お伽話 

六笠 嵩也

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第二章

2-1

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「おいっ、鈴虫!起きろ!」

一体、どれくらいの時間がたったのだろうか。瞼越しに感じる光があるので、夜では無いというのはわかる。しかし、鈴虫は全身を覆う倦怠感に思考まで支配されて、自分が今どんな状態であるかさえも理解できてはいないようであった。今は全身の痛みとだるさで目を開けることも難しい。特に内蔵がぐちゃぐちゃにされたようで気持ちが悪かった。

「おいっ!いい加減にしろよ。お前に付き合ってると日が暮れちまう!」

しかし、この声は喜一郎だ。喜一郎の命令に逆らえばまた殴られるかもしれない。鈴虫は怖くて必死に返事をしようとして唇を動かした。

…兄さま…さっきさん…さきっさんは…

「おいっ、飯食え。」

鈴虫の問いは擦れて声にならず、喜一郎の耳には届かなかった。ただ口をぱくぱくと動かしているようにしか見えない。喜一郎は鈴虫が目を覚ますまでの間、食事を用意して傍に座って待っていてくれたのだろう。鈴虫の不安な気持ちなどは勘案せず、待ち構えていたかのように握飯を差し出した。

「目、開かないのか?…そんなわけないよな?腹、減っただろ!飯、食え!そんで、寝ろ!まぁ、どうでも良いから口だけ動かして飲み込め。」

あの後、佐吉は帰ってしまったのだろうか。嘉平を怒らせてしまったのでもう来てはくれなくなってしまったのだろうか。そんな寂しさと不安が募る鈴虫の心とは関係無く喜一郎は勝手に事を進めようとする。

「さ…さきっさ……」

「喋るな、食え。」

口が開いた事を良い事に、喜一郎は握飯を一摘み取ると、鈴虫の口に詰め込んだ。
しかし体調が悪くて食欲なんて全く湧いてこない。それどころか口を動かすことも辛くて閉ざされた目から涙が溢れてきた。

「おいっ、泣くな!噛んで飲み込め!俺だって好きでお前の傍についているわけじゃないんだ。面倒掛けるな!言うことを聞け!」

喜一郎はツンと顔を逸らして鈴虫の涙など見ないようにしている。

「佐吉兄ぃ…お前の足を切るのだけはどうしても嫌だって…死ぬかも知れない目に合わせるのだけは嫌だって。だから仕方なしに言いなりになってあんな事したんだ。お前はクソ生意気に、死んでからの事なんか考えてるようだが、佐吉兄ぃはお前と生きる事しか考えてねぇ。わかるか、鈴虫?だからよ、食えよ。食って生きろよ。」

相変わらずの冷たい口調であった。しかしその意は、鈴虫に生きる強さを持てと言う。弱った鈴虫にその言葉は力を与え、乾いた口を動かす原動力となって、どうにか飯粒を呑み込むことが出来た。

「きいちろ兄さ…おら…」

「喋るな、食え。」

喜一郎は開いた口にかさずまた一摘み詰め込んだ。喜一郎の目が上から見据えて飲み込むのを待っている。今までとは少し違い、その目の奥には蔑みや憎悪は見て取れなかった。ただ単に見守ると言う役割を与えられた者の眼差しである。長年のわだかまりがほんの少しだけ解けたのか、ボロボロになった体を哀れんでいるのだろうか。とりあえず、今は言うことさえ聞いていれば殴る蹴るされる事はなさそうだ。そんな鈴虫の様子を察して喜一郎は次に取り出す言葉を選ぶ。

「俺のこと、怖がってるのか?安心しろ…もう殴りも蹴りもしねぇよ。佐吉兄ぃによ、お前に折檻するなって頭下げられちまったんだ。お前はもう兄ぃのモンなんだってよ。そうやってモタモタ食ってると苛々するけどな!」

「兄さま…」

「あん?飲み込んだら口開け。まだ半分しか食ってないんだぞ。」

「はい、兄さま。」

鈴虫は少し安心したのか泣くのを止めて素直に口を開けた。

喜一郎は残りをまた摘んでその口の中に詰め込んだ。鈴虫は喜一郎から聞いた言葉に少なからず勇気付けれ、積極的に食べる気持ちになったようだ。そしてまた喜一郎も、真面目な顔してモグモグと口を動かす鈴虫を眺めていると、長年こびり付いていた嫌悪感が少しずつ削ぎ落とされていくのを感じていた。

「鈴虫…ごめん…な。俺、お前を産んだ人の……」

「…?」

喜一郎は心が緩んだのか、うっかり口を滑らせて余計な事を言ってしまいそうになった。それは人が人と打ち解けるときに持つ、自分を理解して欲しいと言う欲求の表れだったかもしれない。今はもう喜一郎は自分が何故に鈴虫に対して高い壁を設けているのか理解しているし、その壁をほんの少しずつでも壊してゆければ、いずれは分かり合える日が来ると信じる事だって出来るのだ。
しかし、それをいざ行動に移そうとすると少々話は違う。その事に気が付いて喜一郎は口を噤んだ。もう少し時間を掛けるべきだろう。そう思い直すと喜一郎は握飯から一摘み取って、鈴虫の口に詰め込んだ。

「いや、この話は止めておこう。
 とにかくだな、今後は俺が出した飯は必ず全部食べること。いいな!食わなくても、もうお前を殴ったりはしない。だがな、もし飯を残したりしたら…佐吉兄ぃに言い付けやるからな。覚えておけよッ!」

