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11. 月明かりの夜
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お茶をしながらクライスから装置の今後の見通しや、エドアルドから周囲の報告を聞いているとだんだんと日も落ちてきたので、夕食の支度をし、早めに就寝の準備をすることにした。色々とありすぎた一日だったし、就寝準備も慣れるまでは時間がかかるだろう。
まずお風呂が大変だった。順番はさすがに従者2人が先に入ることは躊躇われたようで、サリタニアが最初に入ることになった。ここからが大変で、私はついでに掃除と装置を止めるのに最後を希望していたのだが、サリタニアが一緒に入ろうとせがんできた。
「む、無理です!子供の時以来人となんて入った事ないのでこればかりは無理です!」
「姫様、カティアさんが姫様の御肌を見るのが恐れ多いというわけではなく、カティアさんが見られるのが嫌だそうです。流石にカティアさんの嫌がる事はやめましょう?」
侍女達に肌を見られることに慣れているサリタニアは抵抗はないだろうが、私には無理だ。恥ずかしすぎる。まだ一人でお風呂に入れなかった幼少期に祖母と入った事があるだけなのだ。
「…そういう理由なら仕方ありませんね…諦めます」
ものすごくしょんぼりしていて若干の罪悪感があるがこればかりは譲れない。
「まさか平民の女性の方がガードが堅いとはな」
「エドアルド、今すぐその下品な口を塞げ」
男性陣が何か言っているが聞こえないフリをする。結局、サリタニアの後に私が、それに続いてエドアルド、クライスの順に入ることになった。男性陣からはそこはレディファーストを譲れないとの事だった。クライスなら装置の扱いも問題ないだろうし、しばらくは1日のお風呂じまいは彼に任せる事になった。
お風呂を終え、それぞれに寝る支度を整え、男性陣に挨拶をしてサリタニアの部屋へと向かう。
「不便はありませんか」
「とても居心地が良いです」
ベッドに腰掛けたサリタニアに尋ねると、満足気な顔でそう返された。城のベッドに比べたらクッションは硬いだろうし、掛布団もザラリとしているだろうに。
「窓から月明かりが入ってきて綺麗ですね」
「カーテンは閉めなくても大丈夫ですか?」
「今日はこのまま寝たい気分です」
セキュリティ的に大丈夫だろうかと思ったが、この光が落ち着いて眠れる理由になることもあるのでそれ以上は言わなかった。隣にエドアルドも居るから問題ないだろう。私は頷くだけしてベッドに入ったサリタニアに布団をかけてあげる。
「カティア、今日は本当にありがとう」
「私こそ。こうしておやすみなさいを言える夜を迎えられて嬉しいです」
お客様に対しての挨拶ならいつもしていたが、こうしてベッドサイドで言うおやすみなさいはいつ以来だろうか。目を細めながらサリタニアを見ると、もうすぐにでも眠りに落ちそうな目をしていた。
「おやすみなさい、ターニャ。よい夢を」
「おやすみなさい、カティア」
一瞬躊躇ったが、どうしても衝動を抑えられずサリタニアの頭をそっと撫でると気持ちよさそうに寝息をたて始めた。今日は本当に長い一日だった。サリタニアも相当疲れていたのだろう。起こさないようにそっと扉を開けると、部屋の外にクライスが立っていた。
「何かありましたか?」
「いえ、護衛当番で先にエドアルドも寝てしまいましたので、ただ起きているだけもつまらないと思いまして。一杯お付き合いいただけませんか?」
クライスの手には高そうなワイン瓶が握られていた。護衛は良いのだろうか。
「あ、先程宿周辺は見回ってきましたし、他にこの宿に人もいませんから、姫様の護衛は問題ありませんよ。ちなみに私、ザルですからこれくらいでは仕事に差し支えありません」
私の心配など不要な程用意周到だった。
「お疲れのようでしたらご無理はなさらず…と、その前に飲めますか?」
気を遣ってるんだか遣ってないんだか、クライスは相変わらずその部分は掴めない。だが彼からの誘いは不思議と断わる気にならないのだ。
「嗜む程度でしたら。あとは寝るだけですし、一杯くらいなら大丈夫です」
「良かった」
にこりと、少年のような笑顔をされると少し弱いなと思う。二人で音を立てないように階下へと降り、私はワイングラスとチーズをキッチンから持っていく。
「これは豪勢だ」
「余り物ですよ」
