お伽話 

六笠 嵩也

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第三章

3-31

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五日目の朝、庭の日陰に白い霜柱が立った。

鈴虫が堂の戸を開け放って淀んだ空気を一掃し、その間に嘉平が湯を沸かして堂の入り口まで運んでゆく。体を清めて、髪を梳いて、二ノ上村からの迎えが来る前に急いで帰り支度を整えてやらなければならない。

「体、汚過ぎて気持ち悪い…おい、あんまりじろじろ見るなよ。」

「ん、見ねぇ。すぐにきれいにしてやるよ。木ネズミきねずみちゃん、具合はどう?立てる?お父様がお祝いに白いご飯を炊いてくれたよ。体をきれいにしてから食べようね。」

「立てるけど…その変な呼び方は止めてくれないか。なんで俺のことを木ネズミって呼ぶんだよ、やめろ。俺の名前は…」

「だぁめ!おら、聞かねぇ。」

「…ったく、なんでだよ。変な奴だな。それよりこの縄を解いてくれ。」

「だぁめ!お父様が解いちゃだめって言ってた。ほら、はやく立って!」

木ネズミは何とも不満そうな顔をしながら木箱の中で立ち上がった。その脚をダラダラ…と箱の底に溜まっていた液体が伝って流れる。微かに甘い香りを残す体液と血液と排泄物の入り混じった混沌の海は不浄の極みとも言える代物で人に見せられるような物では無い。しかし、鈴虫が体に掛けてくれていた生成の着物は既に液溜まりに浸かってしまっていて体を覆う為に使える状態ではなくなっている。隠すことも出来ずに決まり悪そうにしている木ネズミの気持ちは察するに余るところ。鈴虫はその心を図って黙ったまま手早く汚れを拭き取った。そしてそれが終わると自分がいつもしてもらっているのと同じように盥に湯を張って木ネズミを中に座らせる。ここからはもういつも自分がしてもらっている普通の湯浴みだ。鈴虫は快楽を拾う事も無くなった木ネズミの体を、自分が嘉平から言われている言葉をさも得意げに使いながら洗ってゆく。

「見て!このヌカ袋はキチョーヒンだからおら達だけが使えるんだよ。体をきれいにする時は上から順番で…お湯を掛けたら…耳の裏と脇も…お股はこうやって…ちゃんと剥いて洗うんだよ。」

「アッ、ァッ!ヒャァァッ!バカ、そこは勝手に触るなッ!!!!」

「あはははっ!おらとお前様は同じ体の仲間なんだよ!同じモノ付いてるんだから恥ずかしがることないでしょ!」

「ぅ…。」

鈴虫の屈託のない笑顔に木ネズミは思わず言葉を失った。
童女のような顔立ちだが体は確かに自分と同じ男。実のところその事実がどうしても信じられない。それに加えて、これからさき自分が鈴虫のと同じように女だか男だか一見分からないような存在に変えられていってしまうかも知れないと思うと更に恐ろしくて全力で否定したくなる。

体の始末は鈴虫の手に任せ、気持ちを逃がすように開け放たれた戸から青い空を見上げる。カサカサと音を立てて風が吹いている。不意に心が青い空に吸い込まれてしまいそうだ。清兵衛たちに追い詰められて冷たい川に飛び込んだあの日からまだ数日。薄ぼんやりと曖昧な記憶が頭の中を駆け抜けて行く。不安な気持ちに火が付かないように、出来るだけ余計な事は考えないようにしていたのだが、記憶の中の思い出せない部分はやはり鈴虫が言うように観世音菩薩様に乗り移られていたのだろうか。意識を集中させようとしても、思考はすぐに掴みどころも無く散り散りになってしまう。このいくら考えても分からない現実を曖昧なままにして、こんなにも短い期間で過去と未来を受け入れて行かなければいけないのだろうか。

鈴虫が木ネズミの野良着をそっと肩に乗せた。

「なぁ……なんか…自分の中に、もう一人、誰かが居るみたいで…こわい…な……」

「そだね。」

「お前にもわかるのか、この感覚が。」

「うん。」

「…その誰かに乗っ取られるみたいで…嫌なのに認めてしまう…みたいで……」

「自分を赦すしかねぇ。」

「…自分を赦す…か。」

「あの辛さは他の人にはわからねぇ。だから、自分で自分を赦すしかねぇ。あぁ…でも、おら達はもう一人きりじゃないよね。おら、何があってもお前様のこと大切に思ってる。ぜったいに忘れない。だからお前様もおらのこと遠くへ行っても忘れないでいてくだせ。そしていつまでも、いつまでも…ずっと、元気でいてくだせ。」

「…ああ、お前もな。」

「さ、母屋でごはん食べよ。」

母屋の囲炉裏の傍で嘉平が食事の支度を終えて待っていた。目の前に用意されていたのは山の様に盛られた白い飯。自分の為に用意された祝いの膳だと言われても、木ネズミには何を祝われているのか全く実感が湧いてこないし、飯の白さがやけに空虚に見える。木ネズミはようやく縄を解かれて久しぶりに自分の手で食事をすることが出来るようになったと言うのに、茶碗の前に座り込んでぼんやりとしていた。

