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鏡 後編
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翌日、俺は落ち着かない気持ちを抑えられず、普段より1時間も早く学校に着いた。誰もいない教室に入ると、俺は一番後ろの窓際の席に座り、ひたすら三枝沼が来るのを待った。
(頼むから今日はちゃんと来てくれよ……。)
時計をちらちらと確認しながら、教室のドアが開くのをじっと見つめる。
何人かのクラスメイトから「珍しく早くね!?」と驚かれたが、俺は心ここにあらず、軽く返事をしてその場を流した。そして、待ちに待った三枝沼が教室に入ってきた瞬間、俺はホッとした。
(来てくれた……よかった。)
声をかけようと立ち上がりかけたその時、俺の動きは止まった。三枝沼の行動に目を疑ったからだ。
彼女は、近くの男子生徒に向かって明るく笑顔で挨拶をしたのだ。
まるで昨日のアルバイト時と同じような、あの営業スマイルで――。
「おはよう!」
その明るすぎる声に、挨拶された男子生徒は一瞬固まり、驚きの表情のまま三枝沼を見つめていた。その笑顔の破壊力と、普段の彼女からは想像もつかない振る舞いに、クラス中がざわつき始めた。
そのまま三枝沼は、自分の席に向かう途中で近くの女子たちにも話しかけていた。
「おはよう、昨日の宿題できた?」
「あ、髪切ったんだね。似合ってる。」
今までの無表情で冷静沈着な三枝沼ではなく、まるで社交的な別人のように振る舞っている。
最初はその変化に戸惑っていたクラスメイトたちも、次第にその明るい三枝沼に溶け込んでいった。周りは笑顔が絶えず、次々と三枝沼と会話を交わし始めた。
一方で、俺はただその様子を見ていることしかできなかった。何が起きているのか分からず、体が硬直してしまっていた。
その時、翔太の声でようやく意識を取り戻した。
「あれ……三輪ちゃん? なんかすんげぇ別人じゃん。」
俺は翔太の言葉に答えられないまま、再び三枝沼を見た。
(……これ、本当に三枝沼か? 何があったんだよ……。)
胸の中で膨らむ違和感は、昨日の鏡の出来事を思い出させるような、不気味なものでしかなかった。
俺は我慢できず、三枝沼が話す輪の中に入っていった。そして周りの視線を気にしながらも、「三枝沼、ちょっといいか?」と声をかけた。
三枝沼は明るい笑顔を浮かべて、「うん、大丈夫だよ」とあっさり答えた。その自然すぎる対応に、俺の胸に広がる違和感がさらに膨らむ。
三枝沼を教室の外へ連れ出し、周囲に聞かれないような距離まで歩いた俺は、真っ直ぐに彼女を見据えて問いかけた。
「お前……どうしたんだよ。本当に三枝沼なのか?」
核心をついたつもりだったが、三枝沼は少し困ったような表情を見せ、首をかしげながら言った。
「どういう意味?」
その仕草さえ、普段の三枝沼とはどこか違う。俺は少し苛立ちながら、核心を避けて別の質問をぶつけた。
「あー、もうそこはいいや……。じゃあコスモで何か分かったのか? あの鏡のこととか。」
その言葉に、三枝沼の表情がほんの一瞬だけ微かに動いた。それを見逃さなかった俺は、息を飲む。しかし、彼女はすぐに笑顔を作り直し、明るい声で言った。
「何にもなかったよ。安心して。田町先輩の件とは関係なかった。」
「……本当に?」
俺の疑念に気づいているのかいないのか、三枝沼は笑顔を崩さずに続けた。
「それより、もう授業始まるよね。私、行くね。」
そう言うと、三枝沼は振り返り、軽やかな足取りで教室へ戻っていった。
俺はその背中を見つめながら、言いようのない不安に駆られていた。明るすぎる笑顔、妙に軽い態度――確かに彼女の中に「何か」が変わった。それがただの性格の変化だとはどうしても思えない。
(……自分で確かめるしかないか。)
三枝沼が何も言わない以上、俺が動くしかない。俺は心に決めた。一人であの鏡を調べに行くことを。何があろうと、この違和感の正体を突き止めるために。
アルバイトを終えた俺は、次の行動を決めていた。
いつもより長く休憩室にダラダラと残り、館内アナウンスが響く中、ひそかに店舗フロアに忍び込む。閉店後の薄暗い施設内、警備員が辺りを見回し、防犯センサーが張り巡らされているのが分かる。心臓が早鐘を打つような緊張感の中、俺はタイミングを見計らい、やっとのことで店員が立ち去ったコスモの店舗前へとたどり着いた。
静まり返ったフロアで、あの姿見の鏡の前に立つ。
(……これで何もなかったら、俺の気のせいってことだよな。)
自分にそう言い聞かせながら、俺は鏡をじっと見つめた。
鏡に映るのは俺自身の姿。ただそれだけだ。微かに聞こえる警備員の足音を耳にしながら、緊張と焦りが入り混じった気持ちで、目を凝らして鏡の動きを観察する。
だが――何も起きない。
(……やっぱり気のせいだったのか?)
