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学童軟式少年野球――。

 小学生年代の軟式野球だ。
 ぼくが「学童」のころ、投手として球速が115キロはでていた。
 投手板からホームベースまでの距離は、一般、つまり中学生以上はプロまで同じで1844センチ。日本でもアメリカでも一緒。
 一方、学童は1600センチ。
 学童の方が短い。
 だから投手のボールは学童のほうが速く感じる。
 単純に計算すると学童の115キロは中学生以上の132キロぐらい。
 それ、小学生には打つの難しいよね?
 だからぼくは、めったに打たれなかった。
 けっこう将来を期待された投手だった。
 コントロールだって良かったし、上背は160あった。
 前途有望な野球少年というわけだ。

 それが、中学一年の終わりに身長が170まで伸びてぴたりと止まると、球速だって伸びなくなった。中学ではどうにか「速球派」と言われるレベルだったけど、もう大して目立たなかった。

  そして高校だ。
 地元では野球で名の通った公立高校に入った。
 五月はじめのこと。
 一年生にしてただ一人Aチーム(一軍)の県外遠征に参加し、練習試合の二試合目に先発すると七回を投げて二失点。勝ち負けは関係なかったが、まあ仕事はしたというか、「試合をつくった」とは言っていい。相手は甲子園常連の強豪校だったから、結果だけ見れば大したものだ。
 結果だけみれば、だけど。
 ナイスピッチングと、先輩たちは褒めてくれたんだけど。
 ただ、まあ。……ほんと、もう限界という感じなわけだ。
 露骨に打たせて取るピッチング。
 すっかり軟投派。
 どろんとしたカーブでなんとかストレートを速く見せかけたと思えば、そのストレートも微妙に動かし、バットの芯をのらりくらりとかわしていく。つかみどころのないピッチングを演出しながら、内心ではピンと張り詰めたロープの上を渡っていく軽業師の気分だ。もしくは実力を誇大に見せつける詐欺師。
 打者のタイミングを外すために投球のテンポも変えていたから、本当は守っている先輩たちだってやりにくかっただろう。リズムよく守りたいからね。
 
 今は、その遠征帰りのバスのなか。
 薄暗い蛍光灯の照らされた車内に、エンジン音が低く響く。
 先輩たちはみんな寝ているみたいだった。朝早かったからな。
 ぼくは、暗くなった窓の外を見ながら、学童からの野球人生をしみじみと振り返っていたわけだ。
 うん。
 結論としては、しりすぼみです。
 今日みたいなピッチングでは「先が見えない」のですわ。

 学校が近づいていたが、この時間としてはめずらしく道が混んでいた。サイレンの音が響いてきた。火事らしい。それで道が混んでいるんだ。
「なー、結斗(ゆいと)」
 前の席に座る先輩が、体をひねってこっちを見ていた。サードで良い守備があった。今日は助けられた。
「あ、起きてたんですね」
「今、サイレン鳴ってたよな? 目が覚めた」
「火事みたいですね」
「帰るの遅くなっちゃいそうだな……。まあ、それはともかく、お前、やっぱ今日のピッチング納得いってないの?」
「あ、そんなふうに見えますか?」
「顔に書いてあるよ」
「うーん。二失点という結果はいいんですけど、ずいぶん守備に助けられましたし、なんていうか『投げっぷり』が悪くありません? こう見えても昔は速球派だったんですよ」
「いいんだよ、みんなで守ってんだからさ。もともと速球派でもベテランになって技巧派になるプロっているじゃん?」
「ぼく、まだ高校生になったばっかなんですけど?」
「まあ、そう言うな……ん、監督が出ていくぜ?」
 監督が、バスのステップを降りていく。白髪混じりの短髪が、闇に消える。バスがちっとも進まなくなったので、様子を見にいくらしい。
 サイレンの音があちこちから響いていた。火事は学校の近くかもしれない。
「学校が燃えてたりしてな」
「そういえば、学校のグラウンドではBチームの試合があったんですよね。みんなもう帰ったんでしょうか」
「帰ってるだろ。やる気があるのかないのかよくわからん奴らだ。結果を残せば上に上がれるんだけどな。Bチームだって試合に出られるからそれで満足かも知れないけど、『つきあげ』ってやつがほしいのよ。俺らにしてみれば」
 レギュラーらしい言葉だけれど、一年でただひとりAチームに加わった身としては恐縮してしまう。他の一年生たちはみんなBチームなのだ。自分だけが背伸びしてむりやりAチームに加わっている感じ? 圧倒的な実力があればいいんだけど、そんなんじゃない。なんとも言えない居心地の悪さよ。
「まあ、次も期待してるぜ? 
 お前が入って計算できるピッチャーが増えたし、投手陣に取っちゃ最高の『つきあげ』だよ。
 今年は長い夏になりそうだな!」
「はい、がんばります!」
 そうとしか言いようがなかった。
 いい先輩だよ。