「木ネズミ様、長らく不自由な思いをさせてしまって申し訳御座いませんでした。御体も落ち着かれたようですし、これで一安心ですな。さぁ、どうぞお召し上がり下さい。」

「……はぁ…嘉平様までその呼名で呼ぶんですね。止めてもらえませんか。俺の名前は…」

「木ネズミちゃん、木ネズミちゃん!あ~んして!おらが食べさせてあげよ。」

「や、やめろよ、自分で食えるから!ご馳走になります。」

未だ食事の世話を焼こうとする鈴虫から茶碗を取り返し、口の中はまだ少し痛むが木ネズミは慌てて白飯を掻き込んだ。それを見て隣に座った鈴虫もニコニコと機嫌良く食べ始める。今まで自らの手で食べ物を口に運ぶと言う有触れた単純な行為が、人として生きる上で意味を持つ事だとは考えたことも無かったのに、久々に自らの手で箸を進めると心が少し晴れてくるような気がする。そして、勧められるままに遠慮なく食べて腹がいっぱいになる頃には、先程までの不安な気持ちは影を潜め、緊張の弛みもあってか疲労から来る眠気の方が強くなっていた。木ネズミは食後に出された白湯を口に含んだままウトウトと舟を漕いでいる。このまま何も考えずに横になりたい。体力が戻れば混乱した頭も少しはまともに働くはず。そうすれば冷静になってこれから先の覚悟も出来るかも知れない。
その様子に気が付いた嘉平が横になる為の茣蓙ござを木ネズミに差し出した。現身が普通の男よりも体力が無いのを熟知しての気遣いだ。木ネズミは嘉平のさりげない優しさに感謝しつつ茣蓙の上に体を横たえた。

「嘉平様、嘉平様ぁ!清兵衛に御座います。現身様をお迎えに上がりました。」

「はぁ、もう約束の時刻か…」

間が悪い事に木ネズミが体を横たえた途端に清兵衛が迎えにやって来た。嘉平がぼやきながら戸を開けにゆく。木ネズミは気怠い体を無理やり引き摺り上げて起き上がると清兵衛に向かって座り直した。お互いにあれだけ大暴れして傷を負った者同士、かなり気まずい雰囲気で挨拶も出来ずに対峙する事となる。

「木ネズミ様、清兵衛殿、お二人とも睨み合ったままでは困りますよ。木ネズミ様は少し体を休めた方が良さそうなので一眠りする間お待ちいただけませんかね?」

「いえ、嘉平様、人払いしている時間の都合もありますのでそのような暇はありません。やはり人が出歩かないうちが宜しいでしょう。嘉平様、鈴虫様、長らくの間お世話になりました。御礼申し上げます。」

「いえいえ、おやすい御用です。でもご無理はさせないように。あっ、それと、お連れするにあたり腰縄を使いますか?儂はその方が間違いが無いと思いますよ。ご用意しましょうか?」

木ネズミが清兵衛にもう自由を奪われるのは御免だとジリジリと睨んで圧を掛ける。

「腰縄、ですか…そうですねぇ…現身様は罪人ではありませんので大丈夫でしょう。」

「そうですか?悪い事は言いません、確かに罪人では御座いませんが念には念を入れた方が宜しいですぞ。」

「嘉平様、お心遣いありがとうございます。何処へ逃げても逃げ切れるものでは無いと悟ったでしょうから大丈夫です。なぁ、現身様、縛らんでも逃げたりせんよなぁ!」

清兵衛は負けじと木ネズミに視線で圧を掛けながら嘉平からの申し出を断る。

「あの…お二人とも、鈴虫が怖がりますので睨み合いはお止め下さい。そこまで仰るのでしたら無理には勧めません。では、お顔の傷が目立たないようにこの笠を目深に被って。さぁ、木ネズミ様、お立ち下され。」

「嘉平様、何度も言いますが俺は木ネズミではありません。俺は…アッ、すみません、笠、ありがとうございます。俺、これから何処へ…」

これから何処へ連れて行かれるのか、これから自分がどうなってしまうのか、漠然とした不安が木ネズミの口から零れた。しかし、それを敢えて聞えなかったかのように誤魔化して清兵衛は半ば強引に屋敷を去ろうとする。別れ際に嘉平が清兵衛に現身の身体は普通とは違うから無理はさせるなと念を押してくれたが、清兵衛は先を急ぐあまり一歩外に出れば加減を忘れてしまうかも知れない。
清兵衛に連れられて戸口を出る時、木ネズミは後ろを振り返らずにはいられなかった。訳も分からず連れ込まれた場所ではあるが自分と同じような身の上の者が居てそれなりに安らぐことも出来た場所。ほんの数日の滞在とは言え、いざ離れるとなると引き剥がされてゆくようで辛い。不安で速まる鼓動を押し殺して屋敷の中を見渡すと、後を追う事の許されない鈴虫が囲炉裏の傍で寂しそうに微笑んで見送ってくれていた。その口唇が微かに言葉を発しているかのようにも見える。

「…ありがと…な…」

木ネズミもまた鈴虫には届かない声で別れを告げた。
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