魔法使いと皇の剣

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3章 神の肉

秩序の結界

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 ミエラたちはターガスを先頭に馬を走らせていた。砦に向かう途中、それぞれが黙り込み、自分の中で考えを巡らせていた。砦で待ち受けているのは何か、どれほどの危険が潜んでいるのか――それぞれが緊張感を抱えながら、馬を走らせていた。

 やがて、先頭を行くターガスが静かに口を開いた。

「馬の速度を落としてください。砦が見えてきました。」

 その言葉にミエラとアーベンはすぐに手綱を引き、馬を緩める。目を凝らして前方を見やると、霧がかかる中に砦の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていた。周囲は不気味なほど静まり返り、微かな風が木々を揺らす音だけが聞こえる。

 ターガスは馬を止め、手で合図を送りながら周囲を警戒している様子だった。その鋭い目つきが、不穏な気配を感じ取っているように見える。


「あれが砦です……。」
 ターガスはそう呟くと、砦の方へと目を凝らした。

 ミエラも馬を止め、視線を砦に向ける。霧の向こうに見える砦は、どこか異様な雰囲気を放っていた。普段の砦であれば、人の気配や見張りの姿があるはずだが、それらは全く見当たらなかった。代わりに、砦を覆うように漂う不気味な空気が、何か異変を物語っていた。

「人の気配が……全くないですね。」
 ミエラが静かに言葉を発すると、アーベンが冷静な声で応じた。

「おそらく、これが村で起きた異変の延長だろうね。」

 アーベンの静かな声が砦の前で響く。その言葉に、ターガスは無言で頷き、剣の柄に手を添えながら警戒を強めた。周囲に漂う不穏な気配が、嫌でも事態の深刻さを感じさせる。

 ミエラは砦の中を覗き込み、その光景に息を呑んだ。目の前に広がるのは、異形の地獄――人が人を捕食していたのだ。かつてこの砦を守っていたであろう兵士たちや村の住人たちが、理性を失い、同胞の肉を貪っている。

 その凄惨な光景に、ミエラの顔は引きつり、足がすくむような感覚に襲われた。思わず後ずさるミエラを見たターガスが、低い声で語りかける。


「見るのは初めてですか? 驚くのも無理はありません。あれがグールです……暴食の神の呪いによって、消えない飢えに支配され、狂った者たちの成れの果て。」

 その声には、深い苦悩と怒りが滲んでいた。ターガスは剣を握る手に力を込め、視線を砦の中に向ける。

「彼らは人としての理性も失い、魔物にすらなれない半端者だ。飢えだけが生きる目的となり、周囲を喰らい続ける……それが暴食の神のもたらした惨劇だ。」

 ターガスの重い言葉が、ミエラの心にずしりと響く。目の前の惨状を直視しながら、胸の中に湧き上がる恐怖と嫌悪を必死に押し殺した。

 アーベンは静かに砦の中を観察しながら、冷静な声で言葉を紡いだ。

 アーベンは静かに砦の中を観察しながら、冷静な声で言葉を紡いだ。

「見れば見るほどひどい有様だね。村の異変がこの砦にまで波及したことは明らかだ。だが、暴食の神が死んだいま⋯いったい何が彼らを狂わせたのかね」

 その言葉に、ミエラとターガスはアーベンに目を向けた。彼の瞳には冷静さと決意が宿っており、状況を冷徹に分析しているようだった。

「暴食の神の眷属たちが残した痕跡だとしても、これほどの広がり方は異常だ。……厄介な存在が裏にいそうだ。」

 その言葉が意味するものの重さに、場の空気が一層緊迫感を増していった。

「しかし、砦の中はこの状況です。やはり、援軍を待ってからでなければ……」

 ターガスの言葉に、ミエラは一瞬迷った。彼の意見には同意したい気持ちもあったが、時間が限られていることを考えると、それを待つ余裕はなかった。焦りが胸を締め付ける中、アーベンが口を開いた。

「ミエラ。君はこの大陸に来た時、擬似的なセイクリッドランドを作ったと言ったね?」

 その問いにミエラはハッとして顔を上げる。アーベンの意図をすぐに察しながらも、静かに頷いた。

「それは……可能です。簡易的なものであれば、秩序のセイクリッドも作ることができます。ただ、それで彼らを暴食の権威から解放できるかどうかは……」

 ミエラが言葉を濁すと、アーベンはわずかに微笑みながら答えた。

「解放? ああ、それは無理だろうね。最初から期待していない。」

 その冷静な口調に、ミエラは思わず言葉を詰まらせた。アーベンは続ける。

「ただ、村の少年たちが無事だったのを見れば、君の力でグールたちを退けることはできるはずだ。解放する必要はない。少しの間でもあの群れを遠ざけることができれば十分だよ。」

 その言葉には、理性的で現実的な判断が込められていた。しかし、ミエラはその冷徹さに内心で底知れない感覚を覚えた。グールと化したのがかつては自国の民であったことを思えば、彼らを「退けるだけ」で済ませる発言に、人間味の欠けた何かを感じたのだ。

