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魔界沼の怪魚
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「奴だ!」
巻田の目にも、映ったようだった。
水面から背びれの先端がわずかに浮き、また沈んだ。
「やはり、いたようだな」
「ずっと、この沼にいやがったんだ!」
「でも、また何処へ行った? 魚影も見えないぞ」
私は、冷静に言った。
周辺の水面を必死に照らすが、奴の姿は見えなくなった。巻田も目を皿のようにし、ボートの前後左右に目を向ける。
ドスン!
先程と同じような衝撃が、再びボートの底の方から伝わってきた。先程以上の衝撃である。この暗闇の中、戦慄が走る。奴の仕業か。
二人は体勢を崩し、私はハンドルにつかまった。ボートは激しく揺れている。
「これは、何の真似だ! 奴は、俺達に戦いを挑もうというのか!」
巻田も水面に転落するのを恐れ、船体につかまりながら言うのだ。
「いたぞ!」
私は叫んだ。私の照らす明かりが、奴の背びれを捉えた。黒い棒状に何かが絡みついたように見えるのだ。こんな背びれの魚種など不明である。
そして、薄っすらと魚影も捉えた。やはり三メートル近くある。日本の淡水魚では考えられない化け物だ。昼間、私が釣った大物の草魚の倍以上もあるのだ。一体何なんだ、この魚は・・・ 怪魚・・・ まさしく怪魚である。
ザブン! という水音とともに、怪魚は水中に沈んだ。懐中電灯の小さな明かりだけでは、怪魚の正体が一体何であるのか判断がつかない。
「仕留めてやる!」
巻田はボートから立ち上がり、奴の沈んだ水面に向かって激しく言い放つ。
「あんなもの、二人だけの力では無理だ! こんな暗闇の中、まともな装備もないのだぞ!」
私は巻田に言う。
「逃がしてたまるか! 今しかチャンスはない!」
「危険だぞ!」
「奴は、またくるぞ! 相手になってやる!」
巻田は、私に耳を貸さない。
「どうする気だ!」
巻田は、片付けようとしていた竿とリールを素早く取り出し、スプーンのルアーを装着しはじめる。
「そんな物に食いつくはずがないぞ! このボートに突進する程だ」
「矢浦、見とけ! 次のチャンスだ!」
仕掛けをセットした巻田は、周辺の水面を睨みつける。私は仕方なく、懐中電灯の明かりを照らし続ける。
ふと、この真貝沼で亡くなった黒井今日子の夫のことが思い浮かんだ。彼も奴の襲撃を受け、水面に転落して亡くなったのだろうか。きっとそうに違いない。たった一人で、奴と格闘したのだ。ここは魔界沼・・・
「逃げたな」
私は言った。
その後、数分が経っていた。しかし、もっと長く感じられる。奴の気配が消えたままなのだ。
私は、ほぼ諦めていた。あの怪魚はもう現れないだろう。この真貝沼の何処かに潜んでいるのか、草周湖の方に逃げたのか。
しかし巻田は、まだ諦めきれない様子だった。私から懐中電灯を取り上げ、ボート周辺の水面を自分で照らしはじめた。
「逃がしてしまったか・・・」
ついに巻田も諦めたのか、落胆の声を洩らした。
「また明日だ。ボート乗り場へ引き上げるぞ」
私は彼にそう言うと、ハンドルを切って元きた方向へと、ボートを向ける。二人の足漕ぎペダルは、やや重く感じた。疲労のせいだろう。
懐中電灯は巻田に渡したままであるが、彼はまだ周辺の水面をあちらこちら照らしていた。
「おい! ボートの進行方向の前に、明かりを向けてくれよ」
私は言った。何の目印もない暗闇の水面である。道標の明かりがほしかった。
「分かったよ」
巻田は、私の言う通りに、明かりを照らしはじめた。ボートは草周湖に通じる水路へと向かう。何事もなかったように、ひっそりとした真貝沼を過ぎようとする。
