短編集:あくまで私は生きている【2023年度文芸部部誌より】

氷上ましゅ。

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フタリシズカ

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「おはよう。今日はどうだいあつし。」

気付けばそう語りかけることのできるくらいに関係は築かれていた。

松弛しょうじか。いつぶりだ?」

彼は私の目を見ながらそう言った。

「定期だから二十日ぶりだな。」
「おおそうか。毎度毎度すまねぇな」

篤はそう言うとにやりと歯を見せて笑った。
まだ日数を数えたりは出来ないようだが、私のことはちゃんと記憶できている様だ。

まことも安心していたぞ。どうだいお前、手の調子は。」

私がそう信を話に出すと篤はふと口角を上げたまま、頭をこてんと傾げた。物不思議そうに言葉を発する。

「………まこと?」

分からない時の動作だった。私は鼻から短く息を吐いて言った。

「お前の弟だ。覚えてやってくれ。今度来たがったら、また連れて来る。」

彼はその後三拍程子供を象った様に私を見上げていたが、また目に生気を戻した。

「それで、手の調子は?」
「ああ、大分と良くなったよ。見てくれ」

そう言いながら篤は引き出しを開けて一枚の紙を取り出した。それを机に手を添えて私の方に押しやる。私はそれを机から持ち上げて目の前にかざした。

「花、かい?」
「そうだ。」

篤は嬉しそうにうんとひとつ頷いた。
五つの花弁らしき物が茎を伝ってこちらに頭を垂れているような素描だった。
私は軽くそれを凝視した。

「…凄いな、前よりも上手くなって………」
「だろう?最近鉛筆の持ち方を思い出したんだ。」

篤は薬に塗れたお陰で、弟のことも、私のことも、篤にとって身体の一部と何ら変わりなかった絵の描き方でさえも、全部そっくり忘れていた。

「……そうか、」

嬉しそうに語る篤に、私はふと伏せ目になった。
まだ、完全にとは言えない。だが確実に、私の好きだった篤に、戻りつつあるのが身に染みてわかった。私はふと顔を上げた。

「そういえば、君に渡したい物があるんだ。」

私は手に持って来た風呂敷包みを解いた。篤もベッドから軽く身を乗り出して中身を覗く。
中には桐で出来た小さな箱を入れていた。箱の蓋をわざとらしく篤の前で開ける。
期待が私の胸で強く揺らいだ。






「………憶えて、ないか?」

彼は蓋の空いた桐箱を両手で持ってまじまじと見つめて、首を振った。

「すまない。萬年筆だと言うのは分かるんだが、」

彼は篤なら絶対にしないであろう表情でそう言った。
私は傷心したが表には出さないようにして下を向いた。

「………そうか、」

中身は篤のお気に入りだった質のいい萬年筆だった。
それも、私が彼に入賞のお祝いとして贈った、半ば記念品のような物のそれだ。
胴軸のところにイニシャルを上品に金文字で入れて、わざわざ桐の箱と熨斗紙までつけて篤に渡した物だった。その時の篤の表情が脳裏に焼き付いたまま離れない。
そうしていると彼が声を発した。

「おれの、名前かい?」

見ると胴軸に右手の人差し指を軽く滑らせていた。

「……君が?」

彼はそう言うと私の方に強く向き直った。
私はその仕草に酷く動揺してしまって、思わずその場で後ろに軽く仰け反った。
硬直した口角と動揺を隠せない目蓋をひくつかせてようやっと出た言葉は、

「………嗚呼。お前に、賞を取った記念に……」

彼はそれを聞くと二秒硬直して、両目から涙をぼろぼろと溢しながら言った。

「そうか、そうだったか、…そうだった、なあ………」

桐箱と萬年筆に篤の涙が伝う。それを見て私は泣かずに居られなかった。
男泣きの醜い空間に私たちは押し込められて、それでも私たちは取り戻した全てを、部屋一杯に充満させて呼吸していた。篤は鼻をすすると、すぐに引き出しから紙を取り出して萬年筆のキャップを開けて紙にインクを滲ませた。
篤の好きだったセピア色が美しく弧を描いて往く。私も涙を拭ってその様子を見ていた。
ものの数分で出来上がったそれは、原稿を思考する信の物憂げな横顔だった。
彼の特徴的な黒子二つもしっかり付いていた。
篤は描き終えると呼吸を荒くしてこちらに顔を向け、そのまま歪んだ表情で言った。

「あぁ、思い出した、思い出した……………全部、全部まるっきり、」

私はその様子に頷き大いに泣いた。目の前に居る「彼」は、完璧なる「篤」そのものだった。
今村篤は、暫くして弟の居る家に帰った。
弟はその兄の立ち姿を見て泣くには泣いたが、顔を歪めるとか声を上げるとか、そんな大の大人がするべきでない泣き方はしなかった。
緩やかに羽織りを流す風のように、詩人はただ静かに涙を流すだけだった。
そして詩人はそのまま数歩兄に近付くと、兄の腹に右の拳で一発仕込んだ。
子供が不満を語る様なそれだった。詩人はそのまま下を向いて拍を置いて言った。

「遅い、」

詩人の袖が涙で染みを作っている。

「俺がどれだけ心配してたと思ってんだ、馬鹿!」

詩人は語気を強めてそう声を張った。
兄はただそれを、「どうしてやれば良いかわからない」といった風に見下げていた。

「…信、」
「急に居なくなっちまったかと思えば、急に施設に投げ込まれて、挙句の果てに記憶まで無くして………」

詩人はそこまで言うと兄に頭を委ねた。

「結果、俺の事も忘れやがって…………………」

詩人は兄の胸で鼻を啜った。篤は、弟を抱きしめて、頭を撫でた。
兄弟間での約束の動作だった。

「…済まなかった、………昔々から、身体の弱い兄さんで、」
「嗚呼、全くだよ。それでどれだけ苦労したか………」

詩人はただ兄の胸で涙混じりに再会を噛み締めていた。
今村の庭には、ただ一つ、二人静の花が淋しく風に揺られて咲いているだけだった。
その時の私は、きっとエロスだかキューピッドだかのある種の神的存在になるしかなかったのだろう。……その後、揺れと津波が彼二人を攫うとは知らずに。

フタリシズカ  Fin.

初稿:4月9日
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