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番外編 ファルター
3.一歩踏み出して
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首を横に振るエマ殿下を説得するように、俺は言葉を重ねた。
「殿下、俺たちだけではこれ以上は分かりません。誰かに聞かなければ、これ以上先に進むことは出来ません」
その誰かは教師だろう。そのために教師がいるのだから。
けれど、エマ殿下は頑なに首を横に振り続ける。
正直、気持ちは分かる。
エマ殿下は怖いんだ。
俺にも覚えがある。教師の蔑んだような目が、怖かったから。
『ファル、お前は自分から教師に何かを質問したことはあるか?』
出発する前、父に言われた言葉を思い出す。
ここで気持ちが分かるからと、引き下がるわけにはいかない。ここで動かなければ、エマ殿下も……俺も、変わらない。
「エマ殿下、教師は出来る出来ないに関わらず、学ぼうとする者を決して差別しません。もしそれをする教師がいたら、そいつは教師失格です。聞きに行きませんか。絶対に、教えてくれますから」
俺はそれをしてこなかった。自分から教えを請おうとしなかった。父に言われて初めて、そのことに気付いた。
兄はそれをしてきた。分からないところは、積極的に質問していった。そうした態度が教師たちからの評価を上げていったのだ。
俺は、自分の中だけで終わらせていただけだ。
「行きましょう、殿下。何も分からない俺とは違うんです。聞けば、絶対にそれは殿下の力になりますから」
立ち上がって、手を差し出す。
動かないエマ殿下に、焦れる気持ちを抑えて待つ。
そして、やがてエマ殿下が手を出して、俺の手に重ねてきた。
「……分かりました、行きます。けれど、ファルター殿下も一緒に来て下さいますか?」
「もちろんです」
恐れと緊張。
エマ殿下の目に宿るのは、そんなところだろうか。
だけど、そんな殿下の目に映る俺の顔も緊張で強張っていた。偉そうなことを言っておきながら、結局は俺だって怖いんだ。
*******
そして、到着した教師たちのいる部屋。その扉の前。
ここに来るまで、俺の手に乗せられたままのエマ殿下の手は、ずっと震えっぱなしだった。
――いや、違うか。震えていたのは、俺も同じだ。どちらが震えていたのかなんて分からない。
でも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
俺は大きく深呼吸をした。エマ殿下を見て、震えながらも頷いたのを確認してから、ノックして扉を開けた。
「…………………!!」
「…………っ……!」
教師たちの視線が、一斉に俺たちに集まる。立ちすくみ、息を呑む。声が出ない。
そんな微動だにしない俺たちに、声を掛けられた。
「エマ殿下、ファルター殿下。どうされましたか。珍しい」
ふんわりとかけられたその声は、俺たちの担任だ。
ノア・バウムガルトナー教師。その出身は子爵家と低いながらも、教師としての名声は高い人だ。
「あ、あの……」
穏やかな声音に、喉の引っかかりが少し取れて、何とか声を出すことに成功した。そのまま俺の言葉を待ってくれているらしい教師の態度に、少しだけ緊張が緩む。
「エマ殿下が分からない事があるからと……。聞きに来たのですが……」
俺が言うと、エマ殿下の手に力が入った。
バウムガルトナー教師が驚いたように目を見開いたのを見て、俺は唇を噛んだ。
やっぱり自分たちのような出来損ないが聞きに来るなど、ダメだっただろうか。
絶対に教えてくれる、などと言って、エマ殿下を連れてきておきながらこの結果では、ますます殿下を落ち込ませることになってしまった。
とにかくこの場を離れてから謝ろう、と決めたところで、教師からの意外な声が耳に届いた。
「おや、それは嬉しいですね。どこが分からないのですか?」
意外すぎて、何を言われたか分からなかった。
「…………………うれしい?」
「…………………聞いていいんですか?」
「当たり前でしょう。生徒に頼られて嬉しくない教師はいませんよ。それで、聞きたいところはどこですか?」
俺はエマ殿下と顔を見合わせた。そうしているうちに、教師の言葉が段々と染みてくる。エマ殿下の表情に笑顔が見えて、俺は頷いた。
「……は、はいっ、先生! よろしくお願いしますっ!」
一段高くなったエマ殿下の声が、響いた。
*******
「――というところですね。分かりましたか?」
「はいっ。とてもよく分かりました。ありがとうございます。こんなにしっかり理解できたのは、初めてです」
