白の皇国物語

白沢戌亥

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第三章:諸国鳴動編

『デアの恋薬』

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 始まりは、ちょっとしたできごとだった。


「ふんふんふん~ふふん」


 上機嫌に鼻歌に乗せて身体を揺らしているのは、特別護衛旅団第一大隊所属の侍女少尉。

 この日彼女は、昼近くになって〈スヴァローグ〉から戻った摂政レクティファールの外出着を、洗濯担当の部隊へと引き渡すべく整理していた。

 時折物入れの中に重要なものが入っているのは、どこでも変わらない。レクティファール本人が入れなくても、ちょっとした悪戯心を発揮した妃候補がたまに手紙などを忍ばせているのだ。

 もちろん彼女たちからしてみれば単に悪戯のために書いた手紙だが、妃候補から摂政へと贈られたものに違いはない。

 後宮へと配属になって三ヶ月目のこの侍女少尉も、上官からの命令と作業手順書に従って確認作業を行っていた。


「――あれ?」


 そこで、彼女は上着の内側物入れの中に固い感触を感じ取る。

 失礼します、と一言断って手を入れてみれば、そこから出てきたのは茶色の硝子でできた小瓶。


「――?」


 光に透かしてみれば、中に液体が入っていることが分かる。

 しかし、彼女はそれを開封するようなことはしなかった。

 訓練された兵士のように粛々と、部屋の片隅に置かれた緊急用の通信機を取り上げ、侍女管理本部へと連絡を入れたのだ。

 危険物ではないという保証はどこにもない。

 もしも摂政を狙った爆発系の魔法薬であれば、大問題だ。


「――こちらウェイゼル〇一。殿下の居室にて不審物を確認しました。特別処理班の派遣をお願いします」


 少尉は手のひらから熱を与えないよう、外していた手袋を付け直す。

 薄手の白手袋のようだが、そのまま熱した鉄を掴めるほどの耐熱遮熱性能を持っている。

 ここで爆発したら自分は二階級特進で大尉か、せめて結婚したかったな――彼女はそんな冷めた、しかし切実な思考を弄びながら、特別処理班の到着を待つのだった。


         ◇ ◇ ◇


 皇城で仕事を終えたレクティファールを渡り廊下で待っていたのは、非常に珍しいことではあるがマリカーシェル一人であった。

 常であれば各皇妃護衛小隊の小隊長か副長が旅団長と共にレクティファールを出迎えるのだが、今夜は少し愁眉を寄せた彼の腹心が一人だけ。

 それを疑問に思いながらも、レクティファールは肩に引っ掛けていた外套をマリカーシェルに手渡した。


「――何かあった、という訳ではなさそうですが」


「ええ、殿下にご報告するような事態は何も。姫さま方は皆さん心身ともにお健やかで、立て篭もりの兆候もございません」


「それは重畳。では、マリカーシェルのその眉間の皺はどういうことです? あまり深く皺を寄せると、痕になりますよ」


「は、お気遣いありがとうございます」


 自室へと向かうレクティファールのあとに続きながら、その言葉に答えるマリカーシェル。

 やはり、その声は少し固い。


(はて、今日はまだ何もやっていないような気がするのですが……)


 レクティファールは背後から発せられる鈍い色の威圧感に首を捻る。

 色々記憶を漁るも、マリカーシェルをここまで不機嫌にさせる理由に辿り着かない。


(厨房で調理担当の侍女に味見という名のつまみ食いをさせてもらったことでしょうか? それとも庭師の侍女と半時間ばかり雑談をしたことでしょうか? あ、マリカーシェルが近接戦闘用の侍女服を着用しているのを見てしまったことでしょうか?)


 ちなみに、近接戦闘用侍女服とは、ウィリィアなどの接近戦を主任務とする侍女たちが着用する丈の短い侍女服のことだ。

 もちろん、旅団長であるマリカーシェルが普段着用することはないのだが、近接戦闘訓練に参加するときは他の団員の手前、彼女もそれを着る。


(似合ってたのになぁ……そもそもそんなに怒るようなことですかね)


 歳若い団員たちに混じって動き回るマリカーシェルは、他の団員にはない流麗さがあった。

 動き一つ一つが洗練され、単に無駄を排したのではなく、動作の効率的な接続を実現した身のこなし。

 レクティファールが思わず拍手してしまうほどに、見事なものだった。

 その拍手を受けたマリカーシェルは珍しく顔を真っ赤に染め、逃げるように訓練場を出て行ってしまったのだが。


「あの……別にマリカーシェルを辱めようとかそういう意図で拍手した訳ではないのですよ?」


「何を仰っているのですか?」


「いえ、この間の訓練の……」


「――ッ! いいえ、殿下。それが理由ではありません」


 マリカーシェルは一瞬動揺を見せたものの、すぐにそれを引っ込めて生真面目な旅団長の顔に戻る。

 レクティファールは、たぶん、ほんの少しだけ残った頬の朱には触れないのがいい男なんだろうなと思った。


「では、何か?」


「ここでは少し……」


「ふむ、そうですか」


 レクティファールは頷くと、自室へと向かう足を少し早めた。

 背後に続くマリカーシェルの頬はまだ赤いだろうか、そんなことを思いながら。


         ◇ ◇ ◇


「殿下、これはどこで入手されたのですか?」


 マリカーシェルは、レクティファールが自室の執務机に着くなり、何の前置きもなくそう切り出した。

 言葉と同時に彼女が差し出したのは、レクティファールが〈スヴァローグ〉で手に入れた小瓶だ。


「げ」


 しまった、という表情を浮かべるレクティファール。

 それを見咎めたマリカーシェルは、ずいと執務机に身を乗り出してレクティファールに迫る。


「殿下、これが何かご存知なのですか? もしもそうなら、どなたにお使いになるご予定で? 皇府閣下はこの薬のことを――」


「いやいやいや、ちょっと待ってください。マリカーシェルはこれが何か知っているのですか?」


 両手でマリカーシェルを押し留め、レクティファールは疑問を口にする。

 彼自身は、まだこの薬の正体を知らないのだ。


「もちろんです。わたくしも女の端くれ、神話級の恋薬を知らないはずはございません。もちろん、部下たちもほぼ全員が知っております」


「こ、恋薬?」


 何だそれは、レクティファールの脳裏にいくつもの疑問符が浮かぶ。

 マリカーシェルは主君のその様子に、どうやらこの方は何も知らないらしいと当たりを付けた。


「ご存知なかったのですね。良かった……」


「え、本気で安心しておられます? 何なんですかこの薬、そんなに不味いものなんですか?」


 店主の様子から普通の薬ではないと思っていたが、この沈着冷静が侍女服を着たような侍女准将がこれほど動揺する品だとは思わなかった。


「本当に……本当に、ご存知ないのですね?」


「ええ、そもそも恋薬だったということも今知ったところです」


 恋薬とは、ある種の精神作用型魔法薬だ。

 程度の差はあるが、総じて特定の異性に対する情愛を増幅することが、その効能である。

 世間一般の言葉で表すなら、惚れ薬だ。


「ええ、不味いです。これは単なる恋薬ではありません。神話にその名を残す『デアの恋薬』です」


「『デアの恋薬』……」


「はい。神話の時代、人と女神を結び付けた原初の恋薬なのです」


 当時、人と神の距離はひどく遠いものだった。

 人々は神を実在のものとして認識しながら、それに触れようとはしなかった。

 神々もまた、自分たちよりもか弱い人の子に干渉することをよしとせず、両者の間には埋めようのない溝が存在した。

 それの溝を初めて超えたのが、女神デアと人の男グローだ。

 二人は神と人の領域の中間にある湖で互いの姿を見付け、同時に恋に落ちた。

 しかし二人の間には種族の壁と、何よりも種族間の心の壁があった。

 二人がどれだけ互いを想おうとも、それが成就することは考えられなかったのだ。

 何度も湖で逢瀬を繰り返す二人だが、やがてそれは両種族の長に知られてしまう。

 結果、デアは神々の領域の最奥に幽閉され、グローは最果ての荒野へと追い遣られた。


「そのとき、神々の中で二人の想いに同情した者がおりました。相手を愛しく思う気持ちに種族など関係ない。そう言って神々の長を説得したのです」


 その名を、賢神カタグラフ。

 今も人々から知識の守護神として崇められる神々の一柱だ。


「神々の長は、カタグラフの言葉を聞いて、デアに一つの試練を課しました。それは彼女のグローへの想いを計るための試練、ここにあるものと同じ恋薬を飲み、神々の中でもっとも優れた十柱の男神の求愛を跳ねつけよというものです」


 その十柱の中には、デアが幼いときに想いを寄せていた男神も含まれていた。

 神々が固唾を呑む中、デアはその試練を受けた。


「結果は、まあ、敢えて言うまでもありません。デアは十柱の求愛を跳ね除け、荒野から一路駆け戻ったグローと再会したのです」


 再会を喜ぶ二人。

 しかし、そのときデアの身体に変化が現れた。


「まるで愛情が熱と形を持ったかのように、デアの中でグローへの想いが猛りました。それこそ気が狂うほどにグローを愛おしみ、失った時間を取り戻すように彼を求めたのです」


