お伽話 

六笠 嵩也

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第三章

3-21

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嘉平にはっきりと諦めろと言われてしまった慈照には食い下がる言葉が思いつかない。それに嘉平が言った事が本当ならば、三十年近く自分の常識だと思っていたことを全て否定しなければ話の辻褄を合わせる事が出来ないのだ。胸の中で受け入れがたい事実の数々が右往左往に逃げ回る魚のようにのた打ち回って苦しくて仕方が無い。

「嘉平よ、自分の罪の重さに吐き気がする…追うな。」

慈照は消え入りそうな声でそう言うと、眉間に深い縦皺を作り、顔を手で覆い隠しながら庭に出た。このまま暫し独りにしてくれという事だろう。他の三人はどんもりと重たく気まずい雰囲気の中に取り残されてしまった。

風野が沈黙を割って恐る恐る嘉平に一つの提案をする。

「あ、あのぉ…嘉平殿、現身様の御体を早く癒すために湯治とうじにお連れするというのはいかがでしょうか。刀傷にも良く効く湯治場がありまして、そこで養生すれば回復も早まるかと思います。秘湯で体を温めて、美味しい牡丹鍋でも腹いっぱい食べさせれば元気出ますよ!」

「…はぁ、湯治ですか、良いですねぇ、儂も…あっ、いや、駄目ですよ!絶対になりません。現身の存在は村の女衆や子供に知られてしまったら困るんです。それに、万が一逃げた場合は足の指を切り落として歩けなくするという掟が御座います。現身を屋敷の外へ出すことは不幸を招く事となるのです。」

「あはは…そ、そうですよねぇ…ダメですよね。やはりダメですよね。でも、何かしてあげられる事は無いかなぁ。あの子は食が細くて体力が無いから心配なんですよね…」

「その節は風野様には大変にお世話になりましたね。実は、最近あの子が自分から食べるようになりまして!まぁ、いつまで続くか分かりませんし、偏食も治ってはいませんが、駄々を捏ねて口を開かないという事は無くなりました。」

「へぇ!凄いじゃないですか、あの子が自分から食べようとするなんて!頑として口を開かないから苛々したのを思い出しました!ぁぁ…私の事を覚えていないのは存じておりますがお会いしたいなぁ。会って、いっぱい褒めてあげたいですよ!」

「まぁ、そうですねぇ、風野様だけでしたら大丈夫なのでしょうけれど…」

弦次郎が渋い顔をして立ち上がった。一連の事柄に対して自分も慈照と同様、否、それ以上の事をしてきている後ろめたさがある。やはり、どうにもこの場は居心地が悪い。

「さぁ、そろそろお暇しよう。先に手綱を取った者が馬に乗って帰る。乗り遅れた方が荷車を牽け。早い者勝ちだ!では!」

「えっ?ちょ、ちょっと!待て、弦次郎殿ったら!荷車牽いて歩いて帰るのなんか嫌だってば!お願いしますよ!」

「ふふふっ、冗談だ。風野殿は御館様と一緒に馬でお帰りなされ。荷車は俺が後から牽いて帰ろう。ただし、当然の事ながら道中では慰め役に徹することになるだろうなぁ…。まぁ、御館様が立ち直れるように頑張ってお慰め下され!俺はそんなお役目はまっぴら御免!気楽に荷車を牽く方がマシだ。」

「えぇぇ~!そ、そんなぁ~、どっちも貧乏籤で選びようが無いじゃないですかぁ!」

庭に出ると堂の近くに立ち尽くす慈照の後ろ姿が見えた。外に出て来た三人の気配には気がついたであろうが振り返りはしない。どんなに想いを込めて壁を見詰めても、中に居る鈴虫には何も届く筈が無いことは分かっているだろうに、ただ視線を古びた堂へ置いたままじっと立っている。
三人でチラチラと視線を交わしながら誰が最初に声を掛けるか探り合う。弦次郎は一抜けたと言わんがばかりに荷車の方へ足早に逃げて行ってしまった。残された嘉平と風野も掛ける言葉が見つからず、相手の袖を引っ張ってはブツブツと小声で嫌な役目を押し付け合う。

