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第三章
3-19
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血の通った手の温かさが鈴虫を生者の世界に引き戻す。
嘉平は固く瞼を閉じたままの鈴虫の片頬をピシャッピシャッと軽く叩きながら名前を呼び続けた。
「鈴虫や、鈴虫!おぉ、やっと、気が付いたか!これ、鈴虫、しっかりしなさい!目を開けておくれ。」
「……おかぁ…さ…ま…ぁぁ…」
「ん、なんだって?まだ夢の中にいるのか。さぁ、さぁ、目を開けておくれ、鈴虫や。」
「親父、目なんてほっとけ。死んでないんだったら目を開いていようが閉じていようがどうだって良いだろ?一度は息が途絶えちまったんだから、今はとにかく休ませてやれよ。それより、この行燈は何処に置いたら良いんだ。」
「まぁ、確かにそうだ。風野様の技を見知っていなかったら危なかったな…。あぁ、そっちに置いてくれ。置いたら厨に行って何か食べれそうなものを持って来い。」
「はぁぁ…どうせ、佐吉兄ぃ呼んでこないと食わねぇんじゃないか?こいつ、俺が食わせるときは鼻抓まないと口を開かないぞ。」
「御託を並べんで良いから早くしろ。もたもたしてると日が暮れちまう。」
「あー、はいはい、分かりましたよ!本当に佐吉兄ぃ、呼んでこなくていいんだな?こいつには佐吉兄ぃが一番の薬だろうに……」
先程まで居なかったはずの喜一郎の声がする。果たして周りがどうなっているのだろうか。鈴虫はまた別の場所に連れてこられてしまったかのような不安な気持ちになり、その瞼を開くことを暫し躊躇った。再び瞼を開いて見る世界もまた、泡沫のように消えて行く世界なのか。出会いの喜びと別れの悲しみを繰り返して、濁流をゆく小舟のように心を翻弄されるのか。それならば、未だ瞼の裏に在る、束の間に見たあの優しい慈母観音の如き母の眼差しと、触れる事の叶わなかったあの小さな魂の光に別れを告げるのは惜しいような気もしてしまう。
「どうれ…鈴虫や、まだしんどいのか。お前が目覚める前に始末は大方終わっているから心配しなくても良いんだよ。何か食べたら体を清めて、あとはゆっくり眠るんだ、いいね。あぁ、でもまた熱が出るんだろう…こんなことになるのであれば、熱さましの薬湯を貰っておくべきだったな。明日にでも上ノ村にお願いに上がらねば…」
鈴虫の枕元には濃く煮出された薬湯が載った盆が置かれていた。以前上ノ村より頂いた小箱の中の赤い布きれに包まれた植物の根を煎じたものだ。御開帳の後に忌子が孕んだ場合、これを飲ませて堕胎するのが常となっている。嘉平も念の為に用意をしたが、どうやらこの調子では必要も無さそうだ。それよりも今は滋養のある物でも食べさせて、この状態を乗り切る事を考えなければならないだろう。もう日は傾きかけている。嘉平はお妙の手だけでは足りず、喜一郎の手も借りて夜の帳が下りる前に付き添いの準備を急ぐ。これは一族総出で乗り越えなければならない大仕事だ。
喜一郎は行燈を置くと、すぐさま厨に向かい温かな食べ物を持ってきた。
「親父、お婆様が団子を作ってやるって言ってるが食えるわけねぇよなぁ?とりあえず粥と、蜜の入った葛湯を持ってきたぞ。」
「ハァ、出来る事は何でもしてやりたいって言うのは分かるんだが食えるわけがない。…気持ちが空回っているんだろうな。それだけ心配しているって言う事だ。ほぅれ、鈴虫や、起きて葛湯でも食べておくれ。」
「親父、貸せ、俺が食わせてやる。こいつは頭が悪いから単純なんだ。鼻をこうやって抓んで、口が開いたところに突っ込めば面白いように飲み込むんだぜ。」
「き、喜一郎…お、おまえ、今まで本当にその方法で食わせてたのか。」
