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狩猟の祭典(5)
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デュロワ伯爵夫人の言っていた通り会議そのものはほとんど顔合わせだけの、短時間で終わった。
「じゃあね、シルヴァリエ。狩猟祭でのあなたを楽しみにしているわ」
女王がそう言いながら差し出してきた右手の甲に礼を尽くしたキスをしながら、シルヴァリエは内心首をひねる。
女王と宰相、それにゴルディアス・アンドリアーノをはじめとした大貴族たちが退席したのち、シルヴァリエが少し息巻いてデュロワ伯爵夫人に尋ねた。
「ジュスティーヌ……いえ、デュロワ伯爵夫人。僕は今日だけの付き添いでは?」
デュロワ伯爵夫人は艶やかな微笑みとともに答えた。
「わたくしはそのつもりだったけれど、陛下にああ言われては仕方ないのじゃない?」
「仕方ないって……僕は狩猟祭には出ませんよ」
「なぜ?」
「……なぜときかれても」
シルヴァリエは言葉につまった。モーランも言っていた通り、かつてシルヴァリエにとって狩猟祭は数ある宮廷行事のなかでももっとも楽しみにしている催しのひとつだった。馬に乗るのも弓を扱うのも好きで、貴族の継嗣としての役割を半ばはずれてまでも、広い野や森のなかで獲物を追いかけるのに専心したものだ。いつの間にか興味をなくしたのは、宮廷で浮名を流すようになった時期と前後している。
「ここ数年、公式非公式の狩猟の誘いをすべて断っているでしょう? 公式行事は悪性の風邪をひいただのと言い訳しているけれど、大公爵家の跡取りとして、そろそろ逃げられないわよ」
狩猟をやらなくなった真の理由を人から尋ねられると、シルヴァリエはこう答えていた。宮廷で香水薫る大物の入れ食いを楽しむのを覚えたら、土くさい小動物を追いかけまわすのが馬鹿らしくなったから、と。
それは女王陛下からの婉曲的な参加命令を固辞するほどの理由にはならないことはわかっている。
それでもシルヴァリエは狩猟祭の参加にどうしてもためらいがあった。
理由はわからない。
「一応言っておくけど、狩猟祭に招いている国賓のなかには、あなた個人のファンも多いのよ。アンドリアーノの名前がなくてもね。真昼の太陽の髪に若草の瞳をした”狩猟の神の愛し子”ルー。あの頃は、騎士団からもルー専任で警護を担当する」
「やめてくださいよ」
シルヴァリエは本気で顔をしかめた。
「まあシルヴァリエ、わたくしったらまたあなたを怒らせてしまったのかしら?」
「……怒ったりするものですか。ただ、もう昔の話だというだけです」
「そう。あなたがそう言うのなら、そうなのでしょうね」
そういえばカルナスもここ何回かの狩猟祭に出ていない、という話をふと思い出し、シルヴァリエはカルナスの方を見た。すでに実務担当の代表者はその半分ほどが退席していたが、カルナスはまだ椅子に座っていて――シルヴァリエの目の前で、椅子の背沿いに滑り落ちるようにして倒れた。
「か、カルナス団長?!」
素っ頓狂な声をあげたのは、カルナスの背後に控えていたモランビーズだ。その声に吸い込まれるように、シルヴァリエは気がつけば長卓に片手をついて、飛び越えていた。
「え、あ、あ、副団長?」
卓を挟んだ向かい側にいたはずのシルヴァリエがいきなり近くに降り立ったものだから、モランビーズはまたも驚いた声をあげた。
「カルナス団長……!」
シルヴァリエがカルナスを抱き起こすと、顔から血の気が完全に引いている。
淫紋の発作ではなさそうだ、と安堵するいっぽうで、まるで死人のようなその顔色に、シルヴァリエは祈るような気持ちでカルナスの口元に手をあてた。
弱々しいが、呼吸をしていることが指先に伝わってくる。シルヴァリエは自分の肩から力が抜けていくのがわかった。
「大丈夫そう? 貧血かしら。あまり動かさないほうがいいわ」
長卓を回り込んでやってきたデュロワ伯爵夫人が、シルヴァリエの後ろから覗き込みながら言った。
「そうですね……」
「誰か、レモン水に砂糖を入れて持ってきてちょうだい……それにしてもこのテーブル、大きいと思ってたけど飛び越えられるものなのねえ」
「そうですね」
「……そんなに心配?」
「当たり前です」
「あら、まあ、そうね」
何か言いたげなデュロワ伯爵夫人には気づかず、シルヴァリエはカルナスのわずかな異変も見逃すまいとその顔を凝視する。
カルナスの口元に何かを訴えるようにわずかに動いた。
先ほどのデュロワ伯爵夫人との会話のせいか、シルヴァリエにはカルナスが「ルー」と言ってるように見えた。
