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第三章
3-25
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お妙がそっと入り口の戸を閉めた。
万が一のことがあった時の為に鍵は掛けずにおくと言う。
「…あ、あのぉ……」
鈴虫は気持ちを奮い立たせて呼びかけてはみたものの、あまりに異様な目の前の光景に、しばらくはその後の言葉を続けることが出来なかった。
明るい庭から暗い堂の中へ入った鈴虫は、まずいつもよりも堂の中が薄暗い事に違和感を覚えた。半分ほど板で塞がれた格子窓は、堂の中の大半を占める影を作りだし、僅かに差し込んだ陽光が日常との境界線のようだ。鈴虫が喜一郎に背負われて堂を後にしたのはつい昨夜の事。それから一晩明けただけだと言うのに、住み慣れたはずの堂の様相は一変してしまった。
咽返るような甘い香りの中に血液の生々しい臭いが微かに混ざり合い、それだけでも混沌とした空間を創り上げている。その甘い香りを手繰り寄せるように歩みを進めて行くと、格子窓から数歩離れて陰になった辺りに、半分ほど蓋の掛かった大きな木箱が一つ置かれていた。確か喜一郎が運び込んでいた物の中に長持ちに似た木箱は無かったはず。更にその箱の中には窓の格子に結び付けられた三本の麻縄が垂れているのが見える。これもまた昨夜は無かったものだ。鈴虫にはこれらがどういう風に繋がっているのか分からなかったが、堂の中に人影が見当たらないと言う事は、あの箱の中の麻縄の下に例の新しい現身がいるのであろう。
果たしてどんな人物なのだろうか。昨夜の話を聞く限りでは、おそらく鈴虫の手には余る強者である。あの喜一郎の腕につけられた無数のミミズ腫れや噛み痕を見てしまった後では、鈴虫だって本当は怖くて仕方が無い。しかし、この状況下で正気を保って居られる人間は自分の他に無いのも事実。鈴虫は意を決して箱の方へ足を進める事にした。
不意に視線を落とすと、そこには誰の物とも知れない血の付いた襤褸布が丸めて打ち捨てられている。やはり殴られた時に出血たのだろうか。
「……ンッ…ぅ……」
「ねぇ、そこにいるの?大丈夫?あ、あのぉ…お芋…と……」
やはり箱の中で人が動く気配がする。鈴虫は蓋を開けて箱の中の様子を確かめてみようと、そろり…そろり…と近付いて、煮物の乗った盆を床に置いた。
「ねぇ、お婆様がお芋と大根を煮てくれたから食べよ。あのね、おらも食べてないからいっしょに食べよ?」
「…ぅ、ウッ!!!」
突然、バタンッと大きな音を立てて中途半端に半分閉じられていた箱の蓋が蹴り上げられた。それと同時に鈴虫の目の前に傷だらけの足が飛び出す。さすがにこれには鈴虫も驚いて、思わずキャッと短く悲鳴を上げてしまった。まさか縛られている筈の人間が蓋を蹴りあげるとは予想だにしない。
「ん、もっ、もっ、もっ!もうっ!驚かすの、やめて!おらが大きな声出すと兄様たちが来ちゃうでしょ!兄様は怒るとすご~くこわいんだからね!」
鈴虫が涙目になりながら箱の中を覗き込むと、そこには麻縄で縛られた下帯一枚の若い男が体を丸めて横たわっていた。謎であった格子から延びる麻縄は、その男の首と胴体に固く結びつけられている。三本目の麻縄は足の方に垂れ下り、その麻縄を擦り切る為の格闘を物語るかのように、男の足首には縛られた痕と血の滲む擦り傷があった。
鈴虫は猿轡を外してやろうと箱の中に手を伸ばし、思わずその手を止めた。猿轡に滲んだ血液の量を見れば口の中がかなり裂けているのは想像に難くない。喜一郎は五、六発は殴ったと言っていたが、よりによって顔面を狙って殴ってしまったのだろうか。
きっとこれでは痛みに支配されていて食欲なんか湧かないだろう。鈴虫はその腫れ上がった顔面を見て、自分が同じように痛めつけられた時の事を思い出してしまった。あの時の鈴虫は佐吉がいてくれたから痛みを堪えて食べようと言う気にもなった。しかし、この新しい現身はどうだろうか。いきなり知らない場所に連れ込まれて、頼れる者は誰も居ない状態なのだ。取って付けたかのように鈴虫が優しく接したからと言って、心を開いてくれるかどうかは定かでない。これはもう、自らの意志で生きる事を選択し、食べ物を口にしてくれるのを祈るしかないのだろうか。