「あぁ、これが一番簡単だ。もう慣れたもんだ。」
喜一郎は嘉平と鈴虫の間に割入ると鈴虫の鼻を指先で抓みあげた。これはかなり強引ではあるが喜一郎なりの鈴虫攻略法だ。
「……ぅ…うぅ…ん……‼」
「ほれ、見た事か!親父、簡単だろう?さぁ、匙をよこしてくれ。今のうちに口ん中に突っ込んでやる。」
鈴虫の口の中いっぱいに甘くて温かな葛湯の風味が広がる。握りしめた嘉平の手の温かさと葛湯の蕩ける甘さが冷え切った鈴虫をじんわりと温めて行く。鈴虫はその甘みと温かさを頼りに恐る恐る瞼を開いた。
目を開けた視界には相変わらずの不愛想な喜一郎の顔。しかし、今日は鈴虫がコクリッと喉を鳴らすと、喜一郎が一瞬だけニヤッと満足げに笑った。
「どうだ、美味いだろう。お前ばっかり贅沢な物を食わせて貰いやがって。さっさと飲み込んで口開けろ。俺だって腹が減ってるんだ。また鼻を抓まれたいのか。」
「…きいちろ…にい…さま…おいしぃ…」
「だろ?さっさと食え。食ったら着替えさせてやるから。」
「…きいちろ…にいさま…あのね…おら……」
「うるさい。喋らずに食え。ん、寒いって言いたいのか?」
鈴虫はコクリと頷いた。
「どれ、鈴虫や、まだ熱は出ていないようだぞ?悪寒じゃなさそうだな。着替えたら布団に連れて行ってあげるから良い子にしておいで。筵の上に寝ているから体が冷えたんだろう。それにしても、なぜ寒いって分かったんだ?」
鈴虫は着替えもせず、まだ筵の上に寝かされたままだった。途絶えた鈴虫の息を吹き返させるだけで精一杯で嘉平には他の事に気を配る余裕は全く無かったのだ。藤色の着物も赤い着物も、その下の筵も、とてもじゃないが鈴虫に見せられたものではない。嘉平は行燈に火を入れるのは後回しにして、薄暗い中で鈴虫の体を拭きながら身形を整えた。喜一郎が鈴虫に見せたくない物を堂の外に放り出してから行燈に火を入れる。それら全てが終わり鈴虫を布団に移す頃には、外はすっかり真っ暗になっていた。
鈴虫は葛湯を一杯食べ終えて、いつもの布団に移されても、まだどこか自分の身体ではないような感じであった。下腹部の鈍痛、手足には力が入らず自由が利かない。行燈の灯で橙色に染まる天井を虚ろな目でぼんやりと見上げながら鈴虫は消え入りそうな声で嘉平に問いかけた。
「……おとうさま…おら…おらと…さきっさんの赤ちゃん…死んだのか…おらのせいで…死んだのか…なぁ、おとうさま…おらが弱いから守ってやれなかったのか……」
鈴虫と佐吉の間に出来た赤子なのかと言われると、佐吉が嘉平の言付けを守っている限り佐吉の子供ではない。あの夜、堂に集まって晒布にその名を記し、血判を捺した誰かの子種だろう。しかし、鈴虫があの夜の事を記憶から消し去ってしまっている今、それを掘り起こしてまでして鈴虫を傷付ける必要があるのだろうか。流れた赤子が佐吉の子であるとするならば佐吉に対して子殺しの罪を負い、佐吉の子でないとすれば佐吉に対しての不貞の罪を負う。真実と偽りと、どちらであっても重い罪の色を帯びて幼気な鈴虫の心を切り裂きに掛かる刃と化す事は避ける事が出来ないだろう。嘉平はいつかその刃を振るう鬼の役をかって出なければならない。震えながら言葉を紡ぐ鈴虫の唇を見詰めながら、嘉平はその逃れられない二つの道を見極めようとした。しかし、しばらく考えてもその答えは出ず、嘉平は結局のところ鬼にもなり切れない。今はやはり核心から逸れた曖昧な言葉で誤魔化す道を選ぶしかないのだろう。
「…おら…さきっさんに…おらの赤ちゃんに…二人に何て言って…あやまれば…いいんだろう…」
