魔法使いと皇の剣

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4章 波乱

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 凄まじい轟音が空を揺るがし、無数の叫び声が戦場を覆っていた。

 焼け焦げた土の匂いと、鉄と血が入り混じる戦の臭いが、風に乗って丘の上まで届く。

 ミエラの目の前には、かつて彼女が驚嘆したオーデントの壮麗な城壁があった。
 しかし、今やその威容は、地を這う無数の屍と飛び散る鮮血によって塗り替えられていた。

 城壁の外、かつて美しく整えられた高原は、死と破壊の舞台と化していた。
 兵士たちの倒れた身体が乱雑に転がり、血が土を染めてゆく。
 砂塵が舞い、陽光の下で影を生み出す——そのすべてが、ミエラの目に焼き付いた。

「始まったか……」

 レグラスの低い呟きが、背後から響く。

 その言葉の意味をすぐに理解したミエラは、何も考えずに駆け出した。

 誰かが呼び止める声がしたが、気にも留めなかった。

 そして丘の上までたどり着き、戦場を一望する。

 彼方では、黒く蠢く影がうごめき、甲冑に身を包んだ騎士たちが次々と剣を振るっていた。
 戦場の中央には、オーデントの騎兵隊が側面から敵陣を突くべく駆け抜ける姿が見える。
 それでも、敵の波は絶えることなく、ひたすらに前進を続けていた。

「こんな……」

 ミエラは呆然と呟く。

 その直後、彼女の背後から駆け寄ってきたボルボが、戦場を見下ろしながら驚嘆したように言った。

「……こりゃすげぇな。船の上での戦いなら慣れてるが、こいつは次元が違うぜ」

 ミエラは彼の言葉に、わずかに眉をひそめる。
 まるで他人事のような口ぶりに苛立ちがこみ上げかけたが、それを押し殺した。

(この戦いは彼には関係のないこと……それに、私にも)

 そう思った瞬間、心の中にある感情が変化する。

 自分が本当に心配しなければならないのは、オーデントの勝敗ではない。
 ——アイリーンだ。

 彼女は無事なのか?

 ミエラは深く息を吸い、目の前の戦況を見つめ直した。

 遠くを見渡せば、一目でオーデントが優勢だと分かった。

 敵軍の多くは、暴食の権威に歪められた眷属や、かつてのホイスタリンの兵士たちだった。
 しかし、統率が取れておらず、無秩序に突撃するだけの烏合の衆だった。

 対するオーデントの騎士たちは、熟練した戦術を駆使し、冷静に敵を翻弄していた。
 バリスタの矢が猛威を振るい、魔石を込めた投石機が敵陣に爆発を巻き起こす。
 戦場のあちこちで火が上がり、オーデントの重兵が槍を構えて迎撃している。

「このままでは、オーデントの勝ちは揺るがないだろう」

 レグラスが静かに言った。

 彼もまた戦場を見つめながら、感情を押し殺したような声をしていた。
 彼の背後には、彼と共にここまで来た数人の仲間たちが並び、無言で戦況を見守っている。

(……だけど、何かがおかしい)

 ミエラは考える。

 これほどまでに一方的な戦いになるのならば、何故敵軍はこの状況を受け入れているのか?
 なぜ、何の策もなく、ただひたすらに突撃を続けているのか?

