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第三章
3-30
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慈照が目を覚ましたのは馬の背の上だった。規則的に揺れる景色の中で傍らの弦次郎が手綱を牽いているのがぼんやりと見える。屋敷からはもうだいぶ離れたのだろう、甘い香りはすっかり消えていた。とんでもない事をやらかした割には記憶がどこか曖昧で、何を口走ったのかさえ半ば覚えてはいない。ただ、あれが悪夢ではなかったと、じっとりと先走りで湿った褌の前袋が卑しい行動の証を残している。こんなことは誰にも言えたものでは無いのだが、慈照はお漏らしをした子供のように情けない気持ちになっていた。
「弦次郎殿、御館様はまだ目を覚まされませんか。」
「あぁ、このまま屋敷に着くまで目覚めない方が良い…。あの現身様、嘉平殿からお許しが出た途端に泣きながら大っ嫌いって叫んでおられたな。御館様も見栄えのする美丈夫なのだから、それなりの礼節と優しさを以て接すれば心を開いてくれたかも知れないのに…。あんなに怖がらせてしまっては嫌われて当然、最悪の展開だ……」
「だぁーから!連れてこないっでって言ったのに!」
「いや、御開帳の夜は俺より長く正気を保っておられたことだし、いくらなんでもあんな興奮状態になるとは思わなんだ。おそらく…これはあくまでも俺の考えなのだが、御館様は普段からもっと発散するべきなのだろう。いつまで経っても寺住まいの禁欲生活から抜け出せずに子種を溜め込んでいるから、あんなおかしな暴走の仕方になるのだ。」
「ふーん、じゃ、弦次郎殿が手取り足取り教えて差し上げれば宜しい。」
「俺がか!?俺に御館様のお相手をしろと言うのか!?風野殿、冗談が過ぎますぞ。」
「いいえ、冗談では無くて本当に。」
「ぅげっ、想像してしまったではないか…」
「アハハ!弦次郎殿が赤面しておられるぞ!」
「シッ!…大きな声をだされますな。」
慈照は二人の会話を黙って聞いていた。二人とも酷く好き勝手な事を言っている。しかし、腹立たしい内容ではあるが、弦次郎の洞察も強ち間違いとも言えないのが口惜しい。例え還俗したとはいえ、自分の股座に手を掛けて快楽に耽る事には未だに抵抗があり、煩悩に苛まれるときは般若心経でも延々と唱えて気を紛らわせるのが常だった。しかし、清廉でありたいが為の拘りが逆にあの暴挙の一因になっているのであれば元も子もない。
「風野殿、残酷な言い方かも知れんが、現身様が御館様に心を許すことはもう無いだろう。あの現身様の事はさっさと忘れて、お世継ぎを産んでくれる丈夫な姫君をお迎えするべきなのだ。」
「そう言われましても…御館様って女人禁制の寺住まいだったから、まずは女とまともに会話出来るかどうか、そこからですよね。」
「そんな悠長な事は言ってはいられないですぞ。現身様は男児ですがご病弱。御館様が近付くと息が苦しいとか胸が痛いと仰る。それは肺臓か心臓が丈夫では無いからかもしれん。嘉平殿もあの現身様はお産には耐えられない御体だと言っておられた。神仏の化身を殺めるような間違いを犯す前に止めるのが我等が役目ではありませんか。」
「確かに苦しがっておられましたね…それは私も気になっていたのです。御館様には辛い事かも知れないけれど、あの子の生死に係わるのならばそうする他に方法は無いのかも知れませんね。」
「そうであろう!」
慈照は声を上げたかったが、悟られないようにまだ目を閉じていた。二人とも主の求めるものを理解せずに都合の良いように捻じ曲げてしまっている。それは到底赦せるものでは無い。しかし、その事を反論しようにも巧い言葉が見つからない。「愛しさと言うものは理屈ではない」と言う以外に言いようが無いのだ。
ただ慈照は定まらない感情を沸々とさせながら二人への反論の言葉を探していた。