「待て」
草周湖への水路が薄っすらと見えてきた時だった。巻田が急に、ペダルの足を止めた。そのため、私も必然的に足を止めた。
「何だ?」
私は問う。
「波紋だ・・・」
巻田は、懐中電灯の明かりをボートの正面から自分のいるやや左手方向に向けていた。
「自分らの漕ぐボートの波紋だろう」
私は、軽く考えていた。奴は、もう今夜はこないだろうと。ボートの揺らぐ波紋だろう・・・
「違うぞ」
巻田は言いながら、左手の水面の方へ明かりを向けている。
私も、その先に視線を向けた。
「何かいるな・・・」
私は、思わず呟いてしまった。巻田の照らす明かりの先には、確かにボートのもではない波紋が広がっていた。
二人は目を凝らす。ボートから十メートル程先に、自分らのボートと並走して泳いでいる魚影・・・ 小魚や、そんな群れではない。奴か・・・ 特徴的な、あの背びれは見えていない。
「奴だぞ、まだ水面には浮かんではいないが、あの下にはいる。夜になると餌を求めて活発になり、このボートにも突進してきたのだ」
巻田の推測であったが、私もそう思える。
「活発になるのは分かるが、何故、我々に興味を示すのだろう」
「巨体を維持するために、何か大きな獲物を捕食しようと物色しているかもな」
巻田は言うと急に立ち上がり、釣り竿を握りしめた。
「おい! どうする?」
私は問いかけたが、巻田は私に懐中電灯を手渡す。
「絶対に、あれは奴だ! あそこに明かりを向けていてくれ」
彼の言う通り、私は明かりを向ける。まだ波紋は続いている。
私はペダルを漕ぎ、魚影に近づこうとした。魚影は、ゆっくりと動いているように見える。
「奴は、まだいるな! いくぞ!」
巻田は、キャスティングをはじめた。餌を求めて活発になっているなら、食らいついてくるかもしれない。私は期待を感じる。
巻田の放ったルアーのスプーンは、魚影の向こう側に投げ込まれた。
ペダルを漕ぐ足は止まり、必死に明かりを向ける。
突然、水面が持ち上がるようにして、大きな魚影が浮かんできた。尾びれのようだ。でかい・・・ あまりの尾びれのでかさに、懐中電灯を持つ自分の手が震えたのだ。鳥肌が立った。
「手に負えんぞ!」
私は巻田に叫ぶのだが、彼は耳を貸さない。
昼間なら、まだ何とかなるかもしれないが、慣れない初めての沼で、しかも暗闇の中である。危ない。得体の知れない魔物に、魔界沼へ引き摺り込まれようとしている。
奴は、ルアーに反応したのだ。
「巻田!」
私は再び、彼に叫ぶ。リール巻き取り、スプーンを引き寄せながら、奴を誘う。
一投目のキャスティングは空振りのようであったが、確かに奴は反応した。
「奴がスプーンに食いつこうが、どうでもいい! 奴の巨体の何処かに、針が引っかかればいい。こうなったら、しゃくり釣りだ」
巻田は、ルアーを巻き取って言った。
「あんな化け物、釣り上げるのは無理だ。掛かったとしても、暗闇の水中へ引き摺り込まれるぞ」
私は冷静に、彼を諭すように言った。
「矢浦! お前もルアーを投げろ!」
「バカを言うな! 明かりの手もなくなる!」
「二対一なら負けはしない」
「冷静になれ! 掛かっても、郷田社長の持っていたギャフもないし、ここは水深も深そうだ。ライフジャケットも持っていない。奴が夜間に活発になるなら、明日の夜に準備を整えてから挑んでも間に合う」
私が言ったときであった。魚影が水面に現れ、浮上したのだ。あの特徴的な背びれが一瞬見えた。棒状のような先端部分が・・・
巻田は、それを目掛け、キャスティングする。彼の狙いは的中するかのように、今、奴の沈んだ水面付近にスプーンが投下した。私の照らす明かりが薄っすらと、それを捉えた。
巻田が、リールを巻き取ろうとした時であった。竿が激しく曲がり、彼の体が引き摺り込まれそうになった。