 恋薬と呼ばれながらも、この神薬はむしろ男女の情愛を増幅する媚薬として有名であった。

 神さえ狂わせる愛の情薬。これまでの歴史の中で幾度も登場し、しかし、こういった話にありがちな悲恋を一度も生んでいない稀有な薬でもある。


「この薬は、相手に対する一定以上の愛情がなければ意味を成しません。しかしその分、相手への愛情がその一線を越えているなら……」


「越えているなら……?」


「――三日三晩は……その、ええと……」


「分かりました、言わなくていいです」


 紅潮した頬で視線を彷徨わせるマリカーシェルを、レクティファールは制した。

 これ以上の説明は不要だ。


「では、これがここにあると知られれば……」


「はい。時期から考えましても、殿下が新たな妃を探していると皆は考えるでしょう」


 というよりも、敢えてこの薬を持っていると示すことで花嫁探しの布告代わりにする君主は多かった。

 他にも愛の告白で使用される紅玉薔薇を育て始めたとか、新しく離宮を建設し始めたとか、直接的な文章で布告するよりも体面がいいということで、こういった手段は古くから用いられている。


「では、どうしましょうか」


「売り払う……訳には参りません。市場に流れれば混乱が起きます」


「それほどですか」


「この薬を巡って戦争が起きたこともあるのです。いいですか殿下、この薬は愛情さえあればどんな男女同士でも結びつけるのです。それこそ、二人にそれぞれ家族があろうとも、です」


「それは……また、困りましたね」


 思わずレクティファールは天を仰ぐ。

 確かに使いどころを間違えると、とんでもないことになる。

 本人たちが幸せになっても、周囲がそれを受け入れられるかどうかは別問題なのだ。

 『デアの恋薬』は、悲恋は生まずとも悲劇は生んでいる。


「とりあえず、今日のところは宝物庫への薬品保管室に入れておきます。殿下が必要と思うなら、わたくしに一言お伝えいただければご用意致します」


「ははは、そこまでの物ならマリカーシェルにでも飲ませたいものですが……」


 それは、変に緊張した場の空気を緩めるための冗談であった。

 常に冷静で、掴みどころのない侍女准将をからかうための。


「――殿下のご命令であれば」


 しかし、マリカーシェルは真剣な眼差しでそう答えた。

 冗談だと気付いているのか、レクティファールは思わずその目を覗き込む。

 いつも通りの、忠実な腹心の瞳がそこにあった。


「――命令で飲んでも、効果はないでしょうね」


 レクティファールは溜息を吐き、力なく手を振ってマリカーシェルを下がらせる。


「ええ、わたくしもできるなら、命令などで飲みたくはありません」


 小瓶を丁寧に布に包むと、マリカーシェルはそう答えた。

 まあ、そうだと思いますよ――レクティファールはそう呟き、しかしすぐに何かに気付いたように顔を上げた。

 マリカーシェルは、ちょうど扉を閉めるところだった。


「では、お休みなさいませ」


 扉が閉まる。

 レクティファールはしばらく扉を見詰め、再度溜息を漏らした。


「――命令じゃなきゃ、飲んでくれたんですかね」


 それはあまりにも自意識過剰か――レクティファールは自嘲気味に笑い、侍女に入浴の準備を頼むべく通信機に手を掛けた。

 そして、彼は翌日後悔する。

 すぐに廃棄を命じていれば良かったと。

         ◇ ◇ ◇


 レクティファールが異常に気付いたのは、昼食を摂るために後宮へと足を運んだときだ。

 まず回廊でマリカーシェルに出迎えられた際、そこにいた各護衛小隊長の様子がおかしかった。

 続いて廊下を歩いているとき、いつもなら粛々と頭を垂れる侍女たちがぎこちない動きで一礼した。

 食堂に入れば、給仕たちの様子も変だった。

 唯一いつも通りだと思ったのは、レクティファールの隣の席に座るリリシアのみ。

 他の皇妃候補たちは仕事で出ているから、二人だけの昼食である。


「リリシア、待たせましたか」


「いいえ、レクティファール様。少しお喋りをしていたので」


 そういってリリシアが示したのは、彼女付きの侍女だ。

 レクティファールに一礼し、彼女は壁際へと下がった。やはりというか、レクティファールに微妙な視線を向けながらだったが。


「では、いただきましょう」


 リリシアの言葉で、給仕たちが一斉に動き始めた。

 皇都の高級料理店の給仕以上に洗練された動き。それは日々の訓練により作り上げられた身体があるからだと、マリカーシェルは自慢気に語る。

 皇王主催の夜会では各国の元首や貴族、高官を相手に立ち回り、その都度高い評価を受けていた。

 しかしこのとき、レクティファールにはその動きに迷いがあるように映った。いつもなら彼が気付かないうちに硝子杯に水を注ぐ侍女は、レクティファールに近付くと動きを鈍らせた。ほんのささやかな違いではあるものの、普段の動きが素晴らしいものだけに違和感が拭い切れない。

 皿を入れ替える侍女も、麦麺を切る侍女も、肉を切り分ける侍女も、どことなく変だった。


「――リリシア」


「はい、どうかなさいましたか?」


 汁皿に匙を置いたまま、リリシアが首を傾げる。

 いつもなら、彼女たちの方から話しかけない限りレクティファールが口を開くことは少ない。

 リリシアはそれ故に、不思議そうにレクティファールを見詰めた。


「何か、後宮の空気がいつもと違うような気がするのですが……」


「――そうですか? わたしはいつもと変わらないように思いますが」


 リリシアの返答が、一瞬遅れた。

 やはり、何かある――レクティファールは確信した。


「そうですか」


「ええ、そうです」


 リリシアはそう言い切ると、再び匙を握って食事を再開する。

 静かに、食事を摂る淑女の手本とも言うべき所作で汁物を口に運ぶリリシアを、レクティファールはほんの少し細めた目で観察する。

 リリシアもレクティファールの視線には気付いているだろうに、そんな様子は全く見せなかった。


「――殿下」


 扉横に控えていたマリカーシェルが、そうレクティファールを促す。

 午後の政務に要する時間を考えれば、食事の時間は限られている。


「ええ」


 レクティファールは釈然としないまま、午後の政務に備えて食事を続けた。

 いつもなら彼が苦笑するほどに饒舌なリリシアが一言も言葉を発しなかったことに、レクティファールは食事が終わってから気付き、皇城へと戻る道中、理由も分からず消沈した。


         ◇ ◇ ◇


 疑問を多分に含む意識を抱えたまま皇城へと戻ったレクティファール。

 だが、いつまでも余計な思考を抱えたままでは仕事に差し支える。さてどうしたものかと思考を巡らせながら執務室へと入った彼は、そこで午前中には存在しなかった書類の塔と鉢合わせすることになった。

 女性秘書官二名が、台車からせっせと書類を下ろしては積みあげるという作業を行っている。皮膜状の翼を広げてふわりと浮かんだ魔族の秘書官に、混血種の秘書官が書類束を手渡すという作業を繰り返してようやく一通り書類を積み直した二人は、そこに至ってやっとレクティファールの存在に気付いた。

 慌てて居住まいを正す二人。


「し、失礼いたしました」


「おかえりなさいませ、殿下」


「あ、ああ、ただいま。また随分と追加の仕事が入りましたね」


 レクティファールは見上げるほどの書類塔を人差し指で突付きながら、そう呟く。

 午後になって追加の仕事が入ることは珍しくないが、午前中に終わらせたものと同じだけの仕事がまるまる追加されることは少ない。

 そういうときは事前に秘書官室から連絡が入り、レクティファールも後宮まで戻らず皇城の食堂で昼食を摂ることにしている。


「いえ、それが……」


 魔族の秘書官が困ったように書類塔を見上げる。


「この書類――ただの書類ではないんです」


「は?」


 レクティファールは呆けたように秘書官を見詰める。

 あまりにも情けない表情を浮かべていたのか、耐え切れなくなった混血種の秘書官が小さく吹き出す。

 もちろん、慌てて直立不動の姿勢に戻り、レクティファールに事情を説明しようと口を開いた。


「実は――」


 そのとき、秘書官の言葉を遮って扉が二度鳴った。

 音の大きさと間隔から、レクティファールはその音の主を瞬時に導き出した。

 どうやら、説明させるにはちょうど良い人物が表れたようだ。


「入れ」


 レクティファールは扉の前の人物に入室の許可を与えると、執務机に戻りながら秘書官二人を労い、自分たちの仕事に戻るよう命じた。

 二人は揃って頭を下げると、台車を押して隣の秘書官室へと消えていった。

 そんな二人を見送り、レクティファールは深い溜息を吐く。


「さてと、理由を説明して貰おうか。ルキーティ、そしてハイデル」


 妖精の皇府はその言葉に微笑み、人間の宰相はレクティファール以上に疲れた表情で頷く。

 先に言葉を発したのは、ルキーティであった。


「前置きもなく端的に申し上げれば、殿下が『デアの恋薬』を手に入れたという噂が広まったのです」


「何?」


 レクティファールは思わずルキーティを睨み付け、これでは八つ当たりだと気付き、なんとか気を落ち着けて再度問い直した。

 そして同時に、後宮での出来ごとはこれが原因かと悟る。


「――どういうことだ?」


「皇府殿の言葉通りです、殿下。両議会、軍、皇都商工会連合、いえ、それどころか他国の大使館、公使館にまで『デアの恋薬』の噂が広がっているのです」


「な……ッ」


 レクティファールは思わず立ち上がり、書類塔の一番上の書類を力場紐で惹き寄せる。

 恐る恐る開いてみれば、見目麗しい令嬢が品のいい笑顔で彼を見ていた。


「これは……」


 言うまでもない、分かりやすく言えば見合い写真だ。

 その下の書類も、その下のものも、引き寄せては中を確認するも、総てご令嬢の気合に満ち溢れた勝負写真であった。


「おおう」


 次々と写真を確認していくと、突然書類に仕込まれた立体投影術式が作動して一人の令嬢の姿が虚空へと投射される。書類に書いてある名前を見れば、貴族議会の予算審査委員会委員長を務める子爵議員の姉であった。美貌で知られるエルフらしく、透き通るような肌が美しい。


