上 下
34 / 42
5 音楽夜会

5-3 求愛

しおりを挟む
 エヴァンはセドリックと共に音楽夜会に来ていた。しかし、まっすぐに会場に行く気になれず、周辺で何となく時間つぶしをしているところだった。
 音楽会の会場となっている大広間から大歓声と悲鳴が聞こえている時、エヴァンは扉口付近に立ったままでメルシエとルイーズの演奏の終りまでを聴いていた。

 歓声はなかなかやまなかった。ピアノに向かっては、モーラン先生の連れてきた伴奏者が次の曲を譜面台に用意していた。次は『夏の日を讃える歌』であるのが分かった。この歌はジュリーが歌う予定だと、エヴァンは覚えていた。
 ジュリーは観客席の最前列にいた。が、前かがみになって胸をおさえ、心配そうにアナイスとセドリックが付き添っている。あれではとても歌えないだろう、と思った。

 メルシエがグラモン侯爵と連れ立って、エヴァンがいるのとは別の扉口から会場を出て行った。ラグランジュ伯爵夫人に答えて、アナイスの口がはっきりと『歌います』と言ったのが見えた。伯爵夫人は身振りも大げさに、ジュリーは控えめに、アナイスに感謝の意を表している。ジュリーに代わって、アナイスが歌うつもりなのだ。

 エヴァンは足早にピアノに近寄った。
「代わってもらえないだろうか」
エヴァンは言った。伴奏者はぎょっとしてエヴァンを仰ぎ見た。
「歌手が変わったので、ほら。伴奏者も変わって、不思議ないでしょう?」
 静かな剣幕に押されて、伴奏者は場所を譲った。
 そのときモーラン先生はよそ見をしていてエヴァンに気づかなかった。エヴァンの友人たちの他には、伴奏者が変わったことに誰も注意を払わなかった。


 アナイスの用意ができたのを見て、エヴァンは電撃的な速さで前奏を始めた。短く跳ねるような弾き方と強打する同音和音を取り入れて、技巧に惹きつけられた聴取がすっかり静かになった。やがてピアノは穏やかで美しい音を取り戻し、元の楽譜通りの弾き方に戻った。
 これなら伴奏の音がよく聞こえるし、歌う声もエヴァンによく聞こえるだろう。それはいいのだけれど、少し、やり過ぎだわ、とアナイスは思った。でも彼の伴奏で歌うのは幸せなことに違いなかった。エヴァンが少し演奏を緩めてアナイスの方を見たので、促されてアナイスは歌い出した。
 歌いながら不安になるとエヴァンと目が合った。彼は終始アナイスを励ました。本来の伴奏にはなかったはずの主旋律の響きがところどころに入って、歌を助けた。エヴァンの方でも自然と自分が微笑んでいるのが分かった。つられてアナイスも笑顔になった。

 途中に美しい間奏があった。連続する和音に先導されて強い旋律があり、徐徐に弱音になって歌が再開するところで、エヴァンが大きく目を見開いて驚いたような表情をしているのが分かった。思わずピアノに聞き入ってしまい、歌が入るタイミングを逃してしまったことにアナイスは気づいた。
 エヴァンはゆっくり和音を引き伸ばすと、間奏をもう一度繰り返し、それから休符で一瞬アナイスを見た。アナイスは心得て歌い出し、なんとか最後までたどり着いた。エヴァンは後奏を一小節だけで短く打ち切って、椅子から立ち上がった。

 拍手が起こった。エヴァンはアナイスの背をそっと前に押し出した。アナイスは頭を下げてお辞儀をした。最前列でジュリーもセドリックも拍手をしているのが見えた。会場内の拍手が大きくなった。エヴァンも拍手をしながら後ろ足で下がって、静かにその場を離れた。
「すまなかった。ありがとう」
 当初この曲を伴奏するはずだったピアニストが、出て行くエヴァンの言葉を聞いた。そのピアニストは手が痛くなるくらい熱心に拍手をしていた。

