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5 音楽夜会
5-3 求愛
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エヴァンはセドリックと共に音楽夜会に来ていた。しかし、まっすぐに会場に行く気になれず、周辺で何となく時間つぶしをしているところだった。
音楽会の会場となっている大広間から大歓声と悲鳴が聞こえている時、エヴァンは扉口付近に立ったままでメルシエとルイーズの演奏の終りまでを聴いていた。
歓声はなかなかやまなかった。ピアノに向かっては、モーラン先生の連れてきた伴奏者が次の曲を譜面台に用意していた。次は『夏の日を讃える歌』であるのが分かった。この歌はジュリーが歌う予定だと、エヴァンは覚えていた。
ジュリーは観客席の最前列にいた。が、前かがみになって胸をおさえ、心配そうにアナイスとセドリックが付き添っている。あれではとても歌えないだろう、と思った。
メルシエがグラモン侯爵と連れ立って、エヴァンがいるのとは別の扉口から会場を出て行った。ラグランジュ伯爵夫人に答えて、アナイスの口がはっきりと『歌います』と言ったのが見えた。伯爵夫人は身振りも大げさに、ジュリーは控えめに、アナイスに感謝の意を表している。ジュリーに代わって、アナイスが歌うつもりなのだ。
エヴァンは足早にピアノに近寄った。
「代わってもらえないだろうか」
エヴァンは言った。伴奏者はぎょっとしてエヴァンを仰ぎ見た。
「歌手が変わったので、ほら。伴奏者も変わって、不思議ないでしょう?」
静かな剣幕に押されて、伴奏者は場所を譲った。
そのときモーラン先生はよそ見をしていてエヴァンに気づかなかった。エヴァンの友人たちの他には、伴奏者が変わったことに誰も注意を払わなかった。
アナイスの用意ができたのを見て、エヴァンは電撃的な速さで前奏を始めた。短く跳ねるような弾き方と強打する同音和音を取り入れて、技巧に惹きつけられた聴取がすっかり静かになった。やがてピアノは穏やかで美しい音を取り戻し、元の楽譜通りの弾き方に戻った。
これなら伴奏の音がよく聞こえるし、歌う声もエヴァンによく聞こえるだろう。それはいいのだけれど、少し、やり過ぎだわ、とアナイスは思った。でも彼の伴奏で歌うのは幸せなことに違いなかった。エヴァンが少し演奏を緩めてアナイスの方を見たので、促されてアナイスは歌い出した。
歌いながら不安になるとエヴァンと目が合った。彼は終始アナイスを励ました。本来の伴奏にはなかったはずの主旋律の響きがところどころに入って、歌を助けた。エヴァンの方でも自然と自分が微笑んでいるのが分かった。つられてアナイスも笑顔になった。
途中に美しい間奏があった。連続する和音に先導されて強い旋律があり、徐徐に弱音になって歌が再開するところで、エヴァンが大きく目を見開いて驚いたような表情をしているのが分かった。思わずピアノに聞き入ってしまい、歌が入るタイミングを逃してしまったことにアナイスは気づいた。
エヴァンはゆっくり和音を引き伸ばすと、間奏をもう一度繰り返し、それから休符で一瞬アナイスを見た。アナイスは心得て歌い出し、なんとか最後までたどり着いた。エヴァンは後奏を一小節だけで短く打ち切って、椅子から立ち上がった。
拍手が起こった。エヴァンはアナイスの背をそっと前に押し出した。アナイスは頭を下げてお辞儀をした。最前列でジュリーもセドリックも拍手をしているのが見えた。会場内の拍手が大きくなった。エヴァンも拍手をしながら後ろ足で下がって、静かにその場を離れた。
「すまなかった。ありがとう」
当初この曲を伴奏するはずだったピアニストが、出て行くエヴァンの言葉を聞いた。そのピアニストは手が痛くなるくらい熱心に拍手をしていた。
音楽会は中休みに入った。席を立った人々がめいめいに話を始め、会場には人の出入りがあり、喧騒が戻った。
「素晴らしい演奏でしたわね」
ジュリーはセドリックに言った。ジュリーの視線の先にはアナイスがいた。いつの間にかエヴァンの姿は消えていた。