 ――と、そのとき、監督がただならぬ表情を浮かべて戻ってきた。
「みんな、すぐにバスを降りろ! 荷物を持て!」
 なんだ、なんだと立ち上がる先輩たち。
「学校が火事なんだ」

 そう聞いて、校舎が燃えているのかと思った。
 でも、バスを後にして、荷物を提げながら歩いたぼくたちは、燃えたのは正確には部室棟……それも野球部の部室を中心にした一角であることを知った。
 後に明らかになったところによると、火元は野球部。
 Bチーム一年生のタバコの火の不始末だった。
 
 野球部について、学校は夏の県大会の出場辞退と、四ヶ月間の活動禁止を決めた。
 長くなりそうに思えた先輩の夏は、はじまる前に終わってしまった。

 そういうわけで、生活にぽっかり穴が空いてしまった。
 朝練、昼練、午後の部活動に加え土日の練習。みんなきれいさっぱりなくなった。
 五月の日曜日。晴天。
 もう、練習着を着る必要もないが、何を着るのか迷うほど服もなかった。Tシャツとジーンズ。あとはジャージくらいしかないや。前者を選択。
 近所をおっさんみたいにぶらぶら散歩するのも、仕方がないというものだ。
 自宅から徒歩10分の似鳥(にとり)小学校に近づくと、子どもたちの歓声が響いてきた。
 少年野球だ。
 似鳥小学校グラウンドをホームとするのは似鳥レッドアローズ。ぼくもそのOB。
 歩道とグラウンドを隔てるフェンスに沿って、数人の大人たちが試合を見物していた。
 練習試合のようだ。 
 相手チームは隣町の中沢スピリッツ。3―2で後攻の似鳥が負けていた。もうすぐ正午。試合は7回を迎えていた。学童は7回までだから、これが最終回。
 ベンチ――といってもふつうの学校のグラウンドだから、折りたたみ式の長いすを並べてあるだけだが――から、白地に赤い線の入った似鳥のユニフォームが勢いよく散って、最終回の守備につく。小学生とはいえ、鍛えられた機敏な動きだ。
 ベンチに残るのは仁王立ちする内田監督。
 ぼくも以前お世話になった。もう50歳を超えたんだろう。角刈りがかなり白っぽくなったし、少しやせたかも知れない。心なしか顔色も悪いような……。
 歳を取ったということかな。
 昔から怖い監督だった。そのへんは健在らしい。子どもの動きを見ればわかる。表情も緊張気味だ。今にして思えばもうすこし伸び伸びやらせた方が小学生にはいいんじゃないかと思うが、一歩間違えたらデタラメになってしまいそうだ。そのあたりの加減は、結構難しいところなんだろう。
 似鳥の投手は上背もそこそこあって、オーバースローからいいボールを投げた。球速は100くらいかな。ボールに伸びを感じる。ボールの回転がいいんだ。二者連続三振でツーアウト。速球で押せる。まあ、学童は変化球禁止だが、力を抜いて緩いボールを投げるのは許されている。それで緩急をつける技巧派もいるが、この子は速球に自信がありそう。本格派右腕だ。
 しかし、次の左バッターは初球を捉えた。
 正面のライナー性の打球にライトが一瞬前に出て、あわてて後ずさるが及ばず。
 なんとかグラブに当てるが、落球。転々とするボールをつかんで返球。
 バッターは三塁へ。
「外野は後ろから入るんだ! なんかい繰り返してんだよ!」