ざっと全身を上から見たところ、命に係わるような深い傷は無さそうなので、多少は動かしても大丈夫だ。鈴虫はなるべく傷に触れないように気を付けながら猿轡を解いた。
「お、お芋も大根も痛くて食べれないでしょ?ごめんね…お水、飲めるかな?猿轡を解いたけど噛付かないでよ……噛付いたらおらだって怒るんだからね!」
「…ン、ぶふぁッ!…ぐぇぇぇ…ぅぇぇ……よこせ……ぃってぇ…」
「えっ?」
「…よこせ…ってん……だろ…食いもん……よこせ!」
鈴虫の心配とは裏腹に、この新しい現身は同じ現身であっても鈴虫とは全く気質の違う人間なのかも知れない。この状況でよく食べる気になったと感心してしまう。とりあえずは、思った以上に食べようとする意志が見られるので安心だろう。鈴虫は慌てて箸を取ると、大根一切れ摘まみ上げて箱の中に差し入れてみた。
「あっ、あっ、そうなの?食べれそう?じゃぁね、あ~んしてね?…あ~ん。」
「…どけ…よ…ほどけよ!こんな格好で食えるかよ!…縄、解けって言ってんだろ!…ッ、いってぇ…」
「えっ?…それはダメ。解いたら逃げちゃうんでしょ?おらが怒られちゃうもん。はい、あ~んして。」
「じゃぁ、起こせよ!横になったままで食えるかよ!」
「そか。」
無数にある傷に触れないようにゆっくりと慎重に体を引き起こす。少し落ち着いてよく見てみると、新しい現身は鈴虫よりは少し年上でちょうどお八重と同じくらいの年頃だ。鈴虫の指先に身体の熱が伝わって来る。その熱い体は、喜一郎に痛めつけられて腫れあがっているのか、それとも色欲に駆られて火照っているのか分からない。ただはっきりと見た目で分かるのは、母屋に居る男衆よりも傷や痣の数は圧倒的にこの現身の方が多いと言う事だ。どうして人は時にここまで残酷になれるのだろうか。そう思うと溜息が出てしまう。
喜一郎が鈴虫を人間扱いしていないのは昔からの事で、鈴虫は自分だけが疎まれているのかと思っていた。しかし、どうやらそれは勘違いのようだ。喜一郎にとっては例え相手が初対面であれ、現身であれば手加減を加えないのは一緒。甘い香りを漂わせて自分を惑わす現身と言う存在自体が無条件で許せないのだろう。痛々しく腫れ上がった新しい現身の顔を眺めながら鈴虫はようやくそれを悟った。
「ねぇ、いたいよねぇ…兄様はいったん殴り始めると相手が動けなくなるまで止めないから。ねぇ、たべれる?あ~んって出来ないでしょう?おらもそんな風に叩かれたとき、治るまでにだいぶ時間がかかったよ。苦いお薬も毎日飲まないといけなかったし…」
「うるさいな!じろじろ見るな!解けよ!アッ…ッ…イタタ…」
「だぁめっ!」
「頼む!逃がして下さい!お願いします!」
「…ダメだってば……ちっちゃく切ってあげるから食べよ?おいしそうだよ。」
「ほれ、この手を縛ってるの、解いてくれたら食ってやってもいいんだぞ。」
「ん、もう……。」
鈴虫は大根を一つ箸で取ると自分の口の中に放り込んでモグモグと食べ始めた。煮汁が口いっぱいに拡がれば自然と緊張感の無い笑顔になってしまう。鈴虫なりにちょっぴり意地悪して見せつけてやるつもりなのだろう。それに本当の事を言えば鈴虫だってお腹が空いている。自分自身も「あ~ん」と口を開けながら美味しそうな煮物の誘惑と闘っていたのだ。
「…ん!おいひぃ…」
「…はぁ?…な…んで、おまッ……ッ!いってぇ…」
他人が旨そうに食べているのを目の当たりにすると、腹の虫がギュゥ~ッと騒ぎ出すのは何故だろうか。じわじわと口の中いっぱいに唾液が溢れてくるが、縛られたままでは鈴虫から箸を奪い取る事も出来ず、ただ恨めしそうな顔をして眺めているしかできない。
「う~ん、お婆様のお料理はやっぱりおいしい!柔らかく煮えてるから噛まなくても食べれそうだよ。あっ、おらが先に食べちゃダメか?あははっ!はい、あ~ん。」
「ぃってぇ…もぅ…もう解かなくて良い!お前になんか頼まねぇ!ッ!…口、開かねぇ、その大根、もっと小さく…その半分にしてくれ。」
