魔界沼の怪魚

瀬能アキラ

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魔界沼の怪魚

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 二人組の彼らは、両手で顔を隠したまま、自分らのスポーツカーの方へと走りはじめる。
 「おい! 逃げても無駄だぞ! お前らの車のナンバーは、既に控えてあるからな」
 巻田の言葉に、彼らはピタッと足を止めた。
 観念したのか、こちらに力なく振り向くのである。
 「もう本当に勘弁してくださいよ・・・ 二度と、こういうことはしませんから・・・」
 「見逃してください・・・」
 二人組の彼らは、それぞれ私らに向かって言った。
 私は、懐中電灯の明かりを彼らに照らした。周囲は、もう薄暗くなっている。彼らは、何度も頭を下げている。
 「分かった。今後二度と、飼っている生き物を自然に放すなよ」
 「はい!」
 「はい!」
 巻田の言葉に彼らは大きく頷き、もう長居は無用とばかりに、逃げるように走り出す。車まで戻ると、スポーツカーのエンジンをかけて走り去って行った。
 私と巻田は、その場で顔を見合わせ苦笑し合ったのだ。

 私と巻田は、桟橋から足漕ぎボートで草周湖のボート乗り場に向かっていた。もう日が沈み、周辺は暗くなっている。郷田社長にもらった懐中電灯の明かりが重宝する。
 音木川の支流方面から、草周湖へと向かっているのだが、昼間とは雰囲気がまるっ切り違うのだ。昼間に見えていたものが見えず、周辺を支配する静寂が、不気味さを醸し出している。日が沈む前に、ボート乗り場へ帰っていればと、少し後悔した。
 「草魚がかかったのは、この辺だったかな」
 二人が黙々とボートを漕いでいると、巻田がポツンと呟くように言った。
 「どうだったかな・・・」
 日が沈んだ今では、あの草魚がヒットしたポイントを特定するのは難しい。目印となる物が何もない。
 不気味な暗闇の静寂の中を、ボートが水を切る音と小さく照らす懐中電灯の明かりだけが存在しているようだった。
 巻田は、私が照らす正面の明かりに、必死に目を凝らしている。
 私は、疲労感を強く感じていた。とても長かった一日のように思える。
 「疲れただろう?」
 私は、巻田に尋ねた。彼の口数も少なくなっていた。
 「ああ、確かに疲れたな。まだ、あと二日もある。それに怪魚も、まだ俺達の前には現れていない」
 「いるとしたら、今頃は何処にいるだろうな」
 「いるのは確かだ。地元の郷田さんも証言しているからな」
 二人の漕ぐボートは、見覚えのある場所まで差しかかっていた。草周湖への入口付近であった。バリケードのあった場所でもある。
 十月に入っても、昼間は、まだまだ暑かったが、朝晩は過ごしやすくなっていた。日の暮れた先程までも、時折、吹く風が心地よく感じられていたが、この草周湖の前までやってくると、何故か急に生暖かく感じられるのだ。気のせいなのか、いや、確かに・・・
 私と巻田は、自然にボートを漕いでいた足を止めていた。疲労のせいなのかもしれないが、言葉にならない違和感を覚えていたのも事実であった。
 ボートはゆっくりと草周湖へ入った。二人の漕ぐ足は止まっていたはずであるが、惰力で進んでいたに違いない。この辺の流域は全く流れがないのである。
 そして、二人のボートは、ゆっくりと動きを止めた。草周湖のほぼ中央付近・・・
 「どうする?」
 口を噤んでいた二人であったが、巻田がふいに口を開いた。
 「どうするって?」
 私は、今日はもう引き上げるつもりであった。このまま当然、ボート乗り場に向かおうとしていたのだ。そのため、巻田の問いに一瞬、当惑してしまった。
 「少しやっていくか?」
 彼は、まだ釣りを続けたいようだ。
 「今日は、もうやめないか。明日も明後日もあるのだぞ。体力を温存しておこう」
 私は、今日は確かに満足していた。今までで最大の大物となった草魚も釣り上げたが、巻田にしてみれば、まだ満足できていないのだろうか。
