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第二章
2-21
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泡沫が消えてゆくように甘い香りが薄らいでゆく。
嘉平は恐る恐る堂の中に歩みを進めた。布団の上に横たわる鈴虫は汗と体液に塗れて、その美しい黒髪が横顔にベッタリと張り付いているのが見える。
「退いてっ!邪魔!」
周りを取り囲む男達を押し退けて、風野が横たわる鈴虫の背中に跨った。すぐさま両掌を組んで高く掲げ、心臓の裏に叩きつける。しかし、鈴虫は全く反応しない。
もう一度…、もう一度…
「お戻りくだされ!現身様、逝ってはなりません!!!」
「あぁ、い、いったい、な、何が…何が起こったのです…!?」
「うるさい!黙ってて!駄目だ…仰向けにして!早く、手伝ってよ!」
風野は二、三度深呼吸をして呼吸を整えると、鈴虫の鳩尾に思い切って拳を打ち当てた。
「ッ!」
鈴虫の眉間に皺が寄る。それを確認すると、風野は苦無をサッと取り出して鈴虫の猿轡にあてがい切り裂いた。
「息して!ほら、ちゃんと吸って、吐いて…吸って…ごめんね、痛かったよね…」
嘉平の顔からはすっかり血の気が引いていた。お八重の只ならぬ様子にしろ、お妙の悲鳴にしろ、重大な事が起きた事を指し示しているのは確かだ。しかも鈴虫は意識を失って失禁までしている状態である。何故こんな事になったのだろうか。きちんと説明してもらわなければ嘉平には対処のしようが無い。
「御仏の現身に何てことを…」
カタカタと歯を鳴らしながら慈照は何も出来ずにただ震えていた。だらりと萎えた股間のイチモツを隠す事すら忘れて動けなくなっている。たとえ還俗しても一人の仏弟として気高く生きていたかった。弱き者を甚振る事なんて全く望んではいないのに、どうしてあんなにも狂わされてしまったのか理解出来ない。
自らの奥底に隠された嗜虐性が封印を破壊して正体を現してしまったのだろうか。兎にも角にも、言い訳が出来る状況ではない。慈照は高潔な僧侶であった過去に決別を告げ、今は無間地獄を漂う一匹の魍魎に他ならないのだ。
「まずいです。ここは風野に任せて我々は此処を出ましょう。現身様が息を吹き返したのは良いが、貴方様がまたあの甘い香りに酔わされてしまったら元も子も無い。」
「……あぁ…あぁ…余は…あぁ…あの者を連れて…」
「何を言っているんですか!しっかりしてください。ほれ、前を隠して!」
弦次郎が慈照の手を掴んで外へと引きずり出した。
「あぁ、待たれよ!待たれよ!!どうしてくれるんですか!この子は、この子は…酷い!酷すぎます!祭りは三日間!この子はあと二日間も現身でいなければならないのに、どうしてくれるんですか!これじゃ体がもたないでしょう!」
嘉平は逃げて行く二人の大男に追い縋ろうとした。しかし、鈴虫の側から離れるわけにもゆかない。それに追いついたところで力力尽くで引き留められる相手では無いのは見て取れる。およそ、振り払われるのかオチだろう。あまりの悔しさに思わず地団駄を踏んだ。
「嘉平殿、実を言うと我々はまだ一度ずつしか現身様を抱かせてもらってはいない。しかし…まぁ、この状態で二周目、三周目は無理だろう。」
「いえいえ、そんな事を仰らずに…どうかこの村をお見捨てにならないで下さいませ。」
嘉平は男達に媚びた目を遣い、何度も頭を下げながら言い繕った。せっかくお妙の書いた文言に血判を捺させたのだ。これを理由に反故にされたら全てが水の泡と化してしまう。
しかし、嘉平の心配をよそに男達の返答は至極真っ当なものであった。真の狂気の沙汰を間近に見せつけられて、己の中の毒気が抜けてしまったかのようだ。きっと慈照の行いが反面教師になったのだろう。
「いや、我々は地獄の獄卒ではない。欲こそあれど人の子だ。仮にも菩薩の化身である者を殺すまで犯して寝覚めが良いわけ無かろう?」
「その通りだ。現身様にも悦んで貰ってこそ御利益があるというもの。」