「これまた気合の入った写真だな」


「はい、同じようなものが今も続々と皇城に届いております。まことに勝手ながら、特別編成の秘書隊を編成し、対処させております」


 ハイデルの声は疲労の色が濃かった。


「そこまでか」


「ええ、そこまでです、殿下。その上外務卿の元には帝国、イズモ両国からことの真偽を問い質す通信が入っております。両国とも婚礼を目前に控えたこの時期ですから、何処かの国が先走る前にこちらを牽制しようということでしょう」


 牽制、恫喝の間違いだろう――レクティファールはそう心中で独語した。

 おそらく両国とも、別にレクティファールが誰を娶ろうとも構いはしない。単に「自分たちを差し置いて、下手な国と縁戚になろうなどとは考えるな」と、そう言いたいだけだ。

 三国の間には常に緊張が漂っている。緊張の中で平穏が保たれていると言って良い。

 現状、それをぶち壊すことはどの国も望んでいない。だからこその牽制だった。


「耳の早いことですが、皇立海運連合に〈南北ウォーリム〉から、同じく皇立海上輸送に〈トラン大同盟〉から、非公式に政府間協議の申し出がありました。建前上、海上流通路における警備行動基準の策定と通商協定締結に向けての事前協議となっておりましたが、政府ではなく皇立企業に連絡を入れてきたとなると……」


 探りを入れてきた。そう考えるのが妥当だろう。

 アルマダ大陸周辺の海上輸送路に大きな影響を持つ皇国が他大陸の国家と繋がりを持とうとしているのではないか、この分だと大陸周辺の国家も同じようなことを考えているかもしれない。


「あああああああ……話が変な方向に……」


 レクティファールは頭を抱えた。

 たった一瓶の薬が、世界を動かしている。

 レクティファールではなく、別の者が使うのだとしても、使いどころを的確に選べば強力な武器へと変化する。それが『デアの恋薬』だ。

 過去に戦争を起こしたという話も、こうなっては眉に唾をつける必要もない。


「何故、ここまで……」


「殿下が思っているよりも、我々が思っているよりも、この国は各国の耳目を集めていたということでしょう」


 他大陸への流通網の拡大と、外交攻勢が仇になった。

 各国は、皇国が世界規模の攻勢に転じたと警戒しているのかもしれない。


「不味いことになりましたな」


「ああ、どうやって収めたものか」


「手頃なのは、余り影響力のない国――例えば〈グラッツラー伯国〉の伯爵令妹などと時期をずらして婚儀を行うことですが……」


 〈グラッツラー伯国〉といえば、軍事力も経済力も平均以下の小国で、しかし芸術分野では名の通った文化国である。政治的な影響力は小さく国益という実は手に入らないが、名声という花は手に入れられる相手だ。婚儀に合わせて伯国へ文化振興のための援助を行えば、どの国も表立って文句は言えない。


「そういうことであれば、市井の商会から側妃を召し上げるという手もございます」


 ルキーティが手のひらを翳すと、そこに数枚の書類が現れる。


「いずれも学校や孤児院の建設などに意欲的な商会です。当主が道楽でやっているので、後ろ暗いところがありません」


「ふむ、皇家が後ろ盾になるということか」


「はい」


 ともあれ、目に見える形で利益を得ることは不味いという点で、三人の考えは一致していた。


「もっと簡単な方法では、お妃さまのどなたかと大喧嘩をしてもらい。仲直りのためにお使いになってもらうというのも……」


「この時期に? また四龍公の誰かが独立宣言するぞ」


 一応、花嫁修業という形で後宮入りしているのだ。

 そこでお手付きになるという事態になれば――結末はあまり良いものになるまい。


「では、全員同時にお使いになられますか」


 冗談交じりの、というよりも総て冗談で占められたルキーティの言葉は、余裕を失いかけているレクティファールには全く冗談に聞こえなかった。

 彼の眉が痙攣し、低い低い声がその口から漏れ出る。


「ははは……その綺麗なはね毟るぞルキーティ」


「――これは失礼を」


 どうやら冗談が通じる状況ではないらしい。ルキーティはやれやれと溜息を吐き、面白いことになったと内心ほくそ笑む。

 妖精の悪戯好きは、年を経て変化する性質ではないようだ。

         ◇ ◇ ◇

 午前四時四十五分。

 この時期ならば、まだ夜明けまで幾らかの猶予を残した早朝とも言い切れない時間である。

 そんな微妙な時間帯。後宮の廊下に、自分の身長ほどもある革鞄を肩に引っ掛けて歩く人影があった。


「さむ……」


 空色の髪を尻尾のように揺らしながら歩く侍女、早朝自主鍛錬に向かう途中のウィリィアだ。

 吐く息は白く、太腿の半ばまでしかない侍女服が恨めしい。

 長丈の防寒着を纏っても、素足を晒したこの侍女服では地面からの冷気は防げないのだ。

 ならば支給品の薄長靴下――団員の意見を取り入れていくうち、いつの間にか全二十四色になった――でも履けばいいと人は言うのだが、破けたときに見た目が悪いと着用しない者も多く、ウィリィアもその一人だった。

 膝上までの編み上げ靴――これも支給品目に含まれている――も考えたのだが、動きが阻害されることに気付き、すぐにやめてしまった。


「ここは、遮熱と気脈循環術式を編み込んだ侍女服の制定を……」


 冷えという女性の天敵に立ち向かうため、毎期のように配備要望が提出される案件であるが、その都度予算不足を理由に却下されている。

 すでに彼女たちの侍女服には耐熱耐魔法防刃防弾機能の数々が搭載されており、これ以上形状や重量を変えずに機能を増やすには、その素材の開発から行わなければならないのだ。そんな贔屓にも似た特別待遇を許せるほど、近衛軍は甘くない。


「ああもう、本当に寒い」


 ウィリィアはそう愚痴を零し、時折すれ違う巡警の同僚と「寒いね寒いね」と言葉を交わしながら、後宮の北庭へと向かう。

 そこは乙女騎士たちに常に開放されている場所で、彼女はその一角を使って自主鍛錬を行うのが日課となっている。


「しかし、あの愚弟はまた余計なことを……」


 後宮の中は昨日から、明らかに異質な空気に支配されている。

 たまたまレクティファールに声を掛けられた騎士が緊張のあまり卒倒して担架で搬送され、ほんの少しレクティファールと会話しただけの騎士が同僚に囲まれて事情聴取を受ける。他にも、レクティファールの下に書類を届ける者を選ぶために抽選会が催され、休憩中のレクティファールに紅茶と軽食を運ぶためには上官の厳しい審査を通過しなくてはならない。

 その疑心暗鬼というにはあまりにも姦しい気配に、ウィリィアは辟易していた。


「姫さまの機嫌悪いし、本当、どうしてくれようか……」


 メリエラの機嫌はたった一日で急降下し、昨夜の段階で最低点を更新してしまった。

 ウィリィアに対して八つ当たりをするということはないのだが、手作りの四頭身レクティファールくん人形を寝台に叩きつけるわ、投げるわ、寝技を仕掛けるわで、それはもう大変なことになっている。なお、その後レクティファールくん人形は我に返ったメリエラの手で修復され、その夜も無事抱き枕としての任を全うした。現在はメリエラの下敷きになっているが。

 ウィリィアが聞いたところによると、メリエラと同じようにレクティファールくん人形を持っている数名の妃候補は、これまたメリエラと同じように人形に様々な八つ当たりを仕掛けたらしい。本人にそれをしないのは、それこそ自分たちのやっていることが大義のない八つ当たりだと認識している証拠だろうか。


「これはそう簡単には機嫌直らないわよ……」


 溜め込むだけ溜め込んで、そのうち何処かで爆発する。

 そして一人が爆発すれば、連鎖的に他の者も爆発するかもしれない。


「本当、ろくでもないことしてくれるわ」


 仕事ばかり増やす義弟の顔を思い浮かべると、ウィリィアはその横面を思い切り殴りたい衝動に駆られた。

 今度一緒に実家に戻ったときは、徹底的に使い走りにしてくれよう――そんなことを決意しながら、彼女は寒々しい空気の中を歩いて行くのだった。


         ◇ ◇ ◇


 北庭に辿り着くと、ウィリィアはその片隅にある人工林に足を踏み入れた。

 他の騎士たちがあまり立ち入らない、彼女だけの訓練場がその先にあるのだ。

 距離にして一〇メイテル程度、樹々の間の細い路を抜けるといきなり視界が開ける。

 所々茶色い土があらわになった円形の広場は、二人で実戦形式の訓練をするには少し手狭だが一人で動く分には十分な広さがあった。


「姫さまの起床時間まであと一時間……か」


 途中で余計な思考に見を任せたせいか、鍛錬開始の時刻がいつもより少し遅れていた。

 ウィリィアは鍛錬内容を少し変更することを決め、広場の端にある切り株に革鞄を降ろすと、それを開いて〈岩窟龍断ち〉と同じ大きさの模造剣と、支給品の長剣と同じ重さと大きさを持つ木剣を取り出した。

 そこで、彼女は一つの違和感を覚える。


「――?」


 何かおかしい。

 いつもと同じ場所、同じ道具、同じような時間なのに、何かが違う。


「誰かいるの?」


 もしかしたら、同僚の誰かが近くにいるのかもしれない。

 そう思って周囲に呼びかけたウィリィアだが、返事はなかった。

 それに、人の気配はしない。

 人の気配はしないが、違和感はある。

 では、人以外の何かがいるのか。


「!?」


 そんな結論に至ったウィリィアの全身に、鳥肌が立った。


「――ま、まさか……ね」


 そう自分に言い聞かせながら、ウィリィアは取り回しやすい木剣を握った。

〈岩窟龍断ち〉を呼び出すようなことはできない。

 あれは起動すれば大音量を発し、それに気付いた同僚たちを呼び寄せてしまう。

 変な気配に怯えて、思わず起動してしまいました――そんな言い訳、できる筈がなかった。


「うう……」


 両手で木剣を硬く握り、周囲を見渡すウィリィア。

 二度、三度と広場の周辺を確認するが、やはり何もない。


「気のせい……?」


 そうかもしれない、と自分の情けなさに思わず溜息を吐きかけたウィリィアだが、次の瞬間目の前に現れたものに悲鳴を上げてしまった。


「うきゃああああッ!?」


 樹々の間。

 丈の低い庭木に紛れるように、黒々とした靄がわだかまっている。

 ちょうど人が膝を抱えて蹲っているような大きさで、生き物のように蠢いていた。


「な、ななな……」


 音はない。

 ただ、ふわふわと動いているだけだ。


「な、何これ?」


 ウィリィアは情けないと言われても反論できないような及び腰で、じりじりとその靄に近付いていった。

 そして、持っていた木剣で、恐る恐るその靄を突付く。


「痛」


 切っ先が突き刺さった瞬間。靄が、声を出した。


「ひゃあああッ!」


 物凄い勢いで後退するウィリィア。


(ええい、もうこうなったらなんて言われてもいいから〈岩窟龍断ち〉出してやる――!!)