 それでも、アーベンの提案が唯一の打開策であることは理解していた。時間を稼ぐために必要な手段――それが擬似的なセイクリッドランドの創造だった。

「分かりました……やってみます。」

 ミエラは心にわずかな葛藤を抱えながらも、力強く頷いた。彼女の中には、アーベンへの不安と、今の状況を何とか打破しなければならないという使命感が複雑に絡み合っていた。

「よし、君に任せる。」

 アーベンは満足そうに頷くと、ターガスに目を向ける。

「ターガス、ミエラが準備する間、彼女を守るんだ。グールが押し寄せてきても、ミエラが力を発揮する時間を稼ぐ必要がある。」

「承知しました、アーベン王子。」

 ターガスは毅然とした態度で返事をすると、剣を構え、周囲を警戒し始めた。ミエラは深く息を吸い、緊張感を振り払うように自分を奮い立たせた。

 ミエラは深く息を吸い込み、精神を集中させた。心の中にある秩序の概念を呼び起こし、徐々にその力を形にしていく。目を閉じて意識を研ぎ澄ませると、周囲の空間が変化していくのがわかった。かつてアルベストで結界を形成した時とは違い、今回の結界はさらに広範囲に及んでいた。

 だが、混沌の結界とは全く異なる性質を持つ秩序の結界がもたらす感覚に、ミエラは戸惑いを覚えた。そこには、澄み切った静寂と透明感が広がり、空間そのものが浄化されるような感覚があった。結界の内部にいる全ての存在が調和の中で一つに溶け込むような、不思議な感覚がミエラたちを包み込んでいく。

 その感覚は受け入れられている安堵を与える一方で、まるで自分という存在が薄れ、消えてしまいそうな恐怖も感じさせた。自分自身が秩序そのものと同化してしまう――そんな錯覚に陥るようだった。それでも、ミエラはその感覚に負けまいと耐え、意識を砦全体に向けて結界を完成させることに集中した。


 光が砦を包み込むように広がり、結界が完全に形成された瞬間、空間全体が静まり返り、何か目に見えない力が動きを封じているのを感じた。ミエラは額に汗を浮かべながらも、ほっと息をつき、目を開ける。

 結界が張られた空間内には、かつての不気味さや混沌の残滓が消え去り、清浄な雰囲気が漂っていた。だが、その一方で、秩序の力が周囲にいるすべての者を支配しているような威圧感もあり、空気には張り詰めた緊張感があった。

 ミエラはその場に膝をつきながら、自分の意識が薄れかけた感覚を振り払うように頭を振った。そして、ターガスとアーベンの方を見上げる。

「結界……完成しました。これで⋯グール達をどうにかできれば」

 ターガスは剣を下ろし、ほっとした表情を浮かべながらも、警戒を解かずに周囲を見渡した

「⋯!? アーベン王子。グール達を!」

 その言葉を受けてミエラも視線に目を向けるとグールたちは苦しげに呻きながら、結界の範囲から逃げ出そうとしていた。

 その様子を目にしたミエラは驚きを隠せなかった。ミエラ自身、簡易的な結界がここまでの効果を発揮するとは考えていなかった。ただ、神の権威を持たないこの結界で、グールたちを退けることができれば十分だと思っていた。だが、現実にはさらに大きな影響を及ぼしていた。

 結界の中で苦しむグールたちの中には、身体がまるで日の光に炙られるかのように焼けつき、絶叫を上げながら倒れ込む者もいた。その異様な光景を見たミエラは、自分の結界が発揮する力に困惑しながらも、どこか恐れを感じた。

 アーベンはその様子を静かに見つめながら、低く呟いた。
「やはり……神の――」

 その言葉はミエラの耳に僅かに届き、不安げな表情で問いかけた。
「アーベン王子……?」

 しかし、アーベンは何事もなかったかのように微笑み、さらりと話題を切り替えた。

「いや、素晴らしい。この結界は期待以上の効果を発揮しているよ。」

 その穏やかな声に、ミエラは戸惑いつつも、それ以上問い詰めることができなかった。アーベンはターガスの方を向き、指示を出した。

「ターガス、ミエラの精神が切れる前に、砦内の探索を急ぐ必要がある。彼女は結界の維持で動けない可能性が高い。だから、私はここに残る。君に探索を頼めるかい?」

 ターガスはしっかりと頷き、剣の柄に手を添えながら答えた。
「承知しました。アーベン王子、ミエラ殿をお守りください。砦内を急ぎ探索してまいります。」

 その言葉に、アーベンは満足そうに頷き、結界の中心で膝をつきながら力を振り絞るミエラをちらりと見やった。

「頼もしいよ、ターガス。気をつけてくれ。」

 ターガスは静かにその場を離れ、砦の奥へと進んでいった。一方、ミエラは結界の維持に集中しながら、視線をアーベンに向けた。

「アーベン王子……この結界がこれほどの力を持つのは、どうしてなのでしょうか? 私自身も、ここまでの効果を期待していたわけではありません……」

 ミエラの不安げな問いかけに、アーベンは一瞬視線を彼女に向け、意味深な笑みを浮かべた。そして静かに口を開く。

「それは君の力がただの魔法使いのそれではないからだろうね、ミエラ。それだけだよ。」

 その言葉は曖昧で、どこか核心を避けるようだった。ミエラはその答えに違和感を抱きながらも、今は結界の維持に集中するしかなかった。
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