バウムガルトナー教師の説明に、エマ殿下が興奮気味だ。俺には全く理解できていないが、殿下にとっては違うようだ。
やっぱり聞きに来て良かった、とその様子を見て、やっと俺も安心した。
「とんでもありません。エマ殿下、分からない点がありましたら、またいつでもお越し下さい」
「また来てもいいのですか!?」
「当たり前です。学んでいけば、それだけ分からない点も増えるものです。一度で終わるはずがありません」
「分かりました。その時にはまたよろしくお願い致します」
笑顔でお礼を伝えるエマ殿下は、少し前までの恐怖はなくなっているだろう。きっとこれで、積極的に教えを請うことができるはずだ。
そういう俺も、かなり気持ちが楽になった。聞きに来れば、邪険にされることもなく受け入れてもらえる。そう思えるだけでずいぶんと違う。
「ところで、ファルター殿下は何も質問はありませんか?」
そんなことを考えていたら、バウムガルトナー教師が俺に話を振ってきた。まさかそんな事を聞かれるとは思わず、とっさに言葉が出ない。
「――あっ! 申し訳ありません、ファルター殿下。聞きに行こうと仰って下さったのは殿下なのに、私ばかりが質問してしまって」
「……い、いえ」
エマ殿下にまで言われてしまい、俺は何とか言葉を絞り出す。
「……その、俺は聞ける状態じゃないと言いますか……。分からないところが分からないので、質問しようにも何を聞いていいか分からなくて……」
言いながら情けなくなった。ここまで頑張って勉強してきたつもりでも、何も成長していないことが自分で分かってしまう。
ここに自分がいるのが場違いな気がして、早々に立ち去ろうと思ったら、またもそれを実行に移す前に教師に呼び止められた。
「その手に持つのは、入学後のテスト用紙ですね? 見せて頂いてよろしいですか?」
「………………」
左手に握るテスト用紙を黙って差し出した。なぜ俺はこんなものを持っているのだろうか。緊張していたから、無意識のうちに手で握っていたのかもしれない。
ほとんど正解のないテスト用紙を、今さら自分以外の人間に見せる羽目になるとは思わなかった。
こんなものを見て、どうするつもりなのか。直視できず、視線を逸らせる俺に、先生の声が届いた。
「この国や王家の歴史などは、この国特有の知識ですから、ファルター殿下ができないのも当然でしょう。一から学んでいきましょうか」
その声音に、俺を出来損ないと蔑む色はなかった。ただ当たり前のことを言っているだけのように聞こえた。
「そうですね、後はこちらの問題。ブンデスリーク王国についてそう詳しいわけではありませんが、おそらくこの辺りの知識は共通ではないかと思うのですが」
「……共通?」
このグランデルトは、直線距離はともかく、険しい山脈に隔たれた「遠い」国だ。その遠い国との、共通……?
だが、教師の説明してくれるそれには、確かに覚えがあった。
「……知って、います」
元々出来が悪い俺ではあるが、それでも全く何も知らないわけではない。少なくとも、確かに学んで知っている事はあって、今説明されたのは、まさしくその数少ない知識の中にあったものだ。
俺のポツリとした答えに、教師は少しだけ苦笑して頷いた。
「知識は、ただそれだけでは役に立ちません。それを活用できるようにならなければ意味がないのです。何でもそうですよ。学問も、剣術も、魔術も。覚えてやっと、スタートラインに立てるのですから」
その言葉に、俺は息を呑んだ。思い出すのは、俺のかつての婚約者。マレンとピーアの姉妹だ。
上級魔術を使えると"聖女の再来"と周囲に褒めそやされて、鼻高々だったピーア。そんなピーアを、ひどく冷たい目で見ていたマレン。
あの頃は、マレンは才能豊かな妹に嫉妬しているだけだと思っていたが、実際には全く違った。
ただスタートラインに立っただけで、得意げになっていたピーアと褒めちぎる周囲に、呆れていただけだったのだ。
「生徒がスタートラインに立てるように支援するのも、スタートした生徒が前に進めるように道しるべになるのも、教師の役割です。ファルター殿下、殿下がスタートラインに立てるよう、これから勉強していきましょう」
「………………へ?」
そうでなくともバカなんだから、話の途中で別の事を考えるのはやめようと、心の底から思った俺だった。
*******
「ファルター殿下、ありがとうございました」
部屋から出たら、真っ先にエマ殿下からお礼を言われた。丁寧で綺麗なカーテシーに、俺は身の置き場がないような気まずさを感じた。
「……お礼を言われることは何もありません。エマ殿下がこれまで学んでこられた成果です」
