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丿乀の牢籠ぎ
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「なあ松弛。」
友人である詩人はわざわざ筆を置き、そう言って私を呼び止めた。
「アンタ船って乗ったことあるかい」
詩人は長い黒髪をそのままにして私に聞いた。
「何故だ」
「何故ってそりゃあ、俺あ船なんぞ乗った経験が無えからだ。」
詩人は妙に愉しげにそう言った。私はその顔を見てひとつため息を吐いた。
「船、なあ………」
私は一度瞬きをして言った。
「……あるにはあるが、その………………あまり、良い思い出は」
「あるんだな、船に乗っかったことが」
詩人は整った顔を私の目の前にぐいと突き出してそう聞いた。
「……お前、覚えてねえのか」
「何を」
詩人の顔には訝しげが強まるばかりだ。
「……………お前船で一回溺れただろ」
「はあ?」
詩人は不思議そうに言った。
「俺あ船で溺れたって?そんな馬鹿みてえな話」
「嗚呼、うん。あった。あったんだ。」
詩人は一瞬口を噤んだ。
「………松弛、」
詩人の声が軽く震える。
「…それは、兄さんとの間違いでねえか、」
「......は?」
私の額に汗が滲む。
「間違い?そんな馬鹿な話...」
「いや、俺は産まれて一度も船に乗ったこたあねえし、何せ俺と兄さんは肌の色こそ違えど顔なんか鏡に映したみてぇに似てるなんざよく言われる。」
詩人はそう手振りを交えて言うとすぐさま私の方に向き直って左目の下を指差して言った。
「その船に溺れたって奴のここに黒子二つ、あったかい?」
私と詩人は数秒ほど向き合うような形になった。
「いや.........」
私の口から出たのはそんな情けない言葉だった。
「ほら言った!俺と篤の違いは肌と黒子と目のでかさ位しかねえ!」
詩人はそう吐き捨てると私の横に座り直し、文机に肘をついて外を見て呟いた。
「尤も、俺は篤みたいに薬に塗れるほどの馬鹿じゃねえが。」
私はその途端とても不甲斐ない気分になってしまって、思わず彼に向けていた視線を膝に落とした。
「松弛、」
詩人の澄んだ若い声が静寂閑雅な部屋に響き渡る。
「お前、兄さんと“アレ”以来会ってねえだろ」
私は心の内を見透かされているような気になった。
「だから何と言うんだ、」
私は虚勢を張るような言い方をした。
「いや、何、ただ聞いただけだ。」
詩人はあっさりとそう私の方を向きもせずに言った。
「実は船の話はどうでも良くてだな、」
そう文机の引き出しを漁る音と共に無情を装った声が掛けられた。
「近頃兄さんの面会時間がある。」
詩人は青みがかった封筒を出すと、その中から一枚の手刷りの紙を出してきて私に寄越した。私はそこに書かれた文を斜めに読んだ。
○定期面会の御報せ○
今村 信 様
新春の候、┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈。
さて、┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ということで、定期面会を実施致しますことをお伝えします。
日時:┈┈┈年四月九日 午後一時から
場所:本院東棟Bの二号室より、東庭二十四間四方以内
そこまで読んだところで詩人はその体勢のまま俺に言った。
「言っておくが、定期面会と言いつつ篤の面会はこれが初めてだ。
今村信なんざご丁寧に俺の名前なんて書いて寄越してるが、俺はこれっぽっちも向かう気が起きねぇ。俺の代理だなんだと言ってこれから先、面会に行ってくれやしないか。」
詩人は私の方に顔を向けて言った。
「第一俺あ忙しいからなあ。
そんなのに行ってりゃ折角浮かんだアイデアがどっかに飛んでっちまう!