「もうじき夜も明けるし、今日のところは解散致そう。是非とも養生されて、次の機会に存分に楽しませて頂きたいものじゃ。」
「もちろん、約束の品は出来るだけ早くお届けしよう。可愛い、可愛い現身様には赤い御べべが似合うはずだ。元気になったら…愛らしい刺繍を施した下帯を穿かせて…あぁぁ…、想像しただけで涎がでるわい。」
「お、お主は余程この現身様が好きになったと見えるなぁ。まぁ、確かに上玉だ。力尽きて死なれては勿体無い。」
男達は嘉平にとって有難い言葉を口々にしながら身支度を整えている。鈴虫が完全に目覚めてしまうと消えかけた甘い香りが再び充満してしまうだろう。そうなってしまうと帰るに帰れなくなってしまいかねない。そうなる前に退散するのが賢明だ。
「それより…おい、お前、逃げた奴らの連れだな。」
「…さ、左様。我が主であるが、…あれは…あれは、我が主ではなかった。何か悪霊にでも取り憑かれたかの様だっただろう!?あの目、あんな目を私は一度も見たことが無い。あれは…我が主の目では無かったのだ!」
どうしてあの時、口を濁さず詳らかに全てを語って、慈照を引き留めなかったのだろうか。あの時、御家の都合で還俗を余儀なくされて塞ぎ込んでいた慈照が、秘仏を拝むことが出来るとはしゃいでいたように見えた。その姿が嬉しくて風野も弦次郎も真相を詳しく語る事が出来なかったのだ。風野の胸には後悔の念が込み上げる。
しかし、こうなってしまっては後の祭りだ。せめて最善を尽くしてこの少年を救う事が自分に課せられた役目であろう。風野は主の失態を詫び、自分はしばらくこの村に残って鈴虫を守ると嘉平に願い出た。
鈴虫の肩には幾つかの歯型がついている。出血している部分は多くは無いが、万が一、傷が化膿してしまうかも知れない。きちんと傷の手当をすることも風野が負うべき責務だろう。
傷を洗う水を汲みに堂の外へと出ると、夜明け間近の空に白い星が薄っすらと散らばっていた。
半ば酩酊状態の様であった慈照と弦次郎は無事に帰りつくことが出来るだろうか。切なる願いを託すには、空に掛かる淡い星は頼りなさ過ぎる。風野は言葉を胸の奥に隠し、急ぎ堂へと戻った。
※苦無=両刃型のナイフのような物。
嘉平は恐る恐る堂の中に歩みを進めた。布団の上に横たわる鈴虫は汗と体液に塗れて、その美しい黒髪が横顔にベッタリと張り付いているのが見える。
「退いてっ!邪魔!」
周りを取り囲む男達を押し退けて、風野が横たわる鈴虫の背中に跨った。すぐさま両掌を組んで高く掲げ、心臓の裏に叩きつける。しかし、鈴虫は全く反応しない。
もう一度…、もう一度…
「お戻りくだされ!現身様、逝ってはなりません!!!」
「あぁ、い、いったい、な、何が…何が起こったのです…!?」
「うるさい!黙ってて!駄目だ…仰向けにして!早く、手伝ってよ!」
風野は二、三度深呼吸をして呼吸を整えると、鈴虫の鳩尾に思い切って拳を打ち当てた。
「ッ!」
鈴虫の眉間に皺が寄る。それを確認すると、風野は苦無をサッと取り出して鈴虫の猿轡にあてがい切り裂いた。
「息して!ほら、ちゃんと吸って、吐いて…吸って…ごめんね、痛かったよね…」
嘉平の顔からはすっかり血の気が引いていた。お八重の只ならぬ様子にしろ、お妙の悲鳴にしろ、重大な事が起きた事を指し示しているのは確かだ。しかも鈴虫は意識を失って失禁までしている状態である。何故こんな事になったのだろうか。きちんと説明してもらわなければ嘉平には対処のしようが無い。
「御仏の現身に何てことを…」
カタカタと歯を鳴らしながら慈照は何も出来ずにただ震えていた。だらりと萎えた股間のイチモツを隠す事すら忘れて動けなくなっている。たとえ還俗しても一人の仏弟として気高く生きていたかった。弱き者を甚振る事なんて全く望んではいないのに、どうしてあんなにも狂わされてしまったのか理解出来ない。
自らの奥底に隠された嗜虐性が封印を破壊して正体を現してしまったのだろうか。兎にも角にも、言い訳が出来る状況ではない。慈照は高潔な僧侶であった過去に決別を告げ、今は無間地獄を漂う一匹の魍魎に他ならないのだ。
