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片足のないおじいさん

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午後は団体でのリハビリはなく、スタッフは個別で自分の担当する患者を回りリハビリを行っていく。対象は状態が悪くスタッフが1対1でつかなければ危ない患者や、施設に入ったばかりでまだ慣れていない患者だ。
昼休みを終え、最近入所してきたばかりの椎木(ついき)さんという男性患者のところへ行った。
「おはようございます。椎木さん、今日は体調はどうですか? リハビリに呼びに来ました」私が彼のいる部屋のカーテン越しに声をかけた。
「おう。リハビリね、行けるよ」
そう声がしてカーテンを開けると、70代後半の小柄な男性が本を閉じるところだった。彼は糖尿病で左膝のやや下から足を切断していた。しかし左足がないこと以外はごく普通の人だ。読書が好きでリハビリに迎えに行くといつも本を読んでいる。
「車いすに移れますか?」
「うん」
椎木さんはベッドに腰掛けて右足だけに靴をはき、車いすの肘おきとベッドの柵をそれぞれの手でつかんでひょいっと車いすへ移った。
 私は車椅子を押して椎木をリハビリ室まで案内した。
「ところで、今日は何年の何月何日か分かりますか?」私が聞くと、椎木さんは今日の日付けを間違いなく答えた。
「ばっちりですね」
「君に聞かれるかなと思って、朝新聞を読んだときにチェックしておいたよ」彼が自慢げに言った。記憶力や見当識はしっかりしているので、病気で足を切断することがなければ、まだまだ一人暮らしだってできていたんだろうなと思う。
 リハビリ室へ行ってベッドへ移ってもらい、全身のストレッチをした。
「今日は悪い夢を見て良く眠れなかったよ」椎木さんが言った。
「どんな夢だったんですか?」
「夢の中では切ってしまった左足があるんだ。だけどそこにはたくさんのカラスが集まっていて、そのカラスたちがいっせいに僕の左足をつついているんだ」彼が言った。「それで悲鳴を上げながら追っ払うんだけど、それでもカラスたちは逃げていかない。それで汗だくになって目が覚めたよ」椎木さんは目を細めて嫌そうな顔をした。
「それは大変でしたね」私は同情して言った。
 ストレッチを終えると、朝の集団リハビリでやっているような座ってできる筋トレを指導し、それが終わると平行棒に案内して立ち上がりの練習をした。
 椎木さんは細い腕で棒を掴み、残った右足だけを使って軽快に立ち上がった。細身で身体も軽いので、スムーズに立つことができる。それを10回繰り返した。
「お疲れさまでした。今日はこれでおしまいです」
椎木さんはもう歩けない。しかし歩く必要もない。施設での生活は、車椅子からベッドやトイレに移れさえすればなんとかなる。
「また明日、よろしくお願いしますね」私が言った。「今日はよく眠れるとい
いですね」
「ありがとう」彼が静かに言った。
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