「鈴虫や、お前のせいじゃない。どちらにしろ産めない身体なのだから仕方がないんだよ。良くお聞きなさい。古くからの慣わしでは忌子の孕んだ子は誰の子でもない。例え佐吉の子であっても、お前の腹の中に宿ったとしても、それは観世音菩薩に身体をお貸ししていた時の出来事だからお前には関係が無い。全てが仏様の御業に過ぎないんだ。流れた赤子は…そうだなぁ、お前を産んだ雪虫の所へ預けてきてあげようね。きっと雪虫がお前の赤子をお前たちの代わりに大事にあやしてくれるだろう。」
「雪虫さん、さっき夢の中で会ったよ…抱っこしてた…あれ、本物だったんだね。おらだって…おらだって、赤ちゃん…産めるなら、おら…おら…このからだ、裂いても…よかったのに…」
「鈴虫や、お前までそんな無理を言って儂を困らせるのか…」
鈴虫はそう言い終えると瞼を閉じた。目尻を伝う涙が黒髪の中へと消える。
どちらにしろ鈴虫の体格では無事に子を産み落とすことは叶わない。いずれ堕胎せねばならない時がやって来るのは始めから分かっていた事。そしてこれから先も鈴虫が現身として生きて行く以上、避けては通れない事だなのだ。
「おい、鈴虫、馬鹿か!やっぱり、お前は少し頭が足らねぇ馬鹿だ。産めもしない赤子の為にお前が命を落として佐吉兄ィが喜ぶとでも思うのか?産まれたとしても誰が乳をやる?飢え死にさせるのか?それにな、俺はお前なんかの腹を裂くのは御免だからな!産むなら独りで勝手に産めよ!…ったく、よく考えてみろ。俺にも迷惑が掛かるんだ!ばぁ~か!」
「喜一郎!少しはきつい言い方を控えてやれんのか。鈴虫や、良い子にしてお眠り。明日にでも佐吉を呼んであげようねぇ。」
「いやだ…会いたくない…おら、誰にも会いたくねぇ。おら、バカだから会っても何て言ったらいいのか…わかんねぇ!」
その晩は嘉平が傍に寄り添った。泣くわけでも無くただ静かに夜を越えてゆく鈴虫の細い指を嘉平は握りしめる。こうやって遠くへ行ってしまいそうな鈴虫を繋ぎとめようと幾度祈ったことか。そして、これから先、何回繋ぎとめる事が出来るのであろうか。全てを遮断したかのように眠る鈴虫の寝顔を、嘉平は行燈の橙色の灯が消えるまで心細げに見詰めていた。
嘉平は固く瞼を閉じたままの鈴虫の片頬をピシャッピシャッと軽く叩きながら名前を呼び続けた。
「鈴虫や、鈴虫!おぉ、やっと、気が付いたか!これ、鈴虫、しっかりしなさい!目を開けておくれ。」
「……おかぁ…さ…ま…ぁぁ…」
「ん、なんだって?まだ夢の中にいるのか。さぁ、さぁ、目を開けておくれ、鈴虫や。」
「親父、目なんてほっとけ。死んでないんだったら目を開いていようが閉じていようがどうだって良いだろ?一度は息が途絶えちまったんだから、今はとにかく休ませてやれよ。それより、この行燈は何処に置いたら良いんだ。」
「まぁ、確かにそうだ。風野様の技を見知っていなかったら危なかったな…。あぁ、そっちに置いてくれ。置いたら厨に行って何か食べれそうなものを持って来い。」
「はぁぁ…どうせ、佐吉兄ぃ呼んでこないと食わねぇんじゃないか?こいつ、俺が食わせるときは鼻抓まないと口を開かないぞ。」
「御託を並べんで良いから早くしろ。もたもたしてると日が暮れちまう。」
「あー、はいはい、分かりましたよ!本当に佐吉兄ぃ、呼んでこなくていいんだな?こいつには佐吉兄ぃが一番の薬だろうに……」
先程まで居なかったはずの喜一郎の声がする。果たして周りがどうなっているのだろうか。鈴虫はまた別の場所に連れてこられてしまったかのような不安な気持ちになり、その瞼を開くことを暫し躊躇った。再び瞼を開いて見る世界もまた、泡沫のように消えて行く世界なのか。出会いの喜びと別れの悲しみを繰り返して、濁流をゆく小舟のように心を翻弄されるのか。それならば、未だ瞼の裏に在る、束の間に見たあの優しい慈母観音の如き母の眼差しと、触れる事の叶わなかったあの小さな魂の光に別れを告げるのは惜しいような気もしてしまう。