庭に差し込む斜陽が、そろそろ帰路に就かねば日暮れに間に合わない事を示す。慈照は振り返らずに、深い溜息をひとつ吐いてから重い口を開いた。

「はぁぁ…嘉平殿、待たせて済まない。今日の所はこのまま帰るといたそう。しかし、余はどうしても現身様にお会いしたい。いつになればお許しが出るだろうか。」

「いつと言われましても、それにはご返答致しかねます。」

「いつとは言えない…か。嘉平よ、余は…長らく僧門にて修行して来た身。故に、自分に欲など無いと思っていた。それなのに…それなのに…何故だろうか、どうしても諦められないのだ。もう暫くここに居させては貰えないだろうか。今日のところは堂の中に入れてくれとは申さんから。」

一秒でも長く鈴虫の居る堂を眺めていたいのか、それとも堂の戸が開いて鈴虫が「…だぁれ?なぁんだぁ…えらい人か。」なんて言いながら顔を出してくれる事を夢見ているのか。それとも、もう少し粘れば嘉平が情けを掛けてくれるとでも思っているのか。慈照は言い終えてもなお振り返ることは無かった。

「なぁ、嘉平よ…余は自ら望んでこの土地を治める立場になったわけでは無いというのは知っておろう?余は自分がどうして寺に預けられたのかを理解した時、多くを望むは命取りになると子供ながらに悟ったものだ。故に余は地位も権力も土地も財力も欲しいと思ってことなんて一度もありはしない。それなのに、それら全てを手に入れた途端、どんなに望んでも手に入らぬものに出会ってしまった。…決して多くを望んでいるわけでも無いのに、どうして…この世でただ一つだけ、どうしても手に入れたいと心から願ったものだけが、どうしても手に入らぬ…」

愛別離苦あいべつりくとでも言うのでしょうか、求不得苦ぐふとくくとでもいうのでしょうか?」

「そう…かも知れない。嘉平よ、余が言いたい事、分かってくれるか。しかしなぁ…愛別離苦、愛する者との別れとはまだ認めたくはないのだ。求不得苦…誠に心が裂かれる思いだ。恋は…苦しいな。顧みられることの無い恋は…」

その言葉の終わりは情けない程に震えていた。慈照は振り向かなのでは無く、もう振り向けないのかも知れない。しかし、そんな慈照の背中に嘉平は強い言葉を投げる。

「釈迦に説法と言われましょうが、よくお聞きください。相手に合わせてその姿を変え、衆生を悟りへと導くのが観世音菩薩様の御業。そしてあの子はその観世音菩薩様の現身に御座います。こうやって貴方様の元へあの子が遣わされたのは菩薩様の思し召しかも知れません。その苦しみは魂の研鑽けんさんと思って諦めるのです。」

何処かに現実世界を崩して行く糸口は無いかと情けに訴えてみたが、返ってきた嘉平の言葉に情け容赦は無い。相手の知性の領域に深く踏み込んだ正論ほど人を傷つけるという事を知っての言葉だったのだろうか。慈照からはもう言葉は出て来なかった。

しばしの沈黙が流れる中、堂の戸がカタッと動いた。庭に居合わせた者の視線が一斉に集まる。
中から顔を出したのはごくありふれた身形の男。運よく鈴虫の顔が拝めると一瞬期待した慈照の意には添わず、鍋を抱えた喜一郎であった。喜一郎は鈴虫が食事をして居る間ずっと惰眠を貪っていたせいで、来客には気が付かなかったのだろうか。今一つ状況が呑み込めない様子で三人を見渡しながら庭に降りて来た。

「すいません。誰か来てるのは分かっていたんですけど、なんだか真剣なお話をしているようだったんで出てくる機会を失ってしまいました。あ、いやぁぁ…そんなに怒んなくても!立ち聞きしようとしてたわけじゃないんです。ごっ、ごめんなさい!」

「貴様、何奴!何故、現身様の堂から出て来たのだ!お主、現身様をたぶらかす間男まおとこか。嘉平よ!お主、ま、まさか、此の間男との逢瀬を隠すために余に偽りを申したのか!?」

「あぁ…お待ちください、これはうちの愚息、喜一郎に御座います。云わば、現身の義理の兄。一緒に育った間柄になります。母の体調があまり良くありませんので、代わりに現身の身の回りの世話をさせております。」