小さく切り分けた大根の一切れを、そっと…そっと…裂けた唇に触れないように口の中に運ぶ。何度か箸を進めると、食べさせてもらう側も要領を得て来たのか、舌先で潰すようにして飲み込むのも少しずつ上手になってきた。この調子で食べてくれるのならば、きっと傷の治りも早いだろう。食べさせてもらっている立場だというのに、相変わらず憎々し気に睨みつけているが、鈴虫にとってはそんな事は全くお構い無し。食べてくれると言うだけでも嬉しくて、まるで飯事遊びをするように甲斐甲斐しく世話を焼いてみた。
鈴虫にしてみれば、初めて出会う自分と同じ観世音菩薩の現身と言う存在。相手がどう思おうと、生き別れていた血縁者に再会したような情が湧いてくる。喜一郎に殴られた傷の痛みもさることながら、初めて盛りがついてしまった時の辛い気持ちを理解してあげられるのも自分だけなのだ。
鈴虫は薄く目を細めて微笑みながら口元にこびりついた血を優しく拭き取った。
「…大変だったね。でも、おら…なんかさぁ…会えて嬉しいよ。」
鼈甲色の瞳が慈しみを込めて見詰めている。
それに対して男は怪訝な目つきで警戒心を顕わにする。逃がしてくれる気が無いならこれ以上一緒に居ても意味は無い。さっさと消えろと言うのが本音だろう。今後の行く末も知れないと言うのに、昨夜の凶行と矛盾する鈴虫の言葉は更なる混乱を招いただけだ。親身になってあげたいという鈴虫の気持ちが伝わる筈も無い。男はプイッと視線を逸らすと押し黙ってしまった。
「ね、からだ……辛くねぇか?縛られてたら手も使えないし…苦しいだろう…」
「……。」
飢餓状態から脱したことと、鈴虫が危害を加えてくる事は無さそうだと安心したこともあってか、甘い香りが更に強くなってきていた。この身体の状態を正確に理解できるのは同じ身体の造りを持つ鈴虫ならでは。微妙な身体の変化も、それに伴った複雑な気持ちの変化も、まるで自分の事のように分かる気がする。此処に居るのは同じ現身同士、恥じらうことは何も無い。鈴虫は新米の現身の耳元に唇を寄せると小さな声で囁いた。
「…おらの手、かしてやるよ。」
万が一のことがあった時の為に鍵は掛けずにおくと言う。
「…あ、あのぉ……」
鈴虫は気持ちを奮い立たせて呼びかけてはみたものの、あまりに異様な目の前の光景に、しばらくはその後の言葉を続けることが出来なかった。
明るい庭から暗い堂の中へ入った鈴虫は、まずいつもよりも堂の中が薄暗い事に違和感を覚えた。半分ほど板で塞がれた格子窓は、堂の中の大半を占める影を作りだし、僅かに差し込んだ陽光が日常との境界線のようだ。鈴虫が喜一郎に背負われて堂を後にしたのはつい昨夜の事。それから一晩明けただけだと言うのに、住み慣れたはずの堂の様相は一変してしまった。
咽返るような甘い香りの中に血液の生々しい臭いが微かに混ざり合い、それだけでも混沌とした空間を創り上げている。その甘い香りを手繰り寄せるように歩みを進めて行くと、格子窓から数歩離れて陰になった辺りに、半分ほど蓋の掛かった大きな木箱が一つ置かれていた。確か喜一郎が運び込んでいた物の中に長持ちに似た木箱は無かったはず。更にその箱の中には窓の格子に結び付けられた三本の麻縄が垂れているのが見える。これもまた昨夜は無かったものだ。鈴虫にはこれらがどういう風に繋がっているのか分からなかったが、堂の中に人影が見当たらないと言う事は、あの箱の中の麻縄の下に例の新しい現身がいるのであろう。
果たしてどんな人物なのだろうか。昨夜の話を聞く限りでは、おそらく鈴虫の手には余る強者である。あの喜一郎の腕につけられた無数のミミズ腫れや噛み痕を見てしまった後では、鈴虫だって本当は怖くて仕方が無い。しかし、この状況下で正気を保って居られる人間は自分の他に無いのも事実。鈴虫は意を決して箱の方へ足を進める事にした。
不意に視線を落とすと、そこには誰の物とも知れない血の付いた襤褸布が丸めて打ち捨てられている。やはり殴られた時に出血たのだろうか。
「……ンッ…ぅ……」
「ねぇ、そこにいるの?大丈夫?あ、あのぉ…お芋…と……」