どうだ松弛、俺の為に一役買ってくれやしないか?」
上目遣いで聞いてきた詩人の口の端がにたにたしているのがよく見なくてもわかる。
私は思わず溜息混じりに、
「わかった、私が行けばいいのだろう…… 院までの順路はわかるんだろうな?」
そう言うと詩人は「よしきた」とひとつ頷いて、失敗した原稿の裏に筆を走らせた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「全く、よく出来た弟だな。」
報せの入った封筒と詩人の描いた地図を手に持って、私は詩人の家からの短い帰路を歩んだ。ふと詩人の書いた失敗作を読んでみたが、数行読んで飽きてしまった。
やはりこういうものは何がいいのか分からない。
私はまた溜息を吐いた。
この頃癖になってしまった様だが、もう全てがどうでもいい気さえしてしまう。
私は自宅の書斎に腰を下ろすと、彼への手紙を書いた。
篤へ
もう君と会わなくなって長い時間が経ったが、君は院でどんな風に過ごしているだろうか?
私は変わらず過ごし、変わらず働いているよ。
今度君と会える時間があるだろう。
その時にひとつ、お前に頼みたい事がある。
もしお前が、もしお前が私の言うことを理解出来たのなら、という薄穢い希望を墨に浸してこれに書いて居るのだが、もし、お前が私の事を憶えているならば、
私に向かって、笑ってくれやしないか。
私は君に飢えている。飢えているからこそ、私にただ単純なその笑顔を第一に見せてくれないか。君のいつもの長い前置きや仕草、瞼の使い方や顔の向きだけで訴えるそれを全部差し置いて、 唯、笑ってくれないか。
そしてその次に、「嗚呼憶えているさ」と、私の名を呼んではくれないだろうか。
喩えどんな形であれ、君に会えるのは、私にとって至極嬉しいことだ。
待っている、篤。
松弛
なんともまぁ、恋文のような文だと思った。詩人に見せたら発狂なぞ不可避だろう。
だって、そりゃあそうだ。
もう二十二になる私に恋のひとつやふたつ、さしてくれたって構わないだろう。
そうだろう? 篤。
丿乀の牢籠ぎ Fin.
初稿:3月31日
友人である詩人はわざわざ筆を置き、そう言って私を呼び止めた。
「アンタ船って乗ったことあるかい」
詩人は長い黒髪をそのままにして私に聞いた。
「何故だ」
「何故ってそりゃあ、俺あ船なんぞ乗った経験が無えからだ。」
詩人は妙に愉しげにそう言った。私はその顔を見てひとつため息を吐いた。
「船、なあ………」
私は一度瞬きをして言った。
「……あるにはあるが、その………………あまり、良い思い出は」
「あるんだな、船に乗っかったことが」
詩人は整った顔を私の目の前にぐいと突き出してそう聞いた。
「……お前、覚えてねえのか」
「何を」
詩人の顔には訝しげが強まるばかりだ。
「……………お前船で一回溺れただろ」
「はあ?」
詩人は不思議そうに言った。
「俺あ船で溺れたって?そんな馬鹿みてえな話」
「嗚呼、うん。あった。あったんだ。」
詩人は一瞬口を噤んだ。
「………松弛、」
詩人の声が軽く震える。
「…それは、兄さんとの間違いでねえか、」
「......は?」
私の額に汗が滲む。
「間違い?そんな馬鹿な話...」
「いや、俺は産まれて一度も船に乗ったこたあねえし、何せ俺と兄さんは肌の色こそ違えど顔なんか鏡に映したみてぇに似てるなんざよく言われる。」
詩人はそう手振りを交えて言うとすぐさま私の方に向き直って左目の下を指差して言った。
「その船に溺れたって奴のここに黒子二つ、あったかい?」
私と詩人は数秒ほど向き合うような形になった。
「いや.........」
私の口から出たのはそんな情けない言葉だった。
「ほら言った!俺と篤の違いは肌と黒子と目のでかさ位しかねえ!」
詩人はそう吐き捨てると私の横に座り直し、文机に肘をついて外を見て呟いた。
「尤も、俺は篤みたいに薬に塗れるほどの馬鹿じゃねえが。」