肩の力が抜け、少し拍子抜けした気持ちになる。それでも、胸の中に残る違和感は完全に消え去ることはなかった。
(いや、待てよ……まだ時間はある。)
俺は鏡の前で再び集中する。これまでの不可解な出来事が、すべて「気のせい」で片付けられるとはどうしても思えない。何か――何かが隠れているはずだ。
その時、鏡の中の自分がほんの一瞬だけ「笑った」ように見えた。
「……え?」
俺自身は無表情だったのに――確かに、鏡の中の俺の口元が僅かに歪んだように見えたのだ。
再び背中に冷たい汗が流れる。俺は鏡を見続けるべきか、今すぐここから逃げ出すべきか迷いながら、その場に立ち尽くしていた。
鏡の中の俺は、じわじわと笑みを歪めていった。その不気味な表情は、立ち尽くす俺とはまるで別人のようだった。さらに、鏡の中の俺は、ゆっくりと手を首元に持っていき、その指先で自分の首を引っ掻き始めた。
(……何だこれ……!?)
気味の悪さで思わず声を上げそうになったが、静まり返った店内で騒ぐわけにはいかず、喉元で声を飲み込んだ。しかし、その瞬間――俺の首から「何か」が滴り落ちた感触がした。
視線を落とすと、制服の襟元に染み込む赤い液体が目に入る。それが「血」であることを理解するのに時間はかからなかった。
「……血?」
動揺しながら慌てて自分の首に手を触れると、ひりつく痛みが走り、指先にざらつく感触が伝わった。抉れた皮膚の感触がはっきりとわかる。
(嘘だろ……俺、何もしてないのに……!)
鏡の中の俺は、さらに深く首を掻きむしり、血を滴らせながら笑い続けている。俺が止めようと動こうとすると、鏡の中の俺も同じ動きを繰り返す――だが、その笑顔と行動だけは俺の意志とはまったく違っていた。
パニックに陥りそうになる中で、頭の片隅には冷静な自分がいた。
(ここから逃げろ……この鏡は普通じゃない……!)
俺は必死に足を動かし、鏡から遠ざかろうとした。しかし、視界の端に映る鏡の中には、女性が俺の後ろに立っていた。
その女性は何処かでみたと思っていた俺は直ぐに理解した。
(団地の時の⋯!)
女性は鏡越しに、俺を抱きしめるように立ち、その腕を現実の俺にも回してきた。冷たくも鋭い感触が首筋に触れ、俺は反射的にもがき抵抗するが、その抱擁を振りほどくことはできなかった。
(くそ……駄目か……!)