 内田監督激怒。
 よくある話だ。打球を見て、外野手がついつい前に出てしまうところから、監督が激怒して選手が下を向くまでがセットで、昔から何百万回も繰り返された光景だろう。『少年野球あるある』だね。練習するしかないです。
「切りかえて! よくグラブに当てたよ!」
 センターの女の子がライトに声をかけた。
 ――それもそうなのだ。
 いまの感じで目測を誤って、グラブに当てるというのは難しかっただろう。そして、グラブに当てていなかったらたぶん本塁まで行かれた。球際に強いタイプかもしれない。それもセンスだ。そこを指摘するとは気がきいた女の子だ。
 ……というか女の子がいるんだな。
 そう思って見回すと、もう一人。ショートが女の子だ。
 ん? ショートが女の子というのはちょっとめずらしいかな?
 さて、ツーアウト三塁。
 ボール先行でスリーボールまできたが、そこからストライクを二つ取って最後はぼてぼてのサードゴロ。これをサードが鋭いダッシュで前に出ると軽快に捌いた。お手本のような動き。小学生にしてはいい肩で、バチンといい音をたててファーストミットに収まった。
 良い守備でピンチをしのいでさあ逆転。という場面だが、いまいち盛り上がらない。声が上がらない。
 ――そうなんだよなあ、とぼくは昔を思い出す。
 なんかこう、自分から野球を進んでやっていない雰囲気の小学生って多いのだ。自分の感情を表現できないのか。それとも本当はやりたくないのにやらされてるのか、微妙なところなんだけど、そういうのってあった。 
 子どもたちの姿を追って、ふと監督と目が合った。
 おっ! という表情を内田監督が浮かべる。
 ――やべえ。
 反射的にそう思った。うーん。つい試合に見入ってしまった。それはいいんだけど、ぼくの立場というのは、なかなか微妙だ。地元の高校なんだし不祥事は当然知っているだろうけど、どう切り出したらいいものか。まー、挨拶はしておかないとねえ。

 似鳥最終回の攻撃は、ショートの女の子から。 
 右バッターボックスに入る前の素振りは、良いスイングだった。
 下半身がしっかりしていて上体がぶれない。だから身体全体でバットを振れる。左足を上げ、着地してバットを振るのだが、着地の瞬間に、テイクバックを一段深くする「割れ」の動きが入るのもポイントが高い。小学生にはちょっと難しい動きだが、「割れ」によってタイミングが取りやすくなるし、飛距離も伸びるのだ。
 バッティングもいろいろな考え方があるが、ぼくは好きな打ち方。
 相手、中沢スピリッツの投手はあまり球速もなく、平均的な小学生に見えた。
 点取れそうじゃん。まずは、先頭のこの子が塁に出て……。
 ところが、期待の女の子は真ん中高めの初球をあっさり凡打。
 ショートゴロでワンアウト。
 あれ? そのスイングで、それ? 甘い球だったのに?
「わたしとしたことが……」的な表情を浮かべるでもなく、平然とベンチに戻ると周囲もあたりまえに受け入れた。
 期待していたのはぼくだけだったようだ。
 違和感しか残らないのだが、どうも下位打線みたいだし普段からこんな感じなのか……。
 結局、似鳥打線は三者凡退し、3―2のまま試合は終わった。