 ウィリィアは太腿の剣帯に手を伸ばし、己の得物を呼び出さんと意識を集中する。

 だが、それよりほんの僅か早く、靄が霧散した。


「全く誰ですか、こんな朝早くから……」


 靄が拡散すると、そこに現れたのはウィリィアもよく知る人物。


「あ、ウィリィアさん。おはようございます」


「――レクト?」


「はい」


 摂政レクティファールその人であった。


         ◇ ◇ ◇


「な・ん・で、こんなところで膝抱えて鬱々してるの? ねえ? お姉さんに分かるよう説明しなさい」


「いたいいたいいたい」


 羞恥に頬を染めながらレクティファールの頬を抓り上げるウィリィア。

 レクティファールはお怒りの義姉を宥めるべく、なんとか理由を説明し始めた。


「いえ、実は――」


 昨夜はフェリスの部屋に行ったのだが、扉の前で門前払いされてしまい。その上「ケダモノ、最低、レクトなんてどっか行っちゃえ」と万言よりも余程堪える三つの台詞で拒絶されたらしい。

 その拒絶ぶりがあまりにも強烈で、フェリス付きの侍女騎士にも「今夜はお一人で」と言われてしまい。すごすごと逃げるようにここまで来たらしい。


「じゃあ何、一晩中ここで膝抱えてたの?」


「いつの間にか、夜が明けておりました」


 先ほどの靄は、レクティファールが招き寄せた闇の微細精霊だった。

 闇の微細精霊は悲しみや嫌悪などの負の感情に引き寄せられる性質を持っているから、いじけたレクティファールの周囲に集まっていたようだ。

 とはいえ、中にいるレクティファールが見えないほどの密度で集まっていたとなると、一体どれだけの勢いでいじけていたのか、想像することさえできない。


「情けない……」


 説明を受けたウィリィアの感想は、ただそれだけだった。

 他に、何も言えなかった。


「確かに姫さまたちの機嫌は悪いけど、あなたがココでいじけてたら何の解決にもならないでしょう」


「そういうウィリィアさんは、いつもと変わりませんね」


「そりゃ……」


 ウィリィアは座り込んだまま自分を見上げるレクティファールから目を逸らしつつ、小さく呟いた。


「あなたが自分から『デアの恋薬』なんて用意する訳ないって思っているし……」


 その言葉に、レクティファールの表情がぱっと輝いた。


「ウィリィアさん……!」


 レクティファールは湧き上がる感激をそのままに立ち上がり、ウィリィアに抱き付く。

 いつもとは違う義弟の態度に、ウィリィアは自分でも驚くほどに動揺した。


「ちょっと……やめなさい!」


 慌ててウィリィアが抵抗を始めるが、完全に身体を固定されてしまえば自力の違いから脱出は不可能だ。


「何かもう、今夜から延々と夜会の予定入ってるし、皇城にいても後宮にいても、外に出ても全員が全員私を変な目で見るし……。これは絶対ルキーティの陰謀だと思います。証拠はないですが」


「全部含めて自業自得でしょうが! いいから離しなさい!」


 久し振り――とはいえ、正確には丸一日なのだが――にいつもと変わらない態度で自分に接してくれる相手を見付け、レクティファールは螺子が数本吹き飛んだ思考を高速回転させる。この男、完全に正気を失っていた。

 だからこそ、こんな提案をしたのだ。


「もういっそ、ウィリィアさん飲みません? たぶん、いつもと変わらずに済むと思うんですが……」


「――ッ! 駄目!」


 ウィリィアは全力でその提案を却下し、さらに一瞬の隙を突いてレクティファールの腕から脱出する。


「そ、そんなこと姫さまに知られたら……」


「だってほら、一定以上の好意がないと意味のない薬ですし」


「万が一ってことがあるでしょう!」


「あるんですか?」


「うッ」


 そう訊ね、首を傾げるレクティファール。

 ウィリィアは答えに詰まり、結局いつもと同じように答えを返した。

 主に肉体で。


「ある訳ないでしょう! 今日はもうさっさと仕事に行きなさい! こぉの女ったらしっ!」


 振り抜かれる模造剣。

 それは反射的に半歩下がったレクティファールの眼前を通過し、彼を慄かせた。


「あぶなっ!」


「避けるな!」


「避けますよ!」


 叫ぶと同時に踵を返し、遁走。

 次期皇王の、それはもう見事な逃げ足であった。

         ◇ ◇ ◇


 持ち込まれた数十件の招待状のうち、せめてこれだけは出席してほしいと政府・皇王府から求められた四件の夜会。

 昨夜までの三夜連続で催されたその夜会は、皇国の貴族社交界の中で比較的大きな力を持つ二つの侯爵家と、一つの大商家が主催したもの。そして今日もまた、華やかなる騙し合いの宴が、通商協定締結の暁には〈トラン大同盟〉の全権大使として皇都の大使館に赴任する官僚の公邸で開かれている。

 淑女が煌びやかに着飾り、紳士はそれらの淑女の引き立て役となる。夜会の華は淑女であり、紳士は所詮添え物、或いは、給仕でしかないのだから!――皇国きっての伊達男として名を馳せた、先々代紅龍公ヴィトリッヒの言葉は確かに、夜会の本質を言い当てているのかもしれない。

 しかし、レクティファールの周囲に限れば、その言葉は正しくない。

 彼の周囲で淑女は狩人であり、紳士は猟犬なのだ。


「レクティファール殿下、お初に御意を得ます。わたくしノルト・トラン交易商会のイクシード支店長を務めますゴル・エイベルスと申します。これは我が娘リヴディア。今夜殿下がお出でになると何処かで耳にしたらしく、どうしても同席したいと……」


「拙は八洲で両替商をしております弓弦・源蔵。そしてこれに控えておりますのが孫の佳月でございます。来月より皇都の皇立中央学院の専門課程に留学する予定でして……」


「レクティファール殿下、自分は〈セチェルキッツ共和国〉陸軍大佐ディオーネ・マキシマ。先日より大使館付きの駐在武官を仰せつかった者でございます。非才の身ではありますが、今後ともご指導ご鞭撻の程を……」


「良い晩ですね、殿下。わたしはセリーク・コルト。主君、第九九代神帝メルギマルガスト三世聖下より、この地の司教長を拝命した者です。以後、お見知りおきを」


 件の官僚の姪を紹介されたり、この通商協定を推進する立場の商会代表から娘や孫を紹介されたり、すごく仕事ができそうな女性軍人に自己紹介されたり、アルマダ大陸では見慣れないウォーリム北教の法衣を纏った年齢不詳の美人に微笑まれたりと、レクティファールはそれはもう多忙だった。

