お伽話 

六笠 嵩也

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第三章

3-3

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釣瓶を水に落とす音で朝の訪れを知った。

「…うぅむ…お八重さんか、早いなぁ…おぅ、鈴虫…鈴虫や…起きられるかい。」

嘉平が隣を見るとそこには昨夜と変わりのない鈴虫が横たわっていた。相変わらず罅割ひびわれた唇を薄っすらと開いて息を吐いている。半ば乾きかけた額の手拭いを桶の水で濯いで載せ替えても目覚める様子は無い。まだしばらくは眠ったままなのだろうか。
嘉平は肘杖をついて鈴虫の寝顔を眺めていた。こんなに細いなりをして、嘉平がどんなに頭を下げて願い出ても聞き入れてもらえないような条件を確約させ、自分よりも大柄な男達からあれこれと上等な品を勝ち取ったのだ。そう思うと観世音菩薩様の御力と言うのも伊達では無かったのではないか。少しばかり畏怖の念を覚えなくも無い。

「おぅ…鈴虫や…目ぇ覚めたかい?」

「…うぅ…ん…さき…さ……」

「佐吉に会いたかったら起きて薬湯飲んで飯を食え。萎びた姿じゃ佐吉に心配掛けるだけだぞ。髪の毛も汚れてるから佐吉に会う前に湯浴みがしたいだろう?どうだ、起きて薬湯だけでも飲んでみろ。」

嘉平は佐吉を餌にしてなんとか鈴虫の気力を奮い起こさせようと呼びかけた。言葉が耳に届くなら、佐吉という名前に釣られて頑張れるはずだ。

「…さき…さ…手…にぎ…って…」

「うぅんとなぁ、佐吉は今はここに居ない。会っても恥ずかしくないように身綺麗にしたら呼んでやる。だから頑張って薬を飲んで熱を下げるんだ。」

「…うそ、さき…さ…いるよ…おとうさま…さき…さ…いる…すぐそばに…」

嘉平には何を言っているのか分からなかった。堂の中には自分と鈴虫の二人しか居ないのは確かだ。鈴虫は薄く瞼を開いてはいるが、何処を見ているか分からない虚ろな目をしている。

「おい、まぼろしでも見ているのか?大丈夫か…」

嘉平の言葉に対し、鈴虫はゆるゆると首を横に振った。

「さきっさん…の…におい…さき…さ…いるよ…いるって…おとうさま…手…握らせて…ね、おねがい…ゆるして…」

「匂い?はて、佐吉の匂い?佐吉は此処には居ないって言ってるだろう?匂いなんかするわけが無いんだよ。熱に魘されて悪い夢でも見たんじゃないのか…」

嘉平にはさっぱり分からなかった。しかし、匂いという言葉から察するに、鈴虫には何かを嗅ぎ取っているというのだろう。嘉平は思い当たる物も無かったが、改めて堂の隅々を見渡してみた。昨日運び込んだ冷めた薬湯と重湯、行燈に桶の水と手拭い…あとは鈴虫が寝ている古びた布団。襤褸布が数枚落ちてはいるが、鈴虫が猿轡に使っていた物や見覚えの無い物だ。佐吉の物など見当たらない。もしかすると、佐吉が結びつけた観世音菩薩様の護符に残り香が残っているのだろうか。そう思って嘉平は鈴虫の首元に触れてみた。

「鈴虫や、もしかして観世音菩薩様の護符に佐吉の匂いが残っているんじゃないか…いや、待てよ?頭の下、何を隠してるんだお前?ちょっと頭、動かすぞ…?」

鈴虫の横たわっている布団の丁度頭の辺りを手でなぞって見ると、確かに不自然に少々盛り上がっている。どうやら綿が片寄ったわけではなさそうだ。嘉平はそっと鈴虫の頭を支えながら布団の下に手を入れた。

「何だ?なんで…何故、お前は草鞋を枕にしているんだ?まったく…おかしな事をする子だねぇ?」

「…しらねぇ…でも…さき…さ…の…におい、する…」

嘉平にはこの草鞋が誰の物で、いつ置かれた物なのかなんて分りもしない。もちろん佐吉の匂いなど全く感じ取る事など出来るわけもなく。襤褸布に包まれた上から散々重しを掛けられて平坦になってしまった何の変哲も無い一揃いの草鞋にしか見えない。
それを鈴虫は見えるかどうかも怪しい目を嬉し気に細めては、やっとの思いで手を伸ばして受け取った。

