魔界沼の怪魚

瀬能アキラ

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廃墟になった観光ホテル

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 やはり、さっきの女性が言った通り、途中からは通れなくなっていた。(これより先、私有地につき、関係者以外の立ち入りを禁止する)との立て看板が建てられ、一般車両の進入を防ぐため、鉄製の大きなゲートが道を塞いでいる。どうやら鍵が掛かっているらしい。
 「これか、山口不動産が言っていたのは・・・」
 後部座席から身を乗り出し、笠原部長は呟くように言った。
 「ゲートを開けてもらわないと・・・」
 谷本が不安そうに言うと、笠原部長は事前に山口不動産から預かっていたという鍵を私に手渡した。
 谷本とともに車を降り、鍵を使って重苦しい鉄製のゲートを押し開ける。錆びついた金属音が響いた。自殺者や変な出来事が起こりはじめたため、不動産会社が行なった措置のようだった。
 車内に戻り、また走りはじめる。相変わらず霧が立ち込め、視界は良くなかった。ここから登り坂となった。
 曲がりくねった登り坂を五分程走っただろうか。ここがパシフィックホテルであることを示す看板が、霧の中から浮かぶようにして現れた。この看板も複数の色のスプレーでイタズラ書きがされ、錆びて腐食が激しい。
 やっと到着のようであった。三階建ての鉄筋コンクリート造の建物が出現した。高台に建つ、廃墟になった観光ホテルである。
 車を建物の正面に止めてみた。周辺の様子は霧のため、よく分からないが、この建物が既に廃墟であることを物語っていた。かつては白塗りの美しい建物であったはずだが、今はカビやコケのせいで黒ずみ、建物に面した花壇は雑草となって覆い茂り、何の木か分からない木は枝が伸び放題となって、蔦とともに建物の壁に張り付いている。
 それだけではない。多くの窓ガラスが割られ、人の進入を拒むような得体の知れない不気味な雰囲気が漂っている。割られたガラスの奥の室内は、闇に閉ざされて何も見えない。
 「矢浦さん、もう怖くて外には出られませんよ・・・」
 谷本が震えるような声で言う。私も同じような思いである。雨や霧のせいではあるが、時刻はまだ午前であった。夜ともなれば誰も近づけず、猖獗を極める恐怖が訪れる予感がする。
 「不気味だな。少し待ってみよう。霧が晴れてくるかもしれない。悪いが、少しタバコを吸わせてもらうぞ」
 笠原部長は、そう言って車の窓を少し開け、タバコを吸いはじめた。
 現場の下見もせずに、このまま帰ることもできなかった。会社にどうやって報告するのだ。部長の言うように、車内で待つことにした。
 「こんな建物は、一刻も早く解体してしまえば、何ら問題はない」
 笠原部長はタバコの煙を窓の外へ吐き出しながら、ぽつりと言った。
 「何か、祟りとか罰があたったりしませんか。嫌ですよ、部長」
 谷本が言う。
 「工事の着工前に、きちんとお祓いはする予定だ」
 部長は答えたが、私は先程から何か寒さを感じるのであった。天候が悪いせいか、車内のエアコンがきき過ぎているのだろうか。少しエアコンの温度を上げた。
 不思議なことに、笠原部長の読みが当たった。車内で三十分程たった頃である。霧が晴れはじめ、日が照り出したのであった。今までの天候が、まるで嘘のように。
 天候が回復すると、周囲が見渡せた。今までの得体のしれない雰囲気は、何処かへ消え去った。日が出はじめると、気温が上昇する。やはり、まだまだ夏であった。
 三人は車から降りる。日がジリジリと肌を差す。ヘルメットを着用し、作業服姿の自分らの体は、すぐに汗ばんでくる。
 周囲を見渡すと、アスファルト舗装された広い敷地内の中心に、このホテルの建物があり、敷地の東と北側には沼や湖を見下ろす地形となっていた。その周辺は草木に覆われた沼沢地といったところか。更に向こう側には深い山々が見える。
 「矢浦、我々の仕事は、まずこのホテルの建物を解体撤去すること。次に、駐車場となっている敷地内の全てのアスファルト舗装を剥いで整地し、更地にすること・・・」
 笠原部長は、私と谷本に作業の手順を説明しはじめた。
 私は現場周辺の見取図を手にしながら、実際の状況を確認する。
 廃墟の建物を過ぎ、敷地の北側に立つ。高台のこの位置から見下ろす形で、北側と東側には沼沢地が広がり、今、立っている場所から下の沼沢地へと降りて行く道があるらしい。それが現在では雑草がはびこり、道の存在すら分からない。
 見取図によると北側に真貝沼、東側は、その倍程の大きさの草周湖という湖が記されている。周辺は多くの水草や雑草に覆われ、真貝沼の岸の方には水中木が幾つも見られる。
 真貝沼と草周湖は水草で上からは分かりにくいが、水路のようになってつながっているようだ。更に真貝沼の西と草周湖の東は、音木川の水流となってつながっているらしい。ここからでは、音木川の様子は見ることはできなかった。
 「あれは?」
 谷本が示したのは、敷地の東側の草周湖西岸だった。人の背丈程に伸びた雑草らによって分かりずらいが、見取図によると、それはボート乗り場らしい。
 よく見ると数艘の小型ボートと小屋、倉庫が建っている。ボートは観光客や宿泊客ら相手の観光ボートのようだった。施設の閉鎖以降は全く使用された形跡がない。
 「あのボート小屋と倉庫も解体して撤去だ。ここから車両が入れるように、重機を降ろして道を作らせろ」
 笠原部長が言った。
 「あのボートは、どうします?」
 気になって私が尋ねた。
 「ボートのことは聞いていない。ほっておけ」
 ぶっきらぼうに部長は答える。
 昼前となり、三人は用意していた弁当をエアコンのきかせた車内で食べ、少し休憩を取る。天気は回復したまま好天が続き、車外はうだるような猛暑。そんな中、見覚えのある青のミニバンが敷地内に入ってきた。
 食事を口に運びながら視線を向けていると、先程の女性であった。黒いサングラスをかけているが、確かにハンドルを握っているのは、あのブルージーンズの彼女である。
 私達の車の前を通る時、視線が合って会釈を交わした。彼女の車は敷地の北側に止まる。ゲートを開けたままにしていたので、そのまま入ってきたのだろう。
 彼女は車から降りると、北の真貝沼に目を向けている様子だった。
 食事を終えた私達であったが、まだ彼女は真貝沼の方にじっと目を向けている。私は先に車から降り、彼女に近づいてみた。
 「普段は、あのゲートで閉ざされているので、車でここまでくることはできませんが、今日はきてしまいました」
 彼女は、サングラスを外しながら言った。少し笑みがうかんだ。猛暑のせいか、化粧の顔の上には汗が浮かんでいる。
 「入ってこられるのは、かまいませんが。先程、ご主人が、この近くで亡くなられたと言っていましたが・・・」
 私は彼女が言っていたことに、思い当たることがあった。この近辺で主人が亡くなったというのは、事前に調べて知った沼沢地での事故。二年前の男性水死事故ではないか。更に三年前には、同様に少女の水死事故も発生しているようだった。
 彼女は間を置き、ゆっくりと口を開くのである。
 「その目の前の真貝沼で、主人は亡くなっていたのです。この閉鎖されたホテル周辺や沼沢地には、何かあるような気がして・・・」
 それだけを言うと、彼女は口を噤んでしまった。やはり、そうだったのかと思った。
 「そうでしたか・・・」
 私には、それだけしか言えなかった。

