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 大会二日目の朝――。
 だったのだが、昨夜の雨のために次の土曜日まで順延になった。会場ではかなりの雨だったようだが、ここ似鳥ではパラパラと降っただけ。朝にはからりと晴れ上がった。笠原さんと電話で話をし、午前中だけ練習しようということでまとまった。

 練習着の選手たちにジャージで混ざってウォームアップ、キャッチボールと身体を動かすと、その後のノックを文に頼んだ。文は練習着。こういうところは生真面目だ。
 笠原さんにスコアブックを借りた。――昨日の反省をしないとね。 
 倉庫からパイプイスを引っ張り出して座って、スコアブックを開く……。
 ――と、なにやら紙が落ちた。二つ折りになっていて、開いてみると。

 『 い い 気 に な る な 』と書いてある。

 昨日スタンドから聞こえた言葉を思い出す。たしか、そんなことを言っていた。
 内容も内容だが、さらに穏やかでないのは「文字」だ。
 新聞から一文字一文字、四角く切り抜いた紙を貼り付けている。むかしむかしの、それこそパソコンもなかったころの脅迫状がこんなのではなかったっけ? 筆跡がわからないようにするためだったとか。
 でも、なんでそれがスコアブックに挟まってるの?

 えーと……。

 さすがに動揺して顔を上げる。
 ノックを続ける文がいた。
 昨日の試合前とは違って、子どもたちの限界を試すようなノックだ。控えの子たちも加え、交代しながら守備をしているが、あっというまにみんなの練習着は真っ黒。早くもバテ気味。
「おらおら、どうしたー! ノックを呼べえ! 自分のとこに打ってこいって呼ぶんだ!」
 子どもたちを激しく励ます文。こいつは本質的にドSだ。
 必死で応える子どもたち。
 あれ? 
 ……おっさんが子どもたちに混じって、サードに入っている。少年野球らしい練習風景だ。誰かのお父さんなんだろう。
 ――っていうか、頭ははげてるけどメチャクチャ上手いな。
 やや小柄ではあるが、動きは俊敏。サード定位置から緩いゴロに素早くダッシュ。グローブを柔らかく打球に合わせたかと思うと、ホーム方向に跳びながらスローイング。ジャンピングスロー。正確な送球がファーストに送られる。ジャンプの方向と投げる方向が違うのだから難易度はかなり高いが、あたりまえにやってのける。
 ――何者? 直にはいい刺激になる……。

 まあ、それはいいとして……。
 
 さらにスコアをめくると、まだまだあった。

『 た ま た ま 打 て た か ら 勝 て た 』
『 放 火 魔 は 去 れ 』
『 ヤ メ ロ 』
 同じく新聞から切り抜いた文字。

 ……

「あ、笠原さん」
「はい」
 笠原さんは子どもたちが休むために、折りたたみ式のベンチを開いて並べたところだった。よく働く人だ。
「これは、どうしたものでしょうか?」
 脅迫状(?)を見せる。
「えええええっ! なんですかっ! これは!」
「スコアブックに挟んであったんですが……。笠原さんが?」
「まさか、まさか! そんなことするわけありません!」
「ですよね……」
 と言った瞬間、すぐそばに誰かの気配を感じ……。
 ――叫び声を聞いた。

