お伽話 

六笠 嵩也

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第三章

3-13

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人の肌は温かい……

感情の鎧は全て脱ぎ捨てよう

人肌の温もりに満たされて心を裸にする…

その柔らかな核心に触れた時、二人の魂は溶けあって一つになれるのかもしれない

永遠には続かない時の中でたった一度でもいい、そんな風に感じられるひと時があるのならば、それだけでこの世に生まれてきた価値があるのではないだろうか……

まだ明けきらぬ静かな朝にその密かな安らぎを抱き締める。

一晩中、鈴虫を庇うかのように伸ばしていた腕に少しばかりの痺れを感じて目を覚ませば、目の前には薄く開いた唇から柔らかな息を吐くあどけない寝顔があった。その無防備な寝顔を独り占めする悦びを噛み締めながら、ゆっくりと指先に力を込めて曲げ伸ばしし、じんわりと血液の通う感覚を確認する。

「あっ、…お鈴ちゃん…起こしちゃった…、ごめんな…まだ夜は明けきっていないのに。」

「ん…起きるのもったいない…。もうちょっと寝るから抱っこ…して…ね…」

鈴虫は心地良い人肌を手放すのを惜しむように佐吉の胸にギュッと顔を埋めた。

「ん、そうだね、雀が鳴くまで一緒に寝ていようか。」

「ふふっ、さきっさん、温かい…さきっさん、大好き…さっきさん、おら…おら…あのね、あの…幸せなんだ。すずめさん、今日は黙って一日中寝てれば良いのに。」

「お鈴ちゃん…そか、そうだね一日くらいそんな日があっても良いね…そう、…一日くらい…ずっと二人っきりで…誰にもじゃまされないでこうしていたい…」

鈴虫は佐吉の腕の中でコクコクと頷いている。

随分と長いあいだ我慢を重ねて来たのに、二人に約束されているのはほんの僅かな時間。佐吉は鈴虫の髪を優しく撫でながら別れの時が迫るのを感じていた。

本当はもう永遠に手放したくはないんだ。もう永遠にこのまま二人っきりで生きていたい。誰にも邪魔させたくない。

もう……

何処か遠くへ…二人きりで…

佐吉は思わず鈴虫を抱く手に力を込めた。

佐吉はただ田畑を耕すしか能の無い凡人である。
産まれてこの方、両隣の村までしか足を延ばしたことも無い一介の農夫。蔦や竹を刈り編み上げることが少しばかり得意ではあるが、専ら土を耕して生きて来たと言っても差し支えない。改めて、この土地を離れ誰にも頼らずに自立することを考えてみると、精一杯生きて来たはずなのに最愛の人を守ってやるような術は何も持ち合わせていなかった。
それ以前の問題として、生きて来た世界が狭すぎる佐吉と鈴虫には、二人きりで幸せに暮らして行ける「どこか遠く」が全く思い浮かばない。

何か…何でもいい…今はまだ焦りから来た漠然とした現実味の無い願望ではあるが、何か、とにかく何か、この土地を離れたとしても鈴虫一人くらい養ってゆけるような何かを手に入れたい。そして、そしていつか誰にも邪魔され事無く二人っきりで暮らして行きたい。

何か…何だろうか…

逃れる事の出来ない運命を背負った鈴虫の短い人生を全て受け入れて寄り添いながら生きて行く。何の取り柄も無い自分に出来るのはそれだけ。そう、それで十分だと今までは自分に言い聞かせてきた。
しかし、この限りなく愛おしい体温から離れて行かなければならない苦痛を何度も味わうと、次第にそれ以上のことを望むを禁じえなくなってくる。

「すず、すず、聞いて。」

「…ん?…なぁに?さきっさん?」

突然の言葉に鈴虫は顔を上げた。突然の言葉にキョトンとした顔をしてしは佐吉の口から続く言葉を口元に視線を寄せて待っている。

「すず、俺の家までの道程がどれくらいだったか覚えてる?」

「…ぅっ、忘れるわけねぇよ。おらにとっては最初で最後の…さ、さいご…の…大切な思い出だ。…んっ!さっきさん?何を考えてるの?どうせ、おらは虫ケラだ。足の一本二本無くなったって…まぁ、構わねぇけど…。おらを連れてじゃ逃げ切れねぇよ…!ごめんね、さきっさん。」