 夕方から始まった夜会は出席者が入れ替わりながら、もう日付が変わりそうな今も続いている。

 レクティファールは勧められた酒を飲み、愛想笑いを貼り付けて談笑し、狩人らしい淑女たちと踊った。

 美しい女性と身体を寄せ合って踊ることがこれほど苦痛だと、彼はこれまで知らなかった。知りたくもなかったが。


「ふう」


 廊下まで逃げ出し、果ては裏庭まで移動してきたレクティファール。

 酔えればまだましだっただろうかと詮無いことを考えながら溜息を吐けば、ここ数日の婚約者たちの態度を思い出して尚更落ち込んだ。

 怒りを露にしている者が誰一人としていないのは、果たして幸運なのだろうか。

 寂しそうに、哀しそうに見詰められるよりは、怒られた方が良いのではないだろうか。


「自業自得……確かに自業自得だけれども……」


 フェリエルだけは、薬を入手した状況を察したのか何も態度を変えないが、他の者たちは揃ってレクティファールを避けている。

 乙女騎士たちの態度も固く、皇王の私的空間としての後宮は今のレクティファールには居心地が悪すぎた。


「困った」


 レクティファールが呟く。

 そのまま独り言として消えて行くと思われたその言葉は、彼の背後から発せられたのんびりとした声に掬い上げられた。


「あら、何かお困りですか?」


 レクティファールは緩慢な動きで、背後を振り返った。

 白藍の長髪。柔らかくもたおやかな線を持つ身体。じっと彼を見詰める瞳は金色。


「マリア……」


「こんばんは、レクティファール殿下」


 品のいい笑みを浮かべ、蒼龍公マリアはレクティファールの傍らに立つ。

 香水の香りに混じって、少し酒の匂いがした。


「随分と飲んでいるようで」


「はい、皆さん随分勧めてくださって……本当、嬉しい限りで」


「送り狼志願も混じっていたのでは?」


 寡婦であるマリアの纏う衣裳は、皇国伝統の独身女性のものだ。

 当然、こういった場では彼女を求める男たちが集まってくる。


「残念ですけど、狼如きに龍は襲えませんの」


 くすくすと笑うマリア。

 確かにその通りだと頷き、レクティファールは冷たい地面に座り込んだ。


「隣、よろしくて?」


「――どうぞ」


 レクティファールは異相空間から中尉軍装用の外套を引っ張り出すと、それを地面に敷いてマリアに示す。

 マリアは失礼します、と一言断りを入れ、そこに綺麗に足を揃えて座った。


「こんなことをして、フェリスたちに恨まれてしまうかしら?」


「今なら、その責任は全部私に回ってきますよ。気にしないでください」


 レクティファールは再度異相空間に接続すると、そこから金属製の水筒と厚目の硝子杯を取り出した。

 よく冷えた清水を硝子杯に満たし、マリアに手渡す。


「それにしても、随分と飲みましたね」


 硝子杯を受け取ったマリアは、それを嬉しそうに口に寄せる。

 薄い紅の唇が、透明な水を含んでぬめり輝いた。


「殿下がいらっしゃると聞きましたので」


「――?」


 何故自分がいると飲み過ぎるのか、レクティファールは首を傾げた。

 マリアはそんなレクティファールの様子に再度微笑むと、じり、と身体を寄せてきた。


「お約束、そろそろ果たしていただけません?」


「約束――ああ、ひょっとして……」


「はい、我が息子と義娘を救っていただいたお礼です」


 レクティファールの表情が歪む。

 よりによって今日それを持ち出すのかと、マリアを横目で睨む。


「マリア。私は……」


「主君としての役目を果たしたまで、そう仰りたいのでしょう?」


 台詞を横取りしたマリアに、レクティファールは頷いてみせた。

 分かっているなら、せめてそっとしておいてほしい。


「別に、殿下がわたくし欲しさに戦ったとは思いません。ですが、それとこれとは別の問題」


 マリアはレクティファールの肩に自らの頬をすり寄せると、掠れたような声で囁く。


「わたしに薬を使ってしまえば、もうこんな騒ぎに巻き込まれずに済みますよ」


「な――!!」


 レクティファールはその一言に慌て、思わずマリアに身体を向けてしまった。

 すとん、とマリアの身体がレクティファールの腕の中に落ちてくる。


「わたくしはもう、子どもも産めない身体ですもの。後継者も戻って参りましたし、フェリスの婚礼を見届けたら隠居しようと思っています」


 そのままレクティファールの膝の上で仰向けになったマリアは、彼の頬に手を添え、嬉しそうに微笑む。


「龍族の老後は長いものです。父のように旅に出るというのも捨て難いですが、殿下の妾として離宮で飼われるというのも中々魅力的ではありませんか?」


 レクティファールはマリアの顔を深く深く見詰め、その表情に微かな安堵があることに気付いた。

 そして、その安堵の理由が、息子の帰還であると悟る。


「――ケルブ殿たちの追放の件、それほどまでに……」


「いいえ、いいえ、殿下には一つの恨みもありません。ただ、少し運がなかっただけなのです。わたくしも、息子たちも」


 その果てに、二人は心身に傷を負い。マリアは深い後悔を背負った。

 二人の傷はまだ癒えきっていないが、フェリスの晴れ姿を見ることは叶うだろうと言われている。


「わたくしが奪われたもの、殿下は取り戻してくださいました。それを恩に感じて、何を恥じることがありましょう」


 マリアにとって、レクティファールが二人を生きて連れ帰ったことはそれほどまでに大きな出来ごとだった。

 諦めていたのだ。

 それこそ、どれだけ運が良くてもどちらか一方しか生きて戻れない。生きて戻ってきたとしても、以前のような生活は送れないと。


「別に、わたくしは自分を安売りしている訳ではありません。ただ少し、もう少しだけ殿下に近づきたいと思ったのです」


 孫を娶る男は、マリアにとっても大きな魅力を抱えた男だった。

 諦めかけていた自分の望みを叶えてくれた男に、マリアはひどく惹かれていた。それこそ、冗談交じりでは愛を囁けないほどに。


「これは単なる気紛れかもしれません。水龍の娘は好奇心で船を沈め、男を惑わせてきましたから」


 種族的な性質なのだと彼女は思う。

 少しでも魅力を感じた異性は、絡めとってしまいたい。

 自分のものにしてしまいたい。


「この一件を解決する選択肢の一つとしてわたくしをお使いになること、皇府殿にもご了承頂きました。殿下がお許しになれば、我が領地に近い離宮を一つ頂けるとも」


「ルキーティが……」


 おそらくレクティファールがマリアを受け入れても、側妃にはするまい。

 愛妾という形に留め、その影響力を用いて国内の商会に対する抑えにするはずだ。


「龍族は恩を忘れません。今後の殿下の治世の助けになるなら、それはわたくしの心を満たすでしょう」


 マリアの声を聞きながらルキーティの手がどこまで伸びているのかを考え、レクティファールはその場で頭を抱えたくなった。

 この騒動、あの妖精は徹底的に利用する腹積もりだ。国内国外を問わず、あらゆる利を得るために動いている。


「――皇府殿の手のひらで踊らされていることが、お気に召しませんか?」


「ええ、正直少し」


 間違ってはいない。

 おそらく、レクティファールに自らの立場の重さを教えるという目的もある。

 君主であればたった一つの行動が大陸を超えて波及することもあると、そう教えたいのだ。


「ふふ……殿下らしい……」


 マリアはそう零すと、身体を起こしてレクティファールに向き直った。

 そこに浮かんでいるのは先ほどまでの穏やかな表情とは違う、蒼龍公としての顔だ。

 ただ、少しだけ残念そうではあったが。


「では、殿下に一つ策を献じましょう。これならば得るものは少なくとも、失うものも少なくて済みます」


 ですので、お礼はまた別の機会に――そう言って浮かべたマリアの笑みが、レクティファールにはひどく楽しそうに見えた。


        ◇ ◇ ◇



「どうも、色々お世話になりました」


「いいえ、殿下。こちらも久し振りに良い夜が過ごせました。――フェリスには恨まれてしまいそうですけれど」


 朝靄の漂う皇都。その一角に建つとある商家の屋敷で、レクティファールとマリアは別れの言葉を交わしていた。

 久し振りに寝台で眠ることができたレクティファール。その落ち着いた表情は、昨夜と較べれば別人のようだ。


「では、例の件はよろしくお願いします」


「ええ、明日の夜までには届くよう差配致します。ですが、良くあの娘たちの好みを知っていましたね」


「何度も何度も買い物に付き合って、雑談して、日頃の服装を見て、辛うじてこの程度です。マリアにも手伝ってもらいましたし」


 レクティファールは苦笑を浮かべてそう答え、それを聞いたマリアは口を手で隠して小さく笑った。

 自分とは違い、何とも健全な付き合い方をしているものだと、そう思った。


「あの娘たちも、そろそろ我慢というものを覚えた方がいいのでしょうけど……」


「――随分、してもらっていると思いますが」


「いいえ、殿下」


 マリアは頭を振り、じっと真っ直ぐにレクティファールを見上げながら、告げた。


「我々女には、我慢のしどころというものがあります。しなくてもいい我慢をして、しなくてはならない我慢を怠る。それは無知と怠慢です」


「男も同じですよ。絶対に堪えなくてはならない場面と、そうでない場面があります。私は未だに区別できないのですが……」


 まだまだ未熟者です――頭を掻き、しかしすぐに居住まいを正して、レクティファールはマリアに小さく頭を下げた。


「では、仕事に行ってきます」


「はい、いってらっしゃい」


 二人の立場を思えば、あまりにも娑婆じみた言葉のやり取り。

 しかしその光景は、不思議と似合っていた。


         ◇ ◇ ◇


 ウィリィアはその日、非常に不機嫌であった。

 上司であるマリカーシェルに「殿下を一晩頼む」と命じられ、寝袋と一緒に現れたレクティファールを自室に泊めることになったのだ。

 レクト・ハルベルンを知るマリカーシェルにしてみれば、ウィリィアの部屋が後宮内のどこよりも中立に近いと考えたのだろう。メリエラたちには、次の帰省の際に予定している、ルイーズの誕生日の宴の打ち合わせをしていると説明したらしい。


「ちょっと、息しないで」


「いきなり死ねとおっしゃいますか。いえ、確かにこの部屋の匂いは義姉さんぽくて色々申し訳なくなりますが……」


 レクティファールは陸軍山岳部隊御用達の寝袋にくるまった状態で床を転がり、義姉の暴言に抗議する。

 小隊の先任下士官として一応個室は与えられているが、その部屋は狭い。ウィリィアにしてみれば、その狭い中に何故あの男と二人きりで篭らなくてはならないのかという憤りもある。

 先ほどから落ち着きなく転がっている義弟に、彼女は不機嫌そのままの声で文句を言う。


「大人しくしなさい。わたしは朝早いの、分かるでしょう」


「ああ、すみません」


 ぴた、と壁際で動きを止めるレクティファール。

 壁に向かったまま、「では、おやすみなさい」と一言。


「え、そのまま寝るの? 壁よ、そこ」


「知ってます。ですが他の方向を向くと、ウィリィアさんの寝姿が視界に入ります。それはお嫌でしょう?」


 嫁入り前の、などと言うつもりはないが、自分の身に置き換えてみれば決して嬉しいことではない。


「――まあ、嫌だけど」


「ならいいではないですか」


 寝袋が蠢き、沈黙した。

 ウィリィアは釈然としない想いを抱えながらも、それ以上言葉を続けると、まるで自分が義弟に寝姿を見てもらいたいと思っているようではないかと自分に言い聞かせる。

 支給品の羽毛布団はふわふわと柔らかく、床に転がっている寝袋よりは遙かに寝心地がいいのだろうな――そんなことを考え、ウィリィアは慌ててその思考を追い出した。少し、ほんの僅か、寝台の半分を貸してやろうかと思った自分を恥じた。


