半輪

月岡 朝海

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「もう半分の月は、どうしておるのでありんしょう?」
 声の方へ眸をやると、その白い手の持つ銀の煙管は、半円の光を指していた。冴えたみどりの眸と、眼差しが絡む。仲之町は夜見世が開け常と変わらず賑わっている筈なのに、ふたりの間には俄かに静けさが掠めた。通りを抜ける風に、青竹の垣根に植えられた菊がさわさわと揺れ、玉虫色の紅が塗られた唇の端に、笑みが乗る。ゆっくりと翻し、水道尻の方の空に浮かぶ、西の空へ傾きつつある長月の半月を仰ぎ見た。
「……兎が食うたでありんすか」
 少し考え倦ねた後にそう返すと、向こうはオヤ、と可笑しそうに仕掛けの袖口で口許を押さえた。眸の色に似合わず、おぼこい笑みであった。
朝霧あさぎりさんは、どうでありんす?」
 同じ問いを、雛菊ひなぎくの方もそのまま返してみる。
「輝夜姫が塗り潰しいした」
 気まぐれな姫の図が浮かび、ふふっと笑いが零れた。花魁同士が顔を緩めているのが物珍しいのか、素見らの視線が幾つも此方へ向かうが、隣は気付く素振りも見せずにゆったりと煙管を燻らせる。倣って、雛菊も煙草盆に手を伸ばした。

「仲之町張りは息が詰まりんすよ」
 そんな言葉が、煙の中に小さく零れた。道中をして、引手茶屋の軒先にある畳敷きの揚縁で馴染みを待つ仲之町張りは、通りを行き交う嫖客や吉原雀に顔を見せるという面もある。その為妓楼の座敷に揚がる時よりも殊更威風を示すようにと、見世の内証から言われている。数多の目に晒される一刻は、他の勤めより大層長く感じることもあった。大見世・青那あおな屋伝統の名を継ぐ筆頭呼出でも、そう思うているのか。立兵庫に鼈甲の簪や櫛を挿し、伸ばした背筋で黒地に雁模様の仕掛けを羽織り仲之町に構える貌を、ちらりと横目に見る。
 引手茶屋は馴染みの妓楼何軒もが使うので、店先の揚縁に花魁同士が相席することもある。今宵も例に漏れずそうだった。金襴と羅紗の仕掛けを羽織って並ぶふたりに、あっちは青那屋、隣は大字おおじ屋と、通人気取りで連れに語る吉原雀の声が耳を掠める。

「座しておると鳳凰だのと譬える御仁もおりんすが、わっちは烏の方がいっそ羨ましいでおす」
 様々な獣を継ぎ接ぎした、何処にも居らぬ火を纏わりつかせた鳥など、虚空を旋回するだけで何の益体もない。それよりも、人目も気にせず好きなものを食べ其処ら中を飛び回れる鳥の方が良いではないか。雛菊の呟きに、朝霧は可笑しみを含んだ声色で何とえ、と零した。
「雄がホウ、雌がオウ、と啼くと言いんすが」
 朝霧が此方をちらりと見やる。
「両方雌やもしれえせん」
「さいざんす」
 ひと目でも見れば僥倖の鳥を、二羽も拝んだ者がいるのか。姿形が違うなら未だしも、啼き声のみで聞き分けるなぞ、雀でも難しい。きっと、何処ぞの誰かに都合の良い絵空事であろう。
 吸い掛けた煙管を唇から離して、朝霧が雛菊をじっと見詰める。その口は声を出さぬまま、ホウ、という形に動いた。何故か、首筋の辺りがぞくりとする。そして応えるように、雛菊もオウ、という形に息を漏らす。互いの玉虫色の唇に、微かな笑みが浮かんだ。
「雛菊さん、油問屋の旦那が」
 大門を潜り待合の辻を歩いてくる顎の細い馴染みとその一行を見付けた茶屋の女房が、雛菊に小声で呼び掛ける。ああ、八日の六ツ半に、と文で寄越した通りの登楼だ。ひとつ息を吐いてから、垣根の菊とじゃれ合う双禿を呼び寄せ、煙草盆などを仕舞わせる。これから二階の座敷で馴染み一行と軽く酒を飲み、その後妓楼へと戻るのだ。
「おしげりなんし」
 揚縁を立つ雛菊を見上げながら、朝霧が煙管の煙をふぅっと吐き出した。
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