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第一章
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鈴虫はまだ熱っぽいのか、だらっと寝転んでいた。
二人に気が付くと崩れた襟元を直しながら嬉しそうな顔を見せたが、口元がまだ紫色なのを思い出して布団代わりに体に掛けていた単衣の中に潜り込んだ。
まだ頭に白い布を巻いたままだったが、顔の腫れは少し引いてきたようだ。
「鈴虫、佐吉が見舞いに来てくれたよ。分かるかい?」
「さきっ…さん?…って…いうの?あ、ありがとう…ございま…した。」
「あぁ、ちゃんと名乗ったことは無かったね。佐吉って呼んでいいよ。まだ熱っぽい…でも話せるようになって良かったね。」
佐吉が単衣の中に手を差し入れて手を握ると、鈴虫はひょっこりと目元まで顔を出した。指先から優しい気持ちが伝わってくるみたいで安心する。自然と二人の間に柔らかな空気が生まれた。他の者には見せたことの無い眼差しをしている事に鈴虫自身はきっと気付いていないだろう。
嘉平は二人の雰囲気に手応えを感じた。
「薬、ちゃんと飲めているかい?まだならば、また抱っこしてあげようか?」
「…うぅん、お薬って変な味がするんです。だから…ちょっと…それに…飲むとおしっこ出て…痛いし…。」
先日の醜態を思い出して恥ずかしくて堪らないのか、せっかくの笑顔を萎ませて目を逸らしてしまった。
「これ!鈴虫、そんな事を言っているから熱が引かないんだよ。たくさん飲んで体の毒を外に出さなきゃ治らんぞ。」
傍で話を聞いていた嘉平が口を挟んだ。そして、ニヤッと笑って席を立つと、すぐに湯飲みに薬湯を満たして運んで来た。佐吉には嫌な顔をしないことをいい事に、苦手な薬を飲ませてしまおうという算段だ。早速、二人は体の下に手を回して抱き起こそうとした。
しかし、意外にも鈴虫はそんな二人の事を首を横に振って拒む。
「あっ…おら…髪、汚い…近くに寄ると臭う…。」
佐吉は構わず腕の中に抱き起こし、頬に掛かる髪を指で優しく払う。見上げてくる瞳の中に自分の微笑を湛えた顔を見た。唇に人差し指を添えて続く言葉を閉じ込める。
「おかしな事を気にするんだね?怪我人がそんなこと気にしたりしちゃいけないよ。さぁ、美味しい物があるんだよ。葛湯にするかい?甘い瓜にするかい?お薬を飲み終えたら一緒に食べよう。」
鈴虫は少し戸惑ったようではあったが、にこっと笑うとコクコクと頷いた。
目の前に出された湯飲みの中には、嗅ぎなれない妙な匂いの茶色い液体が、なみなみと注がれている。これを全部飲み込むのかと思うと溜息が出る。それでも腕の中に抱き込まれてしまっているので、ここまで来ると逃げるわけにも行かない。嘉平はもうここまで来て飲まないという選択肢は無いだろうと判断した。この場は二人に任せよう。二人に瓜を厨に取りに行くと告げて席を外した。
ほんの僅かな二人だけの時間。
「お鈴ちゃん、俺、もう一度会いたいって思ってたんだ。」
佐吉は鈴虫にだけ聞こえるように声を潜めて想いを告げた。鈴虫は嬉しそうな顔をして、その指先で佐吉の唇の上の小さな黒子に触れる。あの日、こちらを見て微笑んでくれた口元を忘れていないと伝えたいのだ。
「おらのこと…おぼえて…いて…くれたんだ…うれし。でも、絶対に内緒ね。」
「そうだね。お鈴ちゃんと俺、二人だけの秘密にしておこうね。」
二人だけの秘密…それは少しくすぐったい言葉。鈴虫がくすくすっと笑った。
