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明け方からちらついていた雪は、気付くと中庭を白く染めていた。亮芳はその妓楼を四角くくり抜いた庭を眺めながら、一階の廊下を爪先立ちで足早に歩いていく。ふと池に目をやると、その薄く氷の張った水面の下に、鈍く光るものを見付けた。立ち止まって眺めると、沈んでいるのは銀の簪であった。――あれは。裸足のまま庭に降りて、おもむろに氷の張った水面に手を突っ込む。冷たさが針のように刺さるのも構わず、腕を伸ばす。掌に取ったそれは、確かに見覚えのある巻龍の紋が彫られていた。
「津村さん」
見世の多くの女郎が集まって朝餉を取る大広間で、味噌汁を啜る横顔に小さく呼び掛ける。気付いた向こうは切れ長の目だけをこちらへ向ける。
「これを」
袂から銀の簪を差し出すと、津村は黙ったまま目を見開いた。そして赤くなった亮芳の腕と、微かに水滴の残る簪を交互に見やる。
「何処でこれを?」
淡々とした口調で、津村が尋ねる。
「……中庭の池に」
亮芳は一瞬言い澱んだが、事実をそのまま口にした。聞いた向こうは口の端に小さく自嘲を浮かべる。
「ありがとう」
津村は亮芳に向き合うと、澄んだ黒い眸で静かに微笑んで、その簪を受け取った。
今宵も吉原の仲之町には明かりが灯る。三月一日に通りへ植えられた満開の桜の木々が、明かりに照らされながら薄く色付く花を揺らめかせている。
花を散らした打掛を羽織り鼈甲の櫛や銀の簪を挿して、供のものを引き連れた花魁の一行が、その大通りをゆっくりと歩いていく。
亮芳はただ一点遠くを見据える花魁に長柄傘を傾けながら、茶屋への道のりに帯同する。
「あれが」
「どっちの花魁?」
道中見物の吉原雀が、不躾な視線を向けながら口々に話す声が聞こえる。
「ああ、口八丁の方か」
大通りは喧騒に溢れている筈なのに、その言葉だけは亮芳の耳にはっきりと届き、肝が冷えた。花魁に聞こえはしなかっただろうか。一瞬ちらりと横顔に目をやるが、その貌は何時もと変わらぬ温度のまま、ただ真っ直ぐ前を見据えて高下駄で弧を描きながら、ゆっくりと歩みを進めていた。
次の瞬間、花魁の躯ががくん、と揺れた。危ない。亮芳は咄嗟に長柄傘を放り投げて、花魁の腕を掴む。足許を見ると、高下駄の鼻緒が切れていた。このままでは重い衣装と髪飾りを着けたまま地面に倒れるところだった。安堵の息を吐きながら顔を上げると、固まった表情の花魁と目が合った。
「失礼しました」
亮芳は慌てて手を離す。見世の使用人である若い衆の分際で、花魁に手を触れるなど以ての外だ。
「……ちょっと」
しかし片足立ちの花魁は、ざわつく吉原雀に背を向けて亮芳を手招きする。訝しみながら近付くと、向こうはおもむろに亮芳の肩に手を置いた。そうか、華奢な片足では重い高下駄を支えられない。そこで漸く気付いて、亮芳は身を屈めて台となる。小間使いの幼い禿が鼻緒を結び直す間、
花魁の愛用する香の匂いが、鼻先を擽り続けた。
妓楼に戻ると花魁の巻龍の紋入りの傘を放り投げて汚したことを見世からひどく叱られたが、亮芳はさして申し訳ないとは思わなかった。花魁が怪我を負うことに比べれば、些末なことだ。それとも、客の金で作った傘の方が大事だとでも言うのだろうか。
悶々とした気持ちを抱えながら、亮芳は中庭に面した廊下を渡って自室へと向かう。もう夜も更け吉原の玄関である大門は閉まろうという時刻だが、二階の各部屋では酒宴の名残が続いており、三味線の爪弾きや笑い声が零れてくる。亮芳は立ち止まって、中庭を挟んで階上に見える部屋に目をやる。あそこが津村花魁の部屋だ。茶屋へ迎えに行った今宵の相方は、どこぞの若旦那であっただろうか。道中の時に至近で見た巻龍の紋の入った銀の簪を思い浮かべながら、行灯の明かり越しに見える幾つかの人影を、見るともなしに眺めた。