「おーい、結斗!」声をかけられた。
「あ、監督。お疲れ様です」
 内田監督は相手チーム中沢スピリッツの監督と、グラウンドのフェンス際で談笑中だった。
 近づいて、中沢スピリッツの監督にも挨拶する。
「コンニチワ……」
「で、お前が放火したの?」と内田監督。
 そう来たか。三年ぶりに会っていきなりそれかい。
「ちがいます! ……ていうか、シャレにならないんで止めてください。だれか聞いてたらどうするんですか!」
「四ヶ月の出場停止なんだって?」
「ぼくが出場停止じゃなくてチームが活動禁止ですから!」
「キミが、中川結斗君?」と中沢の監督さん。
「はい。初めまして。レッドアローズのOBです。いまは似鳥高校の……」
「いやいや、初めてじゃない。むかしキミにはコテンパンにやられてるから」
「あー……練習試合……ありましたね。すみません」
 そういや、そうだった。
「いや、大会でも一度あたったな。結局、二試合で一本もヒットを打てなかった」
「昔の話ですね。いまではこのざまですが」
「まあ、キミがタバコ吸ってたわけじゃないというのも、いま内田監督に聞いたんだけども……」
 なんだ、そんなことまで知られているのか。まあ、地元だし狭い世界だ。
「こういう話で気の毒なのは、なんといっても三年生だが、……しかしキミが退部するというのはおかしな話だなと思って」
 え、なんでそんなことまで知ってんの? と内田監督を見る。
「文に聞いたんだ。いま来てるんだよ」
「え、あいつがいるんですか」
 水上文だ。同級生。そうだったのか。おしゃべりな女だ。
「で、なんで辞めちゃったよ?」
「まあ、ぼくのせいで大会辞退とか活動停止とかではないですし、責任取ったわけでもないですが、ほら、高校生になるといろいろあるじゃないですか。高校野球最後まで続けるのって意外と難しいって聞いたことありますけど、なんかこういうことかな、って」
「ふーん。人間関係とか?」
「世の中にはそういう話もあるみたいですね」
「彼女が妊娠!」
「テレビドラマで見たことあります」
「まあ、いろいろあるわな!」
「ええ、そういうことで」
「ふむ。しかし、お前はたぶん大切なことを忘れている」
 内田監督は真顔だ。
「え? なんでしょう?」
「昔、お前は俺と約束した。自分は野球をずっと続ける。もし、高校とかで中途半端に野球を辞めたら『自分はレッドアローズの監督をやる』と」
「「えー!」」と、なぜだか中沢の監督までひどく驚いた。
「そんなこと、ありましたっけ?」
 そうは言ったものの、――うーん。ありえなくはない。あったような気もする。
 当時、自分はぜったい甲子園に行って、それからプロになるって信じてたからな。そういうことを気安く言ってもおかしくない。
「でも、内田監督はまだバリバリじゃないですか」
「おう、誰にも譲る気はないな。今年になって公式戦未勝利なのはナイショだ」
「え、そうなんですか? なかなか見所がありそうな子たちだと思いましたけど」
「だろ? だから、これから勝ちまくるさ」
「なんだ。じゃあ、問題ないですね」
「だがさ、コーチがほしいんだ。いないんだよ」
「ああ、そういえば、監督の隣に座ってたのはスコアラーさんで、ほかに大人の姿がないですね……誰か、お父さん方でやれる人いないんですか?」
「い な い ん だ」
 妙なアクセントをつける。なにか含みがある言い方。
「はあ……」
「ほう、中川君がコーチに入るとなると、結構な脅威だな」と中沢の監督。
「いや、コーチなんて未経験。ただのシロウトですよ」
「実際、たいへんでさ。さっきは文にも頼んだくらいだ」
 そりゃ、たしかに監督だけじゃつらそうだ。指導すべきところは多いし、練習でも試合でも、準備には手間がかかる。何かと人手が必要だ。小学生はとくにそう。
「なるほど。文はコーチに向いているかもしれないですね」
「まあ、二人でやってくれたらそれに越したことはない。どうせ暇だろ。まあ、考えといてくれ」
 たしかに暇は暇……。
 ――しかし、高校生が少年野球のコーチやるってどうよ? 高校生ならふつうはまず自分が選手やりたいでしょ? と思って、自ら選手を辞めたことに思い至るのだった。