「どうれ…鈴虫や、まだしんどいのか。お前が目覚める前に始末は大方終わっているから心配しなくても良いんだよ。何か食べたら体を清めて、あとはゆっくり眠るんだ、いいね。あぁ、でもまた熱が出るんだろう…こんなことになるのであれば、熱さましの薬湯を貰っておくべきだったな。明日にでも上ノ村にお願いに上がらねば…」
鈴虫の枕元には濃く煮出された薬湯が載った盆が置かれていた。以前上ノ村より頂いた小箱の中の赤い布きれに包まれた植物の根を煎じたものだ。御開帳の後に忌子が孕んだ場合、これを飲ませて堕胎するのが常となっている。嘉平も念の為に用意をしたが、どうやらこの調子では必要も無さそうだ。それよりも今は滋養のある物でも食べさせて、この状態を乗り切る事を考えなければならないだろう。もう日は傾きかけている。嘉平はお妙の手だけでは足りず、喜一郎の手も借りて夜の帳が下りる前に付き添いの準備を急ぐ。これは一族総出で乗り越えなければならない大仕事だ。
喜一郎は行燈を置くと、すぐさま厨に向かい温かな食べ物を持ってきた。
「親父、お婆様が団子を作ってやるって言ってるが食えるわけねぇよなぁ?とりあえず粥と、蜜の入った葛湯を持ってきたぞ。」
「ハァ、出来る事は何でもしてやりたいって言うのは分かるんだが食えるわけがない。…気持ちが空回っているんだろうな。それだけ心配しているって言う事だ。ほぅれ、鈴虫や、起きて葛湯でも食べておくれ。」
「親父、貸せ、俺が食わせてやる。こいつは頭が悪いから単純なんだ。鼻をこうやって抓んで、口が開いたところに突っ込めば面白いように飲み込むんだぜ。」
「き、喜一郎…お、おまえ、今まで本当にその方法で食わせてたのか。」
「あぁ、これが一番簡単だ。もう慣れたもんだ。」
喜一郎は嘉平と鈴虫の間に割入ると鈴虫の鼻を指先で抓みあげた。これはかなり強引ではあるが喜一郎なりの鈴虫攻略法だ。
「……ぅ…うぅ…ん……‼」
「ほれ、見た事か!親父、簡単だろう?さぁ、匙をよこしてくれ。今のうちに口ん中に突っ込んでやる。」
鈴虫の口の中いっぱいに甘くて温かな葛湯の風味が広がる。握りしめた嘉平の手の温かさと葛湯の蕩ける甘さが冷え切った鈴虫をじんわりと温めて行く。鈴虫はその甘みと温かさを頼りに恐る恐る瞼を開いた。
目を開けた視界には相変わらずの不愛想な喜一郎の顔。しかし、今日は鈴虫がコクリッと喉を鳴らすと、喜一郎が一瞬だけニヤッと満足げに笑った。
「どうだ、美味いだろう。お前ばっかり贅沢な物を食わせて貰いやがって。さっさと飲み込んで口開けろ。俺だって腹が減ってるんだ。また鼻を抓まれたいのか。」
「…きいちろ…にい…さま…おいしぃ…」
「だろ?さっさと食え。食ったら着替えさせてやるから。」
「…きいちろ…にいさま…あのね…おら……」
「うるさい。喋らずに食え。ん、寒いって言いたいのか?」
鈴虫はコクリと頷いた。
「どれ、鈴虫や、まだ熱は出ていないようだぞ?悪寒じゃなさそうだな。着替えたら布団に連れて行ってあげるから良い子にしておいで。筵の上に寝ているから体が冷えたんだろう。それにしても、なぜ寒いって分かったんだ?」
鈴虫は着替えもせず、まだ筵の上に寝かされたままだった。途絶えた鈴虫の息を吹き返させるだけで精一杯で嘉平には他の事に気を配る余裕は全く無かったのだ。藤色の着物も赤い着物も、その下の筵も、とてもじゃないが鈴虫に見せられたものではない。嘉平は行燈に火を入れるのは後回しにして、薄暗い中で鈴虫の体を拭きながら身形を整えた。喜一郎が鈴虫に見せたくない物を堂の外に放り出してから行燈に火を入れる。それら全てが終わり鈴虫を布団に移す頃には、外はすっかり真っ暗になっていた。