佐吉はふと思った。自分は昔からそれほど人との繋がりに積極的ではなかったために、年頃の娘とは目も合わせる事も無く過ごして来た。しかし、鈴虫とは初めて出会った日から不思議と心が溶け合うように自然体でいられるのは何故だろう。同性だからだろうか。否、初めて出会った時は少女だと思っていた。どうやら鈴虫を前にすると、佐吉には男か女かなんてことはあまり重大なことでは無くなってしまっているようだ。ただ、腕の中にいるこの人が愛おしく思えて仕方が無い。ただそれだけだ。
「口移しにしてあげようか?」
「だぁめ、これ、不味いから。さきっさんにはあげない。」
そう言うと鈴虫は息を詰めて一気に薬湯を飲み下した。そして、さも大仕事を遣り遂げたかのように大きく息を吐いてからニコッと笑った。
佐吉はそんな鈴虫を愛しげ見守っていたが、その仕草に理性が呆気無く吹き飛んでしまった。耐え切れない衝動に駆られ唇を合わせてしまうと、想像もしていなかった蕩けるような柔らかさに触れる。舌先で柔らかな唇を割って歯列をそっとなぞってみる。佐吉にとって自分以外の誰かの身体の中を触れるのは初めての事だ。口にしたことの無い奇妙な味が流れ込んで来た。これが今、この子が乗り越えた苦痛の味。全部は背負えないまでも、少しは分けてくれてもいいのに…このまま溶け合ってしまえれば良いのに…なんとなく切ない気持ちになった。
「…ほんと、不味いね。お鈴ちゃん、がんばったね…。…あっ!ごっ、ごめん!痛かったよね…つ、つい…ごめん。」
鈴虫がびっくりした顔で固まってしまっているではないか。佐吉は拙いことをしてしまったと狼狽した。
そうこうするうちに襖の向こうから声が掛かった。
「さてさて、お二人さん?お口直しのご用意ができましたよ。」
鈴虫は嘉平の声でやっと我に返った。
佐吉は小さめに切られた真桑瓜を、指で摘んで渋くなった口に詰め込んであげた。鈴虫の舌が甘い果汁を求めて佐吉の指先をチロチロと舐める。鈴虫は何故だか先程よりも上機嫌だ。
「ふふっ、くすぐったいよ。」
「ごめん…なさい…美味しいね…これ、甘いね。さきっさんも食べてね。」
「お鈴ちゃんが先に軟らかいところを食べれるだけ食べて。」
鈴虫はコクリと頷くと、パッと口を開いた。
「ひな鳥の様だな。」嘉平が傍から口を挟んだ。
口に放り込んで貰えるのが楽しいのか、何か良いことでもあったのか、この日はいつもよりも食が進んでいるようだ。食の細い鈴虫が楽しそうに食べているのは、長年一緒に暮らしている嘉平から見ても珍しい事だった。嘉平としてはこの際だからもう少し身になる物も食べさせたいとも思ったが、手のひらに乗る程の大きさの真桑瓜を一人で平らげて満腹のご様子では仕方が無い。
「鈴虫や、腹がふくれたら少し眠りなさい。傷は寝ている間に段々と治ってゆくもんだよ。」
嘉平に促されて静かに鈴虫を横たえる。
「お鈴ちゃん、ゆっくり休むんだよ。また、会いに来るからね。」
「また…ね。きっとね!きっと…会いに来てね。」
お鈴ちゃん…か…、鈴虫はそんな風に呼ばれて、少しこそばゆい様な感じがしていた。胸の奥の方に、ポッと小さな灯が点った気がする。鈴虫と呼ばれるよりも人間味があるような、親しみがこもっている様な、そんな気がしてとても嬉しい。そしてきっと、そう呼んでくれるのは、この先も佐吉ただ一人だけだろう。
鈴虫は思わず絡めた指に力を込めた。少しの間だけ体温を確認するように目を閉じる。そして、名残惜しそうに佐吉の手を離した。
嘉平に見送られて佐吉が屋敷を後にする。
一人残された鈴虫は布団に横たわり、閉ざされた襖をぼんやりと見つめていた。
あの人の名前も知らなかった。でも、ずっと心の中であの人の温かい手を待っていたんだ。本当はうんと可愛い着物を着て、髪も綺麗に結い上げて、晴れ姿で再会したかった。それなのに、身を清めてもいない姿で再会してしまった。これは残念だが心の中で嘆くしかない。
でもあの人は、どうしようもなくみすぼらしい身形の自分を抱きしめて口付けしてくれた。あの人の腕の中は自分よりも一回り大きくて、そして優しくて、不思議と安心できる場所なのだ。