 子どもたちは昼食のおにぎりをほおばり、スコアラーさんが次の試合のメンバー表に取りかかっている。
 ぼくは水上文(あや)を見つけた。
 グラウンドから校舎へと続く階段に座っていた。若い女の子が日曜日にこんなことをしていていいのだろうか? 休みの日にはもっとやることがあるんじゃないか? しかもなぜか学校指定の紺ジャージを着ている。そうとう変わってるよね。
 わりと整った顔立ちじゃないかと思うんだけど、そもそも女の子っぽくない。
 年中日に焼けているし、髪も昔から短い。
 話を聞くと、たまたま通りかかって、試合を見始めてしまったという……。ぼくと同じだ。
 キャッチボールしようかという話になった。
 監督に言ってチームのグローブとボールを借りた。
 文もレッドアローズで野球を始め、ぼくのボールは文が受けていた。バッテリーを組んでいたのだ。
 というか、ぼくのボールを捕れるのが文しかいなかった。
 それは中学まで続いた。
 同じ高校に進んだが、女子の文に野球ができる場所はない。クラスは違うしあまり話す機会はなかった。

  三〇メートルほどの距離でキャッチボールがはじまった。
「文こそさあ、野球を続けようと思わなかったわけ?」
「女子の野球はね、あんたが思うよりずっとたいへん、な、の、よ!」
 文がとびきり強いボールを投げ返してきた。
 糸を引くような見事な直球。
 グローブがパーン!と音を立てる。
「だろうね」
 高校で女子硬式野球部となると、県外に行かなきゃならない。卒業後のことも含めて相当の覚悟が必要だ。それにしたって「今は帰宅部」とか聞くと、なんで?という気にさせられる。
 文のボールを見て、子どもたちも、その親も、すごいすごいと声を上げる。
 そうなんだよ、すごいんだよこいつ。
 さすがに「女性としては」という但し書きは必要ではあるが、例えば「女子プロ野球」という枠組みのレベルにはかなり近いんじゃないか。だから、このグラウンドにいる女の子たちにとっては、最高のお手本であり、希望になるべき存在なんだ。
 だから、ぼくは……
「いいボールじゃないか! ホント、もったいないな。女子プロ目指せよ」パーン!
「もったいないのは、アンタっしょ! 野球部辞めるとか意味わかんない」パーン!
「はあ? ぼくは高校野球のレベルじゃありません! 以上!」パーン!
「あきらめるの早すぎるのよ!」パーン!
「さんざん考えた結果だよ!」パーン!
「つまんないのね!」パーン!
「しらねーよ!」パーン! 

 長年の習慣で、キャッチボールの最後はだんだん距離を詰めて、最後に互いに礼。
 「「ありがとうございました!」」
 それでグラウンド中から拍手が湧いた。
 ありゃりゃ。
 そんなつもりじゃなかったんだけどね。
 高校生の肩というのはたいていの小学生から見たら異次元だし、文も女性として異次元だからな。こういうこともあるか。

 午後の試合に向けて子どもたちが準備を始めていた。
 校舎に登る階段に並んで腰掛けて、その様子を眺めた。
「文はコーチやるの?」
「うーん。わかんない。結斗がやるんだったら私もやろうかな? あ、結斗は私のこととか考えないで決めてくれればいいけど」
「ぼくはともかくさ、文は向いていると思うよ。自分のことしか考えてないぼくと違って、周りも見えるしね」
「また、そう言ってどっかに一人で行こうとするんだから。アンタはいったい何をしたいわけ?」
「ん? とくに何もないんだけどさ。自分探しでもするかな」
「はー……。野球のことしか考えてないのかと思ってたのにねえ……アンタがそんなこと言い出すなんて夢にも思わなかったわよ」
「そりゃ、どうも」

