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二章・もどかしい二人
43.水仙と野茨(視点・レイモンド)
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「今なんと……?」
聞き間違いだろうか。私を再び里へ迎え入れると言ったような気がするのだが。
「親のないあなたがなぜ里長の嫡流のわたくしと婚姻を結べたか。それはあなたの祖父がわたくしの祖父と懇意であったからです。あなたやわたくしが産まれた時にはもう鬼籍に入られていたそうなので面識はないでしょうが……。もしあなたがわたくしに懸想していなくとも、ゆくゆくはわたくしたち二人は夫婦になることになっていたそうです。あなたはあなた個人の性格が原因で同胞に冷たく接せられたと思っているのでしょうけど、突然現れたあなたが将来の里長の後継者になるであろうことに嫉妬している者も少なからず居たせいなのですよ」
そうだったのか。嫌悪以外のエルフの感情表現はあまりに起伏が乏しくてわからなかったし、私は自分の親類があの里にいたかどうかすらも教えてもらったことはなかったのだが。
「あなたが里長と話を通すこともなく書置き一つで出て行ってしまったため、わたくしは未だ里ではあなたの妻であるという扱いのまま発情期を迎えることになるのです。今回、あなたがここにいるかもしれないとわかって、あなたと話をするようにと里長から言いつけられ、わたくしはここに来ました。あなたは里に帰るつもりがあるのか、わたくしと婚姻を続ける気があるのか。それともどちらもないのか。わたくし自身がその答えを聞いてくるようにと」
私は昨日のツブラさんとの話を思い出してきた。その時私はシルキィ君のことしか考えずに聞いていたが、今まで逃げ続けて来たツケを清算するチャンスを逃さないように生きろと言われたその言葉のとおりになるのがこんなにすぐだったとは。
もし水仙の娘が私を訪ねて来たのが育ての親のロスアスタ氏に会う前だったら。私はどう思っただろうか。シルキィ君に打ち明けた通り、心のどこかで尋常のエルフとして再び里に受け入れられたいという思いは燻っていた。それに決着をつけた今になって、その願いが叶えられるかもしれないと。
「わたくしには里長の血を引く嫡子を産む義務があります。あの時のわたくしはまだ少女で、取り乱しはしましたけれど、里長になる予定のあなたがあれ以上身の置き場のなくなるようなことにならないように里長や古老たちで話し合う手はずになっていたはずなのです。そうなれば、わたくしも時間をかけてあなたを受け入れていったでしょう。その結論が出る前にあなたは出て行ってしまいましたが」
「そうだったのですか……」
もし今、私がエルフの里に戻ったとして、私はそこでやっていけるだろうか。否だ。出て行ってすぐだったらもしかしたらなんとかなっていたかもしれない。しかしローパーに呑まれ、狂化を植え付けられた今の私があそこでやって行けるはずがない。狂おしい欲望の炎に焼かれ、暴れだし、行く末は幽閉が関の山だろう。水仙の娘の言葉は魅力的に聞こえるが、そこには里の都合ばかりで、私が自分らしく生きられる道ではないと思う。
「聞かせてください、暁の子。あなたは、どうするのですか?」
行けるわけもない。水仙の娘がこの街で窒息しそうになっているのと同様、私もあそこでは呼吸ができないのだから。だが、それよりも、なによりも、私は……。
「申し訳ありません。私は里に戻る気はありません。あなたの夫であることも、放棄します。あなたの時間を徒に奪ってしまって、本当にごめんなさい」
風の精霊が騒いで空気の流れを起こし、私と彼女の髪を揺らした。面白がっているのだ。彼らはいつでも面白がっている。他のエルフより揺れやすい心を持った私が面白いから、いつも力を貸してくれているのだ。里を出ても森の中と同じ威力で精霊魔法が使えるのはそのせいなのでいつもはありがたいと思うが、今ばかりは黙っていて欲しいと思った。