サボっていることのほうが多かった俺と違って、エマ殿下は間違いなく一生懸命に勉学に励んでいた。だから、教師の説明だって理解できた。エマ殿下の頑張りの結果であって、俺は何もしていない。
バウムガルトナー教師の言葉を借りるなら、エマ殿下はとっくにスタートラインに立っていた。ただ歩き方が分からなかっただけだ。
俺は、まだそこに立ててすらいない。だから、余所事を考えていた俺が断る余地などなく、個人授業を受けることになってしまった。
「落ちこぼれ」と呼ばれるエマ殿下だけれど、「出来損ない」の俺とは天と地ほどの差がある。きっとこれから、差は開いていく一方だろう。
「――違いますっ! ファルター殿下のおかげです! 殿下が聞きに行こうと仰って下さらなければ、私の手を取って引っ張って下さらなければ、私はずっと同じ所で立ち止まっていることしか出来ませんでした!」
「エマ殿下……?」
「怖かったんです、ずっと。リアムはすぐ理解できる。少し教われば、それだけで分かる。そう褒める言葉を聞いてきました。でも私は分からない。何回も何回も聞かないと、理解できない。だけど、そんな私を教師の方々はどう思っているんだろうって考え出したら、怖くなって……」
優秀な弟への劣等感。その「弟」を「兄」に変えれば、それはそのまま俺にも当てはまる。
「お前は駄目だと思われるのが怖くなって、聞けなくなりました。それでますます理解できなくなっていくのに、でもどうしても聞けなくて……」
実際に、俺はダメだと言われてきた。兄はすごい、俺は出来損ないだと。だから余計に、勉強に身が入らなかった。
だけど……。
「一歩踏み出すと、こんなに違ったんですね。おそらく今までも誰も、私を駄目だなんて思ってなかったんだろうなって思います。ただ、私が勝手にそう思い込んでいただけだった。だから殿下、ありがとうございます。私が足を踏み出せたのは、殿下のおかげです」
エマ殿下が笑った。
これまで見せていた笑顔とは違う、何かを吹っ切った、心からの笑みだ。
「あ、い、いえ……」
その笑顔になぜか跳ね上がった心臓がドクドク音を立てるのを聞きながら、俺のした返事は何の意味もない返事だった。
「殿下、俺たちだけではこれ以上は分かりません。誰かに聞かなければ、これ以上先に進むことは出来ません」
その誰かは教師だろう。そのために教師がいるのだから。
けれど、エマ殿下は頑なに首を横に振り続ける。
正直、気持ちは分かる。
エマ殿下は怖いんだ。
俺にも覚えがある。教師の蔑んだような目が、怖かったから。
『ファル、お前は自分から教師に何かを質問したことはあるか?』
出発する前、父に言われた言葉を思い出す。
ここで気持ちが分かるからと、引き下がるわけにはいかない。ここで動かなければ、エマ殿下も……俺も、変わらない。
「エマ殿下、教師は出来る出来ないに関わらず、学ぼうとする者を決して差別しません。もしそれをする教師がいたら、そいつは教師失格です。聞きに行きませんか。絶対に、教えてくれますから」
俺はそれをしてこなかった。自分から教えを請おうとしなかった。父に言われて初めて、そのことに気付いた。
兄はそれをしてきた。分からないところは、積極的に質問していった。そうした態度が教師たちからの評価を上げていったのだ。
俺は、自分の中だけで終わらせていただけだ。
「行きましょう、殿下。何も分からない俺とは違うんです。聞けば、絶対にそれは殿下の力になりますから」
立ち上がって、手を差し出す。
動かないエマ殿下に、焦れる気持ちを抑えて待つ。
そして、やがてエマ殿下が手を出して、俺の手に重ねてきた。
「……分かりました、行きます。けれど、ファルター殿下も一緒に来て下さいますか?」
「もちろんです」
恐れと緊張。
エマ殿下の目に宿るのは、そんなところだろうか。
だけど、そんな殿下の目に映る俺の顔も緊張で強張っていた。偉そうなことを言っておきながら、結局は俺だって怖いんだ。
*******
そして、到着した教師たちのいる部屋。その扉の前。
ここに来るまで、俺の手に乗せられたままのエマ殿下の手は、ずっと震えっぱなしだった。
――いや、違うか。震えていたのは、俺も同じだ。どちらが震えていたのかなんて分からない。
でも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
俺は大きく深呼吸をした。エマ殿下を見て、震えながらも頷いたのを確認してから、ノックして扉を開けた。
「…………………!!」
「…………っ……!」
教師たちの視線が、一斉に俺たちに集まる。立ちすくみ、息を呑む。声が出ない。