「奴だ! 掛かった!」
巻田は必死に竿を握ったまま、腰を降ろし、自分の足でボートの船体に踏ん張る。
「大丈夫か?」
私は問いかけるが、もう懐中電灯の明かりどころではない。彼の体を押さえつけた。
「駄目だ! 持っていかれる! このままでは・・・」
「奴に間違いなかった。三メートル近い怪魚に、力でかなうはずがない。巻田の体が、じりじりと水面の歩へと引っ張られていく。
「無理するな!」
「竿をロープで固定してくれ!」
私は、ボートに持ち込んでいたロープを捜す。
明かりを片手で照らし
「あった!」
巻田の座っていた座席の後ろにあったロープを見つけ、思わず叫ぶ。
「手を離すが、大丈夫か?」
私の片方の手は、巻田の肩を押さえていた。彼が水面へ引き込まれないようにと。
「ああ、早くしてくれ」
巻田は必死に堪えていた。昼間の自分の釣った、あの草魚でも、かなりの引きであった。しかし、今、巻田に掛かっているのは、その倍以上の怪魚なのだ。このままでは時間の問題だろう。
私は懐中電灯をボートの床に置き、その明かりでロープを手にした。
竿を固定するよりも、まず巻田の体をロープで座席に固定した。竿は激しくしなっているが、竿など持っていかれてもいいと思った。
「この竿も固定してくれ!」
巻田は言う。一度、掛かった獲物は、絶対に逃がしたくはないのだろう。
私は、巻田の体を固定していたロープの端で、彼の持つ竿も固定した。
「よし、俺の体はもういい」
巻田は言った。竿を船体に固定したため、彼の体は解放した。
「さあ、これからどうする?」
私は、巻田に問う。とても釣り上げられる状況ではない。相手は、あまりにもでかすぎるのだ。エンジンのない、この軽量ボートはじりじりと引っ張られている。
「このまま奴の疲れを待つか、切られるかだな」
「・・・」
私は一瞬、考えてしまう。
「無理に奴との戦いを挑めば、仕掛けはもたないな。切られてしまう」
巻田は、いつの間にか冷静になっていた。竿は手から放し、ロープで船体に頑丈に括りつけている。竿ごと持っていかれる心配はないが、仕掛けの糸がもたないだろう。
私は、ここでふと思い出した。郷田社長だ・・・
携帯電話をポケットから取り出した。夜の九時が過ぎていることを示している。
「郷田さんに電話をかけてみよう」
私は言って、ポケットからもらっていた名刺を取り出した。そこには、彼の携帯電話の番号も記されている。
私は、かけてみることにした。番号を押す。もう既に帰宅している頃だろう。
「はい、郷田です」
聞き覚えのある郷田社長の声であった。
「矢浦です。先程は、どうも・・・」
「ああ、矢浦君か、どうもどうも」
豪放な彼の声であった。
「あのう、実は今、取り込み中で・・・」
「どうしたの?」
「こんな時間に電話して、申し訳ないです」
「いや、それは、かまわんよ。まだ養殖場にいたから」
「本当ですか!」
思いがけない返事であった。
「で、どうしたの?」
「奴ですよ、例の怪魚、三メートルの・・・」
「見たの? いただろう?」
「それが今、相棒の竿に掛かっているいるのですよ!」
「なに! 本当か!」
「ええ、何とか竿をボートにロープで固定しているのですが、このままでは何とも・・・」
「分かった! 今からすぐに船外機で向かってやるよ」
「お願いします!」
思わず安堵の声である。
「草周湖にいるのだろう?」
「違います。真貝沼の方です」
「分かった。何とか持ち堪えられそうか?」
「やってみます」
「それじゃ、今からすぐに、そっちに向かうからな」
「すみません」
「何か異変があったら、またこの携帯に連絡してくれるか」
「分かりました」
私は巻田に、この事を伝えた。
「駄目だな。奴の力は一向に衰えていないぞ」