「ぉ、おぅ、さ、左様であったか。怒鳴りつけてすまなかった。余は慈照と申す。現身様の兄上とあらば末長いお付き合いとなるやもしれぬ。どうかお見知りおき下され。」

「えぇ…あっ、は、はい。喜一郎に御座います。こちらこそどうぞ宜しくお願い申し上げます。」

「喜一郎殿、私は慈照様にお仕えしておる風野に御座います。そしてあちらは弦次郎。それで、現身様の御様子はいかがなものでしょうか。」

「えぇ…っと、食って寝てます。熱が出ているんで少しだるそうですけど。」

「食って、寝る…?喜一郎殿が鍋を抱えて出て来たという事は、お食事を済ませたという事?では、現身様はいま眠ってらっしゃるのか?」

「さっき食い終わったので今は寝てますよ。ここ数日はそんな感じです。」

慈照と風野の顔には思わずじんわりと笑みが湧く。

「なぁ、嘉平殿、現身様はただいま御就寝中とのこと。物音は一切たてぬので少しの間…そう、とうまで数える間だけ寝顔を見せてはくれまいか。」

この慈照という男、やっと諦めて帰るかと思ったのにまだ食い下がるとは見上げた根性、というか粘着力。そして、風野までが嘉平の袖を引っ張りながらニコニコと満面の笑みで圧を掛けてくる。嘉平は弦次郎に助け舟を出すように視線で縋ってみたが、弦次郎もこの二人には呆れ果てた様子で首を横に振るだけだ。

「絶対に物音を立てずに格子窓からとうまで数える間だけですよ。本当にそれだけです。良いですね?」

「あぁ!嘉平殿、かたじけない!もちろん約束は違えない。あの格子窓から覗くだけだ。」

音を立てないように堂の側面に回り込み、そっと格子窓から中を覗き見る。そこには無防備に手足を放り出して鈴虫が眠っていた。きっとこれが観世音菩薩の現身などではなく、一人の少年としての普段の表情なのだろう。

その愛らしい寝顔を永遠に眺めていたいのに、嘉平が無情にも一つ、二つ、三つと数を数えだす。

「…よぉっつ……いつぅぅつ……むぅっつ……」

情けない程に自分の心の中を曝け出して手に入れた僅かな時間はあっという間に過ぎて行く。慈照も約束を違えれば次が無い事は重々承知している。だからこそ、たった十数える間の至福の時を、瞬きする間も惜しんでしっかりと目に焼き付けたい。
鈴虫は相変わらずの生成色の単衣を纏って古びた布団の上に寝ていた。慈照自ら選んで買い求めた艶やかな衣装の数々はお気に召して貰えなかったのだろうか。少し残念な気もするが、それでも慈照にとっては鈴虫が目の前にいてくれるだけで良い。自分がしてきたことを思えば、そう簡単に好意的に受け入れて貰えるはずもない事は分かっている。それでも何故だか、鈴虫が存在してくれているという事だけで慈照の心は温かくなってくるだ。   

「…ここのつ…とお!さぁ、数え終えましたよ。」

「ありがとう…余はこれで暫くは気力を失わずに生きていける。…なぁ、嘉平殿、現身様は単衣一枚で何も羽織らずに眠っておるが、あれでは寝冷えしてしまうのではないか心配なのだが?余が贈った物はお気に召さなかったのか。」

「いえいえ、とんでも御座いません!…あぁぁ…えぇ…っと…そうですねぇ…たまたまです。そう、たまたま。ああ、そうだ!お届けいただいた蜂蜜はとても口に合ったようで喜んで食べておりましたよ。」

「そうか!わかった!着る物よりも食べ物が良いのだな?では何か美味しいものを手に入れてご持参するとしよう!行くぞ、弦次郎、風野、屋敷へ帰って案を練るのじゃ!もっと美味しい物を探すぞ!嘉平殿、喜一郎殿、現身様に御体をご自愛下さるようお伝え下され。では!」

「あっ…嘉平殿?しつこいと思われてしまうとお思いでしょうが湯治の件はもう一度お考え下され。もしお許しいただけるようでしたら、私、風野が現身様の御体には責任を持ちますので。どうぞご安心を!」

「えぇ…あぁ…はぁ…道中、お気をつけて。」

橙色の夕焼け空をカラスがカーカーと鳴きながら山へと帰ってゆく。風か、嵐か、怒涛の如く去ってゆく三人を嘉平と喜一郎は呆気に取られたまま見送った。

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