お伽話 

六笠 嵩也

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第一章

1-29

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一時いっとき、二人は眠ったであろうか。

堂の中は燈す明かりも無くて暗かった。ただ格子窓からは月明かりが差し込んでいるので、目が慣れてくれば案外と物の輪郭は見えてくるものだった。

どちらとも無く目を覚ました二人は、お互いの体の温もりを確かめる。佐吉の手が優しく鈴虫の頬を撫で、しっとりと湿度を持った首元へと滑る。あの日と同じ結び目が鈴虫の首元にはまだあった。一時の儀礼的なものではなく、体に刻み込むように深い意味を持って存在し続けている絆のようなもの。鈴虫が擽ったそうに小さく声を上げて笑った。
なんて幸福な一時のまどろみだろうか。愛する人の体温を感じながら目覚める事がとても尊い事だと痛感する。

「お鈴ちゃん…さぁ、行こうか。」

物音は禁物だ。屋敷の者達はすでに寝静まっているであろう。そう長い時間掛かるわけでも無し、余計な音を立てぬ為に堂の戸は開けたままにした。
芙蓉の花殻を踏まないように、小石に躓かぬように、二人は手を携え足を忍ばせる。鈴虫はもちろんのこと佐吉さえも門までの道筋など、目を瞑っていても問題無い程に慣れたものだ。

ひとたび屋敷の外へ出ると、誰にも邪魔されない自由を手に入れたような喜びを感じた。緊張感が解けて笑いが込み上げてくる。二人は抱き合いながら必死に声を殺した。

一頻ひとしきり抱き合って夜空を見上げると白く大きな月が昇っていた。視界の全ては青白く、所々に暗闇と、何かに反射する光の欠片を宿している。ここから先は鈴虫にとって生まれて初めて見る世界が広がっているのだ。大きく見開いた目に月の光が差し込んで美しく輝いているた。鈴虫には何もかもが新しい。胸に大きく息を吸い込み、隔離されて閉ざされた今までの人生を取り戻すかのように、僅かに与えられた時間を満喫しているようだった。

歩き慣れない鈴虫の歩みに合わせて二人は手を繋ぎ歩いてゆく。

「お鈴ちゃん、菩薩様の護符を色違いでいくつか作りなよ。俺と会った日ごとに俺が結び直したいんだ。」

「うん、湯浴みするときここだけ乾かなくてちょっと困ってたんだ。そうだね、そうしよう!
 ね、さきっさん、あのサラサラ言うのは何?」

鈴虫が指差す先には水田が広がっていた。半ばかしいだ未だ青い穂が夜風を受けながら黒い水面に影を落としている。

「あれはね、米だよ。今はまだ緑色だけれど、もう一月もすれば金色に変わり始めるんだ。いつもお鈴ちゃんに会いに来る前は、ここらの田んぼの世話をして、俺もあれを育てているんだよ。刈り取りが終わったら一番にお鈴ちゃんに届けるよ。お鈴ちゃんが俺が作った米をたくさん食べてくれたら嬉しいなぁ。」

「はいっ!さきっさんの育てたお米、ちゃんと食べます!ふふっ…ありがとね、さきっさん!」

鈴虫が笑うたびに佐吉に喜びが増えてゆく。この子に食べさせるという目標が有れば、今以上に仕事に精を出すことが出来るのだ。佐吉は誓いの意味を込めて繋いだ手を固く握った。

「ね、さきっさん、あのユラユラは何?」

「あぁ、あれは月見草の花が咲いているんだよ。綺麗だねぇ…。」

「夜にも花って咲くんだぁ…知らなかったよ。あんなに青白く…月に照らされて…綺麗だねぇ…」

鈴虫が足を止める。その背中を佐吉が抱き包める。伝わる体温を共有しあえば、同じ事を思っていると確信出来た。他愛も無い会話を誰にも気兼ねせず満喫できる幸せ。出来るだけたくさん集めよう。そしていつまでも忘れず、心の中に大切にしまって宝物にするのだ。月は沈まず、風はそよぎ続け、二人は一緒…ずっとこのまま時間が止まってしまえば良いと心から望んだ。

しかし、それは叶わぬこと。夜明けまでの時間は限られているのだ。その限られた時間の中で前へと進まなければならない。
佐吉がそっと背中を押して道の先へと促した。

鈴虫がその手を止める。

「さきっさん…う…ん…ちょっと…あし、いたい…な。」

「どれ、見せて。」

鈴虫の足元にしゃがんで診てやると、どうやら鼻緒で擦れたのか皮が捲れ上がって出血しているようだ。他に傷が無いか確かめようと、草履を脱がせて触れてみると鈴虫の足の裏は信じられないほど柔らかであった。おそらく生まれて此の方硬い所を歩き回ることなどが全く無い生活をしてきているからであろう。道程は未だ丁度半分くらいの所だが、もう歩くのは無理だろう。

