双花 夏の露

月岡 朝海

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 障子を開け放った窓から一筋の風が入り、吊るした風鈴をちりりと鳴らした。うっすらと汗ばむ首筋にそれを纏わせたくなり、半ば無意識の内に躯を傾げる。
「動くなって」
 向かい合って胡座を掻く男が、不機嫌そうに低い声を出す。
「格好なんて如何とでもなる、とおっせえしたのに」
 表情を変えぬままそう言って、手に持つ団扇で態と扇いでみせる。顔と格好を適当に当て嵌めれば売れる、と以前零したのは、目の前の男の口だ。
「まぁ、一応な」
 男は口の端をにやりと上げて、また手元の紙に視線を落とす。そして墨を付け直した筆で、そこへ線を滑らせ始めた。団扇を手に持ち寛ぐ浴衣姿の花魁が、少しずつ形作られていく。
 昼下がりの二間続きの大きな部屋は、また静寂に包まれ始めた。昼から大門は開いているとはいえ、吉原が賑わうのは日が暮れてからなので、まだまだ廓は気怠さの中にある。聞こえるのは階下の三味線の爪弾きと、風が揺らす風鈴や七夕飾りの笹の葉の音だけ。男が時折顔を上げる時の衣擦れすら、聞こえてくるかのようだ。
「やっぱりおめぇの肌は、見れば見るほど膠だな」
 此方をじいっと眺めながら、無遠慮に男が呟いた。ああ、またその話か。
「ええ、広年ひろとしさんの浮世絵のお陰で、最近じゃ道中の時にも『膠の方だ』と言われるようになりんしたよ」
 嫌味混じりの言葉を返すと、男は心底楽しそうに笑った。自分の描いた絵で評判が左右されるのが、そんなにも可笑しいのだろうか。
「流石売れっ子絵師の筆でありんす」
「いやいや、稲尾いのお花魁の魅力よ」
 重ねた嫌味を、男は長い睫毛を伏せながらのらりと躱した。

 この流れ者である藤川ふじがわ広年という絵師が、稲尾のことを「この女郎の肌は溶かした膠の如し」と評したのは、番付最上位に上がった際に摺られた浮世絵であった。長らく見世の最上位を張っていた花魁が身請けされ、衆目を集める御披露目も兼ねての絵での評は、一気に吉原の内外へと広がった。
「ほんにまぁ、絵師とは軽薄な商売でありんすな」
 稲尾の唇から、呆れ混じりの溜め息が零れる。売れっ子の絵師に描いて欲しいという見世からの依頼もあって描いた絵だというのに、面白おかしくしてしまうのだから。
「そらぁ、見られねぇと飯の食い上げさ」
 悪びれもせず、広年は筆を動かし続ける。気が付くと、線画は五枚にもなっていた。本当に筆が速い。これなら夜の道中の支度が始まるまでに、見世から頼まれた絵を描き上げてしまいそうだ。こうやって仕事が早いものだからまた見世も女郎の絵を依頼するし、その種を探すと称して妓楼に出入りすることも、みな容認するしかない。
「お前みてぇに色黒の女郎は、夜より夏の陽が映える」
 目線を絵に落としたまま、低い声でぼそりと零す。薄利多売しか頭にないと思いきや、そんな細かなことを考えていたのかと、稲尾は内心少し驚いた。広年の上げた視線が、刹那に絡む。何時も口の端に薄笑いを浮かべている時のそれとは、違う温度だ。

「花魁、水菓子をお上がりなんすかえ」
 沈黙を穿つかのように、女郎見習いの振袖新造が、廊下から顔を覗かせた。その手には器に盛られた角切りの西瓜がある。
「ああ、おかたじけよ」
 稲尾はにっこりと微笑んで、可愛い妹新造からの差し入れを受け取った。楊枝を刺し、四角く切られた西瓜を口へと運ぶ。瑞々しい果汁が口の端から少し零れそうになるが、構わずに頬張る。向かいに座る広年は、その様を黙ってじっと見詰める。その眸が唇辺りに纏わり付くのを感じながら、二個目の西瓜に歯を立てた。
「なぁ、俺にも」
「ぬしは涼みに来てる身でありんしょう」
 客人でもない男に、奢る義理などない。吉原での食べ物は基本的に自腹なのだから。この水菓子も、渡した小遣いで妹が買ったものだ。大体、広年の手元には見世からの差し入れの徳利がある。
「釣れねえなぁ」
 広年は態とらしく息を吐く。
「釣れない『膠』は放って、もう一人の花魁を描きなんすか?」
 温度を排した稲尾の言葉に、筆を持つ手がぴくりと動く。
「流石にあの花魁には近寄れねぇ」
 苦笑混じりに呟いて、広年は長い睫毛を伏せる。
「でも俺見ても、眉ひとつ動かさねぇ。恐ろしいな、花魁てやつは」
 そう言って、視線を稲尾に投げる。受け取って、稲尾は紅を引いた口許に、薄く笑みを浮かべてみせた。


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