「まずいです。ここは風野に任せて我々は此処を出ましょう。現身様が息を吹き返したのは良いが、貴方様がまたあの甘い香りに酔わされてしまったら元も子も無い。」
「……あぁ…あぁ…余は…あぁ…あの者を連れて…」
「何を言っているんですか!しっかりしてください。ほれ、前を隠して!」
弦次郎が慈照の手を掴んで外へと引きずり出した。
「あぁ、待たれよ!待たれよ!!どうしてくれるんですか!この子は、この子は…酷い!酷すぎます!祭りは三日間!この子はあと二日間も現身でいなければならないのに、どうしてくれるんですか!これじゃ体がもたないでしょう!」
嘉平は逃げて行く二人の大男に追い縋ろうとした。しかし、鈴虫の側から離れるわけにもゆかない。それに追いついたところで力力尽くで引き留められる相手では無いのは見て取れる。およそ、振り払われるのかオチだろう。あまりの悔しさに思わず地団駄を踏んだ。
「嘉平殿、実を言うと我々はまだ一度ずつしか現身様を抱かせてもらってはいない。しかし…まぁ、この状態で二周目、三周目は無理だろう。」
「いえいえ、そんな事を仰らずに…どうかこの村をお見捨てにならないで下さいませ。」
嘉平は男達に媚びた目を遣い、何度も頭を下げながら言い繕った。せっかくお妙の書いた文言に血判を捺させたのだ。これを理由に反故にされたら全てが水の泡と化してしまう。
しかし、嘉平の心配をよそに男達の返答は至極真っ当なものであった。真の狂気の沙汰を間近に見せつけられて、己の中の毒気が抜けてしまったかのようだ。きっと慈照の行いが反面教師になったのだろう。
「いや、我々は地獄の獄卒ではない。欲こそあれど人の子だ。仮にも菩薩の化身である者を殺すまで犯して寝覚めが良いわけ無かろう?」
「その通りだ。現身様にも悦んで貰ってこそ御利益があるというもの。」
「もうじき夜も明けるし、今日のところは解散致そう。是非とも養生されて、次の機会に存分に楽しませて頂きたいものじゃ。」
「もちろん、約束の品は出来るだけ早くお届けしよう。可愛い、可愛い現身様には赤い御べべが似合うはずだ。元気になったら…愛らしい刺繍を施した下帯を穿かせて…あぁぁ…、想像しただけで涎がでるわい。」
「お、お主は余程この現身様が好きになったと見えるなぁ。まぁ、確かに上玉だ。力尽きて死なれては勿体無い。」
男達は嘉平にとって有難い言葉を口々にしながら身支度を整えている。鈴虫が完全に目覚めてしまうと消えかけた甘い香りが再び充満してしまうだろう。そうなってしまうと帰るに帰れなくなってしまいかねない。そうなる前に退散するのが賢明だ。
「それより…おい、お前、逃げた奴らの連れだな。」
「…さ、左様。我が主であるが、…あれは…あれは、我が主ではなかった。何か悪霊にでも取り憑かれたかの様だっただろう!?あの目、あんな目を私は一度も見たことが無い。あれは…我が主の目では無かったのだ!」
どうしてあの時、口を濁さず詳らかに全てを語って、慈照を引き留めなかったのだろうか。あの時、御家の都合で還俗を余儀なくされて塞ぎ込んでいた慈照が、秘仏を拝むことが出来るとはしゃいでいたように見えた。その姿が嬉しくて風野も弦次郎も真相を詳しく語る事が出来なかったのだ。風野の胸には後悔の念が込み上げる。
しかし、こうなってしまっては後の祭りだ。せめて最善を尽くしてこの少年を救う事が自分に課せられた役目であろう。風野は主の失態を詫び、自分はしばらくこの村に残って鈴虫を守ると嘉平に願い出た。
鈴虫の肩には幾つかの歯型がついている。出血している部分は多くは無いが、万が一、傷が化膿してしまうかも知れない。きちんと傷の手当をすることも風野が負うべき責務だろう。
傷を洗う水を汲みに堂の外へと出ると、夜明け間近の空に白い星が薄っすらと散らばっていた。
半ば酩酊状態の様であった慈照と弦次郎は無事に帰りつくことが出来るだろうか。切なる願いを託すには、空に掛かる淡い星は頼りなさ過ぎる。風野は言葉を胸の奥に隠し、急ぎ堂へと戻った。
※苦無=両刃型のナイフのような物。
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