「――ねえ」


「なんですか」


 羞恥心を振り切るように、ウィリィアは床の寝袋型蓑虫に話しかける。


「もしも姫さまたちと結婚していたら、『デアの恋薬』を使った?」


 それは、この騒動が始まって以来ずっと彼女の心の中にあった疑問。

 現状では“使えない”相手に大手を振って“使える”としたら、この男はどうしただろうか。


「誰も文句を言えない、言う必要がない状況なら――」


「使いませんよ」


 酷くはっきりした声だった。

 ウィリィアの脳天に、真っ直ぐに飛び込んできた。

 彼女の身体が、びくりと震える。


「何で?」


「意味がありません」


 レクティファールの返答には、妙な自信があった。


「それに、あの薬には他の使い方もありそうですし」


「え?」


 ウィリィアは身を起こし、床の蓑虫を見詰めた。

 どういうこと、そんな疑問が口から出る前に、答えが返ってきた。


「明日になれば、分かりますよ」


 それきり、返事はなかった。


         ◇ ◇ ◇


 国定街道。

 それは政府によって定められ、政府によって管理維持される国の大動脈である。

 国定街道は特別な理由がない限り大型の軍用魔動車が二台横並びで走行できる幅を持ち、混凝土や混凝土石材、砕石などで舗装されている。

 有事の際に軍部隊を素早く機動させるために、鉄道網と並ぶ国家事業として毎年相当額の予算が建設・維持費として計上されていた。


「やはり、自動人形をそのまま歩かせるには砕石舗装では不安だな」


「そうですな、魔法術式で強化されているとは言え、砕石を圧し固めただけですから」


「まあ、自動人形を輸送車に載せずに機動させること自体、余り考えたくない事態ではあるが……」


〈ヴァーミッテ〉と〈ウィルマグス〉を接続する国定街道の建設現場でそう呟いたのは、この地の陸軍を統べる陸軍中将ガラハ・ド・ラグダナ。付き添っているのは、彼の幕僚の一人である工兵参謀だ。

 工事現場の視察ということで〈ウィルマグス〉から出向いてきたのだが、工兵部隊も民間の工事業者も彼を顧みることなく黙々と作業を続けている。

 降雪の合間合間に工事を進めているため、無駄な時間は欠片も存在しない。ガラハもその辺りの事情は理解していたから、すぐ背後を建設重機が高速で通過しても文句は言わなかった。


「しかし、雪が深く積もる前にある程度進めておかないと、雪解けの頃に一からやり直しなどということにもなりかねませんな」


 ある程度の深さまで地面を掘って基礎工事をしておかなければ、雪解け水で地面が緩み舗装が歪んでしまうことも考えられる。

 今はその基礎工事の最中だ。


「きちんと指標を立てておけよ。雪が降っても、街道を使う者はいる」


「は」


 工兵参謀は上官の言葉に了解の返答を送りながら、密かにその横顔を窺う。

 それというのも、この北の僻地まで届いた一つの噂がガラハの機嫌を損ねているからだ。

 部下に当たるような上司ではないが、司令部で延々と不機嫌な表情を浮かべられてはそこで働く者たちが怯えてしまう。只でさえも剣呑な顔立ちだというのに、苛立たしげに机を指で叩いたり、舌打ちをしたり、靴音荒く歩き回られては司令部要員の精神状態にも悪影響が出るというものだ。

 工兵参謀の下にも部下からの陳情は届いていた。おそらく、他の参謀たちやガラハの副官の下にも届いているだろう。


「――閣下」


「何だ」


 近くに設置してあった経緯儀を覗き込んだガラハが、ぶっきらぼうに答える。

 やはり機嫌が悪いな――工兵参謀は今日この日に工事現場の視察を提案した自分の運の悪さを呪いながら、周囲の作業員に聞こえない程度の声で訊いた。

 諌めるなら、ここしかない。


「あの噂のことですが……」


 ガラハの赤い瞳が、ぎらりと光る。

 手負いの獣のような瞳に睨まれた工兵参謀の喉から、ひゅう、と珍妙な呼吸音が漏れた。


「――すまん」


 血の気を失った部下の様子に自分が何をしたのか気付いたガラハは、すぐに顔を伏せ、手元の資料に目を向けた。

 しかし、その内容は頭に入ってこない。

 自分の苛立ちが部下たちに知られていたという事実に、今さらながら気付いたためだった。


「どうにかしているな、俺は」


 摂政が『デアの恋薬』を手に入れたところで、現実として何の問題もない。

 周辺国に皇国は婚姻による縁組を行う用意があると示すだけでも、外交の手札を一つ増やすことができるのだ。

 問題があるとすれば、今人々の口に登っている「摂政殿下は色を好む」という噂程度。あとは、浮き足立った周辺国が先走った行動に出ていることだけだった。


「リーデ様は、特に何も言っておられないのでしょう? ならば、気にする必要はないのでは……」


「分かっている。そもそもあれは俺の娘ではない。俺が苛立つこと自体がおかしいのだ」


 リーデからは定期的に手紙が届く。

 工兵参謀の下にも、一度だけ手紙が届いた。彼がリーデに教えた築城術を摂政に話す機会があり、その際に「良い師を持ったものだ」と褒められたと綴られていた。

〈パラティオン要塞〉守備軍時代の幕僚団の面々には、最低でも一度はリーデからの手紙が届いているだろう。

 何ともまめなことだと工兵参謀は思ったが、慣れない皇都暮らしで古巣を懐かしむ気持ちもあるのかもしれないと考え、〈ウィルマグス〉の現状と自分から見たガラハの近況を認めた返事を送った。返事はなかったが、身重の彼の妻に、と皇都で手に入れたらしい南洋の果物が送られてきた。

 あの頃のリーデであれば、このような気遣いはできなかったかもしれない。

 軍務一辺倒で、周囲を常に威嚇していたような娘だった。


「リーデ様は変わられましたな」


「ああ。手紙が届くたび、そう思う。仕事ばかりだったあれが早く子どもが欲しいなどと……ガリアンが聞いたら泣いて怒るな」


 ガラハがリーデの子どもの名を考えていることは、司令部では公然の秘密になっている。

 書店で買い込んだらしい古代語の辞書にはいくつもの付箋が貼られ、当たり前のように司令官公室の本棚に収まっていた。古今東西の名を集めた人名辞書も数冊、同じ本棚に鎮座している。


「気になるならば、直接お訊きになる方がよろしいでしょう。周囲が下手に気を回しても良いことはありません」


「――そうだな」


 気になるなら、本人に訊く方が確実だ。ガラハがリーデを実の娘同然に見ていることは、その娘本人が一番良く知っている。

 父代わりのダークエルフが安心するよう、上手く返事を書くだろう。


「戻ったら、そうするとしよう」


 ガラハは再度資料に目を向け、今度は手紙の内容を考えることに夢中で、そこに記載されている文章を理解できなかった。


         ◇ ◇ ◇


 各々の護衛小隊長から「正装にて、紫真珠の間へ」というレクティファールの言葉を伝えられ、後宮にいる妃候補は、ある者は大慌てで、ある者は不敵な笑みを浮かべ、ある者は面倒臭そうに、ある者は無表情で、ある者は緊張で顔を真っ赤に染めてそれぞれ準備を行った。

 指定された時間は夜も更けた二十二時。

 夕食を済ませ、湯浴みも済ませ、それぞれ精一杯着飾った淑女たちは時間の五分前には全員が〈紫真珠の間〉に集まった。

 その場には普段離宮で暮らす妾二人の姿もあり、そのどちらも正妃候補たちと同じように正装を纏っていた。

 国を代表する美姫たちが勢揃いし、壁際に並ぶ騎士たちも見目麗しい者たちばかり、宮廷絵師として皇城に仕える画家がこの場にいれば、どうやってこの光景を絵に収めきるか必死に考える羽目になっただろう。