やはり箱の中で人が動く気配がする。鈴虫は蓋を開けて箱の中の様子を確かめてみようと、そろり…そろり…と近付いて、煮物の乗った盆を床に置いた。
「ねぇ、お婆様がお芋と大根を煮てくれたから食べよ。あのね、おらも食べてないからいっしょに食べよ?」
「…ぅ、ウッ!!!」
突然、バタンッと大きな音を立てて中途半端に半分閉じられていた箱の蓋が蹴り上げられた。それと同時に鈴虫の目の前に傷だらけの足が飛び出す。さすがにこれには鈴虫も驚いて、思わずキャッと短く悲鳴を上げてしまった。まさか縛られている筈の人間が蓋を蹴りあげるとは予想だにしない。
「ん、もっ、もっ、もっ!もうっ!驚かすの、やめて!おらが大きな声出すと兄様たちが来ちゃうでしょ!兄様は怒るとすご~くこわいんだからね!」
鈴虫が涙目になりながら箱の中を覗き込むと、そこには麻縄で縛られた下帯一枚の若い男が体を丸めて横たわっていた。謎であった格子から延びる麻縄は、その男の首と胴体に固く結びつけられている。三本目の麻縄は足の方に垂れ下り、その麻縄を擦り切る為の格闘を物語るかのように、男の足首には縛られた痕と血の滲む擦り傷があった。
鈴虫は猿轡を外してやろうと箱の中に手を伸ばし、思わずその手を止めた。猿轡に滲んだ血液の量を見れば口の中がかなり裂けているのは想像に難くない。喜一郎は五、六発は殴ったと言っていたが、よりによって顔面を狙って殴ってしまったのだろうか。
きっとこれでは痛みに支配されていて食欲なんか湧かないだろう。鈴虫はその腫れ上がった顔面を見て、自分が同じように痛めつけられた時の事を思い出してしまった。あの時の鈴虫は佐吉がいてくれたから痛みを堪えて食べようと言う気にもなった。しかし、この新しい現身はどうだろうか。いきなり知らない場所に連れ込まれて、頼れる者は誰も居ない状態なのだ。取って付けたかのように鈴虫が優しく接したからと言って、心を開いてくれるかどうかは定かでない。これはもう、自らの意志で生きる事を選択し、食べ物を口にしてくれるのを祈るしかないのだろうか。
ざっと全身を上から見たところ、命に係わるような深い傷は無さそうなので、多少は動かしても大丈夫だ。鈴虫はなるべく傷に触れないように気を付けながら猿轡を解いた。
「お、お芋も大根も痛くて食べれないでしょ?ごめんね…お水、飲めるかな?猿轡を解いたけど噛付かないでよ……噛付いたらおらだって怒るんだからね!」
「…ン、ぶふぁッ!…ぐぇぇぇ…ぅぇぇ……よこせ……ぃってぇ…」
「えっ?」
「…よこせ…ってん……だろ…食いもん……よこせ!」
鈴虫の心配とは裏腹に、この新しい現身は同じ現身であっても鈴虫とは全く気質の違う人間なのかも知れない。この状況でよく食べる気になったと感心してしまう。とりあえずは、思った以上に食べようとする意志が見られるので安心だろう。鈴虫は慌てて箸を取ると、大根一切れ摘まみ上げて箱の中に差し入れてみた。
「あっ、あっ、そうなの?食べれそう?じゃぁね、あ~んしてね?…あ~ん。」
「…どけ…よ…ほどけよ!こんな格好で食えるかよ!…縄、解けって言ってんだろ!…ッ、いってぇ…」
「えっ?…それはダメ。解いたら逃げちゃうんでしょ?おらが怒られちゃうもん。はい、あ~んして。」
「じゃぁ、起こせよ!横になったままで食えるかよ!」
「そか。」
無数にある傷に触れないようにゆっくりと慎重に体を引き起こす。少し落ち着いてよく見てみると、新しい現身は鈴虫よりは少し年上でちょうどお八重と同じくらいの年頃だ。鈴虫の指先に身体の熱が伝わって来る。その熱い体は、喜一郎に痛めつけられて腫れあがっているのか、それとも色欲に駆られて火照っているのか分からない。ただはっきりと見た目で分かるのは、母屋に居る男衆よりも傷や痣の数は圧倒的にこの現身の方が多いと言う事だ。どうして人は時にここまで残酷になれるのだろうか。そう思うと溜息が出てしまう。
喜一郎が鈴虫を人間扱いしていないのは昔からの事で、鈴虫は自分だけが疎まれているのかと思っていた。しかし、どうやらそれは勘違いのようだ。喜一郎にとっては例え相手が初対面であれ、現身であれば手加減を加えないのは一緒。甘い香りを漂わせて自分を惑わす現身と言う存在自体が無条件で許せないのだろう。痛々しく腫れ上がった新しい現身の顔を眺めながら鈴虫はようやくそれを悟った。