女性の腕が俺を強く締めつけ、首筋の痛みが次第に麻痺していく。意識がぼんやりと遠のいていく中で、鏡の中に新たな異変が起きた。
――鏡の中から、いないはずの三枝沼が現れた。
三枝沼は、鏡の中の俺にそっと近づき、その手に優しく触れた。すると、鏡の中の俺は、歪み切った笑顔をゆっくりと消し、やがて腕を下ろすと膝をついて泣き出した。
その様子に、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。気づけば、現実で俺を抱きしめていた女性の霊は消えていた。首筋の感覚が戻り始める中、鏡の中で泣き続ける俺の姿を見て、俺は近くに立つ三枝沼に目を向けた。
三枝沼は、静かに俺を見つめていた。
不思議と、俺は「もう二度と彼女が戻らない」と感じた。そして、その気持ちが言葉となって口から飛び出した。
「俺は前のお前が良い……! 周りと仲良くしてるお前より、しつこくラインをよこすお前が、俺と同じお前が!」
どうしてそんな言葉を紡いだのか、自分でも分からなかった。ただ、今の三枝沼は、彼女自身が望んだ「何か違う姿」に見えたからだった。
三枝沼は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑み、小さく口を動かした。
「壊して。」
その言葉が声にはならなくても、口の動きだけで何を言っているのか分かった。俺は即座に鏡を拳で叩きつけた。
ガラスが割れる音が響き、鏡は粉々に砕けた。
その瞬間、まるで世界そのものが揺らぎ、壊れるような感覚に襲われた。周囲の空気が変わり、耳の奥で俺自身の声が響いた。
「……ごめんなさい。」
俺は、その言葉がどこから来たのかも分からないまま、暗闇に包まれていった。
そこからがまた地獄だった。
鏡を叩き割った俺は、その音を聞きつけた警備員にすぐさま抑えられ、逃げる間もなく連行された。警備室で散々怒鳴られた挙句、警察に引き渡される羽目になった。
パトカーの中、俺はぼんやりと考えていた。
(短期間で何度警察のお世話になってるんだよ……これで何回目だ?)
そんな自虐的な思考を抱えながら、俺は留置所で一夜を過ごすことになった。冷たい床と薄暗い空間の中で、今後どうなるのか不安しかなかった。
翌日の取り調べでは、さらに苦しい時間が待っていた。女性店員からの証言で、俺は「何度も店に通っていた不審者」として疑われ、警察官たちに厳しく追及された。
「何で鏡を割ったんだ?」
「本当のことを言え。」
その問いに必死に「鏡が普通じゃない」「霊的な何かがあった」と説明したが、返ってくるのは冷たい目と呆れたため息だけだった。
(頭のおかしい奴扱いされる目って、こういうのか……。)
その視線が刺さるように辛かった。
やがて伯母さんが迎えに来てくれた。警察での話し合いの後、不思議と警察官たちの態度が和らぎ、俺はようやく自宅に帰れることになった。
軽自動車の助手席に座る俺に、伯母さんがぽつりと言った。
「あんた、学校は停学だって。……よかったわね、退学じゃなくて。」
その声は優しかったが、どこか気を使うような口調だった。それがかえって胸に刺さり、俺はいたたまれない気持ちになった。
深いため息をつきながら、返されたスマホを確認すると、通知が52件も溜まっていた。そのほとんどがラインで、49件は三枝沼からのメッセージだった。
(……あいつ、何やってんだよ。)
それでも、妙な安心感が胸の中に広がった。少なくとも三枝沼は、以前と変わらずに俺に関わってくれている。
(……俺、学校で完全に有名人だな。)
小さくため息をつきながら、揺られる車の中、返信を返していった。
停学中、俺の生活は一変していた。学校に行かない時間が増えたことで、色々な人が俺を気にかけてくれるようになった。
特に田中先生は熱心で、何度も俺の自宅まで足を運んでくれた。正直、俺みたいな問題児の相手をするのは大変だろうと思っていたが、田中先生はそれでも心から俺を心配してくれているようだった。
「何かあれば、何でも相談に乗るからな!」
その言葉は、本当に心に闇を抱えている人間には逆効果なのかもしれない。だが、俺にとってはありがたい言葉だった。田中先生の不器用な熱意に、少しだけ救われる気がしていた。
それ以外にも、翔太がふらりと家を訪ねてきた。