「このハゲ! ちょっとこっちにこい!」 

 智だった。
 ――ていうか、ノックを受けていたはずだが、いつの間にそこにいた? 忍者か?
 彼女は、脅迫状(?)を一通り見たようだ。

「はあ? 俺がどうしたって言うんだよお……」
 はげ上がった頭をかきながら、サードのおっさんが近づいてくる。
 ぼくは小声で笠原さんに尋ねる。
「どちら様でしたっけ?」
「弓川悟(さとる)さん。智のお父さんです」
 おおう……。まあ、そうだよな。
 智が叩きつけるように、お父さんに向かって言う。
「これやったのテめえだろう! なんてことするのよ! 監督のおかげで勝てたんじゃない! 夕べ新聞持ってこそこそしてたの、アタシ見たんだから! さっきもスコアブック持ってなんかやってたよね!」
 智は本気でキレていた。
 まあ、これくらいの気性じゃないと、この年齢であの技術は身につかないのかなと、ぼくは人ごとみたいに思った。
「あ、ども」
 今さらみたいな雰囲気だったが、智のお父さんがぼくに挨拶する。
「こんにちは。おせわになります」
「で、お前は、似鳥はお前のおかげで勝てたって思ってんのか?」
 いろいろ面倒くさい親子みたいだった。
「そんなことはありません。内田監督はじめ、これまで選手たちを鍛えてくれた指導者の方と、子どもたちのがんばりが、すべてです」
 まあ、これは正直なところだ。とくに何か変えたわけじゃない。
「聞いたか智。やっぱりこいつは無能なんだよ。だから出ていってもらっていいんだよ。ノックの上手い姉ちゃんはいて欲しいけど」
「ただのエロおやじじゃねーか!」
「智。お父さんにそんな言葉遣いをしてはいけない」
「え、……あ、はい」
「智が野球ができるのは、お父さんがお仕事をがんばっているからだよ」
「……はい」
「智が野球のいろいろな技術を身につけられたもの、父さんの姿を見たり、話を聞いたりしたからだろう?」
「…………はい」
 かなり納得がいかない様子の智だったが、
「わかればよろしい!」と胸を張るお父さん。
 ――ちっ! 
 うわ、舌打ちしたよこの娘……。
「そもそも、智はノックを受けていただろう。コーチには断ったの? 違うんでしょ? じゃあ、さっさと戻る! ちゃんとコーチに謝ってからグラウンドに戻ること!」
「わ、わかりました!」
 なんとも微妙な態度ではあったが、それでも駆け足で戻っていった。

「……さて、悟さん」
「なんだよ」
「この脅迫状は、いったいどのようなおつもりで?」
「……だってさあ……」
 うつむいて、もじもじする。
「だって、智が……一緒に……お風呂に入ってくれなくなっちゃったんだよおおお!」
「はあ?」
 知らんがな。
「……それは、単にそういう年ごろということでは?」
「ちがうんだよお! 『アタシはゴロを打つしかないと教えていたテめえは嘘つきだ!』とか言いだして、ぜんぜん言うことを聞かなくなっちゃったんだよお!」
「ああ……」
 なるほど。
「でも、活躍できて良かったじゃないですか。というか、どう考えても昨日のMVP。智の活躍がなければ負けてます。これ、喜ぶところでは?」
「納得いかん!」
「こまりましたね」
「お前、……俺と勝負しろ! お前が投げて、俺が打つ。俺が打ったら、お前は似鳥から出ていく」
「打てなかったら?」
「智をお前にやる」
「はあ?」
 文が反応した。すごい形相。ていうか、聞いてたんだ。
「娘さんを賭の対象するのは、親としていかがなものかと」
「けっ!……お利口さんなこって」
「じゃあ、こうしましょう。ぼくが勝ったら、悟さんはぼくの下でコーチをやる」
「なんでそうなるのよおっ!」
 智がショートのポジションから叫んだ。
 みんな耳がいいな。
「ぼくの指導に納得がいかないんだったら、コーチをやってくれたらいいんです。方向性の違いはあるでしょうが、お互い聞ける部分もあるでしょう。
 ……だいたい内田監督からコーチを頼まれなかったんですか?」
「ああ? あのまじめ人間が、俺にコーチを頼むと思うか?」
「なるほど。そりゃそうですね」
「納得すんな!」

 悟さんは、グラウンドのわきで素振りを開始した。
 さすがに良いスイングをしている。やはり智とよく似ているな。

 あらためてスコアブックに目を落としていると、
「大丈夫なんですか?」と笠原さん。
「万一、打たれちゃったら、似鳥は監督を失ってしまいます……」
「うーん。そうは言っても、親からここまではっきり反感もらったら、監督はできないですよ。これで納得してくれればいいんですが……。ぼくが去ることになったら、悟さんに責任取ってもらいますか」
「悟さんが監督やるんですか……? あー……考えただけで頭が痛い……」
「すみません。軽率でしたね」
「いいんです! 応援してます! 勝って下さい!」
「が、がんばります!」
 実のところ、上手いこと言いくるめて勝負を避ける方法はあった気がする。でも勝負を持ちかけられて、正直わくわくしてしまったのだ。子どもたちのがんばる姿を見て、「投げたい」という気持ちがわき上がっていたのかもしれない。
 野球への……投手への未練かな、これは。 
 
