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そっけない恋人

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彼の部屋の中はスッキリと片付いていて、テレビとテーブルとひとりがけのソファに、勉強机と茶色いカバーの掛かったベッドが置かれていた。テレビの下のCDプレーヤーからは聴いたことのない洋楽が控え目な大きさで流れている。壁には彼の好きなアメリカのアーティストのTシャツと、ライブに行ってキャッチしたと彼が自慢げに語るサイン入りのタオルが大事そうに飾ってあった。
部屋に入ってコートを脱いだとたん、彼に両手で顔を包まれて長いキスをされた。さっき食べたカレーのにおいが舌を通して伝わってくる。ちょっと待って、と言う暇もなくベッドに倒され服を脱がされた。彼の舌が私の口から胸元におりてくる。彼の荒い息遣いが伝わった。

☆☆☆

静寂を取り戻した部屋で私たちは少しの間ベッドで寝ていたが、起きて服を着た。
宍戸はインスタントコーヒーを淹れてくれた。彼の家にあるコーヒーはただ苦いだけでちっとも美味しくなかったが、私はお礼を言って小さなテーブルの横に座ってそれをゆっくり飲んだ。コーヒーを飲み終わると、
「じゃあ、悪いけど俺、これから仕事の書類を作らないといけないんだ」彼がそう言って机に座ってノートパソコンを開いた。
「え? でも私、今来たばっかりなんだけど……」私が驚いて言った。
「いや、でも本当にやることがあるんだよ。歩実はないのか? 勉強会とか、症例発表(担当した患者のリハビリ内容や病状の変化を書類にまとめて発表し、先輩や上司からアドバイスをもらう発表会のこと)の書類つくりとか」
「ないよ。休日にそういうことをするのが面倒そうで病院で働くのはやめたの。うちの施設は平日に仕事が終わってからちょっと勉強会があるだけ。月に1回くらい」
「施設はやっぱり楽なんだな。でも最初のうちに病院で働いてしっかり勉強しておいたほうがいいって大学の教授も言ってたぞ」
「まあね、言われたけど。でも私には無理だなって思ったから。ねえ、その書類どうしても今日やらないといけないの? せっかく来たんだし夕飯もどこかで食べようよ。この辺は飲食店もたくさんあるし、お店周りも楽しそう」
「いや、俺太りたくないから夕飯はあまり食べないし」彼がソファに座ったまま贅肉のほとんどついていないおなかを撫でて言った。「歩実もあんまり食べると太るぞ。夕飯なんてもう寝るだけなんだから、そんなに食べなくていいんだよ」
彼はそう言ってパソコンで仕事の書類らしきものを読み始めた。
「じゃあ、今度一緒に一泊でどこか温泉旅行でも行かない? 羽を伸ばしてのんびりしようよ」
「え? お前、おばあちゃんみたいなこと言うんだな」彼が一瞬パソコンから目を離しこちらを見て笑った。「休みの日は俺はライブに行くんだよ。ほら、これ、ウィリアムロッキン。かっこいいだろ?」彼が部屋の壁にかかったサイン入りのタオルを指さして言った。「ほかにも好きなアーティストがいてさ、一緒に来るか?」
「いや、私ロックはあんまり……」
「ふうん」
彼はつまらなそうにそう言ってまたパソコンに目を戻した。キーボードを打つ音だけが部屋に虚しく響いていた。私は少しの間黙って彼のうしろ姿を見ていたが、やがて諦めてカバンを持って彼の家を出た。ドアを閉めると、冬の隙間風のようなため息が口から洩れた。

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