「おっきな手…温かぁい…なっ」流れ落ちる暖かな涙をそのままにして、鈴虫は唇をそっと指先でなぞりながら、まだ幼かった雪の日を噛み締めるように思い出していた。
暫くすると嘉平が部屋に戻ってきた。鈴虫は泣き顔を見られないように慌てて背を向けた。時折しゃくり上げる小さな背中を労わる様に嘉平は優しく話し始めた。
「もしかして、前に佐吉に会った事があるのかい?」
「へっ!?」
二人だけの秘密。嘉平にも本当のことは話したくない。人知れず出会った大切な思い出を洗い浚い話さなければならなくなるのは絶対に厭だ。大切なものを守りたくて鈴虫は咄嗟に嘘を吐いて誤魔化した。
「しっ、知らない…でも、優しい人だなって…思ったの。」
「あぁ、そうだよ。佐吉は心根の優しい男だよ。まぁ、喜一郎のようなことは絶対にしないだろうな。」
鈴虫はコクコクと頷いた。
「鈴虫よ、佐吉にならば肌を許せるかい?お前が嫌でなければ、佐吉が喜一郎の代わりをするって言っているんだが。」
それは思っても無い申し出であった。不安と期待が入り混じり、一瞬で色々な事が頭の中を駆け巡ってしまう。
「…体…傷だらけで汚いの、見られちゃう?……お化けみたいでしょ?綺麗じゃないから嫌われるんじゃ…気がかり…どうしよぅ…どうしよぅ…。」
鈴虫は震えながら浴衣の中で体を丸めて頭まで潜り込んでしまった。呆れるわけではないが、思わぬ反応に嘉平は苦笑いした。
「はぁ?もう散々見られてるだろう?もちろん痣が治ったらで構わないよ。だが、もうあまり時間が無いのは分かっているね?もし、佐吉の事が嫌だと言うならば…。」
「さきっさん!……に、お願いして…ください。」
尻すぼみの小さな声が、丸まった浴衣の中から聞こえた。
「薬をちゃんと飲まないと肌は綺麗に治らないよ。傷があるようでは佐吉も触るのを躊躇うだろう?可愛がって貰えないかも知れないぞ。」
「うぅ…ん……飲みます…くっ、ください。」
嘉平は、してやったりとほくそ笑んだ。
二人に気が付くと崩れた襟元を直しながら嬉しそうな顔を見せたが、口元がまだ紫色なのを思い出して布団代わりに体に掛けていた単衣の中に潜り込んだ。
まだ頭に白い布を巻いたままだったが、顔の腫れは少し引いてきたようだ。
「鈴虫、佐吉が見舞いに来てくれたよ。分かるかい?」
「さきっ…さん?…って…いうの?あ、ありがとう…ございま…した。」
「あぁ、ちゃんと名乗ったことは無かったね。佐吉って呼んでいいよ。まだ熱っぽい…でも話せるようになって良かったね。」
佐吉が単衣の中に手を差し入れて手を握ると、鈴虫はひょっこりと目元まで顔を出した。指先から優しい気持ちが伝わってくるみたいで安心する。自然と二人の間に柔らかな空気が生まれた。他の者には見せたことの無い眼差しをしている事に鈴虫自身はきっと気付いていないだろう。
嘉平は二人の雰囲気に手応えを感じた。
「薬、ちゃんと飲めているかい?まだならば、また抱っこしてあげようか?」
「…うぅん、お薬って変な味がするんです。だから…ちょっと…それに…飲むとおしっこ出て…痛いし…。」
先日の醜態を思い出して恥ずかしくて堪らないのか、せっかくの笑顔を萎ませて目を逸らしてしまった。
「これ!鈴虫、そんな事を言っているから熱が引かないんだよ。たくさん飲んで体の毒を外に出さなきゃ治らんぞ。」
傍で話を聞いていた嘉平が口を挟んだ。そして、ニヤッと笑って席を立つと、すぐに湯飲みに薬湯を満たして運んで来た。佐吉には嫌な顔をしないことをいい事に、苦手な薬を飲ませてしまおうという算段だ。早速、二人は体の下に手を回して抱き起こそうとした。
しかし、意外にも鈴虫はそんな二人の事を首を横に振って拒む。
「あっ…おら…髪、汚い…近くに寄ると臭う…。」