そんな微動だにしない俺たちに、声を掛けられた。
「エマ殿下、ファルター殿下。どうされましたか。珍しい」
ふんわりとかけられたその声は、俺たちの担任だ。
ノア・バウムガルトナー教師。その出身は子爵家と低いながらも、教師としての名声は高い人だ。
「あ、あの……」
穏やかな声音に、喉の引っかかりが少し取れて、何とか声を出すことに成功した。そのまま俺の言葉を待ってくれているらしい教師の態度に、少しだけ緊張が緩む。
「エマ殿下が分からない事があるからと……。聞きに来たのですが……」
俺が言うと、エマ殿下の手に力が入った。
バウムガルトナー教師が驚いたように目を見開いたのを見て、俺は唇を噛んだ。
やっぱり自分たちのような出来損ないが聞きに来るなど、ダメだっただろうか。
絶対に教えてくれる、などと言って、エマ殿下を連れてきておきながらこの結果では、ますます殿下を落ち込ませることになってしまった。
とにかくこの場を離れてから謝ろう、と決めたところで、教師からの意外な声が耳に届いた。
「おや、それは嬉しいですね。どこが分からないのですか?」
意外すぎて、何を言われたか分からなかった。
「…………………うれしい?」
「…………………聞いていいんですか?」
「当たり前でしょう。生徒に頼られて嬉しくない教師はいませんよ。それで、聞きたいところはどこですか?」
俺はエマ殿下と顔を見合わせた。そうしているうちに、教師の言葉が段々と染みてくる。エマ殿下の表情に笑顔が見えて、俺は頷いた。
「……は、はいっ、先生! よろしくお願いしますっ!」
一段高くなったエマ殿下の声が、響いた。
*******
「――というところですね。分かりましたか?」
「はいっ。とてもよく分かりました。ありがとうございます。こんなにしっかり理解できたのは、初めてです」
バウムガルトナー教師の説明に、エマ殿下が興奮気味だ。俺には全く理解できていないが、殿下にとっては違うようだ。
やっぱり聞きに来て良かった、とその様子を見て、やっと俺も安心した。
「とんでもありません。エマ殿下、分からない点がありましたら、またいつでもお越し下さい」
「また来てもいいのですか!?」
「当たり前です。学んでいけば、それだけ分からない点も増えるものです。一度で終わるはずがありません」
「分かりました。その時にはまたよろしくお願い致します」
笑顔でお礼を伝えるエマ殿下は、少し前までの恐怖はなくなっているだろう。きっとこれで、積極的に教えを請うことができるはずだ。
そういう俺も、かなり気持ちが楽になった。聞きに来れば、邪険にされることもなく受け入れてもらえる。そう思えるだけでずいぶんと違う。
「ところで、ファルター殿下は何も質問はありませんか?」
そんなことを考えていたら、バウムガルトナー教師が俺に話を振ってきた。まさかそんな事を聞かれるとは思わず、とっさに言葉が出ない。
「――あっ! 申し訳ありません、ファルター殿下。聞きに行こうと仰って下さったのは殿下なのに、私ばかりが質問してしまって」
「……い、いえ」
エマ殿下にまで言われてしまい、俺は何とか言葉を絞り出す。
「……その、俺は聞ける状態じゃないと言いますか……。分からないところが分からないので、質問しようにも何を聞いていいか分からなくて……」
言いながら情けなくなった。ここまで頑張って勉強してきたつもりでも、何も成長していないことが自分で分かってしまう。
ここに自分がいるのが場違いな気がして、早々に立ち去ろうと思ったら、またもそれを実行に移す前に教師に呼び止められた。
「その手に持つのは、入学後のテスト用紙ですね? 見せて頂いてよろしいですか?」
「………………」
左手に握るテスト用紙を黙って差し出した。なぜ俺はこんなものを持っているのだろうか。緊張していたから、無意識のうちに手で握っていたのかもしれない。
ほとんど正解のないテスト用紙を、今さら自分以外の人間に見せる羽目になるとは思わなかった。
こんなものを見て、どうするつもりなのか。直視できず、視線を逸らせる俺に、先生の声が届いた。
「この国や王家の歴史などは、この国特有の知識ですから、ファルター殿下ができないのも当然でしょう。一から学んでいきましょうか」
その声音に、俺を出来損ないと蔑む色はなかった。ただ当たり前のことを言っているだけのように聞こえた。
「そうですね、後はこちらの問題。ブンデスリーク王国についてそう詳しいわけではありませんが、おそらくこの辺りの知識は共通ではないかと思うのですが」
「……共通?」
このグランデルトは、直線距離はともかく、険しい山脈に隔たれた「遠い」国だ。その遠い国との、共通……?
