緑の袱紗が鳴るとき

ホルモンヤん

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 その数年後、親の病状は悪化して亡くなり、俺は葉鶴家の当主になった。
 当主の俺は、他の華族との交流もさらに増え、相手を笑顔で受け流す術を自然と身につけた。自分では気づいていなかったがこの外見も使えたもので、地位が低いと見下すババア共に謙遜して見せるだけでなんとかやっていけたものだ。
 空虚な日々だった。何一つ心を満たすものがなかった。茶席を開き、中身のない会話をする。全部全部無くなればいいと思った。
 そうして小さな子供の自分がまた顔を出した。

「こんな空っぽな伝統もの、潰してしまえ」

 俺はそれに従うように、新しい道を探し始めた。
 茶道以外の道を探し、日々商いに向きそうな何かを求める。
 20を過ぎた頃、偶然貿易商と話す機会を得た。話を聞くと西洋からの品が増えてきているらしい。そう言って見せてもらった品々に目を奪われた。
 香辛料、綿や麻の原材料、そして機械織りの織物——どれもこれもが美しく精巧で、見たことないものばかり。

「これが、機械で織られとるん?」
「そうです。ですが、西洋のものというだけで客が寄り付かなくって……。商品として卸す場所もなくて困っているところなんですよ」

 それを聞いて、俺の胸はざわめいた。これや——直感的にそう思った。
 こんなに精巧な織物なら町の人間はもちろん、気位の高い華族でさえ手に取る。自分の華族としての地位を、これを売り出す足掛かりとしよう。そうして貿易商とのやり取りが始まった。


 町に西洋の織物が流れ始める。それはまだ民衆の間に広まったわけではない。だが春樹は変化に気づいたのか江戸へと販路を拡大するべく動いているという噂を耳にした。

 けどもう遅い。

 京の噂は広がるのがそれはそれは早いものだ。葉鶴家の茶会で軽く話題に出すだけで、瞬く間にその評判は華族の耳に入り、人から人へと拡散されていく。
 最初は面白がって手に取った華族の連中も、次第にそれに魅了されたのか流行として取り入れ始め、そしてその噂は瞬く間に庶民の耳へと届くようになった。


 ある日、春樹が藍川家の品を届けに来たタイミングで、俺は何も知らぬ顔をして声をかけた。

「なんや最近噂になっとるみたいやね」

 唐突な言葉に、春樹は少し目を見開き、苦笑を浮かべた。

「うん、だから僕も江戸に行ってなんとかしようとしてるんだけど——」
「上手くいかへん?」

 遮るように口にした言葉に、表情がわずかに曇るのを俺は見逃さなかった。

「もしかしてやけど、支援が必要なん?」
「えっ……」

 春樹は戸惑いながらも、しばらく沈黙してから小さく頷いた。

「うん、まぁね。でも誰を頼ればいいか分からなくって……。藍川織のためならできることは何でもしたいと思ってる……」

 伝統を大切にしたい、純粋そのもので、かつてと同じ真っ白な思い。けれど過去とは確かに異なる真っ黒な墨で汚されたそれに、反吐が出そうになった。

「ごめん、頼みにくいことなんだけど……」
「いやいや、ええよ。」

 俺は軽い調子で言葉を返した。

「藍川織の伝統、守りたいんやろ? ほんなら言うてみ、何が必要なん」

 意図的に「伝統」を口に出すと、春樹は迷うように視線を揺らしながら、やがて小さく口を開いた。

「販路の拡大を、支援してほしい……。江戸でつながりを作るには、華族の信用がどうしても必要で……葉鶴家の名前を貸してもらえたら、もっと藍川織を広めることができると、そう思って、」
「華族の信用、なぁ」

 顔に手を当てながらざと考え込むように間を置く。そして静かに口角を上げ、無造作に言葉を放った。

「そんなら代わりに、身体からだ、借りてもええ?」
「えっ」

 春樹の目が大きく見開かれる。あまりにも唐突で、まるで物を借りるかのように放たれた俺の言葉に、唖然とした表情を浮かべた。

「いやな、鶏姦罪けいかんざいなんていう男同士の行為を禁止する法のせいで、自分も困っとるんよ。こちらも華族やし、ヘタな女相手にして子供出来ても困るしなぁ。そういう発散の場が必要やねん」

 俺の口調はどこまでも軽かった。それが春樹にどれだけ重く響くかを知りながら。

「何でもできるんやろ?」

 春樹は、固まり、俯き、黙り込んだ。
 それにあえて追い打ちをかけるように言葉を発する。

「古くから付き合いのある藍川家が困っとるの、ほっとくのも心苦しいけど、こっちに利益も何もないと動きにくいからなぁ」
「……それは、できないよ」

 ようやく絞り出すように言ったその言葉を聞いて、俺は肩をすくめながら仕方がないと笑ってみせた。

「じゃあ、こうしましょ。藍川家の当主から支援を頼まれたら、ということで。それならこっちも断りにくいしなぁ」

 わざとらしいその口調に春樹は目を伏せ、傷ついた表情を浮かべた。その表情を見た瞬間、じりじりと苛立ちが腹の底から込み上げてきた。

 そっちがそないな顔するなよ。側にいったのはお前やろ。「伝統」に忠実な、それに縋るしかないお前は、もう俺の知ってる春樹じゃない。

 藍川織おまえなんていらん。伝統。そんなもの全部潰れてしまえ


 それから春樹はさらに躍起になって京へ江戸へと駆け巡っていたが振るわなかったようで、藍川織の影響力は萎み、当主の態度が横柄だったこともあってか、藍川織そのものを民衆は蔑むようになった。



 こつり、そう下駄を鳴らして町を歩くと春樹とその弟が視界に入る。どうやら噂をする連中を気にして春樹は俯いている様子だった。民衆の噂の声に耐え忍ぶその姿が、なぜか過去の、醜悪な華族たちに囲まれていた自分と重なる。
 気付けばそれに割って入っていた。華族の俺が話しかけるだけで蜘蛛の子を散らすように連中は走り去る。そうして残った二人に、春樹に声をかけた。

「災難やねぇ、春樹。しかしまぁ頑張って江戸まで足運んだ言うのに、成果も見えへんしなぁ?」  
「そう……だね……」  

 軽く落ち込む姿に少し溜飲が下がる想いだったが、すぐに春樹は顔を上げて俺を見据えた。

「まだ終わってないよ、珠。藍川織はまだまだこれからだ」

 まるで過去を彷彿させるような瞳。真っ黒に塗りつぶされたはずのそれが、どこか輝きを放っているように見える。

 いや、違う。前のお前とはもう違うんや

「まぁええわ。その調子でこれからも藍川家に尽くすとええんちゃう?」  

 そうや、こんなつまらん奴。どうせその伝統に尽くしても何も生まれないというのに

 横を通り抜ける途中、春樹にそっと耳打ちをした。

「前の話。まだ覚えとるよな?」

 春樹が悔しそうに唇を噛むのを横目に、屋敷へと帰る。
 自身の矜持のために、伝統を諦めるその時はいつ来るのか。それが楽しみで、想像するだけで笑いが込み上げてきた。
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