佐吉は構わず腕の中に抱き起こし、頬に掛かる髪を指で優しく払う。見上げてくる瞳の中に自分の微笑を湛えた顔を見た。唇に人差し指を添えて続く言葉を閉じ込める。
「おかしな事を気にするんだね?怪我人がそんなこと気にしたりしちゃいけないよ。さぁ、美味しい物があるんだよ。葛湯にするかい?甘い瓜にするかい?お薬を飲み終えたら一緒に食べよう。」
鈴虫は少し戸惑ったようではあったが、にこっと笑うとコクコクと頷いた。
目の前に出された湯飲みの中には、嗅ぎなれない妙な匂いの茶色い液体が、なみなみと注がれている。これを全部飲み込むのかと思うと溜息が出る。それでも腕の中に抱き込まれてしまっているので、ここまで来ると逃げるわけにも行かない。嘉平はもうここまで来て飲まないという選択肢は無いだろうと判断した。この場は二人に任せよう。二人に瓜を厨に取りに行くと告げて席を外した。
ほんの僅かな二人だけの時間。
「お鈴ちゃん、俺、もう一度会いたいって思ってたんだ。」
佐吉は鈴虫にだけ聞こえるように声を潜めて想いを告げた。鈴虫は嬉しそうな顔をして、その指先で佐吉の唇の上の小さな黒子に触れる。あの日、こちらを見て微笑んでくれた口元を忘れていないと伝えたいのだ。
「おらのこと…おぼえて…いて…くれたんだ…うれし。でも、絶対に内緒ね。」
「そうだね。お鈴ちゃんと俺、二人だけの秘密にしておこうね。」
二人だけの秘密…それは少しくすぐったい言葉。鈴虫がくすくすっと笑った。
佐吉はふと思った。自分は昔からそれほど人との繋がりに積極的ではなかったために、年頃の娘とは目も合わせる事も無く過ごして来た。しかし、鈴虫とは初めて出会った日から不思議と心が溶け合うように自然体でいられるのは何故だろう。同性だからだろうか。否、初めて出会った時は少女だと思っていた。どうやら鈴虫を前にすると、佐吉には男か女かなんてことはあまり重大なことでは無くなってしまっているようだ。ただ、腕の中にいるこの人が愛おしく思えて仕方が無い。ただそれだけだ。
「口移しにしてあげようか?」
「だぁめ、これ、不味いから。さきっさんにはあげない。」
そう言うと鈴虫は息を詰めて一気に薬湯を飲み下した。そして、さも大仕事を遣り遂げたかのように大きく息を吐いてからニコッと笑った。
佐吉はそんな鈴虫を愛しげ見守っていたが、その仕草に理性が呆気無く吹き飛んでしまった。耐え切れない衝動に駆られ唇を合わせてしまうと、想像もしていなかった蕩けるような柔らかさに触れる。舌先で柔らかな唇を割って歯列をそっとなぞってみる。佐吉にとって自分以外の誰かの身体の中を触れるのは初めての事だ。口にしたことの無い奇妙な味が流れ込んで来た。これが今、この子が乗り越えた苦痛の味。全部は背負えないまでも、少しは分けてくれてもいいのに…このまま溶け合ってしまえれば良いのに…なんとなく切ない気持ちになった。
「…ほんと、不味いね。お鈴ちゃん、がんばったね…。…あっ!ごっ、ごめん!痛かったよね…つ、つい…ごめん。」
鈴虫がびっくりした顔で固まってしまっているではないか。佐吉は拙いことをしてしまったと狼狽した。
そうこうするうちに襖の向こうから声が掛かった。
「さてさて、お二人さん?お口直しのご用意ができましたよ。」
鈴虫は嘉平の声でやっと我に返った。
佐吉は小さめに切られた真桑瓜を、指で摘んで渋くなった口に詰め込んであげた。鈴虫の舌が甘い果汁を求めて佐吉の指先をチロチロと舐める。鈴虫は何故だか先程よりも上機嫌だ。
「ふふっ、くすぐったいよ。」
「ごめん…なさい…美味しいね…これ、甘いね。さきっさんも食べてね。」
「お鈴ちゃんが先に軟らかいところを食べれるだけ食べて。」
鈴虫はコクリと頷くと、パッと口を開いた。
「ひな鳥の様だな。」嘉平が傍から口を挟んだ。
