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第四章:万世流転編
第九話「勇者の価値」 その五
しおりを挟む果たして、ハイドリシアは激昂して冷静な判断力を失っていたと言えるのだろうか。
レクティファールは眼前に集約する銀色の光を見て、相手の本質は冷静なままだと考えた。
(勇ましい者という意味ならば、正しい評価だ)
誰かと相対し、自分の目的を達するにはどうするべきか考え、お互いの考えも理解できないうちにそれを果たそうと決断するのは、決して不合理なことではない。
相手の情報を得るということは、そのまま相手に情報を与えることを意味する。
ハイドリシアがここでリリスフィールを目の前にして自分を押し殺したとして、次に同じ状況が作り出せるかどうかは分からない。
冷静と慎重は別のものだ。
そして、果断と冷静は同居することができる。
相手が自分のことを知らないのなら、自分に対する行動には一瞬の遅れが生じる。その行動が正しいのか間違っているのか、その判断基準がないからだ。
余人には短絡的な行動に見えたとしても、その実態は分からない。そう見せかけただけの計算し尽くされた行動という可能性もある。
(ただ、どちらにしても同じことか)
銀色の槍がそこに現われるようとしている。
その時点で、彼の“剣たち”が動くには十分過ぎた。
ここは皇城の敷地内であり、レクティファールは皇王である。
そしてハイドリシアはその皇王の許可なく武器を出そうとしている。ここに、彼らが武力を用いる要件は満たされた。
「動くな」
静かな声と共に、黒の鎧と刃が、次元の膜の向こうから滲み出るように姿を見せる。
漆黒の刃は、光を吸収して一切反射しないとされる錬金金属、無光鋼。その切っ先がハイドリシアの全身を包み込んでいた。
両目はそれぞれに鋭利な矛先が、首には四本の刃がそれぞれ四辺を描くように当てられ、身体にはあとほんの僅かでも動けば突き刺さるという、薄紙一枚の距離に鋒が二〇本。
彼らはレクティファールの影の中に潜む者。騎士であって騎士の栄誉を放棄した月影騎士団の精鋭たちだ。
亜空間潜行能力を持つ魔動式甲冑を纏い、時に暗殺などの非合法任務を行うこともある。相手が女子供であっても躊躇うことはない。
今回警告に留めたのは、彼女の槍が武器としての機能を持つ段階に達していなかったからだ。だが、ここでレクティファールが一言命じれば、彼らの刃は総てハイドリシアの身体に食い込むことだろう。
家族を持たず、ただレクティファールへの忠誠のみを抱く者たちに、躊躇いなどあるはずもない。
「くっ」
ハイドリシアは掌の中で形を取り戻そうとする神槍をその意志で抑えた。
彼らは「動くな」と命じた。
指一つでも動かせば、警告を無視したとしてより実効的な行動に出るだろう。
「カカカ」
ハイドリシアの前で、元邪神の女が笑い声を上げた。
女勇者にとってはあまりにも耳障りな笑い声だったが、抗議の声を上げることもできない。
「まダ持ってイたのか。ちょうど良い」
リリスフィールはそう言って、寄り掛かっているレクティファールの肩から手を伸ばした。
その手の先に神槍〈グリュベール〉が触れる。
邪神を滅すると言われた神槍に、その邪神が自ら触れようとしている。ハイドリシアは思わぬ事態に内心歓喜した。
だが、その歓喜はすぐに絶望に取って代わる。
「返してモラうぞ?」
元邪神の指先が神槍の矛先を捉える。
次の瞬間、〈グリュベール〉は巨大な光の渦となって拡散した。
「何!?」
ハイドリシアは驚愕の声を上げ、身体を動かそうとする。
だがすぐに黒い刃の鋒が身体の各所に突き刺さり、その動きを制した。
「何をやっている!?」
勇者は自分の愛槍が、自分の中から消えていくのを感じていた。
姉に預けられて以来、神槍は常に彼女の内にあった。使い手と同化する機能は、神槍だけではなく他の勇者の武器にもある。使い手以外の誰にも奪われることがないよう、そうした機能があるとされていた。
だが、今ハイドリシアの武器は仇敵によって奪われようとしている。
渦の中心にはリリスフィールの指先があり、かつて〈グリュベール〉と呼ばれていた光の粒はそこに吸い込まれていく。