「マリカーシェル。レクティファール様は?」


 広間の中央に並んだ長椅子の一つに座ったリリシアが、一人離れた場所で佇むマリカーシェルに問う。

 いつもならレクティファールの側に侍っている彼女が一人でいることに、その場の全員が疑問を抱いていた。


「部下と共に、少し準備を」


「準備?」


「はい。ですがそれ以上のことは……」


「答える権限を持っていない、でしょう。構いません、レクティファール様がこの場にいらっしゃるということだけ分かれば」


 リリシアはそう毅然と告げると、その場に揃った女性たちに顔を向ける。


「問題はありませんね?」


 真剣な表情で一斉に頷く女性たち。

 唯一フェリエルだけが居心地悪そうに身動ぎしたが、誰もそれに気付かなかった。


「――――」


 全員が沈黙を貫く広間には、まるで戦場のような緊張感が満ちている。

 騎士たちの何人かは密かにレクティファールを恨み、また別の何人かは興味深げに事態を見守っていた。

 そして約束の二十二時。

 壁の水晶時計が二十二回鐘を鳴らした直後、広間の扉が開いた。


「お待たせしました」


 背後に数名の騎士を従えたレクティファールが、広間に集まっている婚約者たちに一礼する。

 リリシアたちはレクティファールをどう出迎えようか悩んでいるうちに、結局その機会を逸してしまった。


「やはり、怒っておられますね」


 さて、困った――レクティファールは頭を掻き、背後に立つ騎士たちに目配せした。

 騎士たちは無言で頷くと、まず一人の騎士がレクティファールの傍らに立った。その腕には、絹の布で隠された円盆がある。


「言い訳をすれば、こちらに非があると認めることになるでしょう。ですので、言い訳も弁解もなく、ただこれだけを皆さんにお贈りします」


 それを見た上で、結論を出して欲しい。

 レクティファールは一人一人の瞳を見詰め、そう告げた。

 姫君たちの間に、緊張が走る。


「リリシア」


「え、あ、はい!」


 名を呼ばれたリリシアが慌てて立ち上がった。

 落ち着かない様子で衣裳を整え、レクティファールの前に立つ。


「あの……レクティファール様……」


「色々心配をお掛けしました。ですが、それ以上は何も言いません。その代わり……」


 円盆から布を取るとその下にあったのは、リリシアへと贈った紋章と同じ意匠の首飾りであった。

 銀色の細い帯を首に巻く形で、紋章部分は魔法銀でできた小さな容器になっている。


「この中には『デアの恋薬』が入っています」


「え?」


 リリシアだけではなく、姫君たち全員がレクティファールに視線を集中させた。

 いくつもの困惑の双眸に、レクティファールは落ち着いた声で説明を始めた。


「色々調べまして、『デアの恋薬』に関する神話と現代の恋薬の扱いには随分と違いがあることに疑問を抱きました」


 策をお伝えする前に、まずは恋薬の神話を調べてくださいというマリアに従い、レクティファールは彼女の用意した資料を一つ一つ確認した。

 マリアの淹れた香茶を手に、何人もの著者が解釈した神話を一つずつ丹念に調べた。

 その結果、彼は神話本来の史実に辿り着く。


「『デアの恋薬』は確かに女神デアと人間グローの間の試練として描かれています。そして、その試練を乗り越えた二人を強く結び付けた」


 そしてその結果、人々の間では愛し合う者同士をより強く結びつける薬として認知されるに至った。

 愛情を増幅するのだ。そういった用途に使用されるのが当たり前である。

 しかし、とレクティファールは首を振る。


「それは間違った使い方ではありませんが、本来の用途とは少し違う。私はそう考えました」


 だからこそ、こうした。

 本来の目的とは違うかもしれないが、自分なりに『デアの恋薬』の意義を考えた。


「女神デアは長に試練を課せられたとき、自らこの薬を呷りました。試練を受けるか受けないか、そう提示され、彼女は答えとして薬を飲んだ」


 彼女はグローを信じ、自分と自分の中のグローに対する気持ちを信じた。

 そしてその気持ちが、二人を再会させた。


「――所詮、私の考えです。神話時代を研究している歴史学者の中には、そもそも現代の『デアの恋薬』と神話時代の『デアの恋薬』は別ものであるという持論を持つ人もいます」


 現代の恋薬のように愛情を増幅させるのではなく、単に意識を混濁させ、性欲を増進させることで媚薬効果を得ていただけという説だ。

 麻薬のようなものは、それこそ神話時代から存在する。精神に生命の重点を置いている神族であるなら、そういった薬物の効果は高い。


「それでも私は、この薬に想い合う二人を再会させるという役目を担ってもらいたいと思います」


 円盆の上から首飾りを取ると、レクティファールはリリシアの細い首に手を伸ばす。


「あ……」


 レクティファールの指が首筋に触れると、リリシアはそこから走る感覚に小さな悲鳴を漏らした。

 想われ、触れられることの何と素晴らしいことか。想いの伝わることの何と素晴らしいことか――リリシアは震えそうになる身体を必死に抑え込んだ。


「レクティファールさま……」


「リリシア。これは再会のお守りです。何があろうとも、どれだけ離れようとも再び出逢えるように、そんな想いを込めたお守り」


 最果ての荒野から、神々の領域まで。

 世界を横断したグローのように、何処からでも戻ってくる。


「私たちはこれから何度も離れることになる。そしてそのたびに再会し、また離れるでしょう」


 それは互いの役目を考えれば当たり前で、どうしようもないこと。

 それらを総て飲み込んで、共にいることをレクティファールは望んでいる。


「皆さんが何度この薬を飲もうとも、私はそのたびに戻って来て、再び離れるときにはこの瓶に薬を入れていく。恋薬がある限り、いえ、たとえなくとも私は皆さんの下に戻ってくる」


 戻る決意。

 どれだけ離れようとも、必ず想い人の下へと。


「――レクト」


 メリエラが、リリシアの隣で襟元を緩める。

 そこにあった首飾りを外すと、挑発するような笑みを浮かべてレクティファールを見た。


「龍族は首輪を嫌うわ。誇り高い龍が他者に服属するなんて考えられないって」


「では……別の形に」


「いいえ、それで結構」


 メリエラは円盆を抱えた騎士たちを見渡し、「わたしのはどこ」と訊ねた。

 それに応え、一人の騎士が――これまで静かにことの成り行きを見守っていたウィリィアが進み出た。


「こちらです、姫さま」


「ありがとう」


 メリエラが布を払うと、その下には先ほどとは別の形の首飾り。

 紋章をあしらってあるのは同じだが、こちらは銀細工の他に無色透明の宝石が散りばめられている。


「あ、これって……」


「はい。この間気に入ったと言っていた銀細工と同じ職人に作ってもらいました」


 一度は多忙を理由に断られたが、レクティファールが自ら工房に足を運び、身分を明かし、その上で大切な婚約者に贈りたいのだと頼み込んだ。

 職人は摂政という立場には少しも靡かなかったが、レクティファールがただ大切な人に贈りたいという理由だけで工房まで足を運んだと聞き、依頼を受けてくれた。

 そういう役目こそ細工職人の本懐だと、上機嫌に笑って。


「じゃあ、着けて」


「はい」


 蒼銀の帯を首に回して金具を繋ぐと、レクティファールはそのまま白い首筋に指を這わせた。

 メリエラは湿った吐息を零し、潤んだ目でレクティファールを見上げた。


「レクト……」


「メリア」


 言葉よりも雄弁な瞳で、ただ互いへの想いを確認する。

 視線の交錯はほんの三秒程度だったが、メリエラは深い満足感を得ることができた。

 首に張り付く帯の感触が、レクティファールの指を思い出させてくれる。


「わたしはもう部屋に戻るわ。明日も早いし」


「ええ、おやすみなさい」


「うん、レクトもあまり無理しないでね」


 ごく自然な動きで、メリエラはレクティファールの首に両腕を回し、その顔を引き寄せる。

 そのまま唇を重ねると、嬉しそうに微笑む。


「――じゃあ、おやすみ」


「はい、良い夢を」


「うん、今ならすごくいい夢が見られそう」


 ひらひらと手を振って去っていくメリエラを、他の姫君たちは呆けたような表情で見送った。

 特に順番を飛ばされたリリシアは呆然としていたが、やがて身体を震わせ始め、ついには爆発した。


「なっ……なあっ!」


 何をしてくれていらっしゃるのですかあの人は――と言いたいらしいが、怒りのあまり言葉にならないようだ。

 暫くの間そうして必死に言葉を紡ごうとしていたリリシアだが、その声は段々と弱々しくなり、最終的には完全に涙声へと変わってしまった。


「レクティファールさまぁ……」

 レクティファールは怒りを通り越して半泣きになったリリシアの頭を撫で、頬を撫で、背中を撫で、なんとかその場を切り抜けることに成功するのだった。


         ◇ ◇ ◇


 リリシアにはメリエラと同じような口づけをせがまれ。

 フェリスには実家に戻ったときに一緒に街を散策する約束を課せられ、

 ファリエルにはもう少し意思疎通を重んじろ、と叱られ。

 フェリエルには申し訳ないと謝られ。

 オリガには無言で唇を奪われ。

 リーデには今夜使ってもいいですかと訊かれ。

 アリアにはきちんと日記に残しておきますねと言われ。

 レクティファールは総ての首飾りを贈ることができた。

 この夜のことは皇都の主要新聞社と出版社にルキ-ティの手を経て伝えられ、『デアの恋薬』の新たな役割として人々の記憶に刻まれる。

 まずは貴族たちの愛の告白に小瓶の首飾りと共に使用されるようになり、富裕層がそれに続いた。

 その後、高価な『デアの恋薬』の代わりに香水や魔法薬を入れたものが、家族や恋人を持つ軍人たちの間で無事の帰還を願う御守として広まった。

 さらに恋人や家族を残して遠隔地へと向かう者たちが家族に残す御守として、船乗りの妻たちが夫の無事を願う依り代として、様々な要因で離れ離れになる恋人たちの再会の証として、この新しい『デアの恋薬』は人々に受け入れられるようになる。

 およそ一〇年で大陸中に広まったこの風習は他大陸にも及び、長い時間を経て新たに「離れ離れになる大切な人に贈り物をする」という風習を生み出した。同じように、レクティファールが妃たちに首飾りを贈った日は「男性が女性に来世での再会を誓い、今生での結婚を申し込む日」として定着する。