クライスがワインを開けて注いでくれる。グラスに注がれた透明な液体を月明かりが通り、テーブルにゆらゆらと青白い影を落とした。今日はお客様がいないので、1階の明かりは最低限にしている。
「それでは、カティアさんとの出会いに」
「皆さんとの出会いに」
カチン、とグラスを軽く合わせて乾杯をした。一口目を口につけると、芳醇な香りがふわりと広がり、程よい酸味を舌で楽しみこくりと飲み込むと喉に心地よい熱を感じた。
「美味しいです」
「気に入っていただけて良かったです。私のとっておきを持ってきたので」
「え、そんな大切なものを今開けてしまって良かったのですか?」
ワインのとっておきなんて、ものすごいお祝いとか、人生の一大イベントなどで開けるものではないのだろうか。
「今日開けたいと思ったのですよ。ほら、姫様が王族として一歩を踏み出した日でもありますし」
なるほど、確かに自分の主の人生の一大イベントではあるのだろう。でも、飲めないとしても本人がいないところで良いのだろうか。
「カティアさんとの出会いだって、このワインを開ける理由になりますよ」
「いつかそう思っていただけたら光栄ですが…」
「そこはがんばってください」
「がんばらないといけないんですね」
がくりとしてそう返すとクライスは楽しそうに目を細めてこちらを見てきた。
「冗談ですよ。今この時点でこのワインを開ける理由になっていますからご心配なく」
クライスはグラスを月明かりに掲げてそのまま2口目を口にした。絵になるなぁなんて思いながら、私もワイングラスに口をつける。
「本当に、感謝しているんですよ。我々はだいぶ無茶を言いましたから」
「…最初は、正直みなさんの圧が辛かったです。でも、ターニャと話して、彼女の目を見て、想いを知って、今はこうしていられるのが素直に嬉しいです」
「そう言っていただけるとこちらも嬉しいです」
お互いに微笑んで今度はチーズをひとかけら口に運ぶ。まろやかな塩味がワインの後味ととても良く合った。チーズとワインを口に運びながら、明日は誰が一番に起きてくるかなどととりとめのない会話していると、そういえば、と思い出した。
「…ひとつ、伺っても良いですか?」
「何でしょう」
「なぜ、この宿だったのでしょう」
これは一日気になっていた事だった。なぜこの王都からも離れた、小娘一人がやっている、雨季には人も来ない小さな宿に姫を来させたのか。平民の声を聞くという理由ならここではなくても他に選択肢は山のようにあるだろう。そもそも、どのような経由でこの宿屋を知ったのだろうか。
「理由はわかりかねるのですが、国王陛下が指定したんですよ」
「え…」
とんでもない答えが返ってきた。国王陛下はなぜこの宿屋を知っているのだろう。
「西側の事情はなかなか王都には届きません。この辺りは領館もないですからね。だから馴染みの商人などに話を聞いたのかもしれません」
この辺りは昔から領主の土地ではなく、王族が所持している土地になる。なぜそうなっているかは知らないが、この森林地帯を管理している王族のいる城と距離があるため、この辺りの村々によって自治区域化している。村同士の情報でさえ商人達によって伝達してもらっているのだから、王様が情報を得るのも商人に頼るしかなかったのだろうか。
「そうですか…」
「おや、あまり驚かれませんね」
「今朝でこの先10年分くらいは驚きましたから」
この2階で姫がすやすやと寝ているのだ、今更王様が出てきてもそこまで驚きはない。
「カティアさんの、一度飲み込めばどこまでも懐が深いところ、好きですよ」
「お褒めにあずかり光栄です」
何故だろうか、褒められている気がしなかったので綺麗に作り笑いをして答えるとクライスは楽しそうに笑う。
「嫌だなぁ、心からの称賛ですってば」
くつくつと口の端から笑い声を漏らしながらなので説得力は皆無だ。だがこの何気ないやりとりがなんだか今はとても心地が良い。クライスの笑う姿を見ていたら、私もなんだかおかしくなって笑ってしまう。お酒を飲むのも久しぶりなので、まわりも早いのだろうか、最低限のランプと月明かりの静かな夜に、ふわふわと溶けてしまいそうだ。
「ふふ、誰かといる夜は楽しいですね」
いつもならきっと言うのを躊躇う言葉が簡単に口をついて出ていってしまうが、それすら心地よい。
「そうですね、私もこんなに楽しい夜は久しぶりです…と、カティアさん、ずいぶんお顔が赤いようですよ」
そう指摘しながら、私のグラスを回収していく。もう少し飲みたいのに、と恨みがましい目をクライスに向ける。