「ねぇ、いたいよねぇ…兄様はいったん殴り始めると相手が動けなくなるまで止めないから。ねぇ、たべれる?あ~んって出来ないでしょう?おらもそんな風に叩かれたとき、治るまでにだいぶ時間がかかったよ。苦いお薬も毎日飲まないといけなかったし…」
「うるさいな!じろじろ見るな!解けよ!アッ…ッ…イタタ…」
「だぁめっ!」
「頼む!逃がして下さい!お願いします!」
「…ダメだってば……ちっちゃく切ってあげるから食べよ?おいしそうだよ。」
「ほれ、この手を縛ってるの、解いてくれたら食ってやってもいいんだぞ。」
「ん、もう……。」
鈴虫は大根を一つ箸で取ると自分の口の中に放り込んでモグモグと食べ始めた。煮汁が口いっぱいに拡がれば自然と緊張感の無い笑顔になってしまう。鈴虫なりにちょっぴり意地悪して見せつけてやるつもりなのだろう。それに本当の事を言えば鈴虫だってお腹が空いている。自分自身も「あ~ん」と口を開けながら美味しそうな煮物の誘惑と闘っていたのだ。
「…ん!おいひぃ…」
「…はぁ?…な…んで、おまッ……ッ!いってぇ…」
他人が旨そうに食べているのを目の当たりにすると、腹の虫がギュゥ~ッと騒ぎ出すのは何故だろうか。じわじわと口の中いっぱいに唾液が溢れてくるが、縛られたままでは鈴虫から箸を奪い取る事も出来ず、ただ恨めしそうな顔をして眺めているしかできない。
「う~ん、お婆様のお料理はやっぱりおいしい!柔らかく煮えてるから噛まなくても食べれそうだよ。あっ、おらが先に食べちゃダメか?あははっ!はい、あ~ん。」
「ぃってぇ…もぅ…もう解かなくて良い!お前になんか頼まねぇ!ッ!…口、開かねぇ、その大根、もっと小さく…その半分にしてくれ。」
小さく切り分けた大根の一切れを、そっと…そっと…裂けた唇に触れないように口の中に運ぶ。何度か箸を進めると、食べさせてもらう側も要領を得て来たのか、舌先で潰すようにして飲み込むのも少しずつ上手になってきた。この調子で食べてくれるのならば、きっと傷の治りも早いだろう。食べさせてもらっている立場だというのに、相変わらず憎々し気に睨みつけているが、鈴虫にとってはそんな事は全くお構い無し。食べてくれると言うだけでも嬉しくて、まるで飯事遊びをするように甲斐甲斐しく世話を焼いてみた。
鈴虫にしてみれば、初めて出会う自分と同じ観世音菩薩の現身と言う存在。相手がどう思おうと、生き別れていた血縁者に再会したような情が湧いてくる。喜一郎に殴られた傷の痛みもさることながら、初めて盛りがついてしまった時の辛い気持ちを理解してあげられるのも自分だけなのだ。
鈴虫は薄く目を細めて微笑みながら口元にこびりついた血を優しく拭き取った。
「…大変だったね。でも、おら…なんかさぁ…会えて嬉しいよ。」
鼈甲色の瞳が慈しみを込めて見詰めている。
それに対して男は怪訝な目つきで警戒心を顕わにする。逃がしてくれる気が無いならこれ以上一緒に居ても意味は無い。さっさと消えろと言うのが本音だろう。今後の行く末も知れないと言うのに、昨夜の凶行と矛盾する鈴虫の言葉は更なる混乱を招いただけだ。親身になってあげたいという鈴虫の気持ちが伝わる筈も無い。男はプイッと視線を逸らすと押し黙ってしまった。
「ね、からだ……辛くねぇか?縛られてたら手も使えないし…苦しいだろう…」
「……。」
飢餓状態から脱したことと、鈴虫が危害を加えてくる事は無さそうだと安心したこともあってか、甘い香りが更に強くなってきていた。この身体の状態を正確に理解できるのは同じ身体の造りを持つ鈴虫ならでは。微妙な身体の変化も、それに伴った複雑な気持ちの変化も、まるで自分の事のように分かる気がする。此処に居るのは同じ現身同士、恥じらうことは何も無い。鈴虫は新米の現身の耳元に唇を寄せると小さな声で囁いた。
「…おらの手、かしてやるよ。」
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