巻田は、固定していた竿のリールを巻き取ろうとするが、怪魚の力は半端でなかった。
郷田社長との電話を切ってからも、私達と怪魚の格闘は続いていた。私の懐中電灯の明かりは水面に向けられているのだが、依然として奴は水中に姿を隠したままである。水面には浮いてこないのだ。
やがて、遠くから音が聞こえはじめた。どうやら、郷田社長の船外機の音である。草周湖の向こう側から響いてくる。
二人が目を向けていると、明かりも見えてきた。投光器の明かりのようだった。
「やっと救援にきてくれたようだな」
巻田が、そう言った時である。固定している竿が、更に激しく引きだしたのだ。竿先は限界近くまで曲がり、先端は完全に水中に没している。奴が暴れはじめたのか。もう手に負えない。
郷田社長の船外機が近づいていた。草周湖とつながる奥の方から明かりが大きくなり、エンジン音も更に大きく響く。
しかし、それに合わせたかのように、奴の動きは強くなっていく。私達のボートは、じりじりと引っ張られていくのだ。
「くそっ!」
巻田は竿に手をかけ、リールを巻こうと挑もうとする。
「慌てるな! 郷田社長がくるんだ!」
「分かった」
巻田は冷静に頷く。
次第に船外機のエンジン音が大きく響きはじめ、投光器の明かりも大きく見えている。郷田社長が近づいているのが分かるが、竿に掛かっている奴の動きは、更に激しくなってきた。まるで、エンジン音や投光器の明かりに反応しているかのようだった。
「やられた! ちくしょう!」
突然、巻田は自分の手の平を叩き、悔しがる。
「どうした?」
「・・・」
無言のまま巻田は、首を左右に振る。
私は懐中電灯の明かりを竿に向ける。すると、先程まで激しくしなっていた竿が、元の状態に戻っている。自分らのボートも動きが止まった。仕掛けが切れ、奴を逃がしてしまったことを意味していた。
私も言葉を失った。
巻田の目にも、映ったようだった。
水面から背びれの先端がわずかに浮き、また沈んだ。
「やはり、いたようだな」
「ずっと、この沼にいやがったんだ!」
「でも、また何処へ行った? 魚影も見えないぞ」
私は、冷静に言った。
周辺の水面を必死に照らすが、奴の姿は見えなくなった。巻田も目を皿のようにし、ボートの前後左右に目を向ける。
ドスン!
先程と同じような衝撃が、再びボートの底の方から伝わってきた。先程以上の衝撃である。この暗闇の中、戦慄が走る。奴の仕業か。
二人は体勢を崩し、私はハンドルにつかまった。ボートは激しく揺れている。
「これは、何の真似だ! 奴は、俺達に戦いを挑もうというのか!」
巻田も水面に転落するのを恐れ、船体につかまりながら言うのだ。
「いたぞ!」
私は叫んだ。私の照らす明かりが、奴の背びれを捉えた。黒い棒状に何かが絡みついたように見えるのだ。こんな背びれの魚種など不明である。
そして、薄っすらと魚影も捉えた。やはり三メートル近くある。日本の淡水魚では考えられない化け物だ。昼間、私が釣った大物の草魚の倍以上もあるのだ。一体何なんだ、この魚は・・・ 怪魚・・・ まさしく怪魚である。
ザブン! という水音とともに、怪魚は水中に沈んだ。懐中電灯の小さな明かりだけでは、怪魚の正体が一体何であるのか判断がつかない。
「仕留めてやる!」
巻田はボートから立ち上がり、奴の沈んだ水面に向かって激しく言い放つ。
「あんなもの、二人だけの力では無理だ! こんな暗闇の中、まともな装備もないのだぞ!」
私は巻田に言う。
「逃がしてたまるか! 今しかチャンスはない!」
「危険だぞ!」
「奴は、またくるぞ! 相手になってやる!」
巻田は、私に耳を貸さない。
「どうする気だ!」
巻田は、片付けようとしていた竿とリールを素早く取り出し、スプーンのルアーを装着しはじめる。
「そんな物に食いつくはずがないぞ! このボートに突進する程だ」