アナイスは人の輪に取り囲まれ、次々と称賛を浴びせられていた。なかなかジュリーたちが近づけそうになかった。
ジュリーはアナイスをうっとりと見つめた。
「アナイスは歌が上手……それにいつも私を助けてくれるんです」
「そうですね」
「エヴァンもピアノを上手にお弾きになるのね。知らなかったわ」
「……」
セドリックは返答に困った。演奏はしないと言っていた友人が、どういうつもりで突然伴奏をすることになったのか、分からなった。ただ、ジュリーは素直に感想を述べたまでで、事を追及する気はないようだった。
「ああ、そう、セドリック」
不意にジュリーは言った。
「あなたもお礼を……友人になりたいと言っていただけて、私、本当にうれしかったのです。ありがとうございます」
ジュリーの目はまっすぐにセドリックを見つめていた。曇りのない感謝の気持ちが込められていたが、それ以上ではなかった。セドリックは衝動的にジュリーの腕を引いた。
「ジュリー、あなたに話したいことがあるのですが」
「まあ、なにかしら」
「ここは少し人が多すぎます。あちらで」
いつもは賑やかな遊戯室が、この時ばかりは人の気配がなかった。セドリックはジュリーを連れて部屋に入ると後ろで扉を閉めた。
「私はあなたを愛しています」
いきなりだった。ジュリーの目が丸く大きく見開かれた。セドリックは跪いてジュリーの手を取った。
「私と結婚してくださいませんか」
「セドリック……」
ジュリーは彼の言葉にすぐに反応した。しゃがみこむとセドリックの手を両手で包んだ。ドレスのすそが床でふわりと広がった。
「あなたがそう言って下さることを大変にうれしく思います。でも……」
ジュリーはその次の言葉をなかなか言い出さなかった。セドリックは少しがっかりして言った。
「私は希望を持ってもいいのですか?」
「もちろんですとも。少しだけお待ちくださいますか」
ジュリーは目を伏せた。頬が赤かった。
「先にアナイスに話したいことがあるのです。それまでお待ちくださいますか」
セドリックは大いに落胆した。そしていつもいつも、彼が愛しい人と話すたび、影のように付きまとって二人の間に割り込み、邪魔をするアナイスのことを恨んだ。
音楽会の会場となっている大広間から大歓声と悲鳴が聞こえている時、エヴァンは扉口付近に立ったままでメルシエとルイーズの演奏の終りまでを聴いていた。
歓声はなかなかやまなかった。ピアノに向かっては、モーラン先生の連れてきた伴奏者が次の曲を譜面台に用意していた。次は『夏の日を讃える歌』であるのが分かった。この歌はジュリーが歌う予定だと、エヴァンは覚えていた。
ジュリーは観客席の最前列にいた。が、前かがみになって胸をおさえ、心配そうにアナイスとセドリックが付き添っている。あれではとても歌えないだろう、と思った。
メルシエがグラモン侯爵と連れ立って、エヴァンがいるのとは別の扉口から会場を出て行った。ラグランジュ伯爵夫人に答えて、アナイスの口がはっきりと『歌います』と言ったのが見えた。伯爵夫人は身振りも大げさに、ジュリーは控えめに、アナイスに感謝の意を表している。ジュリーに代わって、アナイスが歌うつもりなのだ。
エヴァンは足早にピアノに近寄った。
「代わってもらえないだろうか」
エヴァンは言った。伴奏者はぎょっとしてエヴァンを仰ぎ見た。
「歌手が変わったので、ほら。伴奏者も変わって、不思議ないでしょう?」
静かな剣幕に押されて、伴奏者は場所を譲った。
そのときモーラン先生はよそ見をしていてエヴァンに気づかなかった。エヴァンの友人たちの他には、伴奏者が変わったことに誰も注意を払わなかった。
アナイスの用意ができたのを見て、エヴァンは電撃的な速さで前奏を始めた。短く跳ねるような弾き方と強打する同音和音を取り入れて、技巧に惹きつけられた聴取がすっかり静かになった。やがてピアノは穏やかで美しい音を取り戻し、元の楽譜通りの弾き方に戻った。
これなら伴奏の音がよく聞こえるし、歌う声もエヴァンによく聞こえるだろう。それはいいのだけれど、少し、やり過ぎだわ、とアナイスは思った。でも彼の伴奏で歌うのは幸せなことに違いなかった。エヴァンが少し演奏を緩めてアナイスの方を見たので、促されてアナイスは歌い出した。