 巻田は、何も答えようとはしない。
 「もう行くぞ」
 私は、そう言って、足漕ぎペダルに足を乗せようとした。
 「待て!」
 巻田は私を制し、ボートの椅子から立ち上がった。
 「もういいだろう」
 「何か感じないか?」
 巻田は急に、そんなことを言う。草周湖に入る直前から、私も確かに感じていた。しかし、それは今日一日の疲労のせいかもしれなかった。
 私はボートの椅子に腰を降ろしたまま、懐中電灯の明かりを周辺に向けてみた。一瞬、巻田の横顔が目に入った。真顔のまま、何かを感じ取ろうとしている様子だ。
 明かりは周辺を照らすが、何もない。雑木林や山に囲まれた水面だけが、見える。何の音も聞こえてこない。
 自分らのいる湖面の正面の遠くには、かつて存在していた幽霊ホテルがあったはずである。自分らが数日前に解体工事で取り壊したばかりであるが、何故か、もう随分と昔のことのように思えた。何故か・・・ かつて、という言葉が当てはまる・・・
 やはり、自分は疲れているのだろう。
 「巻田・・・」
 彼に声をかけた時であった。私はボートの椅子に腰を降ろしたままであったが、急にめまいを感じた。
 やはり、疲れている。早く解放してほしい。一刻も早く宿に戻り、床につきたかった。熱でもあるのかもしれない。
 「静かにしろ、ボートが揺れているだろう」
 巻田は、冷静に言うのである。
 「ん!・・・」
 私も冷静になろうとした。感じる。確かにボートは今、少しだが揺れている。自分のめまいではなかった・・・
 ボートが風に揺れているのか? うん、違う・・・ 風など全く何処からも吹いていない。では・・・
 ボートは水面に浮いているのだ。揺れていてもおかしくはない。彼も感じている。自分のめまいではないことは確かだ。
 「揺れているのが分からないのか?」
 巻田は、声を潜めるようにして言う。
 「分かるさ」
 「何かいるぞ・・・」
 このボートは、二人乗り用の小さな足漕ぎボートである。水面の揺れによって容易に揺れるだろう。
 では、水面の揺れは何だ? 水面下の小魚程度の動きだけでは、ボートは揺れないだろう。ボートを揺らす程の魚・・・ 水面下にいる生物といえば、魚以外に考えられない。それも大きな・・・
 まさか、あの怪魚が・・・
 巻田と顔を見合わせる。
 「何処にいる?」
 私は尋ねてみた。
 すると巻田は、人差し指をボートの下に向けた。
 慌てて私は、懐中電灯の明かりをボート周辺の水面に向けた。黒い水面には、何もみられない。水面の水が、ゆっくりと自然に動いているだけであった。
 「気のせいだ」
 私は言った。二人とも疲れているのだ。今日のところは、早く撤収するべきだ。だが巻田は、まだ何かを感じるのか、真剣な表情で周囲を見回している。
 「おい、もういいじゃないか、帰ろうぜ」
 私は懐中電灯の明かりを、わざと彼の顔に集中的に浴びせてやった。
 「分かったよ」
 私の明かりの攻撃に、彼は眩しそうにしながら言った。
 その時であった。突然、ボートの底を何かが擦るような音がした。ガガガ・・・ ガガガ・・・
 何だろうか? 決して大きな音ではないが、ボート上にいる二人には、音と感触が伝わっているのだ。
 「何かいるぞ・・・」
 「ああ、何かいるな。このボートの底にな」
 二人は頷き合い、言った。
 音と感触が私達に伝わっていたのは、数秒程度であったが・・・
 懐中電灯の明かりを照らし、ボート直下の水面下に二人は目を向けた。
 「あっ!」
 その瞬間、二人は驚き、思わず声を洩らした。驚きというよりも、すぐに恐怖に変わったのだ。
 その正体は、巨大な魚影であった。自分が釣り上げた草魚よりもでかい。ボート周辺の水面下を漂いながら、闖入者である我々を威嚇しているのか。
 見えた! 巨大な魚影が一瞬浮き上がり、大きな背びれである。明かりを照らした。背びれに何かかが絡まっているようにも見えた。
 しかし、すぐに魚影は消えた。