「お前って最近いなくなったキレる子だったんだな。」
翔太の軽い調子に、俺も軽く返す。
「まさか。不幸が重なっただけだよ。俺ぐらいピュアで心が綺麗な人間はいない。」
その言葉に翔太は笑いながら、肩をすくめた。
「まぁバイトだけ次探せよ。首だろ? せっかく楽だって言ってたのに残念だな。引っ越しのバイトでもやれよ。」
他愛もない話をして笑い合っていたが、翔太の訪問がどれだけ救いになったかは、きっと本人には伝わっていないだろう。
何度も尋ねてくれる来客に、両親へ迷惑をかけている気がして申し訳なかった。だが、俺が停学になったことに対して、親は何も責めるようなことは言わなかった。それがどれだけありがたかったか分からない。
停学中の自宅は、思った以上に静かで平穏だった。
そんな矢先、チャイムが鳴った。扉を開けた俺は、そこに立っている人物に思わず驚きの声をあげた。
「三枝沼?」
彼女がラインで以前の調子に戻っていることは感じていたが、まさか直接家に来るとは思わなかった。
「よく家がわかったな?」
そう問いかけると、三枝沼は淡々と答えた。
「田中先生が教えてくれたわ。」
その返事に俺は呆れる。
(おいおい……個人情報がうるさい時代に、よくもまあ教えたな、田中先生。)
「俺に聞けば早いのに……。まあいいよ、上がれよ。狭いけど。」
そう言って中へ招き入れようとすると、三枝沼は一歩踏み出しかけた足を止めた。
「どうした?」
俺が問いかけると、三枝沼は少し戸惑うような表情を浮かべながら、玄関の中をじっと見つめている。
三枝沼は軽く首を振り、目を細めて玄関の奥を見据える。
「……何でもない。」
そう言いながらも、彼女の足取りはどこか慎重だった。俺も妙に気になりつつ、玄関からリビングへと案内した。
「んじゃとりあえず俺の停学と引き換えに、めでたしでいいんだよな?」
俺が冗談混じりに話すと、三枝沼は静かに微笑んで言った。
「大丈夫。原因はあの鏡から始まったことだから。本来なら、壊すだけじゃ田町先輩の話を聞く限りでは駄目だったはず……でも不思議なことに、あなたが壊したことで元に戻ったの。」
その言葉に俺は疑問が膨らむ。
「なんでなんだ?」
三枝沼は少し考えるような仕草を見せてから答えた。
「わからない……もしかしたら、鏡の中のあなたが嫌がったのかもしれないわ。」
思わず俺は苦笑しながら返した。
「いやいや、そこは喜んで変われよ……。」
その言葉に三枝沼は淡々とした口調で続けた。
「あなたが望んだ答えは、“変わってほしい”という願いじゃなかった……だからよ。でも、田町先輩のように鏡に打ち勝つ人もいるから。」
三枝沼の言葉に、ふと俺は思い出した。彼女が鏡の中の自分を受け入れたその姿を。無表情で、でもどこか穏やかに見えた彼女を。そして、俺は改めて思ったことを口にした。
「でも……俺は前の三枝沼に戻ってよかったよ。」
その言葉に三枝沼は少し驚いた顔を見せたが、すぐに柔らかく微笑んで、短く呟いた。
「そう。ならよかった。」
その後、俺はラインの件で軽く説教を始めた。「あの通知の量はやばいから控えろよ」と伝えると、三枝沼は渋々ながらも「分かった」と頷いた。
帰り際、ふと思い出して三枝沼に尋ねた。
「そういえば、バイトはどうすんだ?」
すると三枝沼は、いつものように怪しい微笑みを浮かべて言った。
「もう行く必要ないから辞めたわ。」
予想通りすぎて俺は笑いながら言った。
「だよな、まあそうなるわな。」
その俺に、三枝沼はまたもや怪しい笑みを浮かべて続けた。
「新しいアルバイト先が見つかったら教えてね。」
「ん? ああ、別にいいけど……なんで?」
俺が首をかしげて聞き返すと、三枝沼はさらりと言った。
「同じところにするから。」
その一言に、少しだけ嬉しい気持ちと、ゾッとする恐怖を同時に感じた俺は、複雑な思いで両親と共に彼女を見送った。
停学の残りの日々を両親と静かに過ごしつつ、これからの学校生活や自分自身について、ぼんやりと考える時間が増えた。
そして何より――これからも、あの奇妙な三枝沼と続いていく日々を、俺はきっと受け入れるのだろうと感じていた。
(頼むから今日はちゃんと来てくれよ……。)
時計をちらちらと確認しながら、教室のドアが開くのをじっと見つめる。