「津村さん」
見世の多くの女郎が集まって朝餉を取る大広間で、味噌汁を啜る横顔に小さく呼び掛ける。気付いた向こうは切れ長の目だけをこちらへ向ける。
「これを」
袂から銀の簪を差し出すと、津村は黙ったまま目を見開いた。そして赤くなった亮芳の腕と、微かに水滴の残る簪を交互に見やる。
「何処でこれを?」
淡々とした口調で、津村が尋ねる。
「……中庭の池に」
亮芳は一瞬言い澱んだが、事実をそのまま口にした。聞いた向こうは口の端に小さく自嘲を浮かべる。
「ありがとう」
津村は亮芳に向き合うと、澄んだ黒い眸で静かに微笑んで、その簪を受け取った。
今宵も吉原の仲之町には明かりが灯る。三月一日に通りへ植えられた満開の桜の木々が、明かりに照らされながら薄く色付く花を揺らめかせている。
花を散らした打掛を羽織り鼈甲の櫛や銀の簪を挿して、供のものを引き連れた花魁の一行が、その大通りをゆっくりと歩いていく。
亮芳はただ一点遠くを見据える花魁に長柄傘を傾けながら、茶屋への道のりに帯同する。
「あれが」
「どっちの花魁?」
道中見物の吉原雀が、不躾な視線を向けながら口々に話す声が聞こえる。
「ああ、口八丁の方か」
大通りは喧騒に溢れている筈なのに、その言葉だけは亮芳の耳にはっきりと届き、肝が冷えた。花魁に聞こえはしなかっただろうか。一瞬ちらりと横顔に目をやるが、その貌は何時もと変わらぬ温度のまま、ただ真っ直ぐ前を見据えて高下駄で弧を描きながら、ゆっくりと歩みを進めていた。
次の瞬間、花魁の躯ががくん、と揺れた。危ない。亮芳は咄嗟に長柄傘を放り投げて、花魁の腕を掴む。足許を見ると、高下駄の鼻緒が切れていた。このままでは重い衣装と髪飾りを着けたまま地面に倒れるところだった。安堵の息を吐きながら顔を上げると、固まった表情の花魁と目が合った。
「失礼しました」
亮芳は慌てて手を離す。見世の使用人である若い衆の分際で、花魁に手を触れるなど以ての外だ。
「……ちょっと」
しかし片足立ちの花魁は、ざわつく吉原雀に背を向けて亮芳を手招きする。訝しみながら近付くと、向こうはおもむろに亮芳の肩に手を置いた。そうか、華奢な片足では重い高下駄を支えられない。そこで漸く気付いて、亮芳は身を屈めて台となる。小間使いの幼い禿が鼻緒を結び直す間、
花魁の愛用する香の匂いが、鼻先を擽り続けた。
妓楼に戻ると花魁の巻龍の紋入りの傘を放り投げて汚したことを見世からひどく叱られたが、亮芳はさして申し訳ないとは思わなかった。花魁が怪我を負うことに比べれば、些末なことだ。それとも、客の金で作った傘の方が大事だとでも言うのだろうか。
悶々とした気持ちを抱えながら、亮芳は中庭に面した廊下を渡って自室へと向かう。もう夜も更け吉原の玄関である大門は閉まろうという時刻だが、二階の各部屋では酒宴の名残が続いており、三味線の爪弾きや笑い声が零れてくる。亮芳は立ち止まって、中庭を挟んで階上に見える部屋に目をやる。あそこが津村花魁の部屋だ。茶屋へ迎えに行った今宵の相方は、どこぞの若旦那であっただろうか。道中の時に至近で見た巻龍の紋の入った銀の簪を思い浮かべながら、行灯の明かり越しに見える幾つかの人影を、見るともなしに眺めた。
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