短編集:あくまで私は生きている【2023年度文芸部部誌より】

氷上ましゅ。

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西へと歩む

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ある日、私は詩人と共に海に出かけた。
尤も、唯私は詩人に誘われて行った、というだけなのだが。
季節外れの寂れた海岸には、波と砂が吹き荒れて荒んだ印象を真一文字に投げかけてくる。
私は詩人に向かって静かに声を張った。

「何故、今なんだ?少し待てば夏も盛って丁度いい時期になるというのに。」

詩人は目だけ動かしてこちらを一瞬視ると、いつものようにどこか気だるげな表情をして言った。

いや、今が一番いいんだ。俺の作風は寂れているからな、こっちの方が都合が良い。」

詩人はふっと息を吐くと、兄と同じく頭を軽く掻きむしった。律儀に履いた袴の裾が少し砂に負けている。
私はする事が無かったので、唯ぼうっとして暗く広がる水平線を水彩に写すように見ていた。海の香りが一帯に広がる中で呼吸をして、私は何故か息が詰まる様な気になった。
暗く落ち込んできた空と相まって、その想いは一身に辛く私の胸にのしかかって来た。

「なぁ、」

暫くして詩人は私に声を飛ばした。
私は顔を向けなかった。

「退屈か?」

私ははっとした。その勢いで彼の方を向いた。
詩人は唯意志のはっきりとした死んだ目で海を眺めているだけだった。海の匂いと相まって一層息苦しさを感じた。

「どう、だろうなぁ、」

二拍経って私の口からたとたどしく盛れ出したのはその言葉だった。私は暫時、遣る瀬無いやら憂いやらで、心から声を上げて泣きそうになるのを喉元を必死に抑えて堪えていた。喉の奥底が切なく痛みを上げているのに私は一人気付いたような気付かないようなフリをして、隣にいる今村の弟にそれを悟られないようにとする謎の緊迫感に襲われた。

「……そうかい。」

詩人は酷く虚しそうな表情をしてそう空に呟いた。私はその息遣いにまた心を痛めた。
そうやって海の色や匂いと息衝く詩人に心を投げ小波に瞬きを任せていた時だった。
不意に赤が見え隠れしはじめる。
遠い遠い向こうの風景けしきに、荒んだ紅が混じりだす。

「おい、」

気付けばそう隣に声を飛ばしていた。

「あれ  」

詩人は指をさされた方向に視線を送って、二拍ばかり固まった。

「......血か?」

海の匂いに混じって鉄臭さが鼻先を掠めた。
水面に揺られて何かがこちらに迫ってくる。
.....人?それも若い...............

「なぁ松弛しょうじ、」

ふいと詩人がこちらに向き直った。

「助けるか?俺あ金槌だから無理だが。」

無情だった。無情にも程がある位。

「は、」

口角が震え出すのがわかる。

「決まってるだろ、金槌だとか関係無しに助けるのが人として」
「それはお前が死んでもか?」

食い気味に詩人はそう言ったが、その瞳は真面目に俺を射抜いていた。

「死ぬなんて、この小波でか?」

ゆらゆらと揺れる先に居たのは少女のようだった。
もう戌の刻になろうとしているのに………

「お前、それを俺の前で言うか?」

今村の弟は一心不乱に俺を睨んでいる。だって今村は、今村篤は___

「なぁ、もう帰ろう松弛。空が荒んできた…」

詩人はまるで偏頭痛でも起こしたかのような頭の振り方をして、帰路へ向かって一歩二歩と歩き出した。その、まるで死に人が三途の川の冷たさと花の香りを求めて歩くような姿勢が私の中の何かを掻き立てた。

「待てまこと!」

気付けばそう右手を伸ばしていた。

「その名前で呼ぶな!」

怒号に近い叫びが友人の喉元から切って出される。息を荒くしてまた発す。

「その名前で呼ぶな………  俺にそんな、立派な名前で呼ばれる資格なんて、無い...」

詩人はまた頭を掻きむしった。今村の弟に何があったか、聞いてやれる余裕など私は持ち合わせて居ない。だが流石に、友人としてすべきことはわかる。

「…すまなかった。」

噛み続けた下唇が痺れている。

「       、」

私は詩人の事を彼自身の名前で呼んだ。

「ハ、」

詩人の口から軽く笑いが漏れる。

「いや、筆名で呼ばれるのも、何、……恥ずかしいものだな、」

詩人は妙にたどたどしく、そう言って下を向き続けていた。さっきまでの三途の様子が脳裏にちらつく。

「なぁ、」

詩人が顔だけで私の方に振り返る。






「もう帰らないか、松弛。」

西へと歩む  Fin.

初稿:6月13日
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