何人かのクラスメイトから「珍しく早くね!?」と驚かれたが、俺は心ここにあらず、軽く返事をしてその場を流した。そして、待ちに待った三枝沼が教室に入ってきた瞬間、俺はホッとした。
(来てくれた……よかった。)
声をかけようと立ち上がりかけたその時、俺の動きは止まった。三枝沼の行動に目を疑ったからだ。
彼女は、近くの男子生徒に向かって明るく笑顔で挨拶をしたのだ。
まるで昨日のアルバイト時と同じような、あの営業スマイルで――。
「おはよう!」
その明るすぎる声に、挨拶された男子生徒は一瞬固まり、驚きの表情のまま三枝沼を見つめていた。その笑顔の破壊力と、普段の彼女からは想像もつかない振る舞いに、クラス中がざわつき始めた。
そのまま三枝沼は、自分の席に向かう途中で近くの女子たちにも話しかけていた。
「おはよう、昨日の宿題できた?」
「あ、髪切ったんだね。似合ってる。」
今までの無表情で冷静沈着な三枝沼ではなく、まるで社交的な別人のように振る舞っている。
最初はその変化に戸惑っていたクラスメイトたちも、次第にその明るい三枝沼に溶け込んでいった。周りは笑顔が絶えず、次々と三枝沼と会話を交わし始めた。
一方で、俺はただその様子を見ていることしかできなかった。何が起きているのか分からず、体が硬直してしまっていた。
その時、翔太の声でようやく意識を取り戻した。
「あれ……三輪ちゃん? なんかすんげぇ別人じゃん。」
俺は翔太の言葉に答えられないまま、再び三枝沼を見た。
(……これ、本当に三枝沼か? 何があったんだよ……。)
胸の中で膨らむ違和感は、昨日の鏡の出来事を思い出させるような、不気味なものでしかなかった。
俺は我慢できず、三枝沼が話す輪の中に入っていった。そして周りの視線を気にしながらも、「三枝沼、ちょっといいか?」と声をかけた。
三枝沼は明るい笑顔を浮かべて、「うん、大丈夫だよ」とあっさり答えた。その自然すぎる対応に、俺の胸に広がる違和感がさらに膨らむ。
三枝沼を教室の外へ連れ出し、周囲に聞かれないような距離まで歩いた俺は、真っ直ぐに彼女を見据えて問いかけた。
「お前……どうしたんだよ。本当に三枝沼なのか?」
核心をついたつもりだったが、三枝沼は少し困ったような表情を見せ、首をかしげながら言った。
「どういう意味?」
その仕草さえ、普段の三枝沼とはどこか違う。俺は少し苛立ちながら、核心を避けて別の質問をぶつけた。
「あー、もうそこはいいや……。じゃあコスモで何か分かったのか? あの鏡のこととか。」
その言葉に、三枝沼の表情がほんの一瞬だけ微かに動いた。それを見逃さなかった俺は、息を飲む。しかし、彼女はすぐに笑顔を作り直し、明るい声で言った。
「何にもなかったよ。安心して。田町先輩の件とは関係なかった。」
「……本当に?」
俺の疑念に気づいているのかいないのか、三枝沼は笑顔を崩さずに続けた。
「それより、もう授業始まるよね。私、行くね。」
そう言うと、三枝沼は振り返り、軽やかな足取りで教室へ戻っていった。
俺はその背中を見つめながら、言いようのない不安に駆られていた。明るすぎる笑顔、妙に軽い態度――確かに彼女の中に「何か」が変わった。それがただの性格の変化だとはどうしても思えない。
(……自分で確かめるしかないか。)
三枝沼が何も言わない以上、俺が動くしかない。俺は心に決めた。一人であの鏡を調べに行くことを。何があろうと、この違和感の正体を突き止めるために。
アルバイトを終えた俺は、次の行動を決めていた。
いつもより長く休憩室にダラダラと残り、館内アナウンスが響く中、ひそかに店舗フロアに忍び込む。閉店後の薄暗い施設内、警備員が辺りを見回し、防犯センサーが張り巡らされているのが分かる。心臓が早鐘を打つような緊張感の中、俺はタイミングを見計らい、やっとのことで店員が立ち去ったコスモの店舗前へとたどり着いた。
静まり返ったフロアで、あの姿見の鏡の前に立つ。
(……これで何もなかったら、俺の気のせいってことだよな。)
自分にそう言い聞かせながら、俺は鏡をじっと見つめた。
鏡に映るのは俺自身の姿。ただそれだけだ。微かに聞こえる警備員の足音を耳にしながら、緊張と焦りが入り混じった気持ちで、目を凝らして鏡の動きを観察する。
だが――何も起きない。
(……やっぱり気のせいだったのか?)