 何処だ! 二人は目を凝らし、行方を追った。私は必死に、懐中電灯の明かりを照らす。
 「向うだな!」
 巻田が示す方向は、草周湖の西方であった。冷静に水面の動きを見れば、魚影の走った方向が分かるのだ。
 「追うぞ!」
 巻田が叫び、二人の追跡がはじまる。
 私も疲れを忘れ、ボートの足漕ぎペダルを必死に踏んだ。エンジン付きのボートではないので、機動力がない。
 私がハンドルを握るので、巻田に懐中電灯を託した。彼は明かりを進行方向に向け、照らしている。
 「間違いない! 絶対に奴だぞ! 郷田社長の言った通り、三メートル近くはあったぞ!」
 「そうだな」
 興奮状態の巻田に、私は相槌を打つ。確かに、あの怪魚の姿であった。間違いない。私も確信する。
 「分からんぞ! 奴は何処だ!」
 私はペダルから足を離し、叫ぶように言った。巻田の照らす水面の明かりの先には、もう魚影の走る姿は見えない。これ以上ペダルを踏み続けても、無意味のように思えた。魚の速さにかなうはずがなかった。
 そんあことを考えていると、巻田もペダルを踏むのをやめていた。ボートは水面に、ゆっくりと静止している。
 よく見ると、二人の乗ったボートは、真貝沼の方へと入って行く水路の近くまでやってきた。バリケードのあった場所が分かる。巻田が、そっちの方に明かりを向けている。
 「これで奴の存在は、はっきりとした。あの怪魚は、この辺一帯をうりついている」
 再び疲労感の中、私は巻田に言った。
 「そのようだな」
 「奴との闘いは、明日、明後日に持ち越しだな」
 「おい! 少し待て!」
 巻田は急に、声を張り上げた。彼の視線は、明かりの照らす真貝沼へと向かう水路付近である。
 私は、その水面に目を凝らした。
 いた! 奴はいた! 水路の手前に魚影が薄っすらと浮かび、水面には特徴的な背びれがわずかに顔を見せている。ゆっくりと大きな波紋もたっていた。
 そこから動く気配がない。こちらの様子を不気味に窺っているようでもある。
 「どうする?」
 私は、囁くように巻田に問う。 
 「仕留めるさ」
 「仕留める? どうやって?」
 私が、そう言った時である。奴は再び動きはじめたのだ。
 「次は何処へ行く気だ・・・ ん!」
 巻田の呟きであった。
 二人も追うように、ゆっくりとペダルを漕ぎはじめる。
 明かりの先に目を凝らしていると、奴は、やはり動いている。真貝沼の方へと。
 わずかに水面に出ている背びれと水紋によって、奴の動きを捉えているが、先程よりもゆっくりとした動きとなった。まるで、私と巻田を誘っているように思える。
 奴はバリケードのあった場所を過ぎ、真貝沼へとつながる水路へと入って行く。二人は必死にペダルを漕ぎ、私はステアリングを操り、巻田は懐中電灯の明かりを眼前に向ける。
 奴は確実に、私達を真貝沼へと誘っている。
 ふと私は、危険であることを感じた。真貝沼といえば、黒井今日子の夫や少女が亡くなっている場所でもある。推測では、二人の死に奴が関係しているかもしれないのだ。それに、直接まだ真貝沼には、二人とも足を踏み入れていない。そんな場所に、完全に日の沈んだ夜間に行くなど、やはり危ない。
 真貝沼ではなく、魔界沼と豹変するかもしれない。得体の知れない場所へ、得体の知れない奴に誘われているのだ・・・
 私は足に力を入れ、ペダルを止めた。
 「どうした!」
 巻田は刺すような声を上げ、私に視線を向けた。私のせいでペダルを踏むことができず、ボートは強制的に止まった。
 「深追いは危険だ。今日のところは引き上げるぞ」
 「何を言っている!」
 巻田は、奴を追いかけるつもりであった。
 「これ以上は駄目だ!」
 「どうしてだ!」
 「危険な香りがする・・・」
 「馬鹿なことを言うな! 目の前に、あんな大物がいるんだぞ! このまま引き下がれるか!」
 私は、彼に圧倒されそうであった。