 後の世でレクティファールが「女性好き」として名を知られるようになる理由の一つとして、この一件を例に出す史家は多い。

 彼らは口を揃えて言う、「レクティファールほど真面目に、そしてまったくの同時に複数の女性を口説いた男は、歴史上稀である」と。

         ◇ ◇ ◇


「えへへへへへ……」


「うふふふふふ……」


 夜の後宮の談話室。そこで自分の首元を手鏡で映しつつ、恐ろしく締まりのない表情で奇妙な笑い声を発している姫君が二人。

 談話室に足を踏み入れた紅龍公の妹姫は、その光景に眉根を寄せた。


「何、あの気持ち悪いの」


「今朝からずっとです。お役目の間は流石に自重して頂きましたが……」


 昨夜レクティファールから贈られた首飾りは、どうやら二人の自制心を何処かに吹き飛ばしてしまったらしい。

 食事中も、入浴中も、二人は揃って締まりのない顔でへらへらするばかり、護衛の騎士たちも当初は苦笑を浮かべていたが、やがて困惑、苛立ちを経て、今は無表情である。

 極端に出会いの少ない職場であるのに、日がな一日惚気話を聞かされ続けたようなものである。

 満腹を通り越して殺意を抱き始めたらしい。


「ですが、ファリエル様も……」


「なっ……」


「珍しいですね、首布なんて……」


 首に巻いた絹の下には、昨夜レクティファールに着けてもらった首飾りの感触。

 ファリエルは朝無意識のうちにこれを着け、慌てて首布で隠したのだった。外さなかったのは、本人曰く「作ってくれた職人に悪いから」らしい。


「いや、あのね……」


「知ってます? 下手に隠されると逆にすごく目立って、暗に自慢されてるような気持ちになるんですよ?」


「え、え……」


 護衛の騎士から溢れる暗澹たる波動。

 ファリエルは思わずたじろぎ、言い訳を思考に並べ立て、しかし口にする勇気を持てずに撤退を選択した。


「ちょ……ああもう! メリエラ、リリシア! お茶にしない!?」


 ファリエルはその場から逃げるように二人の下へと駆けて行く。


「逃しましたか」


 目標を失い、壁際の同僚たちと合流する護衛騎士。その場には、同じように負の波動に負けた騎士たちが無表情で立っていた。


「姫様方、お茶をお持ちしまし……ひゃあっ!?」


 部屋の一角を占領する暗黒色の波動に、お茶を運んできた厨房担当の騎士が悲鳴を上げた。

 彼女はがたがたと震えながら、それでも何とか台車を三人のいる卓まで運び、任務を達成した。無論、そのあとは逃げるように退出したのだが。


         ◇ ◇ ◇


「ふむ、困ったな。仕事中でも外すのは少し躊躇われるし……しかし……ふふふ……」


 フェリエルはなんとか白衣に首飾りを合わせる手段は無いものかと、昨夜からずっと衣裳をひっくり返して研究を続けていた。

 その最中にぴたりと動きを止めては嬉しそうに首元に手を伸ばし、小さく笑い声を上げるということを繰り返している。


「中々どうして、面白いことを考えるじゃないか」


 すでに悲恋に憧れる年齢でもない。ただ、できればこういった浪漫主義というものも多少は理解してくれていると、それはそれで張り合いが出るというものだ。


「まあ、契約してしまった以上、他の男に靡くことはないんだが……」


 そもそも、あの男が神話や恋人同士の催しごとを重視する性格とは思えない。

 昨日のことも、単なる日常の延長として認識しているだろう。


「これは、色々巻き込んで記念日に制定してもらった方がいいかもしれないな」


 国定の記念日にする必要はないだろう。それではあまりにも物々しい。

 ミレイディアやルキ-ティ辺りに相談して、恋人同士の仲を近付ける宗教的な催しごととして利用するのが適当だろう。

 次期皇王が始めたことだ、神殿も意外と乗り気になるかもしれない。


「リリシアが旗振り役になってくれれば、こちらは問題ないな」


 来年の今頃は、街に仲睦まじい恋人たちが溢れるかもしれない。


「幸せは皆に分けてやらないとな」


 どこか勝ち誇ったように笑うフェリエルを、鏡の向こうの彼女だけが知っていた。


◇◇ ◇


 流石に療養中の父と未だ意識の戻らない母には負担を掛けられないと、フェリスは今回のことの顛末を祖母に伝えた。

 各諸侯家が恋薬騒動で動き回っている以上、それを抑えられるのは四龍公家くらいしかいない。

 そのためにもある程度の事情説明は必要だろうと祖母に連絡を入れたフェリスだが、そこでマリアがレクティファールに首飾りに繋がる情報を与えたという事実を知ったのだ。


「え? じゃあ、これってお祖母様が……?」


〈そうよぉ。あ、でもちょっとした手助けをしただけで、考えたのはレクティファールだから気にしないでね〉


「うん、それは分かってるけど……って、お祖母様!? 今レクトのこと『レクティファール』って呼ばなかった!?」


〈あら? おほほほ……〉


「待って! それってどういうこと!? まさか……!」


〈フェリスにはまだ早いわぁ……うふふふふ……〉


「ちょっと待ってよお祖母様! 他の人ならいいけど、レクトはボクの――」


 婚約者、と言おうとしたフェリスに、マリアは蛇のような笑みを浮かべてそれを遮った。


〈結婚はともかく、男女の間に他人が入り込むことなんて珍しくないわ。それが嫌なら、せいぜい自分を磨いて相手を繋ぎとめなさいな〉


「ぐむ……」


 こと男女の間に義は存在しない。

 勝った者が正しく望むものを手に入れ、負けた者は総てを失う。

 今も昔も変わらない、血みどろの戦場だ。


〈でも、あなたたちと同じ戦場に上がるつもりはないわ。わたくしはわたくしなりに、あの可愛らしい人を助けるだけよ〉


「――本当に?」


〈息子と義娘の生命の重さと同じだけ、わたくしはあの人に恩を返さなくてはならない。わたくしの二人への愛情は、百年や二百年で返せるほど小さくないの〉


 それに、孫の心を救ってもらった恩もある。

 顔を一度も見ることがなかった、血の繋がらないもう一人の孫を弔ってもらった恩もある。


〈あの人には長生きしてもらわないと、ね〉


 折角のご馳走も、一匙だけでは空腹を刺激するだけ。

 総て食べ尽くしてこそ、その料理の味も分かるというものだ。


「お祖母様……何か怖いんだけど……」


〈うふふふ……〉


 フェリスは思う。

 何か、嫌な敵を作ってしまった気がする、と。


          ◇ ◇ ◇


「で?」


「で、と申されましても……口にするのは少し、憚られると言いましょうか……」


「アリアは」


「申し訳ありません。わたくしは“それ”の経験がございませんので」


 後宮のオリガの部屋に呼び出された側娼二人は、じっと自分たちを観察するオリガに困惑しきりであった。

 後学のためにレクティファールとの夜の生活の様子を教えて欲しいと呼び出されたものの、その質問の内容はあまりにも直球過ぎて答えに窮することが何度もあった。

 今も、「挟むってどうやるの」という質問をぶつけられ、二人揃って顔を引き攣らせたばかりだ。


「あの、オリガ様」


「何?」


 先ほどからオリガの私物らしい帳面に赤裸々な夜の生活を綴られているリーデは、もう羞恥心で死にそうになっていた。

 騎士団の報告書とは違い、こちらは完全に私的なものだ。役目と割り切ることはできない。

 恥ずかしげもなく学術的興味に基づいて質問されるより、もっと単純に、それこそ幼い興味本位で訊かれたほうがまだましである。


「オリガ様はオリガ様なりの方法で、その、殿下となされた方がよろしいのではないかと……」


「――お前にはどうせできないから、虫けらは……虫けららしく地面で這い蹲れと?」


「そこまでは言っておりません!」


 悲鳴を上げるリーデに、オリガは非常に冷たい視線を向けた。珍しく、非常に珍しく饒舌だった。

 軍装という窮屈な服装で騙されたが、この女以外とある――オリガは親の敵のようにリーデの胸部を睨むと、自分のその部分に触れてみた。

 ぺたり。

 以上である。他の言葉では言い表しようがない。


「――――」


「ああ、オリガ様、落ち込まないで下さい!」


 アリアはそんな光景を見て、自分にもそんな時期があったなぁと過去を懐かしむ。

 先輩たちとの差に挫けそうになりながら、必死に自分を励まし続けた。いつか理想の――それが教育によって創り上げられた偶像だとしても――主人の側へと入るのだと。


「オリガ様ぁ……」


「――――」


 自分の胸を見詰めたまま硬直したオリガ。

 その肩を揺さぶり、必死に現世へと帰還させようとしているリーデ。

 あの頃は、こんな光景を目にするとは思わなかった。


「これも、殿下の甲斐性でしょうか」


 呟き、アリアは首飾りに手を添える。

 冷たい金属の感触に、アリアは微笑んだ。

 レクティファールはこれをアリアに贈る際、彼女だけにこの首飾りのもう一つの機能を伝えていた。


(自裁用……毒性付与術式)


 液体を入れている部分には、誰にも気付かれないようあとから術式が刻み込まれている。

 蓋になっている螺子の部分を、特定回数、特定方向、特定角度回すことで、内部の薬品を猛毒に変える術式。

 龍族でも神族でも、魔族でも死に至らしめる猛毒は、変化してからたった数分しかその効果を発揮できない。

 だが、その数分間であれば、少しの苦しみもなく、眠るように自ら命を断つことができる。


(それを伝えなかったのは、殿下の覚悟なのでしょうね)


 使わせるつもりはないのだ。

 しかし、自らの手で愛しい者たちに自裁の手段を与えることは、彼をより追い詰めることになる。

 自らは追い詰められなければならないと、そう考えているのだろう。これからこの国が飛び込むであろう新たな時代は、それが必要になる。


「リーデ……三分の一……三分の一でいいから……」


「む、無理です……! ちょっと、やめてください!」


 このどうということのない日常を守るため、自分を追い詰めなくてはならない。

 それはただ哀しいことなのか、それとも――


「オリガ様。わたくしの知っている体操などやってみませんか?」


「たい……そう?」


「はい、身体の気脈を整え、健全な発育を促す体操です」


「やる……!」


 今を精一杯生きたいという、願望なのか。

 アリアはそのどちらであっても、彼の傍らに居続けようと決意した。


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