「それで…まずはどのようにいたしましょうか?弦次郎殿は何か策をお持ちでしょうか。」
「姫君を貰い受けるとなると単に好き嫌いで選ぶは下策。どうせならば我等に利があるような相手を探すべきだ。」
「当人同士の相性は度返ししてですか?…さすがにそれでは御館様は納得しないでしょう。」
「それが当主としての役目なのだから仕方なかろう。とにかく御館様が何を言おうともあの現身様とは引き離し、絶対に会わせない事が肝要だろうな。後は時間が解決してくれるはず。我らはその間に地の利に適った家から跡継ぎを産んでくれそうな姫君を探すのだ。」
「…そんなに上手くゆくかなぁ?弦次郎殿、そんなに簡単じゃないと思うけど?御館様、本気で現身様の事を好いてらっしゃったから二度と会わせないって言うのは酷いような気もするし…でも…現身様の御体と…御館様の年齢を考えると…跡継ぎ…う~ん…やっぱり…どう考えても無理なのかなぁ……ハァ、私も腹を括るか!」
「風野殿、忝い!」
慈照の心に音を立てて亀裂が走った。
如何に現身を愛しく思っているか、二人に分かって貰おうと掻き集めていた言葉が一瞬にして枯葉の様に散り散りになり、後に残ったのは寒々しい孤独な心。もう、味方はいないのだ。亀裂から剥がれ落ちた小さな破片が氷の涙の様に零れ落ちて砕けて消えた。
慈照は声を低く抑えながら心の中に漂う言葉を掬いあげて吐き出してゆく。
「…の…なら……」
「えっ?御館様、お目覚めで?いま、何と!?何か仰りましたか…?」
「…叶わぬのなら…嘉平の首を持ってこい…叶わぬのなら兄上殿の首をもて…叶わぬのなら風野よ腹を召せ…叶わぬのなら……弦次郎、お前も必要ない…邪魔する者は全て薙ぎ払う…叶わぬのなら…叶わぬのなら…邪魔した者の命を消してやる…」
ゆるゆると体を起こした慈照は全身にドロドロとしたどす黒い炎を纏った邪神のような気を発していた。その視線は道の先の一点を睨みつけ、風野と弦次郎の姿を視界に入れる事を拒んでいるかのようだ。嘉平宅での出来事と、心の底から求めた魂の片割れのような存在からの拒絶、そして何より、一番身近にいる者達が愛する者との仲を裂こうと画策しているという事実。仏の世界を捨てて舞い戻った俗世は、かくも冷酷で望みの無い世界だったのだろうか。絶望感の嵐が慈照の視界を狭め、耳を塞いでゆく。頑なに閉ざされた心はもう誰の言葉にも動かされることはないだろう。
「お前達、余を馬鹿にしおって…邪魔をするのであれば切って捨てると申しておるのだ…あの甘い香りが収まりしだい嘉平の屋敷へ行き、現身様を我が屋敷へとお連れする……刃向かう者は殺す、必要とあらば村ごと潰す…どうせ仏の道を外れた身ゆえ、死後に極楽浄土へ参ろうとは思わぬ。邪魔者を全て切り捨てて無間地獄へ堕ちるもまた一興。」
「こ、殺すって…お…お…御館様!私は現身様の御体と御館様の将来を案じて申し上げております。大切な御方ならば、その命に係わる事は慎重を期さねばなりませんでしょう。それに、お世継ぎをどうされるか…」
「風野よ…全て聞いておったぞ。跡継ぎを産めそうな女を宛がうと言う話も、お前たちまでが余の切なる願いを阻もうと手を結んだ事も聞いておった。故に…もう、何も聞かぬ!…余には…余には…誰もおらぬ…誰も信じぬ……」
このまま弦次郎に手綱を執らせるのは癪に障る。慈照は弦次郎から無言で手綱を取り返した。還俗してから馬に乗り始めたため手綱さばきは達者とは言えないが、独りで屋敷まで帰り着くことぐらいは可能だ。
呆然として脚を止めた風野と弦次郎との距離が開いてゆく。
「…げ…弦次郎…殿、どうしよう…なんか…御館様が……」
「拙いな、聞かれていたとは。」
「御館様は本気で村から現身様を奪ってしまわれるのだろうか。そんなことになったら…」
「現身様は村にとって秘宝とも言える特別な存在ゆえ、もしもの事があれば他の村も黙ってはいないだろうな。…ん…でも…まぁ、大丈夫だろう。何故なら俺は御館様の剣術の鍛錬のお相手を二回しかしたことが無い。」