 音楽会は中休みに入った。席を立った人々がめいめいに話を始め、会場には人の出入りがあり、喧騒が戻った。


「素晴らしい演奏でしたわね」
 ジュリーはセドリックに言った。ジュリーの視線の先にはアナイスがいた。いつの間にかエヴァンの姿は消えていた。
 アナイスは人の輪に取り囲まれ、次々と称賛を浴びせられていた。なかなかジュリーたちが近づけそうになかった。
 ジュリーはアナイスをうっとりと見つめた。
「アナイスは歌が上手……それにいつも私を助けてくれるんです」
「そうですね」
「エヴァンもピアノを上手にお弾きになるのね。知らなかったわ」
「……」
 セドリックは返答に困った。演奏はしないと言っていた友人が、どういうつもりで突然伴奏をすることになったのか、分からなった。ただ、ジュリーは素直に感想を述べたまでで、事を追及する気はないようだった。

「ああ、そう、セドリック」
 不意にジュリーは言った。
「あなたもお礼を……友人になりたいと言っていただけて、私、本当にうれしかったのです。ありがとうございます」
 ジュリーの目はまっすぐにセドリックを見つめていた。曇りのない感謝の気持ちが込められていたが、それ以上ではなかった。セドリックは衝動的にジュリーの腕を引いた。
「ジュリー、あなたに話したいことがあるのですが」
「まあ、なにかしら」
「ここは少し人が多すぎます。あちらで」

 いつもは賑やかな遊戯室が、この時ばかりは人の気配がなかった。セドリックはジュリーを連れて部屋に入ると後ろで扉を閉めた。
「私はあなたを愛しています」
 いきなりだった。ジュリーの目が丸く大きく見開かれた。セドリックは跪いてジュリーの手を取った。
「私と結婚してくださいませんか」
「セドリック……」
 ジュリーは彼の言葉にすぐに反応した。しゃがみこむとセドリックの手を両手で包んだ。ドレスのすそが床でふわりと広がった。
「あなたがそう言って下さることを大変にうれしく思います。でも……」
 ジュリーはその次の言葉をなかなか言い出さなかった。セドリックは少しがっかりして言った。
「私は希望を持ってもいいのですか?」
「もちろんですとも。少しだけお待ちくださいますか」
 ジュリーは目を伏せた。頬が赤かった。
「先にアナイスに話したいことがあるのです。それまでお待ちくださいますか」
 セドリックは大いに落胆した。そしていつもいつも、彼が愛しい人と話すたび、影のように付きまとって二人の間に割り込み、邪魔をするアナイスのことを恨んだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

王子殿下の慕う人

夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。 しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──? 「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」 好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。 ※小説家になろうでも投稿してます

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

王子は婚約破棄を泣いて詫びる

tartan321
恋愛
最愛の妹を失った王子は婚約者のキャシーに復讐を企てた。非力な王子ではあったが、仲間の協力を取り付けて、キャシーを王宮から追い出すことに成功する。 目的を達成し安堵した王子の前に突然死んだ妹の霊が現れた。 「お兄さま。キャシー様を3日以内に連れ戻して!」 存亡をかけた戦いの前に王子はただただ無力だった。  王子は妹の言葉を信じ、遥か遠くの村にいるキャシーを訪ねることにした……。

あなたの妻はもう辞めます

hana
恋愛
感情希薄な公爵令嬢レイは、同じ公爵家であるアーサーと結婚をした。しかしアーサーは男爵令嬢ロザーナを家に連れ込み、堂々と不倫をする。

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

拝啓、許婚様。私は貴方のことが大嫌いでした

結城芙由奈 
恋愛
【ある日僕の元に許婚から恋文ではなく、婚約破棄の手紙が届けられた】 僕には子供の頃から決められている許婚がいた。けれどお互い特に相手のことが好きと言うわけでもなく、月に2度の『デート』と言う名目の顔合わせをするだけの間柄だった。そんなある日僕の元に許婚から手紙が届いた。そこに記されていた内容は婚約破棄を告げる内容だった。あまりにも理不尽な内容に不服を抱いた僕は、逆に彼女を遣り込める計画を立てて許婚の元へ向かった――。 ※他サイトでも投稿中

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

処理中です...