 現場状況の写真撮影も行ない、現場の下見は何とか終えることができた。ここへくる途中、激しい霧や天候不良だったため、見落としていたのだが、民家が二軒あることに気づいた。工事着工前に挨拶をしておくか。工事車両の運行で騒音などが発生してしまう。工事の着工予定は数週間後だ。
 帰路は谷本に替わり、私がハンドルを握った。だが、自分の体調に異変を感じてしまったのだ。頭痛、喉の痛み、体のだるさ・・・ 
 何とか会社まで帰り着くことはできたが、自宅に戻った私はダウンしてしまった。発熱し、39度超えて40度近かった。
 寝室のベットに転がった。
 「大丈夫? 仕事は休んだほうがいい。明日、私が病院に連れて行くわ」
 妻が心配そうに声をかけた。
 「明日の仕事は無理だ。会社は休む。
 「あんな幽霊ホテルに行くからだわ。呪われた可能性は大よ」
 「そうかもしれないな・・・」
 「もし病院に行っても治らなかったら、悪霊の祟りだわ。工事の担当者を替えてもらったら」
 私は高熱のせいで、妻と、これ以上の会話はできなかった。
 やはり翌日も高熱は続いた。医者の診察では夏風邪とのことであった。処方薬を服用したが、体調不良は数日続き、会社も休んだ。当然、巻田とのアカメ釣りの約束もキャンセルした。
 体調が回復し、出社できたのは翌週の中頃であった。
 「矢浦、大丈夫だったか?」
 出社した私に、笠原部長は気づかってくれた。私は平熱に戻り、体調も戻っていた。
 「何なら、パシフィックホテルの担当者を他の者に替えてもいいんだぞ」
 私は自分の体調が戻ったことを伝えたが、それでも部長は優し気に言ってくれるのであった。
 「谷本と現場の下見もしたことなので、このままやらせてください」
 私は力強く言った。自分の体調も戻ったことで、何かふっきれた気持ちでもあった。確かに薄暗い霧の中に建っていた廃墟のあの建物は、思い出しただけでも不気味である。だが、全ては建物を一日でも早く解体してしまえば終りなのだ。悪い噂も立ち消えとなっていくだろう。