 文は午後の試合も見ていくというので、ぼくはグラウンドを後にした。
 コーチのことは、そのときは正直あまり考えていなかった。
 晴れた休みの日。野球を離れてのんびりできるのが、新鮮すぎた。

 でも、結構強引に、野球はぼくを捕まえて離さなかった。

 次の日。
 月曜日の夜だった。
 家の電話が鳴って、母さんが出たのだけど、ぼくが呼ばれた。
「笠原さんだって」
 ――って、誰よそれ。
「もしもし?」
「こんばんは。笠原です。似鳥レッドアローズでスコアラーをやっております」
「あ……こんばんは」
 コーチのことかな? それなら監督から話がありそうだが。
「じつは、折り入って相談がありまして……、監督の内田が今日入院してしまいました」
「ええ!! なんでまた……」
「腎臓の病気らしいですが、さきほど内田から電話があったばかりでして……背中が痛むからと医者に診てもらったら入院することになったというのですが、……詳しくは私も。ええ、命がどうこうじゃないそうです。ただ、手術は必要みたいで、おそらくひと月ほどは入院するだろうと……」
 そういえば、昨日ちょっと顔色が悪かったような……。元気だったけどな。
「……で、内田が非常に気にしていたのが、やはり似鳥のことでして……」
 と、笠原さんは一つ咳払いをし……
「監督を中川さんにお願いするように、と。必ず受けてくれるはずだというのですが……」
 と、かなり不安な口調の笠原さん。
 まあ、「必ず受けてくれる」とか普通ありえないもんな。それも高校生が。
 しかし、自分でも驚いたことに、あのチームの監督をやってみたいという思いが、ぼくにはあるみたいだった。昨日見た似鳥のピッチャーや、ライトやセンターやショートの子たちが、その瞬間思い浮かんで、一緒に野球をしてみたくなったのだ。
「監督……ですか。内田監督が復帰するまで、ですよね。ぼくでいいのでしたら、受けさせていただきますが……」
「ええ!? やっていただけるんですか?」
「たまたま……と思うんですが、昨日、内田監督からコーチをやってくれないかみたいな話があったものですから」
「なるほど、そうだったんですか」
「で、とりあえず次の土日から……ですよね?」
「ええ」
「ひょっとして、いきなり大会ですか?」
「実は……湖北支部主催の大会があります」
 ぼくも学童時代に出たことがある。ちょっと離れた地区の大会だ。
「湖北大会ですか……心配になってきました。本当に、ぼくなんかでいいんでしょうか?」
「いいんです。監督の推薦ですから。それにどうせ今年は公式戦全敗なんですから、プレッシャーを感じる必要もないでしょう」
「お父さんお母さんたちはどうですか? やりたい人もいるんじゃないですか?」
「文句を言う人はいるかもしれませんけど、やるって言う人はいないですよ。監督がどんなに頼んでもコーチさえ受けてくれなかったんですから。その程度の人たちです。文句だって気にしなくていいです」
「笠原さんが監督という方向はないんですか?」
「ないない。私は野球の経験がないんですよ。小二の息子が似鳥にいるんで、スコアラーをやってますがね。スコアラーといっても少年野球の場合は、プロのスコアラーみたいな専門家じゃなくて、単にスコアブックをつけるだけの記録係です。まあ、ご存じかとは思いますが」
「あー、なるほど……でも、監督というと、たしか誰でもできるわけじゃないですよね。資格とかありませんでしたっけ」
「本当は指導者証がないといけないんですが、まあ状況が状況ですからね。週末の大会については何とかなると思います」
「なるほど。そのあたりはよろしくお願いします」
 こうして、ぼくは似鳥レッドアローズの監督になったのだ。

 それから数日間、文にコーチを依頼したり、監督用のユニフォームを用意してもらったり学童野球のルールを確認したりと、あわただしく過ぎた。内田監督のお見舞いに行こうとも思ったが、笠原さんからまだ止めた方がよさそうだと言われた。

 そんなこんなで、あっというまに大会当日を迎えた。
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