「何? カエして貰うだけだ。ワタシがくれてやったものだからナ」
「な……」
「それに……チカラの源になる世界がないノニ、槍がチカラを持てる訳がないだろう」
神槍は世界の力を、神という存在を経由することで使用することができる。
その根源である世界を失った今、神槍はかつて神槍だったモノでしかない。
リリスフィールは神槍を完全に取り込むと、レクティファールの耳に唇を寄せて囁いた。
「追加デ情報をエラレた。次の夜にでモ渡ソう」
「用事は済んだのか?」
「アア」
リリスフィールは呆然として自分を見上げる勇者を一瞥し、すぐに興味を失った。
そこにいるのは、力を失ったただの女。リリスフィールが興味を抱くような存在ではない。
「存外、ツまらナい相手だっタ。世界と引き替えにシタというのにな」
「勝手に期待しただけでしょうに」
「まアな」
リリスフィールはふわりと浮かび上がり、再び天井へと消えていく。
邪神は力なき精霊となり。勇者は只人となった。
世界と同じように、もう戻ることはない。
◇ ◇ ◇
リリスフィールの姿が消えた瞬間、黒い鎧の一団も一瞬で姿を消した。
ハイドリシアにはもう戦意はなく、彼らが武力を行使する理由がなくなったのだ。
そしてハイドリシアは、ようやく自分の仲間と再会することになる。
「リシィ!」
レクティファールが開いた扉を抜けて飛び込んできた女は、俯いたままのハイドリシアに駆け寄ってその身体を抱いた。
「アーリュ……」
「ええ、そうよ。もう大丈夫だから、ね」
肩までの茶髪と飾り気のない服装。皇国側の事情聴取にアーリュ・ビルッシュと名乗った異世界の神官は、故郷でするのと同じように傷付いた者を癒やそうとした。
彼女はレクティファールに目を向け、問うた。
「皇王陛下、よろしいでしょうか」
「うん」
たとえ異世界であったとしても、何らかの神職にある者に対する最低限の礼儀はレクティファールにもある。皇国はどのような神でも否定しないのだ。
「失礼いたします」
そしてアーリュに続いて部屋に入ってきた金と黒の髪を持つ二人の男は、寝台のハイドリシアの姿に唇を噛み、互いに視線を交わし合ってレクティファールの前に跪いた。
寝台の上にいるハイドリシアが驚いたように目を見開き、アーリュが俯く。
「此度のハイドリシアの行い、我らが代わりに責めを負います」
「何とぞ、深き慈悲をもって彼女に救いを賜りますよう、伏して願い奉りまする」
金髪の元宮廷魔導師と黒髪の騎士の訴えは、彼らがハイドリシアという存在を最後の心の支えにしていることを意味する。
彼らはすでに、自分の故郷が消え去ったことを知っていた。
「――沙汰は明日以降に下す。積もる話もあるだろう」
「はっ」
レクティファールはそう告げ、部屋を出る。
そこにはこの迎賓館を管理する皇王府の職員たちが勢揃いしていた。
その中で最も年嵩の家令が深く頭を垂れ、職員たちがそれに続いた。
「我が客として遇せよ。しかし、我国の法に則った待遇を許可する」
「ははっ」
それは異国の王族ではなく、単なる私人として遇するということだ。
彼らの国が滅び、また世界の崩壊によってその再興が実質的に不可能となった今、皇国の典礼法は彼らを王族とその供回りとは認めない。
皇国における王族の定義は、正統な政府と法によってその立場を認められていることが大前提である。
また国体と政府が変わり、法が変化したとしても、国土さえあれば王族としての最低限の待遇は受けられる。少なくとも、変化した政府と法を皇国が認めるまでは。
そして他国の王族となれば、特権的に皇国の法から逃れることが可能だ。
だが、レクティファールはそれも認めないとした。彼らの身の上を担保するものは、この時点でレクティファールの心のみという状況だった。
「万事、良きに計らえ」
「ははっ」
レクティファールは外套の裾を翻し、迎賓館の廊下を進んでいく。
皇城に戻り、彼らの扱いについての決定を各所に伝えなくてはならない。
そしてその途中、レクティファールは小さく笑みを浮かべた。
「皇王の客人か、以前の私よりはいい扱いかな」
ただのレクティファールだった時代を思い出し、彼は己の城へと戻っていった。
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