「矢浦、見とけ! 次のチャンスだ!」
仕掛けをセットした巻田は、周辺の水面を睨みつける。私は仕方なく、懐中電灯の明かりを照らし続ける。
ふと、この真貝沼で亡くなった黒井今日子の夫のことが思い浮かんだ。彼も奴の襲撃を受け、水面に転落して亡くなったのだろうか。きっとそうに違いない。たった一人で、奴と格闘したのだ。ここは魔界沼・・・
「逃げたな」
私は言った。
その後、数分が経っていた。しかし、もっと長く感じられる。奴の気配が消えたままなのだ。
私は、ほぼ諦めていた。あの怪魚はもう現れないだろう。この真貝沼の何処かに潜んでいるのか、草周湖の方に逃げたのか。
しかし巻田は、まだ諦めきれない様子だった。私から懐中電灯を取り上げ、ボート周辺の水面を自分で照らしはじめた。
「逃がしてしまったか・・・」
ついに巻田も諦めたのか、落胆の声を洩らした。
「また明日だ。ボート乗り場へ引き上げるぞ」
私は彼にそう言うと、ハンドルを切って元きた方向へと、ボートを向ける。二人の足漕ぎペダルは、やや重く感じた。疲労のせいだろう。
懐中電灯は巻田に渡したままであるが、彼はまだ周辺の水面をあちらこちら照らしていた。
「おい! ボートの進行方向の前に、明かりを向けてくれよ」
私は言った。何の目印もない暗闇の水面である。道標の明かりがほしかった。
「分かったよ」
巻田は、私の言う通りに、明かりを照らしはじめた。ボートは草周湖に通じる水路へと向かう。何事もなかったように、ひっそりとした真貝沼を過ぎようとする。
「待て」
草周湖への水路が薄っすらと見えてきた時だった。巻田が急に、ペダルの足を止めた。そのため、私も必然的に足を止めた。
「何だ?」
私は問う。
「波紋だ・・・」
巻田は、懐中電灯の明かりをボートの正面から自分のいるやや左手方向に向けていた。
「自分らの漕ぐボートの波紋だろう」
私は、軽く考えていた。奴は、もう今夜はこないだろうと。ボートの揺らぐ波紋だろう・・・
「違うぞ」
巻田は言いながら、左手の水面の方へ明かりを向けている。
私も、その先に視線を向けた。
「何かいるな・・・」
私は、思わず呟いてしまった。巻田の照らす明かりの先には、確かにボートのもではない波紋が広がっていた。
二人は目を凝らす。ボートから十メートル程先に、自分らのボートと並走して泳いでいる魚影・・・ 小魚や、そんな群れではない。奴か・・・ 特徴的な、あの背びれは見えていない。
「奴だぞ、まだ水面には浮かんではいないが、あの下にはいる。夜になると餌を求めて活発になり、このボートにも突進してきたのだ」
巻田の推測であったが、私もそう思える。
「活発になるのは分かるが、何故、我々に興味を示すのだろう」
「巨体を維持するために、何か大きな獲物を捕食しようと物色しているかもな」
巻田は言うと急に立ち上がり、釣り竿を握りしめた。
「おい! どうする?」
私は問いかけたが、巻田は私に懐中電灯を手渡す。
「絶対に、あれは奴だ! あそこに明かりを向けていてくれ」
彼の言う通り、私は明かりを向ける。まだ波紋は続いている。
私はペダルを漕ぎ、魚影に近づこうとした。魚影は、ゆっくりと動いているように見える。
「奴は、まだいるな! いくぞ!」
巻田は、キャスティングをはじめた。餌を求めて活発になっているなら、食らいついてくるかもしれない。私は期待を感じる。
巻田の放ったルアーのスプーンは、魚影の向こう側に投げ込まれた。
ペダルを漕ぐ足は止まり、必死に明かりを向ける。
突然、水面が持ち上がるようにして、大きな魚影が浮かんできた。尾びれのようだ。でかい・・・ あまりの尾びれのでかさに、懐中電灯を持つ自分の手が震えたのだ。鳥肌が立った。
「手に負えんぞ!」
私は巻田に叫ぶのだが、彼は耳を貸さない。