「嗜む程度とは仰いましたが、もしかしてあまりお強くないのでは?」
「そんなことありません、久しぶりなだけです」
「もっともそうな理由のように言ってますが、久しぶりなら尚更もう止めておきましょう」
「じゃあグラスに残ってる分だけ…」
「ダメですよ」
まだグラス一杯分も飲みきってないのに回収されるなんてひどい。誘ったのはクライスではないか。
「いつか飲めなくなってしまうじゃないですか…だったら今飲みたいです」
「何を言ってるんですか、お気に召したなら明日も飲んで良いですから」
(そうじゃないんだけどなぁ…)
「ほら、もう寝ましょう。カティアさんのお部屋はどこですか?」
グラスに後ろ髪を引かれまくっているがクライスが腕を掴んで立たせようとするので仕方なく従う。
「おっ…と」
おかしいな、床がいつもより柔らかい気がする。
「カティアさん、立派な酔っぱらいですよ。ほら、部屋はどこですか」
「失礼ですね、ちょっとふらついただけです。いつもは一人なんです、これくらいどってことありません。自分で帰れますよ」
酔っぱらいのお客様と一緒にしないでほしい。少しお酒がまわってしまっただけで介抱が必要なほど酔ってはいないもん。それを証明する為に私は自室へと向かう。受付テーブルの奥の扉の先に私の部屋がある。
「ここが自室ですか…?入口から扉が丸見えじゃないですか、女性の部屋にしてはいささか不用心ですね。鍵はかかるのですか?」
「かかりますよ、まかせてください!」
ガチャリと鍵をかけてみせる。この宿に不可能なんてないのだ。
「………カティアさん、私が部屋を出たら鍵をかけてくださいね」
何故かクライスは居心地が悪そうに顔を逸らした。失礼な。
「では私ももう2階に戻りますから、ちゃんと鍵をかけて、布団に入ってくださいね」
「何度も言わなくても大丈夫ですよぉ」
先程閉めたばかりの鍵を開けてクライスが部屋を出ていく。扉の先に消えていく背中を見ていたら、なんだか寂しさが込み上げてきた。
「…クライスさんっ」
「なんです?」
「えっと…おやすみなさい」
何故呼び止めてしまったのかわからず、当たり障りのない挨拶で誤魔化した。どうかばれませんように。
「おやすみなさい、カティアさん。また明日」
また明日、その言葉がじんわりと私の頭と心を包んだ。今度こそパタリと扉が締まり、私は言われた通りきちんと鍵を閉める。その後はぷつりと記憶が途切れた。
まずお風呂が大変だった。順番はさすがに従者2人が先に入ることは躊躇われたようで、サリタニアが最初に入ることになった。ここからが大変で、私はついでに掃除と装置を止めるのに最後を希望していたのだが、サリタニアが一緒に入ろうとせがんできた。
「む、無理です!子供の時以来人となんて入った事ないのでこればかりは無理です!」
「姫様、カティアさんが姫様の御肌を見るのが恐れ多いというわけではなく、カティアさんが見られるのが嫌だそうです。流石にカティアさんの嫌がる事はやめましょう?」
侍女達に肌を見られることに慣れているサリタニアは抵抗はないだろうが、私には無理だ。恥ずかしすぎる。まだ一人でお風呂に入れなかった幼少期に祖母と入った事があるだけなのだ。
「…そういう理由なら仕方ありませんね…諦めます」
ものすごくしょんぼりしていて若干の罪悪感があるがこればかりは譲れない。
「まさか平民の女性の方がガードが堅いとはな」
「エドアルド、今すぐその下品な口を塞げ」
男性陣が何か言っているが聞こえないフリをする。結局、サリタニアの後に私が、それに続いてエドアルド、クライスの順に入ることになった。男性陣からはそこはレディファーストを譲れないとの事だった。クライスなら装置の扱いも問題ないだろうし、しばらくは1日のお風呂じまいは彼に任せる事になった。
お風呂を終え、それぞれに寝る支度を整え、男性陣に挨拶をしてサリタニアの部屋へと向かう。
「不便はありませんか」
「とても居心地が良いです」
ベッドに腰掛けたサリタニアに尋ねると、満足気な顔でそう返された。城のベッドに比べたらクッションは硬いだろうし、掛布団もザラリとしているだろうに。
「窓から月明かりが入ってきて綺麗ですね」
「カーテンは閉めなくても大丈夫ですか?」
「今日はこのまま寝たい気分です」
セキュリティ的に大丈夫だろうかと思ったが、この光が落ち着いて眠れる理由になることもあるのでそれ以上は言わなかった。隣にエドアルドも居るから問題ないだろう。私は頷くだけしてベッドに入ったサリタニアに布団をかけてあげる。