「あぁ…血、出てる…痛かっただろう?」

「これっぽっちしか歩けないなんて…残念な足だろ?」

「残念?違うよ、可愛いお姫様の御々足おみあしだ。お姫様を歩かせるわけにはいかねぇ。
 さぁ、俺の可愛いお姫様、背中に負ぶさりなよ。」

佐吉は鈴虫に背を向けると易々と背負い上げる。まるで羽が生えているのではないかと思えるほどに軽い体だった。

「こら!お鈴ちゃん、お妙さんよりちょっと軽いぞ。こりゃぁ、いかんなぁ。」

「なぁんでお婆様と比べるの!おらのほうが背丈は大きいんだぞッ!」

背中で鈴虫が口を尖らせている。

月見草の群生がいつしかすすきに代わり、長く伸びた細い葉とこうべもたげた金色の穂が道の端を覆うと、もうすぐ佐吉の家に辿りつく。柿の木を目印に道を逸れれば母屋と作業小屋がある筈だ。

「お鈴ちゃん、ここだよ。お屋敷よりだいぶ小さいだろ?」

佐吉は家の前まで来ると背中から鈴虫を下ろした。
家の戸締りはされている。普通に考えて誰もが眠っているような時間なのだから当たり前だ。佐吉が小さく声を掛けてみるが返事は無い。もう一度、先程よりも少し大きな声で呼びかけてみた。やはり返事が無いので諦めるべきだろうか。思案していると家の中から草鞋が土間を摺って進む音が微かに聞こえた。そして、一呼吸おいて家の戸が開くと親父が寝呆け眼で顔を出した。

「親父、夜分遅くにすまない!でもこの時間じゃないと来れないんだ。起こしてごめんよ。」

「佐吉…どうした?まずいことでも仕出かしてお屋敷を追い出されたか?」

「いやぁ…そう言うわけじゃないんだが…いま、拙いことしてる。人目に付くと拙いんだ。とにかく早く中に入れてくれ。」

囲炉裏には細く置き火があり、仄かに明るかった。どうやら何かを煮炊きして夕餉は食べてくれていたようだ。

「おっ、その子は誰だ。まっ、まさか!」

佐吉の父親は鈴虫の髪型で忌み子であることが直ぐにわかった。前髪が子供のように目刺しに揃えられているのに、後は大人のように長く伸ばしてある。こんな中途半端な髪型をしているのは逃げ出した時に一目で判別出来るようにするためだ。

「そうだ。親父、この子が俺が好きになった子だ。お鈴ちゃんって言うんだよ。」

「すっ、すずと申します。どうか宜しくお願い申し上げます。」

鈴虫は恥ずかしそうに頬を赤らめながら丁寧に頭を下げた。
しかし、何故二人はここまで来たのだろうか。危険を犯しているという覚悟と自覚は持っているのだろうか。まずいことをしているのは理解しているのだろうか。見つかったらただでは済まされない筈だ。
まずは親として、どういった意向なのか、簡単に叱りつけずに二人の話を聞かなければならないだろう。

「お鈴さん、まぁ、上がって。こっちに来なさい。佐吉に好きな人がいるのは何となく勘付いていたんだよ。やっと会えましたねぇ。まぁ、別嬪べっぴんさんだこと!」

鈴虫は痛む足を引き摺りながら板の間に上がった。

「おや?お前さん、まさか切られているのかい!?」

「え?親父、何だいそりゃ。鼻緒で足が擦り剥けちまっただけだよ。」

「あぁ…いやぁ、足を引き摺っていたから体が不自由なのかと思ったよ。こっちへ来なさい。怪我してんだったら手当てしてやろう。」

そう言うと行李から洗い晒しの手拭いを一枚出して、鈴虫の為に裂いて傷口の手当をしてくれた。

「親父、母さんにもご報告させてくれ。」

「あぁ…そう言うことか。さ、こっちへ寄りなさい。お鈴さん、初めまして。こちらが佐吉の母にございます。姉もいるのですが、嫁いだのでここには居りません。どうぞ宜しくお願いいたします。」

壁際の小さな経机の上の位牌の前に座らされた。緊張して固くなった鈴虫の肩を佐吉は後から優しく抱いた。鈴虫は慌てて三つ指を付いて頭を下げる。そして何度も心の中で練習してきた言葉を思い切って声に出した。

「不束者ですが宜しくお願いいたします。」

失敗しないようにと、いかにも頑張って言い切った感じが可愛らしくて、佐吉と親父は小さな背中を慈しみの眼差しで見守った。

「さぁ、ご挨拶が済んだよ。これでお鈴さんはうちの家族だ。嘉平殿が良いと言わなくても、佐吉と俺とここに居る佐吉の母さんはお鈴さんを佐吉の嫁にする。内輪だけ内緒の決め事になるけれど、それでもいいね?」

鈴虫には想いも寄らない嬉しい言葉であった。佐吉とご両親に認めて貰えればそれで十分だ。鈴虫は薄暗い家の中に灯を燈すよな笑顔で「はい!」と返事をした。

「では、人目に付くと嘉平殿に叱られるだろうから、急いでお屋敷に戻りなさい。くれぐれも人に見られないように気をつけて!お鈴さん、会えて良かったよ。」

鈴虫も会えて嬉しかった。しかし嬉し過ぎて胸が詰まって言葉が出てこなかった。只々これ以上無い幸せな笑みを湛えて何度も頷くだけだ。

素直さと無垢な笑顔…少し幼く拙いが、これが佐吉が愛した人。
あの幸せそうな笑みで佐吉の人生を照らしてくれるというのならば、親としては願ってもないことだ。


しかし…現実に目を向けると、あの子が婚家を訪れてくれるのはこれが最初で最後になるのであろう。
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