「ほれ、これが欲しいのか?いつ草鞋なんか貰ったんだか?これは佐吉の物で、佐吉の匂いがするのかも知れないが、ここに佐吉は居ないんだよ。だからね、今は佐吉がお前の手を握ってやることは…出来ないんだ…すまない…」

鈴虫は堂の中に佐吉が居ない事を悟ると、寂しそうに瞼と口を閉じてしまった。
このまま貝になられては困ると、嘉平は小さい子供をあやすようになんとか言葉を続けた。

「鈴虫や、確かに今は佐吉は居ないよ。でも、お前がちゃんと薬を飲んだら佐吉もきっと喜ぶと思うんだ。うぅん…そうだなぁ…よぉし、ちゃんと薬を飲んで飯も食って歩き回れるようになったら、忙しい時期ではあるが佐吉を泊まりに呼んであげよう。どうだ、約束しよう?二人水入らずで過ごして構わないよ。ほれ、ほれ、目ぇ開けてごらん。」

「…さき…さ…会いたい…会いたい…約束…ね…」

時間が経って冷めてしまった薬湯は、湯気が立っていない分多少なりとも匂いが抑えられている。嘉平は鈴虫を起こして薬を飲ませるのは難しいと判断し、木匙を使って時間を掛けて飲ませた。思った以上に体力を消耗してしまったようだ。この調子では刈入れが終わる頃までに回復することは難しいだろう。
それでも薬湯と重湯を腹に収めると佐吉の匂いが僅かに残る草鞋の包みを胸に抱いて、満足気な笑みを浮かべて目を閉じた。
このまましばらく眠らせて薬湯の時間に起こせば良い。噛まれた事によって気が触れてしまったのではないかと言う心配があったが、会話が成り立つようなので取り敢えずは一安心だ。嘉平は鈴虫の頭を優しく撫でて眠りを促した。

「佐吉…草鞋でも構わない。ちゃんと鈴虫を守ってやってくれよ。鈴虫や、また薬湯の時間に来るからそれまで良く眠って体を治すんだよ。良いね、治ったら佐吉が待っているんだからね。」

きっと何に於いてもそうなのだ。希望を持つ事、これを忘れてはいけない。
いまの鈴虫には、大切な人に会えるという希望を持つ事、これが一番の薬になるのだろう。

嘉平は食べ終えた器を盆にのせ、うとうとしだした鈴虫を置いて堂の戸口へと足を進めた。

「あっ、これは!」

嘉平は慌てて堂の外へと出て勢いよく戸を閉めた。心臓の音が耳の中で木霊するほどに脈が高鳴る。呼吸は荒くなり、汗がどっと流れ始めた。外へと向かう嘉平の背中を追って立ち上るのは甘く芳しい葛の花の香りだ。油断した所に不意を突かれた。

「あぁ…なんてことだ…そうだった、そうなんだ…何てことだ!鈴虫が弱ってしまっただけで御光臨は終わっていなかったという事か!?…確かに…通常ならばあと二、三日はあの甘い香りが続くのだが…終わったのでは無かったのか!?なんてことだ…なんてことだ…」

薬湯と重湯で少し体力を取り戻したために、眠りに就くほんの僅かな時間、僅かにだが甘い香りが戻って来てしまったのだ。こればかりは薬湯で抑え込むことも出来ない。こうなってしまうと嘉平には手出しが出来ない。誰にも侵入されないように鍵を掛けて守り、なんとかしてやり過ごすしかないのだ。
そして、それに加えてもう一つ嘉平を落胆させる事がある。

「ぁぁ…そうか…喜一郎も分かっているだろうから、あと二、三日は帰って来ないのだろうな。鈴虫に薬湯を飲ませたら、お八重さんは上ノ村へと帰ってしまうと言うのに…あぁ!もうっ!上手く行かぬものだ。」

事情を話すべく嘉平は母屋へと急いだ。こうなってしまっては、お八重に正直に話して鈴虫の世話をお願いするしかないだろう。その前に、とりあえず急いで堂の戸に鍵を掛けなければならない。嘉平は慌ただしく盆を持ったまま走った。





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