肩の力が抜け、少し拍子抜けした気持ちになる。それでも、胸の中に残る違和感は完全に消え去ることはなかった。
(いや、待てよ……まだ時間はある。)
俺は鏡の前で再び集中する。これまでの不可解な出来事が、すべて「気のせい」で片付けられるとはどうしても思えない。何か――何かが隠れているはずだ。
その時、鏡の中の自分がほんの一瞬だけ「笑った」ように見えた。
「……え?」
俺自身は無表情だったのに――確かに、鏡の中の俺の口元が僅かに歪んだように見えたのだ。
再び背中に冷たい汗が流れる。俺は鏡を見続けるべきか、今すぐここから逃げ出すべきか迷いながら、その場に立ち尽くしていた。
鏡の中の俺は、じわじわと笑みを歪めていった。その不気味な表情は、立ち尽くす俺とはまるで別人のようだった。さらに、鏡の中の俺は、ゆっくりと手を首元に持っていき、その指先で自分の首を引っ掻き始めた。
(……何だこれ……!?)
気味の悪さで思わず声を上げそうになったが、静まり返った店内で騒ぐわけにはいかず、喉元で声を飲み込んだ。しかし、その瞬間――俺の首から「何か」が滴り落ちた感触がした。
視線を落とすと、制服の襟元に染み込む赤い液体が目に入る。それが「血」であることを理解するのに時間はかからなかった。
「……血?」
動揺しながら慌てて自分の首に手を触れると、ひりつく痛みが走り、指先にざらつく感触が伝わった。抉れた皮膚の感触がはっきりとわかる。
(嘘だろ……俺、何もしてないのに……!)
鏡の中の俺は、さらに深く首を掻きむしり、血を滴らせながら笑い続けている。俺が止めようと動こうとすると、鏡の中の俺も同じ動きを繰り返す――だが、その笑顔と行動だけは俺の意志とはまったく違っていた。
パニックに陥りそうになる中で、頭の片隅には冷静な自分がいた。
(ここから逃げろ……この鏡は普通じゃない……!)
俺は必死に足を動かし、鏡から遠ざかろうとした。しかし、視界の端に映る鏡の中には、女性が俺の後ろに立っていた。
その女性は何処かでみたと思っていた俺は直ぐに理解した。
(団地の時の⋯!)
女性は鏡越しに、俺を抱きしめるように立ち、その腕を現実の俺にも回してきた。冷たくも鋭い感触が首筋に触れ、俺は反射的にもがき抵抗するが、その抱擁を振りほどくことはできなかった。
(くそ……駄目か……!)