歌いながら不安になるとエヴァンと目が合った。彼は終始アナイスを励ました。本来の伴奏にはなかったはずの主旋律の響きがところどころに入って、歌を助けた。エヴァンの方でも自然と自分が微笑んでいるのが分かった。つられてアナイスも笑顔になった。
途中に美しい間奏があった。連続する和音に先導されて強い旋律があり、徐徐に弱音になって歌が再開するところで、エヴァンが大きく目を見開いて驚いたような表情をしているのが分かった。思わずピアノに聞き入ってしまい、歌が入るタイミングを逃してしまったことにアナイスは気づいた。
エヴァンはゆっくり和音を引き伸ばすと、間奏をもう一度繰り返し、それから休符で一瞬アナイスを見た。アナイスは心得て歌い出し、なんとか最後までたどり着いた。エヴァンは後奏を一小節だけで短く打ち切って、椅子から立ち上がった。
拍手が起こった。エヴァンはアナイスの背をそっと前に押し出した。アナイスは頭を下げてお辞儀をした。最前列でジュリーもセドリックも拍手をしているのが見えた。会場内の拍手が大きくなった。エヴァンも拍手をしながら後ろ足で下がって、静かにその場を離れた。
「すまなかった。ありがとう」
当初この曲を伴奏するはずだったピアニストが、出て行くエヴァンの言葉を聞いた。そのピアニストは手が痛くなるくらい熱心に拍手をしていた。
音楽会は中休みに入った。席を立った人々がめいめいに話を始め、会場には人の出入りがあり、喧騒が戻った。
「素晴らしい演奏でしたわね」
ジュリーはセドリックに言った。ジュリーの視線の先にはアナイスがいた。いつの間にかエヴァンの姿は消えていた。
アナイスは人の輪に取り囲まれ、次々と称賛を浴びせられていた。なかなかジュリーたちが近づけそうになかった。
ジュリーはアナイスをうっとりと見つめた。
「アナイスは歌が上手……それにいつも私を助けてくれるんです」
「そうですね」
「エヴァンもピアノを上手にお弾きになるのね。知らなかったわ」
「……」
セドリックは返答に困った。演奏はしないと言っていた友人が、どういうつもりで突然伴奏をすることになったのか、分からなった。ただ、ジュリーは素直に感想を述べたまでで、事を追及する気はないようだった。
「ああ、そう、セドリック」
不意にジュリーは言った。
「あなたもお礼を……友人になりたいと言っていただけて、私、本当にうれしかったのです。ありがとうございます」
ジュリーの目はまっすぐにセドリックを見つめていた。曇りのない感謝の気持ちが込められていたが、それ以上ではなかった。セドリックは衝動的にジュリーの腕を引いた。
「ジュリー、あなたに話したいことがあるのですが」
「まあ、なにかしら」
「ここは少し人が多すぎます。あちらで」
いつもは賑やかな遊戯室が、この時ばかりは人の気配がなかった。セドリックはジュリーを連れて部屋に入ると後ろで扉を閉めた。
「私はあなたを愛しています」
いきなりだった。ジュリーの目が丸く大きく見開かれた。セドリックは跪いてジュリーの手を取った。
「私と結婚してくださいませんか」
「セドリック……」
ジュリーは彼の言葉にすぐに反応した。しゃがみこむとセドリックの手を両手で包んだ。ドレスのすそが床でふわりと広がった。
「あなたがそう言って下さることを大変にうれしく思います。でも……」
ジュリーはその次の言葉をなかなか言い出さなかった。セドリックは少しがっかりして言った。
「私は希望を持ってもいいのですか?」
「もちろんですとも。少しだけお待ちくださいますか」
ジュリーは目を伏せた。頬が赤かった。
「先にアナイスに話したいことがあるのです。それまでお待ちくださいますか」
セドリックは大いに落胆した。そしていつもいつも、彼が愛しい人と話すたび、影のように付きまとって二人の間に割り込み、邪魔をするアナイスのことを恨んだ。
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