私はその途端とても不甲斐ない気分になってしまって、思わず彼に向けていた視線を膝に落とした。
「松弛、」
詩人の澄んだ若い声が静寂閑雅な部屋に響き渡る。
「お前、兄さんと“アレ”以来会ってねえだろ」
私は心の内を見透かされているような気になった。
「だから何と言うんだ、」
私は虚勢を張るような言い方をした。
「いや、何、ただ聞いただけだ。」
詩人はあっさりとそう私の方を向きもせずに言った。
「実は船の話はどうでも良くてだな、」
そう文机の引き出しを漁る音と共に無情を装った声が掛けられた。
「近頃兄さんの面会時間がある。」
詩人は青みがかった封筒を出すと、その中から一枚の手刷りの紙を出してきて私に寄越した。私はそこに書かれた文を斜めに読んだ。
○定期面会の御報せ○
今村 信 様
新春の候、┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈。
さて、┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ということで、定期面会を実施致しますことをお伝えします。
日時:┈┈┈年四月九日 午後一時から
場所:本院東棟Bの二号室より、東庭二十四間四方以内
そこまで読んだところで詩人はその体勢のまま俺に言った。
「言っておくが、定期面会と言いつつ篤の面会はこれが初めてだ。
今村信なんざご丁寧に俺の名前なんて書いて寄越してるが、俺はこれっぽっちも向かう気が起きねぇ。俺の代理だなんだと言ってこれから先、面会に行ってくれやしないか。」
詩人は私の方に顔を向けて言った。
「第一俺あ忙しいからなあ。
そんなのに行ってりゃ折角浮かんだアイデアがどっかに飛んでっちまう!
どうだ松弛、俺の為に一役買ってくれやしないか?」
上目遣いで聞いてきた詩人の口の端がにたにたしているのがよく見なくてもわかる。
私は思わず溜息混じりに、
「わかった、私が行けばいいのだろう…… 院までの順路はわかるんだろうな?」
そう言うと詩人は「よしきた」とひとつ頷いて、失敗した原稿の裏に筆を走らせた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「全く、よく出来た弟だな。」
報せの入った封筒と詩人の描いた地図を手に持って、私は詩人の家からの短い帰路を歩んだ。ふと詩人の書いた失敗作を読んでみたが、数行読んで飽きてしまった。
やはりこういうものは何がいいのか分からない。
私はまた溜息を吐いた。
この頃癖になってしまった様だが、もう全てがどうでもいい気さえしてしまう。
私は自宅の書斎に腰を下ろすと、彼への手紙を書いた。
篤へ
もう君と会わなくなって長い時間が経ったが、君は院でどんな風に過ごしているだろうか?
私は変わらず過ごし、変わらず働いているよ。
今度君と会える時間があるだろう。
その時にひとつ、お前に頼みたい事がある。
もしお前が、もしお前が私の言うことを理解出来たのなら、という薄穢い希望を墨に浸してこれに書いて居るのだが、もし、お前が私の事を憶えているならば、
私に向かって、笑ってくれやしないか。
私は君に飢えている。飢えているからこそ、私にただ単純なその笑顔を第一に見せてくれないか。君のいつもの長い前置きや仕草、瞼の使い方や顔の向きだけで訴えるそれを全部差し置いて、 唯、笑ってくれないか。
そしてその次に、「嗚呼憶えているさ」と、私の名を呼んではくれないだろうか。
喩えどんな形であれ、君に会えるのは、私にとって至極嬉しいことだ。
待っている、篤。
松弛
なんともまぁ、恋文のような文だと思った。詩人に見せたら発狂なぞ不可避だろう。
だって、そりゃあそうだ。
もう二十二になる私に恋のひとつやふたつ、さしてくれたって構わないだろう。
そうだろう? 篤。
丿乀の牢籠ぎ Fin.
初稿:3月31日
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