昼間なら、まだ何とかなるかもしれないが、慣れない初めての沼で、しかも暗闇の中である。危ない。得体の知れない魔物に、魔界沼へ引き摺り込まれようとしている。
奴は、ルアーに反応したのだ。
「巻田!」
私は再び、彼に叫ぶ。リール巻き取り、スプーンを引き寄せながら、奴を誘う。
一投目のキャスティングは空振りのようであったが、確かに奴は反応した。
「奴がスプーンに食いつこうが、どうでもいい! 奴の巨体の何処かに、針が引っかかればいい。こうなったら、しゃくり釣りだ」
巻田は、ルアーを巻き取って言った。
「あんな化け物、釣り上げるのは無理だ。掛かったとしても、暗闇の水中へ引き摺り込まれるぞ」
私は冷静に、彼を諭すように言った。
「矢浦! お前もルアーを投げろ!」
「バカを言うな! 明かりの手もなくなる!」
「二対一なら負けはしない」
「冷静になれ! 掛かっても、郷田社長の持っていたギャフもないし、ここは水深も深そうだ。ライフジャケットも持っていない。奴が夜間に活発になるなら、明日の夜に準備を整えてから挑んでも間に合う」
私が言ったときであった。魚影が水面に現れ、浮上したのだ。あの特徴的な背びれが一瞬見えた。棒状のような先端部分が・・・
巻田は、それを目掛け、キャスティングする。彼の狙いは的中するかのように、今、奴の沈んだ水面付近にスプーンが投下した。私の照らす明かりが薄っすらと、それを捉えた。
巻田が、リールを巻き取ろうとした時であった。竿が激しく曲がり、彼の体が引き摺り込まれそうになった。
「奴だ! 掛かった!」
巻田は必死に竿を握ったまま、腰を降ろし、自分の足でボートの船体に踏ん張る。
「大丈夫か?」
私は問いかけるが、もう懐中電灯の明かりどころではない。彼の体を押さえつけた。
「駄目だ! 持っていかれる! このままでは・・・」
「奴に間違いなかった。三メートル近い怪魚に、力でかなうはずがない。巻田の体が、じりじりと水面の歩へと引っ張られていく。
「無理するな!」
「竿をロープで固定してくれ!」
私は、ボートに持ち込んでいたロープを捜す。
明かりを片手で照らし
「あった!」
巻田の座っていた座席の後ろにあったロープを見つけ、思わず叫ぶ。
「手を離すが、大丈夫か?」
私の片方の手は、巻田の肩を押さえていた。彼が水面へ引き込まれないようにと。
「ああ、早くしてくれ」
巻田は必死に堪えていた。昼間の自分の釣った、あの草魚でも、かなりの引きであった。しかし、今、巻田に掛かっているのは、その倍以上の怪魚なのだ。このままでは時間の問題だろう。
私は懐中電灯をボートの床に置き、その明かりでロープを手にした。
竿を固定するよりも、まず巻田の体をロープで座席に固定した。竿は激しくしなっているが、竿など持っていかれてもいいと思った。
「この竿も固定してくれ!」
巻田は言う。一度、掛かった獲物は、絶対に逃がしたくはないのだろう。
私は、巻田の体を固定していたロープの端で、彼の持つ竿も固定した。
「よし、俺の体はもういい」
巻田は言った。竿を船体に固定したため、彼の体は解放した。
「さあ、これからどうする?」
私は、巻田に問う。とても釣り上げられる状況ではない。相手は、あまりにもでかすぎるのだ。エンジンのない、この軽量ボートはじりじりと引っ張られている。
「このまま奴の疲れを待つか、切られるかだな」
「・・・」
私は一瞬、考えてしまう。
「無理に奴との戦いを挑めば、仕掛けはもたないな。切られてしまう」
巻田は、いつの間にか冷静になっていた。竿は手から放し、ロープで船体に頑丈に括りつけている。竿ごと持っていかれる心配はないが、仕掛けの糸がもたないだろう。
私は、ここでふと思い出した。郷田社長だ・・・
携帯電話をポケットから取り出した。夜の九時が過ぎていることを示している。