「カティア、今日は本当にありがとう」
「私こそ。こうしておやすみなさいを言える夜を迎えられて嬉しいです」
お客様に対しての挨拶ならいつもしていたが、こうしてベッドサイドで言うおやすみなさいはいつ以来だろうか。目を細めながらサリタニアを見ると、もうすぐにでも眠りに落ちそうな目をしていた。
「おやすみなさい、ターニャ。よい夢を」
「おやすみなさい、カティア」
一瞬躊躇ったが、どうしても衝動を抑えられずサリタニアの頭をそっと撫でると気持ちよさそうに寝息をたて始めた。今日は本当に長い一日だった。サリタニアも相当疲れていたのだろう。起こさないようにそっと扉を開けると、部屋の外にクライスが立っていた。
「何かありましたか?」
「いえ、護衛当番で先にエドアルドも寝てしまいましたので、ただ起きているだけもつまらないと思いまして。一杯お付き合いいただけませんか?」
クライスの手には高そうなワイン瓶が握られていた。護衛は良いのだろうか。
「あ、先程宿周辺は見回ってきましたし、他にこの宿に人もいませんから、姫様の護衛は問題ありませんよ。ちなみに私、ザルですからこれくらいでは仕事に差し支えありません」
私の心配など不要な程用意周到だった。
「お疲れのようでしたらご無理はなさらず…と、その前に飲めますか?」
気を遣ってるんだか遣ってないんだか、クライスは相変わらずその部分は掴めない。だが彼からの誘いは不思議と断わる気にならないのだ。
「嗜む程度でしたら。あとは寝るだけですし、一杯くらいなら大丈夫です」
「良かった」
にこりと、少年のような笑顔をされると少し弱いなと思う。二人で音を立てないように階下へと降り、私はワイングラスとチーズをキッチンから持っていく。
「これは豪勢だ」
「余り物ですよ」
クライスがワインを開けて注いでくれる。グラスに注がれた透明な液体を月明かりが通り、テーブルにゆらゆらと青白い影を落とした。今日はお客様がいないので、1階の明かりは最低限にしている。
「それでは、カティアさんとの出会いに」
「皆さんとの出会いに」
カチン、とグラスを軽く合わせて乾杯をした。一口目を口につけると、芳醇な香りがふわりと広がり、程よい酸味を舌で楽しみこくりと飲み込むと喉に心地よい熱を感じた。
「美味しいです」
「気に入っていただけて良かったです。私のとっておきを持ってきたので」
「え、そんな大切なものを今開けてしまって良かったのですか?」
ワインのとっておきなんて、ものすごいお祝いとか、人生の一大イベントなどで開けるものではないのだろうか。
「今日開けたいと思ったのですよ。ほら、姫様が王族として一歩を踏み出した日でもありますし」
なるほど、確かに自分の主の人生の一大イベントではあるのだろう。でも、飲めないとしても本人がいないところで良いのだろうか。
「カティアさんとの出会いだって、このワインを開ける理由になりますよ」
「いつかそう思っていただけたら光栄ですが…」
「そこはがんばってください」
「がんばらないといけないんですね」
がくりとしてそう返すとクライスは楽しそうに目を細めてこちらを見てきた。
「冗談ですよ。今この時点でこのワインを開ける理由になっていますからご心配なく」
クライスはグラスを月明かりに掲げてそのまま2口目を口にした。絵になるなぁなんて思いながら、私もワイングラスに口をつける。
「本当に、感謝しているんですよ。我々はだいぶ無茶を言いましたから」
「…最初は、正直みなさんの圧が辛かったです。でも、ターニャと話して、彼女の目を見て、想いを知って、今はこうしていられるのが素直に嬉しいです」
「そう言っていただけるとこちらも嬉しいです」
お互いに微笑んで今度はチーズをひとかけら口に運ぶ。まろやかな塩味がワインの後味ととても良く合った。チーズとワインを口に運びながら、明日は誰が一番に起きてくるかなどととりとめのない会話していると、そういえば、と思い出した。
「…ひとつ、伺っても良いですか?」
「何でしょう」
「なぜ、この宿だったのでしょう」
これは一日気になっていた事だった。なぜこの王都からも離れた、小娘一人がやっている、雨季には人も来ない小さな宿に姫を来させたのか。平民の声を聞くという理由ならここではなくても他に選択肢は山のようにあるだろう。そもそも、どのような経由でこの宿屋を知ったのだろうか。
「理由はわかりかねるのですが、国王陛下が指定したんですよ」