 ノックが終わり、子どもたちは休憩。
 完膚なきまでに泥だらけ。
 笠原さんが並べたベンチに座って、興味津々こちらをうかがっている。
 文がキャッチャー防具を着ける。防具の色は赤。似鳥のチームカラー。
 ホームベースの位置を下げた。学童の1600センチから一般の1844センチへ。
「勝負」に備えてのキャッチボール。
 負けるのかもしれないが、少なくとも本気でやらないといけない。笠原さんに申し訳ない。
「あんた、さあ」         
「なに」
「球、速くなってるよね?」
「んー? そうかな?」
 言われてみればそうかも知れないが……
「ボールが小さいからじゃない?」
 いま投げているのは学童用の小さなボールだ。中学生以上は同じ軟式球でも一回り大きいボールを使う。
「そういう問題じゃないと思うんだけどな……」
「まあ、あまり投げてないから、肩は軽いよ」
「そういう問題なのかしら?」
「どんな問題があるんだよ」
「まあいいけど」
 悟さんがやってくる。
 ――さあ、勝負だ!
 リラックスした構え。
 さっきお風呂がどうとか話をしていたときは、どこか冗談めいた表情を浮かべていたが――というか存在そのものが冗談ぽいんだけど――いまはそれが消えている。
 無表情。
 冷徹な目線をぼくに注ぐ。
 バットのヘッドが頭上で力みなく小刻みに揺れる。
 雰囲気がある。
 ――どう見ても良いバッターだな、こりゃ。
 文が、サイン? を出していた。スライダー? 
 ストレートしか投げないつもりだったが、サインというか、手つきでスライダーを投げろと言っている。文なりに、悟さんのヤバさを感じているのだ。まあ、だいたいならコントロールできるだろう。
 うなずいて――。
 初球。スライダー。
 ど真ん中めがけて投げて、あとは適当に曲がるだろうというボール。
 まさに打ちごろの高さとコース。鋭く振り出されるバット。
 その瞬間、ボールはブリン!と曲がった。
 悟さんが空振りする。
 文が腰を落として外角のボールゾーンに身体をずらし、ワンバウンドしたボールをプロテクターで止める。
「なんだそりゃ! 消える魔球を投げるな!」
「ただのスライダーですよ」と文。
「鬼みたいに切れてるけど」
「今のがスライダー? ……男なら真っ直ぐで勝負しろい!」
 二球目。文はノーサイン。注文通りのストレート。
 外角高めを空振り。
 ボールは文のミットを弾いて、マスクにあたり、そのまま後ろに反れてバックネットを叩いて跳ね返った。文があわててボールを拾う。
 文が弾くとはめずらしい。
「ごめんごめん。次はちゃんと取る」
「くそ! 速いな」
 悟さんがつぶやく。
 たしかにぼくのボールにしては走っている。ボールが小さいし、ちょっと軽いからだろうと思うが。それはそれとして――。
 やべえ……楽しい。どうしよう。
 振りかぶって、左足を上げ、そして下ろす。右足に体重をかけ反動で身体を加速させる。右腰にため込んだエネルギーを着地した左足で受け止めて、一気に体幹を旋回……肩そしてヒジを通じて、指先からボールに叩きつける!
 悟さんの鋭いスイングをボールが擦り抜けるようにして、外角高めに構えた文のミットに収まった。 
 パアン!と、乾いた音が校舎に響いた。
 空振り……三振。

 子どもたちが、ワッと歓声を上げた。
「アタシの監督が! テめえなんかに負けるわけないのよッ!」
「智! お父さんにそんな言い方をしてはいけません!」
「……え、あ、はい。……ゴメンナサイ……」
「お前……」と悟さん。
「そもそも少年野球の監督とかしてる場合じゃねえだろ。140出てねえか? それ」
「そんなことはありません。ぼくのMAXは120キロです」
「マジか! まあ、どうでもいいか。……わかったよ! お前を監督として認めてやらあ!」
「じゃ、コーチをお願いしますね!」
「はあ? 考えといてやるよ!」
「笠原さん! 悟コーチにユニフォームを用意して下さい!」
「了解です! 背番号は28です!」
 笠原さんは、嬉しそうだった。
 まあ、笠原さんを裏切らないで済んで、よかったよ。
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