女性の腕が俺を強く締めつけ、首筋の痛みが次第に麻痺していく。意識がぼんやりと遠のいていく中で、鏡の中に新たな異変が起きた。
――鏡の中から、いないはずの三枝沼が現れた。
三枝沼は、鏡の中の俺にそっと近づき、その手に優しく触れた。すると、鏡の中の俺は、歪み切った笑顔をゆっくりと消し、やがて腕を下ろすと膝をついて泣き出した。
その様子に、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。気づけば、現実で俺を抱きしめていた女性の霊は消えていた。首筋の感覚が戻り始める中、鏡の中で泣き続ける俺の姿を見て、俺は近くに立つ三枝沼に目を向けた。
三枝沼は、静かに俺を見つめていた。
不思議と、俺は「もう二度と彼女が戻らない」と感じた。そして、その気持ちが言葉となって口から飛び出した。
「俺は前のお前が良い……! 周りと仲良くしてるお前より、しつこくラインをよこすお前が、俺と同じお前が!」
どうしてそんな言葉を紡いだのか、自分でも分からなかった。ただ、今の三枝沼は、彼女自身が望んだ「何か違う姿」に見えたからだった。
三枝沼は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑み、小さく口を動かした。
「壊して。」
その言葉が声にはならなくても、口の動きだけで何を言っているのか分かった。俺は即座に鏡を拳で叩きつけた。
ガラスが割れる音が響き、鏡は粉々に砕けた。
その瞬間、まるで世界そのものが揺らぎ、壊れるような感覚に襲われた。周囲の空気が変わり、耳の奥で俺自身の声が響いた。
「……ごめんなさい。」
俺は、その言葉がどこから来たのかも分からないまま、暗闇に包まれていった。
そこからがまた地獄だった。
鏡を叩き割った俺は、その音を聞きつけた警備員にすぐさま抑えられ、逃げる間もなく連行された。警備室で散々怒鳴られた挙句、警察に引き渡される羽目になった。
パトカーの中、俺はぼんやりと考えていた。
(短期間で何度警察のお世話になってるんだよ……これで何回目だ?)
そんな自虐的な思考を抱えながら、俺は留置所で一夜を過ごすことになった。冷たい床と薄暗い空間の中で、今後どうなるのか不安しかなかった。
翌日の取り調べでは、さらに苦しい時間が待っていた。女性店員からの証言で、俺は「何度も店に通っていた不審者」として疑われ、警察官たちに厳しく追及された。
「何で鏡を割ったんだ?」
「本当のことを言え。」
その問いに必死に「鏡が普通じゃない」「霊的な何かがあった」と説明したが、返ってくるのは冷たい目と呆れたため息だけだった。
(頭のおかしい奴扱いされる目って、こういうのか……。)
その視線が刺さるように辛かった。
やがて伯母さんが迎えに来てくれた。警察での話し合いの後、不思議と警察官たちの態度が和らぎ、俺はようやく自宅に帰れることになった。
軽自動車の助手席に座る俺に、伯母さんがぽつりと言った。
「あんた、学校は停学だって。……よかったわね、退学じゃなくて。」
その声は優しかったが、どこか気を使うような口調だった。それがかえって胸に刺さり、俺はいたたまれない気持ちになった。
深いため息をつきながら、返されたスマホを確認すると、通知が52件も溜まっていた。そのほとんどがラインで、49件は三枝沼からのメッセージだった。
(……あいつ、何やってんだよ。)
それでも、妙な安心感が胸の中に広がった。少なくとも三枝沼は、以前と変わらずに俺に関わってくれている。
(……俺、学校で完全に有名人だな。)
小さくため息をつきながら、揺られる車の中、返信を返していった。
停学中、俺の生活は一変していた。学校に行かない時間が増えたことで、色々な人が俺を気にかけてくれるようになった。
特に田中先生は熱心で、何度も俺の自宅まで足を運んでくれた。正直、俺みたいな問題児の相手をするのは大変だろうと思っていたが、田中先生はそれでも心から俺を心配してくれているようだった。
「何かあれば、何でも相談に乗るからな!」
その言葉は、本当に心に闇を抱えている人間には逆効果なのかもしれない。だが、俺にとってはありがたい言葉だった。田中先生の不器用な熱意に、少しだけ救われる気がしていた。
それ以外にも、翔太がふらりと家を訪ねてきた。
「お前って最近いなくなったキレる子だったんだな。」
翔太の軽い調子に、俺も軽く返す。
「まさか。不幸が重なっただけだよ。俺ぐらいピュアで心が綺麗な人間はいない。」
その言葉に翔太は笑いながら、肩をすくめた。
「まぁバイトだけ次探せよ。首だろ? せっかく楽だって言ってたのに残念だな。引っ越しのバイトでもやれよ。」
他愛もない話をして笑い合っていたが、翔太の訪問がどれだけ救いになったかは、きっと本人には伝わっていないだろう。
何度も尋ねてくれる来客に、両親へ迷惑をかけている気がして申し訳なかった。だが、俺が停学になったことに対して、親は何も責めるようなことは言わなかった。それがどれだけありがたかったか分からない。