「あ、そっか。」
「そう。風野殿は御館様が太刀を持ったところなど見た事がないだろ?あの方は元来、殺生を忌み嫌っておる。」
「あ…そーだった…はははっ…はははは……弦次郎殿、帰って甘い物でも食べながら御館様を説得しましょうか。」
風野と弦次郎の二人は慈照と距離を取りつつ再び歩みを始めた。
「弦次郎殿、御館様はまだ目を覚まされませんか。」
「あぁ、このまま屋敷に着くまで目覚めない方が良い…。あの現身様、嘉平殿からお許しが出た途端に泣きながら大っ嫌いって叫んでおられたな。御館様も見栄えのする美丈夫なのだから、それなりの礼節と優しさを以て接すれば心を開いてくれたかも知れないのに…。あんなに怖がらせてしまっては嫌われて当然、最悪の展開だ……」
「だぁーから!連れてこないっでって言ったのに!」
「いや、御開帳の夜は俺より長く正気を保っておられたことだし、いくらなんでもあんな興奮状態になるとは思わなんだ。おそらく…これはあくまでも俺の考えなのだが、御館様は普段からもっと発散するべきなのだろう。いつまで経っても寺住まいの禁欲生活から抜け出せずに子種を溜め込んでいるから、あんなおかしな暴走の仕方になるのだ。」
「ふーん、じゃ、弦次郎殿が手取り足取り教えて差し上げれば宜しい。」
「俺がか!?俺に御館様のお相手をしろと言うのか!?風野殿、冗談が過ぎますぞ。」
「いいえ、冗談では無くて本当に。」
「ぅげっ、想像してしまったではないか…」
「アハハ!弦次郎殿が赤面しておられるぞ!」
「シッ!…大きな声をだされますな。」
慈照は二人の会話を黙って聞いていた。二人とも酷く好き勝手な事を言っている。しかし、腹立たしい内容ではあるが、弦次郎の洞察も強ち間違いとも言えないのが口惜しい。例え還俗したとはいえ、自分の股座に手を掛けて快楽に耽る事には未だに抵抗があり、煩悩に苛まれるときは般若心経でも延々と唱えて気を紛らわせるのが常だった。しかし、清廉でありたいが為の拘りが逆にあの暴挙の一因になっているのであれば元も子もない。
「風野殿、残酷な言い方かも知れんが、現身様が御館様に心を許すことはもう無いだろう。あの現身様の事はさっさと忘れて、お世継ぎを産んでくれる丈夫な姫君をお迎えするべきなのだ。」
「そう言われましても…御館様って女人禁制の寺住まいだったから、まずは女とまともに会話出来るかどうか、そこからですよね。」
「そんな悠長な事は言ってはいられないですぞ。現身様は男児ですがご病弱。御館様が近付くと息が苦しいとか胸が痛いと仰る。それは肺臓か心臓が丈夫では無いからかもしれん。嘉平殿もあの現身様はお産には耐えられない御体だと言っておられた。神仏の化身を殺めるような間違いを犯す前に止めるのが我等が役目ではありませんか。」
「確かに苦しがっておられましたね…それは私も気になっていたのです。御館様には辛い事かも知れないけれど、あの子の生死に係わるのならばそうする他に方法は無いのかも知れませんね。」
「そうであろう!」
慈照は声を上げたかったが、悟られないようにまだ目を閉じていた。二人とも主の求めるものを理解せずに都合の良いように捻じ曲げてしまっている。それは到底赦せるものでは無い。しかし、その事を反論しようにも巧い言葉が見つからない。「愛しさと言うものは理屈ではない」と言う以外に言いようが無いのだ。
ただ慈照は定まらない感情を沸々とさせながら二人への反論の言葉を探していた。
「それで…まずはどのようにいたしましょうか?弦次郎殿は何か策をお持ちでしょうか。」
「姫君を貰い受けるとなると単に好き嫌いで選ぶは下策。どうせならば我等に利があるような相手を探すべきだ。」
「当人同士の相性は度返ししてですか?…さすがにそれでは御館様は納得しないでしょう。」
「それが当主としての役目なのだから仕方なかろう。とにかく御館様が何を言おうともあの現身様とは引き離し、絶対に会わせない事が肝要だろうな。後は時間が解決してくれるはず。我らはその間に地の利に適った家から跡継ぎを産んでくれそうな姫君を探すのだ。」