「郷田さんに電話をかけてみよう」
私は言って、ポケットからもらっていた名刺を取り出した。そこには、彼の携帯電話の番号も記されている。
私は、かけてみることにした。番号を押す。もう既に帰宅している頃だろう。
「はい、郷田です」
聞き覚えのある郷田社長の声であった。
「矢浦です。先程は、どうも・・・」
「ああ、矢浦君か、どうもどうも」
豪放な彼の声であった。
「あのう、実は今、取り込み中で・・・」
「どうしたの?」
「こんな時間に電話して、申し訳ないです」
「いや、それは、かまわんよ。まだ養殖場にいたから」
「本当ですか!」
思いがけない返事であった。
「で、どうしたの?」
「奴ですよ、例の怪魚、三メートルの・・・」
「見たの? いただろう?」
「それが今、相棒の竿に掛かっているいるのですよ!」
「なに! 本当か!」
「ええ、何とか竿をボートにロープで固定しているのですが、このままでは何とも・・・」
「分かった! 今からすぐに船外機で向かってやるよ」
「お願いします!」
思わず安堵の声である。
「草周湖にいるのだろう?」
「違います。真貝沼の方です」
「分かった。何とか持ち堪えられそうか?」
「やってみます」
「それじゃ、今からすぐに、そっちに向かうからな」
「すみません」
「何か異変があったら、またこの携帯に連絡してくれるか」
「分かりました」
私は巻田に、この事を伝えた。
「駄目だな。奴の力は一向に衰えていないぞ」
巻田は、固定していた竿のリールを巻き取ろうとするが、怪魚の力は半端でなかった。
郷田社長との電話を切ってからも、私達と怪魚の格闘は続いていた。私の懐中電灯の明かりは水面に向けられているのだが、依然として奴は水中に姿を隠したままである。水面には浮いてこないのだ。
やがて、遠くから音が聞こえはじめた。どうやら、郷田社長の船外機の音である。草周湖の向こう側から響いてくる。
二人が目を向けていると、明かりも見えてきた。投光器の明かりのようだった。
「やっと救援にきてくれたようだな」
巻田が、そう言った時である。固定している竿が、更に激しく引きだしたのだ。竿先は限界近くまで曲がり、先端は完全に水中に没している。奴が暴れはじめたのか。もう手に負えない。
郷田社長の船外機が近づいていた。草周湖とつながる奥の方から明かりが大きくなり、エンジン音も更に大きく響く。
しかし、それに合わせたかのように、奴の動きは強くなっていく。私達のボートは、じりじりと引っ張られていくのだ。
「くそっ!」
巻田は竿に手をかけ、リールを巻こうと挑もうとする。
「慌てるな! 郷田社長がくるんだ!」
「分かった」
巻田は冷静に頷く。
次第に船外機のエンジン音が大きく響きはじめ、投光器の明かりも大きく見えている。郷田社長が近づいているのが分かるが、竿に掛かっている奴の動きは、更に激しくなってきた。まるで、エンジン音や投光器の明かりに反応しているかのようだった。
「やられた! ちくしょう!」
突然、巻田は自分の手の平を叩き、悔しがる。
「どうした?」
「・・・」
無言のまま巻田は、首を左右に振る。
私は懐中電灯の明かりを竿に向ける。すると、先程まで激しくしなっていた竿が、元の状態に戻っている。自分らのボートも動きが止まった。仕掛けが切れ、奴を逃がしてしまったことを意味していた。
私も言葉を失った。
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クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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