停学中の自宅は、思った以上に静かで平穏だった。
そんな矢先、チャイムが鳴った。扉を開けた俺は、そこに立っている人物に思わず驚きの声をあげた。
「三枝沼?」
彼女がラインで以前の調子に戻っていることは感じていたが、まさか直接家に来るとは思わなかった。
「よく家がわかったな?」
そう問いかけると、三枝沼は淡々と答えた。
「田中先生が教えてくれたわ。」
その返事に俺は呆れる。
(おいおい……個人情報がうるさい時代に、よくもまあ教えたな、田中先生。)
「俺に聞けば早いのに……。まあいいよ、上がれよ。狭いけど。」
そう言って中へ招き入れようとすると、三枝沼は一歩踏み出しかけた足を止めた。
「どうした?」
俺が問いかけると、三枝沼は少し戸惑うような表情を浮かべながら、玄関の中をじっと見つめている。
三枝沼は軽く首を振り、目を細めて玄関の奥を見据える。
「……何でもない。」
そう言いながらも、彼女の足取りはどこか慎重だった。俺も妙に気になりつつ、玄関からリビングへと案内した。
「んじゃとりあえず俺の停学と引き換えに、めでたしでいいんだよな?」
俺が冗談混じりに話すと、三枝沼は静かに微笑んで言った。
「大丈夫。原因はあの鏡から始まったことだから。本来なら、壊すだけじゃ田町先輩の話を聞く限りでは駄目だったはず……でも不思議なことに、あなたが壊したことで元に戻ったの。」
その言葉に俺は疑問が膨らむ。
「なんでなんだ?」
三枝沼は少し考えるような仕草を見せてから答えた。
「わからない……もしかしたら、鏡の中のあなたが嫌がったのかもしれないわ。」
思わず俺は苦笑しながら返した。
「いやいや、そこは喜んで変われよ……。」
その言葉に三枝沼は淡々とした口調で続けた。
「あなたが望んだ答えは、“変わってほしい”という願いじゃなかった……だからよ。でも、田町先輩のように鏡に打ち勝つ人もいるから。」
三枝沼の言葉に、ふと俺は思い出した。彼女が鏡の中の自分を受け入れたその姿を。無表情で、でもどこか穏やかに見えた彼女を。そして、俺は改めて思ったことを口にした。
「でも……俺は前の三枝沼に戻ってよかったよ。」
その言葉に三枝沼は少し驚いた顔を見せたが、すぐに柔らかく微笑んで、短く呟いた。
「そう。ならよかった。」
その後、俺はラインの件で軽く説教を始めた。「あの通知の量はやばいから控えろよ」と伝えると、三枝沼は渋々ながらも「分かった」と頷いた。
帰り際、ふと思い出して三枝沼に尋ねた。
「そういえば、バイトはどうすんだ?」
すると三枝沼は、いつものように怪しい微笑みを浮かべて言った。
「もう行く必要ないから辞めたわ。」
予想通りすぎて俺は笑いながら言った。
「だよな、まあそうなるわな。」
その俺に、三枝沼はまたもや怪しい笑みを浮かべて続けた。
「新しいアルバイト先が見つかったら教えてね。」
「ん? ああ、別にいいけど……なんで?」
俺が首をかしげて聞き返すと、三枝沼はさらりと言った。
「同じところにするから。」
その一言に、少しだけ嬉しい気持ちと、ゾッとする恐怖を同時に感じた俺は、複雑な思いで両親と共に彼女を見送った。
停学の残りの日々を両親と静かに過ごしつつ、これからの学校生活や自分自身について、ぼんやりと考える時間が増えた。
そして何より――これからも、あの奇妙な三枝沼と続いていく日々を、俺はきっと受け入れるのだろうと感じていた。
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2026/1/9:『ゆうじんのかお』の章を追加。2026/1/16の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/8:『ついてきたもの』の章を追加。2026/1/15の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/7:『かわぞいのみち』の章を追加。2026/1/14の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/6:『まどのそと』の章を追加。2026/1/13の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/5:『おちゃ』の章を追加。2026/1/12の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/4:『かみ』の章を追加。2026/1/11の朝4時頃より公開開始予定。
※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
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