「…そんなに上手くゆくかなぁ?弦次郎殿、そんなに簡単じゃないと思うけど?御館様、本気で現身様の事を好いてらっしゃったから二度と会わせないって言うのは酷いような気もするし…でも…現身様の御体と…御館様の年齢を考えると…跡継ぎ…う~ん…やっぱり…どう考えても無理なのかなぁ……ハァ、私も腹を括るか!」
「風野殿、忝い!」
慈照の心に音を立てて亀裂が走った。
如何に現身を愛しく思っているか、二人に分かって貰おうと掻き集めていた言葉が一瞬にして枯葉の様に散り散りになり、後に残ったのは寒々しい孤独な心。もう、味方はいないのだ。亀裂から剥がれ落ちた小さな破片が氷の涙の様に零れ落ちて砕けて消えた。
慈照は声を低く抑えながら心の中に漂う言葉を掬いあげて吐き出してゆく。
「…の…なら……」
「えっ?御館様、お目覚めで?いま、何と!?何か仰りましたか…?」
「…叶わぬのなら…嘉平の首を持ってこい…叶わぬのなら兄上殿の首をもて…叶わぬのなら風野よ腹を召せ…叶わぬのなら……弦次郎、お前も必要ない…邪魔する者は全て薙ぎ払う…叶わぬのなら…叶わぬのなら…邪魔した者の命を消してやる…」
ゆるゆると体を起こした慈照は全身にドロドロとしたどす黒い炎を纏った邪神のような気を発していた。その視線は道の先の一点を睨みつけ、風野と弦次郎の姿を視界に入れる事を拒んでいるかのようだ。嘉平宅での出来事と、心の底から求めた魂の片割れのような存在からの拒絶、そして何より、一番身近にいる者達が愛する者との仲を裂こうと画策しているという事実。仏の世界を捨てて舞い戻った俗世は、かくも冷酷で望みの無い世界だったのだろうか。絶望感の嵐が慈照の視界を狭め、耳を塞いでゆく。頑なに閉ざされた心はもう誰の言葉にも動かされることはないだろう。
「お前達、余を馬鹿にしおって…邪魔をするのであれば切って捨てると申しておるのだ…あの甘い香りが収まりしだい嘉平の屋敷へ行き、現身様を我が屋敷へとお連れする……刃向かう者は殺す、必要とあらば村ごと潰す…どうせ仏の道を外れた身ゆえ、死後に極楽浄土へ参ろうとは思わぬ。邪魔者を全て切り捨てて無間地獄へ堕ちるもまた一興。」
「こ、殺すって…お…お…御館様!私は現身様の御体と御館様の将来を案じて申し上げております。大切な御方ならば、その命に係わる事は慎重を期さねばなりませんでしょう。それに、お世継ぎをどうされるか…」
「風野よ…全て聞いておったぞ。跡継ぎを産めそうな女を宛がうと言う話も、お前たちまでが余の切なる願いを阻もうと手を結んだ事も聞いておった。故に…もう、何も聞かぬ!…余には…余には…誰もおらぬ…誰も信じぬ……」
このまま弦次郎に手綱を執らせるのは癪に障る。慈照は弦次郎から無言で手綱を取り返した。還俗してから馬に乗り始めたため手綱さばきは達者とは言えないが、独りで屋敷まで帰り着くことぐらいは可能だ。
呆然として脚を止めた風野と弦次郎との距離が開いてゆく。
「…げ…弦次郎…殿、どうしよう…なんか…御館様が……」
「拙いな、聞かれていたとは。」
「御館様は本気で村から現身様を奪ってしまわれるのだろうか。そんなことになったら…」
「現身様は村にとって秘宝とも言える特別な存在ゆえ、もしもの事があれば他の村も黙ってはいないだろうな。…ん…でも…まぁ、大丈夫だろう。何故なら俺は御館様の剣術の鍛錬のお相手を二回しかしたことが無い。」
「あ、そっか。」
「そう。風野殿は御館様が太刀を持ったところなど見た事がないだろ?あの方は元来、殺生を忌み嫌っておる。」
「あ…そーだった…はははっ…はははは……弦次郎殿、帰って甘い物でも食べながら御館様を説得しましょうか。」
風野と弦次郎の二人は慈照と距離を取りつつ再び歩みを始めた。
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