 戦場を覆う砂塵の向こうに、まだ見えていない「何か」が潜んでいる気がしてならなかった。

 ミエラは深く息を吸い込み、レグラスを見据えた。

「——お願いです。オーデントに向かわせてください」

 しかし、レグラスはすでに彼女の言葉を見抜いていたかのように、静かに首を振る。

「無理だ」

 ミエラはわずかに眉をひそめた。

「……まだ何も言ってませんが?」

 レグラスは目を細め、冷静に答える。

「君はオーデントに向かいたいのだろう。だが、あの戦場を抜けるのは不可能だ」

 戦場を見下ろす。
 騎士たちは整然と隊列を組み、暴食の軍勢を迎え撃っていた。

 ホイスタリンの軍勢は無秩序に突撃し、オーデントの戦術の前に次々と倒れていく。
 すでに勝敗は決したも同然——そう誰もが思うだろう。

「少なくとも、オーデントが勝つまで時間はかからない。だから待つんだ」

 レグラスの声は、確信に満ちていた。

 だが、ミエラはその目を見据え、強く言い返す。

「……レグラス様もお気づきのはずです。この戦いの不可解さに」

 レグラスの表情が一瞬だけ曇る。

 ミエラは続けた。

「統率の取れていない敵が、無謀な突撃を繰り返している。まるで、勝利そのものに意味がないかのように。もしこの戦いの裏に、何か別の意図があるのなら——」

 レグラスは静かにミエラの言葉を聞いていた。やがて、目を閉じ、息を吐いた。

「……私も、そう思っている」

 その言葉に、ミエラの胸がわずかに高鳴る。

「ならば——」

「だからこそ、君を行かせられない」

 レグラスの目が鋭く光る。

「もし、私たちの考えが杞憂に終わり、オーデントが何事もなく勝利するなら——その時に迎えに行けばいい」

「ですが!」

 ミエラが食い下がる。

 しかし、レグラスは静かに首を振る。

「だが、もしこの先、何かが起こるとしたら? 何者かが、この戦いの結末そのものを利用しようとしているとしたら?」

 レグラスの声は静かだが、確信に満ちていた。

「君はその時まで、私の側にいてもらう。そして——共に、民を導く。いや、救うのだ」

 ミエラは息を飲む。

 レグラスは待っているのだ。

 この戦の"先"に、何かが訪れることを——そして、自らそれを救う存在になろうとしている。
 竜族に導かれた者として、神の加護を受けた存在として——。

(……違う)

 ミエラの中で、何かが音を立てて崩れるような感覚があった。

 レグラスは"何かを"知っている。
 もしくは、"何かを"信じている。

 だが、それは本当に正しい道なのか——?

 ミエラは、戦場に目を戻した。

 その時だった。

 ——異変に気づいたのは、ほんの一瞬だった。


「……あれは?」

 視線が、戦場ではなく、その"先"に向かう。

 オーデントの街の上空——そこには、黒い雲が広がりつつあった。


 最初から、あったのか?
 それとも、見落としていただけなのか?

 だが、それは違う。

 戦場の上空には、一片の雲もなかった。
 照りつける太陽が、地を焦がし、死闘の場を照らしている。

 しかし、オーデントの街の上空だけが、黒く覆われ始めていた。

 しかも、それはゆっくりと、しかし確実に広がっている。

 まるで——何かを隠すように。

 ミエラは、無意識のうちに、背筋が凍るのを感じていた。

「……レグラス様、あの雲を」

 彼女が言うよりも早く、レグラスもまた、静かに空を見上げていた。

「あれは……?」

 レグラスの目が細められ、その瞳の奥に、確かな焦りが滲んでいた。

 彼だけではない。
 ボルボをはじめ、周囲の者たちもようやく異変に気づき、静まり返っていた。

 しかし——

 戦場にいる騎士たちは、まだ気づいていない。

 今もなお、彼らはホイスタリンの軍勢との戦いに集中し、剣を振るい続けていた。
 彼らの視線はすべて目の前の敵に向けられ、背後で起きつつある異変には、まだ誰も気づいていないのだ。

(アイリーン——!)

 ミエラの胸中に、親友の姿が浮かび上がる。

 無意識に駆け出そうとしたその瞬間、彼女の腕を強く掴む者がいた。

「——っ!」


 反射的に振り向くと、そこにいたのはレグラスだった。

「放してください!」

 思わず彼を睨みつける。

 しかし——

 その表情を見た瞬間、ミエラは言葉を飲み込んだ。

 そこにあったのは、明らかな恐怖だった。

 ——英雄願望に囚われ、"運命の王"を名乗る男。
 民を救うと口では言いながら、その実、戦乱の訪れを待ち望んでいるようにさえ思えた男。

 彼なら、この状況を喜ぶのではないか?
 オーデントが混乱に陥ることすら、自身の運命を示す機会と捉えるのではないか?

 ——そう、ミエラは思っていた。

 だが、レグラスの顔には、そんな驕りも期待もなかった。
 ただ、純粋な"恐怖"が刻まれていた。


(……この人は、本当に"王子"だったんだ)

 ミエラは、初めて理解した気がした。
 この男がかつて、何故これほど多くの人々に慕われていたのかを。

「これは……そんな……」

 レグラスは呆然と呟く。

 ミエラもまた、駆け出そうとしていた足を止め、彼の言葉を待った。

 すると、同じく上空を見ていたボルボが、戸惑いながら呟く。

「なんだ……ありゃ……? 鳥か?」

 その言葉に、全員が上空を仰いだ。

 ——見上げた者たちの顔に、次々と恐怖が浮かぶ。

 黒雲の広がるオーデントの上空——
 その陰の中から、異形の影が無数に現れていた。

 巨大な翼を広げた、それは確かに"鳥"のようにも見えた。

 だが、鳥とは異なる異様な身体。
 長くねじれた首と、人の腕にも似た異様に長い爪。
 灰色に濁った瞳が、冷たく地上を見下ろしている。

「アスケラの眷属……」

 誰かが、震える声で呟いた。

「ゲルグ……」

 その名を口にした途端——

 上空の影が、一斉に羽ばたいた。

 そして、その異形の群れは、まっすぐオーデントの街へと降下を始めた。
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