 パシフィックホテル解体工事の一週間前、私達は現場作業の打ち合わせを行なった。高知市朝倉にある田岡建設の本社に、下請業者である坂本工業の三名がやってきた。坂本工業側の作業主任者は巻田であった。
 打つ合わせがはじまる前、先にやってきた巻田に、私はアカメ釣りのキャンセルを誤った。
 「そんなことより、体調は大丈夫なのか?」
 巻田も心配してくれていた。
 「ああ、もう心配はいらないぞ」
 「そうか、顔色も良さそうだな。良かった、良かった」
 彼は、そう言いながら私の肩を軽く叩いてくれた。
 打ち合わせは、田岡建設側は私と谷本、坂本工業側は巻田と、作業員二名であった。作業員の二人は巻田の部下らしく、二人とも二十代後半の精悍な顔立ちの青年であった。現場作業で鍛えられているせいか、体格も立派である。伊藤と中村と名乗った。
 まずは私と谷本が形式的に、現場状況や作業工程、特記事項などを語っていく。
 「・・・工事期間は三週間、隣接する施設もない山奥の現場だが、事故や怪我だけは絶対にないようにしてくれ。私からは以上だ」
 私は一通り、巻田ら坂本工業側に説明を終えた。堅苦しい雰囲気がとけていく。
 「地域のためにも、幽霊ホテルを早く解体してやろう。俺達の仕事だ」
 巻田は熱く、やる気を見せていた。彼らにとっても、久し振りの解体工事であった。
 「幽霊ホテル付近の沼などに、得体の知れない物がいるって話、聞いてますが・・・」
 言ったのは巻田の部下、伊藤の方であった。
 「人も水死しているし、それが原因なのか」
 中村も言った。工事を行なうため、彼らも独自に色々と調べ、噂を耳に入れているようだった。
 「先程も説明したが、今回の工事では直接、沼や湖には手をつけない。湖畔のボート小屋と倉庫を解体するため、簡易な仮設道はつけるがな」
 私は彼らに言った。
 「矢浦さん、工事中に得体の知れない物と遭遇した場合、どうされますか?」
 冗談交じりに伊藤が言うのである。
 「水死事故や自殺者があったことは勿論知っているが、沼沢地に得体の知れない物がいるというのは初耳だぞ」
 私は言った。これだけ変な噂が流れているのだから、何がいてもおかしくない。だが、本心は信じてはいなかった。
 「もし化け物が現れたら、俺が重機で粉砕してやるから心配いらん」
 巻田が笑いながら言った。
 「馬鹿デカイ、オオサンショウウオでもいるのじゃないか」
 言ったのは中村であった。皆の表情からは、笑みがあふれている。
 幽霊ホテルなどと呼ばれている廃墟になった観光ホテルの解体工事は、目前に迫っていた。
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