「え…」
とんでもない答えが返ってきた。国王陛下はなぜこの宿屋を知っているのだろう。
「西側の事情はなかなか王都には届きません。この辺りは領館もないですからね。だから馴染みの商人などに話を聞いたのかもしれません」
この辺りは昔から領主の土地ではなく、王族が所持している土地になる。なぜそうなっているかは知らないが、この森林地帯を管理している王族のいる城と距離があるため、この辺りの村々によって自治区域化している。村同士の情報でさえ商人達によって伝達してもらっているのだから、王様が情報を得るのも商人に頼るしかなかったのだろうか。
「そうですか…」
「おや、あまり驚かれませんね」
「今朝でこの先10年分くらいは驚きましたから」
この2階で姫がすやすやと寝ているのだ、今更王様が出てきてもそこまで驚きはない。
「カティアさんの、一度飲み込めばどこまでも懐が深いところ、好きですよ」
「お褒めにあずかり光栄です」
何故だろうか、褒められている気がしなかったので綺麗に作り笑いをして答えるとクライスは楽しそうに笑う。
「嫌だなぁ、心からの称賛ですってば」
くつくつと口の端から笑い声を漏らしながらなので説得力は皆無だ。だがこの何気ないやりとりがなんだか今はとても心地が良い。クライスの笑う姿を見ていたら、私もなんだかおかしくなって笑ってしまう。お酒を飲むのも久しぶりなので、まわりも早いのだろうか、最低限のランプと月明かりの静かな夜に、ふわふわと溶けてしまいそうだ。
「ふふ、誰かといる夜は楽しいですね」
いつもならきっと言うのを躊躇う言葉が簡単に口をついて出ていってしまうが、それすら心地よい。
「そうですね、私もこんなに楽しい夜は久しぶりです…と、カティアさん、ずいぶんお顔が赤いようですよ」
そう指摘しながら、私のグラスを回収していく。もう少し飲みたいのに、と恨みがましい目をクライスに向ける。
「嗜む程度とは仰いましたが、もしかしてあまりお強くないのでは?」
「そんなことありません、久しぶりなだけです」
「もっともそうな理由のように言ってますが、久しぶりなら尚更もう止めておきましょう」
「じゃあグラスに残ってる分だけ…」
「ダメですよ」
まだグラス一杯分も飲みきってないのに回収されるなんてひどい。誘ったのはクライスではないか。
「いつか飲めなくなってしまうじゃないですか…だったら今飲みたいです」
「何を言ってるんですか、お気に召したなら明日も飲んで良いですから」
(そうじゃないんだけどなぁ…)
「ほら、もう寝ましょう。カティアさんのお部屋はどこですか?」
グラスに後ろ髪を引かれまくっているがクライスが腕を掴んで立たせようとするので仕方なく従う。
「おっ…と」
おかしいな、床がいつもより柔らかい気がする。
「カティアさん、立派な酔っぱらいですよ。ほら、部屋はどこですか」
「失礼ですね、ちょっとふらついただけです。いつもは一人なんです、これくらいどってことありません。自分で帰れますよ」
酔っぱらいのお客様と一緒にしないでほしい。少しお酒がまわってしまっただけで介抱が必要なほど酔ってはいないもん。それを証明する為に私は自室へと向かう。受付テーブルの奥の扉の先に私の部屋がある。
「ここが自室ですか…?入口から扉が丸見えじゃないですか、女性の部屋にしてはいささか不用心ですね。鍵はかかるのですか?」
「かかりますよ、まかせてください!」
ガチャリと鍵をかけてみせる。この宿に不可能なんてないのだ。
「………カティアさん、私が部屋を出たら鍵をかけてくださいね」
何故かクライスは居心地が悪そうに顔を逸らした。失礼な。
「では私ももう2階に戻りますから、ちゃんと鍵をかけて、布団に入ってくださいね」
「何度も言わなくても大丈夫ですよぉ」
先程閉めたばかりの鍵を開けてクライスが部屋を出ていく。扉の先に消えていく背中を見ていたら、なんだか寂しさが込み上げてきた。
「…クライスさんっ」
「なんです?」
「えっと…おやすみなさい」
何故呼び止めてしまったのかわからず、当たり障りのない挨拶で誤魔化した。どうかばれませんように。
「おやすみなさい、カティアさん。また明日」
また明日、その言葉がじんわりと私の頭と心を包んだ。今度こそパタリと扉が締まり、私は言われた通りきちんと鍵を閉める。その後はぷつりと記憶が途切れた。
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