 真貝沼については、幽霊ホテルの解体工事時に、上から見ていた地形は覚えているつもりであったが、この暗い夜間ではどうなるか。結局、巻田の勢いに押される形となり、またペダルを漕ぎはじめたのだ。
 「おい、見失ったじゃないか」
 巻田は、あたかも私のせいのように言った。彼の照らす明かりの先には、もう奴の姿は見えなくなっていた。
 「もう、いいだろう・・・」
 これを潮に、私は本当に引き上げるつもりであった。
 「ここまできたのだ・・・ 真貝沼の方へ少し入ってみるぞ。奴は必ずいるはずだ」
 「・・・」
 私は何も答えなかった。
 闇に包まれた自然の水路を、二人の乗るボートは真貝沼へと進んだ。幅は狭い場所で三、四メートル程だろうか。懐中電灯の明かりが、岸辺の雑木林を照らしながら、正面の水面も同時に照らす。この自然の水路も、水深がありそうであった。奴の抜け道には、ちょうど良さそうである。
 水路を抜け、ボートは真貝沼に入った。広さは草周湖の約半分ぐらいであるが、夜の暗闇であるため、何処までも沼は広がっているように思えた。
 奴に誘われるようにしてやってきたのだが、奴の姿は見られない。懐中電灯の明かりだけでは限界がある。この沼の何処かにいることは間違いないだろうが。
 「どうする? 巻田」
 彼に尋ねた。二人はボートのペダルを止め、闇の水面を漂っている。
 「トライする」
 「本気か?」
 「ああ」
 巻田は頷きながら、明かりをボート内に向け、自分の釣り竿をスタンバイさせはじめた。
 「もしヒットすれば、闇の水中に引き摺り込まれるぞ。黒井さんの夫のようになったらどうする。明日、再チャレンジすればいい。あと二日もあるのだ」
 私は、彼を諭すように言った。
 「俺達は二人だぞ」
 彼は、そう言って、私に懐中電灯を手渡す。
 「逸る気持ちを抑えるのも、釣りには必要だ」
 「分かった。矢浦、三十分だけやらせてくれ。ヒットしなければ引き上げる」
 「三十分だけだぞ」
 念を押すように、私は彼に言った。
 巻田はルアーをセットし、キャスティングをはじめた。ボートから立ち上がり、闇の水面にルアーを何度か投げ込む。トップウオーターのプラグルアーが水面を走る。その微かな水音が響く。
 私は、ひとまず懐中電灯の明かりを消した。ボートの椅子に腰を降ろしたまま、周囲の様子を窺う。もう何も感じない。
 いつの間にか、私は眠り込んでいた。
 ふと、どのぐらいの時間が経っていたのだろうか。水面を走るルアーの微かな音と、巻田のリールを巻く音・・・私の耳元に届き、浅い眠りから覚めたようだった。疲労のため、睡魔に襲われていた。
 「巻田・・・」
 我に返ったように、私は彼に声をかけた。
 懐中電灯の明かりを巻田に向けた。彼は、熱心に続けているよう様子だった。リールを巻きながら、竿は忙しそうに動いている。
 そうだった。あの怪魚に誘われて、この真貝沼にやってきたいたのだった。自分が眠っていた間、何も起こった気配は感じられない。
 「駄目だ! 駄目だ! 何の当たりもないぞ・・・」
 巻田は、悔し気な口調だった。何も釣れていない。
 「約束だぞ、撤収だな」
 「ああ、分かった」
 私は、明かりをボート周辺の水面に向けていた。
 「奴の姿もなかったのか?」
 あの背びれの怪魚は、その後、我々の前には現れなかったのだろうか。当然、私は気になっていた。彼に問うのだ。
 「現れた気配はなかった」
 巻田はリールを巻き取ると、竿を片付けはじめた。
 ドスン!
 「おい! 何だ!」
 その時であった。ボートの底の方から、大きな衝撃を感じたのだ。ボートは揺らぎ、立っていた巻田は悲鳴のような声を上げ、よろめいてボートの椅子に手をついた。
 何かにボートがぶつかったのではと思い、更にボート周辺に明かりを照らす。だが、ボートは真貝沼の水面上である。岸辺からも離れているようで、草木などの障害物と接触したようでもない。
 「見えたぞ!」
 私は、思わず声を上げた。あの背びれである。
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