喜一郎の言い回しはわざと子供っぽさをもたせた物言いだった。それは喜一郎に対して強張った鈴虫の心を、何とかして解かして行こうとする努力の表れであった。

「きいちろ…にぃ…」

「飲み込んだか?口開けろ。」

「あ…あのぉ…兄さま…さむい…寒いんだ…まだ明るいのに…寒いよ…」

「はぁ?バカ言うな。寒いわけねぇだろ。あ?まぁた、熱が出たのか?」

喜一郎が嫌々鈴虫の額に手を遣ると驚くほどに熱かった。喜一郎は慌てて堂を飛び出すと母屋へ駆け入った。

母屋の入り口には佐吉が家路に就く気力も無くして草鞋に足を突っかけたまま土間の壁に寄りかかって座り込んでいた。これから先ずっと、この道を辿るたびに鈴虫の無邪気な笑顔と安らぎに満ちた会話が心を締め付けるのだろう。そう思うと怖ろしくて外へ出る気になれなかったのだ。
そんな佐吉の脇を駆け抜けて喜一郎が嘉平を探しに一直線に廊下を走り抜けて行く。佐吉もそのただならない様子に驚き、草鞋を蹴飛ばして屋敷に上がると、喜一郎の後に付いて嘉平を探しに駆け出した。

嘉平は疲れ果て奥の部屋で寝転がっていた。やはりもう何年も手懸けて来なかった役を、思いがけず演じることとなって憔悴し切っていたのだ。そこへ突然襖を開けて喜一郎と佐吉が入ってきた。嘉平は二人を見るなり驚いて飛び起きた。

「親父ぃっ!鈴虫のはらわた突き破ってねぇか?ちゃんと確かめたのか!?体が異常に熱いぞ!」

「なにぃっ!?血は一滴も流れていないはずだぞ!」

嘉平は立ち上がるとすぐさま庭を突っ切って堂へと向かった。その後を喜一郎と佐吉が続く。堂の中の布団の上で鈴虫は手足を投げ出して横たわっていた。それはまるで手も足も感覚を失って、自分の物ではなくなってしまったかのようであった。

「やっぱり調子が変だな。まさか…子袋を弄りすぎたか。」

「嘉平さま、雪虫さんの時はどうだったんですか。雪虫さんの時はその後どうなったんですか。」

「同じならば…まぁ、大丈夫だろう。雪は…確か、しばらく寝込んでただけだ。」

鈴虫の目は熱で潤んで虚ろに視線を漂わせている。佐吉に向けて伸ばして腕にはまだ麻縄の痕がくっきりと赤く残っていた。震える指先が佐吉に触れる前に床に落ちる。

「さき…さ…こわい…よ…こわい…さよなら…いやだ…」

「嘉平さま、動かしても大丈夫か!?抱き寄せても大丈夫なのか!?」

嘉平は判断しかねるという感じで首を曖昧に捻った。

「すず、俺だってさよならなんて嫌だ!」

佐吉はとにかく抱きしめたいという衝動を止めることが出来なかった。熱をもった体を抱きしめ額に頬を寄せる。鈴虫は一瞬嬉しそうに口元を緩めたが、それっきり動かなくなってしまった。

嘉平が鈴虫の脱力した手首を掬い上げて脈を取る。

「大丈夫だ。」

「大丈夫じゃねぇだろッ!」

「…確かに、大丈夫じゃねぇな。佐吉兄ぃ、心配なのは分るが寝かせてやらないと…俺、水汲んでくるから頭を冷やしてやろう?な、寝かせてやろう?休むことが一番の薬だよ。」

怒りに震えて固まってしまった佐吉の指を喜一郎が一本ずつ解いてゆく。

「な、兄ぃ、休ませてやろう?」

佐吉は悲痛な面持ちで静かに鈴虫を横たえた。元を正せば軽い気持ちで下界に誘った自分の責任だし、鈴虫の喜びそうな事を言って上手く誘い出したようなものだ。どうしようもなく情けなくて、もう言葉が出なかった。
喜一郎は鈴虫の傍らから動くことの出来なくなった佐吉の代わりに水を汲み、汗の滲む額を冷やしてやる。気まずそうな嘉平は邪魔にならないように壁際に退いて様子を見守っていた。

「…すず…」

「だからよ、佐吉、本当に大丈夫だって。初めての時と同じだろう?熱出して寝込むのは鈴虫の持病みたいなもんだから、儂らは慣れたもんなんだ。二、三日様子を見るから今日は帰りなさい。ちゃんと鈴虫は儂らで面倒見るから大丈夫だ。」

「熱を出すのは持病だって言うけれど、その度に身を削って細くなってゆくじゃないですか…。」

最後は聞き取れない程に詰まった声になっていた。言葉でしか抗議出来ないのに、それでさえ仕方の無い事として受け流されてしまうのだろう。こんな状態に鈴虫がなってしまったのを、責めたい気持ちが無かったわけではない。しかし佐吉は続く言葉と苦い感情を、一緒に丸め込んで飲み込んだ。

佐吉は嘉平を真正面に見据えて頭を下げた。気持ちを読み取った嘉平は、まだ明るいうちに急いで帰れと佐吉を諭す。おそらくそれが最善だろう。

佐吉はどうしようもない気持ちを抱えたまま、嘉平と喜一郎に鈴虫を託して堂を出た。
月見草が咲く前にこの道を通り過ぎなければ、もう家路に就く事は耐えられない程に辛い事になってしまうだろう。あの月の光を湛えた鼈甲色の澄んだ瞳が、今は蒼白い瞼に隠されてしまっているのだ。はたして佐吉が次にその瞳を捉えるのはいつになるのだろうか。地に堕ちた芙蓉の花殻を踏みしだいて慣れた庭を通り過ぎて帰路に就く。屋敷の塀を越えて吹く杉の香の風が、振り返らずにお行きなさいと、力無く丸まった背中をそっと押した。

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