だが、教師の説明してくれるそれには、確かに覚えがあった。
「……知って、います」
元々出来が悪い俺ではあるが、それでも全く何も知らないわけではない。少なくとも、確かに学んで知っている事はあって、今説明されたのは、まさしくその数少ない知識の中にあったものだ。
俺のポツリとした答えに、教師は少しだけ苦笑して頷いた。
「知識は、ただそれだけでは役に立ちません。それを活用できるようにならなければ意味がないのです。何でもそうですよ。学問も、剣術も、魔術も。覚えてやっと、スタートラインに立てるのですから」
その言葉に、俺は息を呑んだ。思い出すのは、俺のかつての婚約者。マレンとピーアの姉妹だ。
上級魔術を使えると"聖女の再来"と周囲に褒めそやされて、鼻高々だったピーア。そんなピーアを、ひどく冷たい目で見ていたマレン。
あの頃は、マレンは才能豊かな妹に嫉妬しているだけだと思っていたが、実際には全く違った。
ただスタートラインに立っただけで、得意げになっていたピーアと褒めちぎる周囲に、呆れていただけだったのだ。
「生徒がスタートラインに立てるように支援するのも、スタートした生徒が前に進めるように道しるべになるのも、教師の役割です。ファルター殿下、殿下がスタートラインに立てるよう、これから勉強していきましょう」
「………………へ?」
そうでなくともバカなんだから、話の途中で別の事を考えるのはやめようと、心の底から思った俺だった。
*******
「ファルター殿下、ありがとうございました」
部屋から出たら、真っ先にエマ殿下からお礼を言われた。丁寧で綺麗なカーテシーに、俺は身の置き場がないような気まずさを感じた。
「……お礼を言われることは何もありません。エマ殿下がこれまで学んでこられた成果です」
サボっていることのほうが多かった俺と違って、エマ殿下は間違いなく一生懸命に勉学に励んでいた。だから、教師の説明だって理解できた。エマ殿下の頑張りの結果であって、俺は何もしていない。
バウムガルトナー教師の言葉を借りるなら、エマ殿下はとっくにスタートラインに立っていた。ただ歩き方が分からなかっただけだ。
俺は、まだそこに立ててすらいない。だから、余所事を考えていた俺が断る余地などなく、個人授業を受けることになってしまった。
「落ちこぼれ」と呼ばれるエマ殿下だけれど、「出来損ない」の俺とは天と地ほどの差がある。きっとこれから、差は開いていく一方だろう。
「――違いますっ! ファルター殿下のおかげです! 殿下が聞きに行こうと仰って下さらなければ、私の手を取って引っ張って下さらなければ、私はずっと同じ所で立ち止まっていることしか出来ませんでした!」
「エマ殿下……?」
「怖かったんです、ずっと。リアムはすぐ理解できる。少し教われば、それだけで分かる。そう褒める言葉を聞いてきました。でも私は分からない。何回も何回も聞かないと、理解できない。だけど、そんな私を教師の方々はどう思っているんだろうって考え出したら、怖くなって……」
優秀な弟への劣等感。その「弟」を「兄」に変えれば、それはそのまま俺にも当てはまる。
「お前は駄目だと思われるのが怖くなって、聞けなくなりました。それでますます理解できなくなっていくのに、でもどうしても聞けなくて……」
実際に、俺はダメだと言われてきた。兄はすごい、俺は出来損ないだと。だから余計に、勉強に身が入らなかった。
だけど……。
「一歩踏み出すと、こんなに違ったんですね。おそらく今までも誰も、私を駄目だなんて思ってなかったんだろうなって思います。ただ、私が勝手にそう思い込んでいただけだった。だから殿下、ありがとうございます。私が足を踏み出せたのは、殿下のおかげです」
エマ殿下が笑った。
これまで見せていた笑顔とは違う、何かを吹っ切った、心からの笑みだ。
「あ、い、いえ……」
その笑顔になぜか跳ね上がった心臓がドクドク音を立てるのを聞きながら、俺のした返事は何の意味もない返事だった。
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