鈴虫は葛湯を一杯食べ終えて、いつもの布団に移されても、まだどこか自分の身体ではないような感じであった。下腹部の鈍痛、手足には力が入らず自由が利かない。行燈の灯で橙色に染まる天井を虚ろな目でぼんやりと見上げながら鈴虫は消え入りそうな声で嘉平に問いかけた。
「……おとうさま…おら…おらと…さきっさんの赤ちゃん…死んだのか…おらのせいで…死んだのか…なぁ、おとうさま…おらが弱いから守ってやれなかったのか……」
鈴虫と佐吉の間に出来た赤子なのかと言われると、佐吉が嘉平の言付けを守っている限り佐吉の子供ではない。あの夜、堂に集まって晒布にその名を記し、血判を捺した誰かの子種だろう。しかし、鈴虫があの夜の事を記憶から消し去ってしまっている今、それを掘り起こしてまでして鈴虫を傷付ける必要があるのだろうか。流れた赤子が佐吉の子であるとするならば佐吉に対して子殺しの罪を負い、佐吉の子でないとすれば佐吉に対しての不貞の罪を負う。真実と偽りと、どちらであっても重い罪の色を帯びて幼気な鈴虫の心を切り裂きに掛かる刃と化す事は避ける事が出来ないだろう。嘉平はいつかその刃を振るう鬼の役をかって出なければならない。震えながら言葉を紡ぐ鈴虫の唇を見詰めながら、嘉平はその逃れられない二つの道を見極めようとした。しかし、しばらく考えてもその答えは出ず、嘉平は結局のところ鬼にもなり切れない。今はやはり核心から逸れた曖昧な言葉で誤魔化す道を選ぶしかないのだろう。
「…おら…さきっさんに…おらの赤ちゃんに…二人に何て言って…あやまれば…いいんだろう…」
「鈴虫や、お前のせいじゃない。どちらにしろ産めない身体なのだから仕方がないんだよ。良くお聞きなさい。古くからの慣わしでは忌子の孕んだ子は誰の子でもない。例え佐吉の子であっても、お前の腹の中に宿ったとしても、それは観世音菩薩に身体をお貸ししていた時の出来事だからお前には関係が無い。全てが仏様の御業に過ぎないんだ。流れた赤子は…そうだなぁ、お前を産んだ雪虫の所へ預けてきてあげようね。きっと雪虫がお前の赤子をお前たちの代わりに大事にあやしてくれるだろう。」
「雪虫さん、さっき夢の中で会ったよ…抱っこしてた…あれ、本物だったんだね。おらだって…おらだって、赤ちゃん…産めるなら、おら…おら…このからだ、裂いても…よかったのに…」
「鈴虫や、お前までそんな無理を言って儂を困らせるのか…」
鈴虫はそう言い終えると瞼を閉じた。目尻を伝う涙が黒髪の中へと消える。
どちらにしろ鈴虫の体格では無事に子を産み落とすことは叶わない。いずれ堕胎せねばならない時がやって来るのは始めから分かっていた事。そしてこれから先も鈴虫が現身として生きて行く以上、避けては通れない事だなのだ。
「おい、鈴虫、馬鹿か!やっぱり、お前は少し頭が足らねぇ馬鹿だ。産めもしない赤子の為にお前が命を落として佐吉兄ィが喜ぶとでも思うのか?産まれたとしても誰が乳をやる?飢え死にさせるのか?それにな、俺はお前なんかの腹を裂くのは御免だからな!産むなら独りで勝手に産めよ!…ったく、よく考えてみろ。俺にも迷惑が掛かるんだ!ばぁ~か!」
「喜一郎!少しはきつい言い方を控えてやれんのか。鈴虫や、良い子にしてお眠り。明日にでも佐吉を呼んであげようねぇ。」
「いやだ…会いたくない…おら、誰にも会いたくねぇ。おら、バカだから会っても何て言ったらいいのか…わかんねぇ!」
その晩は嘉平が傍に寄り添った。泣くわけでも無くただ静かに夜を越えてゆく鈴虫の細い指を嘉平は握りしめる。こうやって遠くへ行ってしまいそうな鈴虫を繋ぎとめようと幾度祈ったことか。そして、これから先、何回繋ぎとめる事が出来るのであろうか。全てを遮断したかのように眠る鈴虫の寝顔を、嘉平は行燈の橙色の灯が消えるまで心細げに見詰めていた。
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