もちろん、そんなはずはない。シルヴァリエは周囲にはバレないよう、カルナスの冷たい唇に指の背をそっと押し当てた。
「じゃあね、シルヴァリエ。狩猟祭でのあなたを楽しみにしているわ」
女王がそう言いながら差し出してきた右手の甲に礼を尽くしたキスをしながら、シルヴァリエは内心首をひねる。
女王と宰相、それにゴルディアス・アンドリアーノをはじめとした大貴族たちが退席したのち、シルヴァリエが少し息巻いてデュロワ伯爵夫人に尋ねた。
「ジュスティーヌ……いえ、デュロワ伯爵夫人。僕は今日だけの付き添いでは?」
デュロワ伯爵夫人は艶やかな微笑みとともに答えた。
「わたくしはそのつもりだったけれど、陛下にああ言われては仕方ないのじゃない?」
「仕方ないって……僕は狩猟祭には出ませんよ」
「なぜ?」
「……なぜときかれても」
シルヴァリエは言葉につまった。モーランも言っていた通り、かつてシルヴァリエにとって狩猟祭は数ある宮廷行事のなかでももっとも楽しみにしている催しのひとつだった。馬に乗るのも弓を扱うのも好きで、貴族の継嗣としての役割を半ばはずれてまでも、広い野や森のなかで獲物を追いかけるのに専心したものだ。いつの間にか興味をなくしたのは、宮廷で浮名を流すようになった時期と前後している。
「ここ数年、公式非公式の狩猟の誘いをすべて断っているでしょう? 公式行事は悪性の風邪をひいただのと言い訳しているけれど、大公爵家の跡取りとして、そろそろ逃げられないわよ」
狩猟をやらなくなった真の理由を人から尋ねられると、シルヴァリエはこう答えていた。宮廷で香水薫る大物の入れ食いを楽しむのを覚えたら、土くさい小動物を追いかけまわすのが馬鹿らしくなったから、と。
それは女王陛下からの婉曲的な参加命令を固辞するほどの理由にはならないことはわかっている。
それでもシルヴァリエは狩猟祭の参加にどうしてもためらいがあった。
理由はわからない。
「一応言っておくけど、狩猟祭に招いている国賓のなかには、あなた個人のファンも多いのよ。アンドリアーノの名前がなくてもね。真昼の太陽の髪に若草の瞳をした”狩猟の神の愛し子”ルー。あの頃は、騎士団からもルー専任で警護を担当する」
「やめてくださいよ」
シルヴァリエは本気で顔をしかめた。
「まあシルヴァリエ、わたくしったらまたあなたを怒らせてしまったのかしら?」
「……怒ったりするものですか。ただ、もう昔の話だというだけです」
「そう。あなたがそう言うのなら、そうなのでしょうね」
そういえばカルナスもここ何回かの狩猟祭に出ていない、という話をふと思い出し、シルヴァリエはカルナスの方を見た。すでに実務担当の代表者はその半分ほどが退席していたが、カルナスはまだ椅子に座っていて――シルヴァリエの目の前で、椅子の背沿いに滑り落ちるようにして倒れた。
「か、カルナス団長?!」
素っ頓狂な声をあげたのは、カルナスの背後に控えていたモランビーズだ。その声に吸い込まれるように、シルヴァリエは気がつけば長卓に片手をついて、飛び越えていた。
「え、あ、あ、副団長?」
卓を挟んだ向かい側にいたはずのシルヴァリエがいきなり近くに降り立ったものだから、モランビーズはまたも驚いた声をあげた。
「カルナス団長……!」
シルヴァリエがカルナスを抱き起こすと、顔から血の気が完全に引いている。
淫紋の発作ではなさそうだ、と安堵するいっぽうで、まるで死人のようなその顔色に、シルヴァリエは祈るような気持ちでカルナスの口元に手をあてた。
弱々しいが、呼吸をしていることが指先に伝わってくる。シルヴァリエは自分の肩から力が抜けていくのがわかった。
「大丈夫そう? 貧血かしら。あまり動かさないほうがいいわ」
長卓を回り込んでやってきたデュロワ伯爵夫人が、シルヴァリエの後ろから覗き込みながら言った。
「そうですね……」
「誰か、レモン水に砂糖を入れて持ってきてちょうだい……それにしてもこのテーブル、大きいと思ってたけど飛び越えられるものなのねえ」
「そうですね」
「……そんなに心配?」
「当たり前です」
「あら、まあ、そうね」
何か言いたげなデュロワ伯爵夫人には気づかず、シルヴァリエはカルナスのわずかな異変も見逃すまいとその顔を凝視する。
カルナスの口元に何かを訴えるようにわずかに動いた。
先ほどのデュロワ伯爵夫人との会話のせいか、シルヴァリエにはカルナスが「ルー」と言ってるように見えた。
もちろん、そんなはずはない。シルヴァリエは周囲にはバレないよう、カルナスの冷たい唇に指の背をそっと押し当てた。
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