「あぁ…ごめん!すず、ちょっと待って、そんな悲しそうな顔しないで。俺だって前と同じ失敗をしようってんじゃないんだ!
あ、あのね、いつか、いつになるか分からないけれど、いつか…例えば、嘉平様の代から喜一郎に代替わりして…う~んと…そだなぁ…他の忌子がこの村に連れてこられたりして、お役御免になるかも知れない。もし、俺達が自由を手に入れる事が出来る日が来たら…そしたら、俺はすずを連れて何処か二人きりで暮らしたいと思ってるんだ。だからね、少しずつで良いからもっと体を強くするようにしてほしい。本当にいつになるかは分からない夢だけど、今からすこしずつ…ね、すずにも頑張ってもらいたいんだ!……って言おうと思った…んだよ。」

鈴虫は相槌も入れずに佐吉の言葉を黙って聞いていたが、しばらく耳に残った一つの言葉をポツリと呟いた。それは佐吉の話の中で鈴虫が真意を理解できなかった言葉。

「…ゆめ。」

「そう、夢。…だけどね、夢で終わらせないように俺は自分を変えるよ。」

「…さきっさ…変わる?」

「そう、俺はすずの為にもっと強くなる。」

「…つよく。」

「そう、強く…う~ん、強くって言っても怪力になろうってんじゃなくて…そだなぁ…何て言うか…そう、具体的に何をするかって言われるとまだ見付かってないんだ。でも、いつか二人だけで生きて行けるように…だからね、すずも自分の足で俺に付いて来て欲しい。分ってもらえるような言い方が思い浮かばないよ…ごめん。」

「……ごめんは、いらね。その夢、消えねぇか?ゆめは…ゆめは……醒めるもんだ。」

「それは違う。」と、ツンと尖らせた鈴虫の唇を指先でつついてたしなめる。自分の思う通りにならない歯痒さは佐吉にだって分かり切った事だ。それでも後ろ向きな心にはならないで欲しい。何も持ち合わせていない今の佐吉が鈴虫に与えられるのは、自らの体温と嘘偽りの無い慈しみの心だけ。それをただ抱き締めると言う方法でしか伝える術を持ってはいない。

「…ぅん、わかったよ。おら、昼寝の時間を少しばかり短くして庭先をウロウロする!」

「ありがと、お鈴ちゃん。俺も…何か…今以上に強くなるための何かを探すんだ。ね、お鈴ちゃん、夢は忘れないで。」

「……ゆめ…ねぇ。」

朝焼けの頃を過ぎると格子窓から差し込む光が一段と白さを増す。小さな鳥たちが太陽の温もりを求めて木々の小枝へと姿を現せば、もう別離の時も近い。
そろり…そろり…としとねの温もりを惜しむかのように二人は起き上がった。佐吉が上掛けにしていた薄紅色の袷で鈴虫の体を包み込むと、そこには芍薬の花の精のような可憐な微笑みがある。

「お鈴ちゃん…さぁて……」

「…さぁて…かぁ…」

「ぁぁ…もう、行かなくちゃ。」

「……そだな。」

「うん、お鈴ちゃん、またすぐに来れるように嘉平様にお願いするよ。」

「…ぅん、またね。」

佐吉は帰りに際して鈴虫の見送りを断った。早朝とはいえ急いで帰らなければ誰かの目に留まる。十分な時間の無い今の二人には後ろ髪を引かれるような別れの言葉は返って残酷だ。佐吉は縋る視線を背中に感じながらも静かに堂の戸を閉ざし、振り返らずに足早に屋敷を後にした。

鈴虫は冷めたしとねに独りで戻る気にもなれず、ただぼんやりと佐吉が残していった残像を追う。佐吉が少しずつ前進して行くことを望んでくれていて嬉しくはあった。しかし、自分が諦めた境遇に対して佐吉が何かしらの変化をもたらそうと真剣に思案してくれているのは理解できるのだが、その「何かしら」は掴みどころが無い。それはまるで感情の塊でしかない漠然とした希望であって、二人の行く道を照らすには余りにも弱々しく感じられるのだ。

鈴虫は薄紅色の袷を畳みながら佐吉の残していった言葉を反芻する。

「さきっさんについて行く…歩いて?もう足の指と引き換えの自由は考えちゃいけないってこと?さきっさん?そういうこと?…さきっさん…さきっさんが考えている自由は…もっと、もっと、遠いの?……わかんない…遠すぎて…見えないもん……」



その日の夕方には喜一郎とお八重が屋敷に戻ってきた。
久しぶりに皆がそろって夕餉をいただいた後、寝る前の僅かな時間に鈴虫はお八重を独占して寂しさを紛らわせた。
そのお八重も翌朝には上ノ村へ帰ってゆく。また遊びに来ると言ってくれはしたが、喜一郎に嫁ぐのかはっきりと口にしてはくれなかった。

屋敷にはお妙と嘉平と喜一郎。そして、相変わらず小さな堂には独り寝の鈴虫。
それぞれが居るべき場所に戻った。あとは平穏な日常が訪れるように各々が願うのみであった。

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