝を突いた。
 そして騎士がその栄誉を君主から受けるように、両手で銀槍を受け取った。
 ひんやりとした柄の感触。その向こうから、巨大な力を感じた。
「――ああ」
 一筋、涙が零れた。
 この世界に来て一度も感じることのなかった安らぎが、心の隅々まで広がっていく。その快感は、ハイドリシアの本能さえ縛り付けた。
「ハイドリシア。其方は何者だ」
 故に、彼女は躊躇わなかった。
 目の前の存在が、かつての故郷を蹂躙した存在の主だということは理解している。
 だが、それでもなお、彼女の表情にも感情にも悪しきものは一片たりと存在していなかった。
「ただの槍。我が皇の槍でございます」
 ハイドリシアは笑みを浮かべ、答えた。
 彼女は今、『幸せ』であった。
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