口に放り込んで貰えるのが楽しいのか、何か良いことでもあったのか、この日はいつもよりも食が進んでいるようだ。食の細い鈴虫が楽しそうに食べているのは、長年一緒に暮らしている嘉平から見ても珍しい事だった。嘉平としてはこの際だからもう少し身になる物も食べさせたいとも思ったが、手のひらに乗る程の大きさの真桑瓜を一人で平らげて満腹のご様子では仕方が無い。
「鈴虫や、腹がふくれたら少し眠りなさい。傷は寝ている間に段々と治ってゆくもんだよ。」
嘉平に促されて静かに鈴虫を横たえる。
「お鈴ちゃん、ゆっくり休むんだよ。また、会いに来るからね。」
「また…ね。きっとね!きっと…会いに来てね。」
お鈴ちゃん…か…、鈴虫はそんな風に呼ばれて、少しこそばゆい様な感じがしていた。胸の奥の方に、ポッと小さな灯が点った気がする。鈴虫と呼ばれるよりも人間味があるような、親しみがこもっている様な、そんな気がしてとても嬉しい。そしてきっと、そう呼んでくれるのは、この先も佐吉ただ一人だけだろう。
鈴虫は思わず絡めた指に力を込めた。少しの間だけ体温を確認するように目を閉じる。そして、名残惜しそうに佐吉の手を離した。
嘉平に見送られて佐吉が屋敷を後にする。
一人残された鈴虫は布団に横たわり、閉ざされた襖をぼんやりと見つめていた。
あの人の名前も知らなかった。でも、ずっと心の中であの人の温かい手を待っていたんだ。本当はうんと可愛い着物を着て、髪も綺麗に結い上げて、晴れ姿で再会したかった。それなのに、身を清めてもいない姿で再会してしまった。これは残念だが心の中で嘆くしかない。
でもあの人は、どうしようもなくみすぼらしい身形の自分を抱きしめて口付けしてくれた。あの人の腕の中は自分よりも一回り大きくて、そして優しくて、不思議と安心できる場所なのだ。
「おっきな手…温かぁい…なっ」流れ落ちる暖かな涙をそのままにして、鈴虫は唇をそっと指先でなぞりながら、まだ幼かった雪の日を噛み締めるように思い出していた。
暫くすると嘉平が部屋に戻ってきた。鈴虫は泣き顔を見られないように慌てて背を向けた。時折しゃくり上げる小さな背中を労わる様に嘉平は優しく話し始めた。
「もしかして、前に佐吉に会った事があるのかい?」
「へっ!?」
二人だけの秘密。嘉平にも本当のことは話したくない。人知れず出会った大切な思い出を洗い浚い話さなければならなくなるのは絶対に厭だ。大切なものを守りたくて鈴虫は咄嗟に嘘を吐いて誤魔化した。
「しっ、知らない…でも、優しい人だなって…思ったの。」
「あぁ、そうだよ。佐吉は心根の優しい男だよ。まぁ、喜一郎のようなことは絶対にしないだろうな。」
鈴虫はコクコクと頷いた。
「鈴虫よ、佐吉にならば肌を許せるかい?お前が嫌でなければ、佐吉が喜一郎の代わりをするって言っているんだが。」
それは思っても無い申し出であった。不安と期待が入り混じり、一瞬で色々な事が頭の中を駆け巡ってしまう。
「…体…傷だらけで汚いの、見られちゃう?……お化けみたいでしょ?綺麗じゃないから嫌われるんじゃ…気がかり…どうしよぅ…どうしよぅ…。」
鈴虫は震えながら浴衣の中で体を丸めて頭まで潜り込んでしまった。呆れるわけではないが、思わぬ反応に嘉平は苦笑いした。
「はぁ?もう散々見られてるだろう?もちろん痣が治ったらで構わないよ。だが、もうあまり時間が無いのは分かっているね?もし、佐吉の事が嫌だと言うならば…。」
「さきっさん!……に、お願いして…ください。」
尻すぼみの小さな声が、丸まった浴衣の中から聞こえた。
「薬をちゃんと飲まないと肌は綺麗に治らないよ。傷があるようでは佐吉も触るのを躊躇うだろう?可愛がって貰えないかも知れないぞ。」
「うぅ…ん……飲みます…くっ、ください。」
嘉平は、してやったりとほくそ笑んだ。
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