「……理由を。聞かせてもらってもよいでしょうか。その権利がわたくしにはあるはずです」
私の欲望や、呼吸の話をしても彼女は納得できないだろうと思った。それが理解できていれば、私は里を出ることはなかったのだろうから。それに、私にとってもその理由は大きなものではあるけれど、二の次でもあるからだ。私は……、私は……、そうだ。
「私の胸の水仙はもはや咲いてはいません。そこには今、野茨の花が蕾をつけています。私はこの花を見守っていきたいのです。それが理由です」
エルフは、植物に例えて愛を囁くことが多い。彼女も生粋のエルフなら、人間のように率直に告げるよりもこの言い方のほうが伝わると思った。
「あなた……あなたが。あなたが自分で水仙の花を抜いたというのに、あなたは何をそんなに夢見るような瞳をしているのですか。それではまるで、わたくしがあなたを全く愛していなかったとでも言うようではないですか」
水仙の娘は眉根を微かに寄せて、私のことを責めるように見上げていた。いや、実際責めているのだ。そして、私はそれをまっすぐ受け入れるべきだ。私がエルフたちを勝手だと思うように、彼女にしてみれば私も随分と勝手なことを言っていると思うから。
「周りになじめず一人で泣いていたあなたに寄り添っていたのはわたくしです。シロツメクサの冠を作った日を覚えていますか。テントウムシを指先から飛び立たせた日を忘れてしまいましたか。あなたを想って流した涙がひとしずくもなかったと思っているのですか」
無表情に見える彼女の目には悲しみと怒りが確かに湛えられていた。彼女の言うことはわかる。しかし、三十五年はエルフにとっても、一瞬とは言えない。花が枯れるのには十分すぎる時間だった。私を想っているだけで、時が来るまで待っているだけで蘇る花などないのもまた、変えられない事実だ。
「水仙の娘。私には……今。一緒に歩いて行きたい人がいるのです。それはあなたではない。わかってください」
しっかりと相手の目を見据えて、今度は人間らしく告げた。水仙の娘の顔からは表情が消え去り、怒っているのか悲しんでいるのか、私には読み取ることができなかった。彼女は私の隣から立ち上がり、私を見下ろす。
「こんな……侮辱を受けたのは初めてです。暁の子」
「申し訳ありません。詫びならいくらでも入れましょう。それでも、私は戻ることはありません」
「それでは……二人を祝福してくれた精霊に謝ってください……。土の精霊だけでよいです……。地面に口づけて……詫びてください」
精霊に詫びるのは、エルフ流のけじめのつけ方の一つだ。土の精霊に詫びるのは、屈辱をそそぐ意味があり、最も重いものだ。それでも、それで彼女が納得するのならいくらでも口づけよう。私は膝をつき、口づけをするために背を折り曲げ、唇を地面に近づけた。
「……やめて」
小さな手が、私の肩に置かれ、私の体を止めた。
「やめて、やめなさい」
「……水仙の娘?」
彼女は震える声で、絞り出すように言う。
「やめてよ。私がみじめに見えるじゃない……! どうして断らないの」
朝露のように光る涙が、青い双眸からみるみる溢れて、私の額にぽたぽたと降り注いだ。自分以外のエルフが泣くところを初めて見た。とても不思議なものを見たような気がした。
「……ここにいたのは別の里のエルフだったことにします……その人から、暁の子は土に還ったと……そう聞いたと。あなたには会えなかったということにします。それで、それでいいのですよね?」
「ええ。そうしてください……ありがとうございます」
泣いている彼女に私がかけていい言葉などありはしないと、そう思った。だから、忘れてくれることに対しての礼だけを告げる。
「さようなら。もう二度と会うことはないと思うけれど。幸せになってくれるといいと思います。暁の子」
「さようなら。あなたもどうか幸せに。水仙の娘」
彼女の足音は、私の横を静かに通り過ぎて、やがて足早に遠ざかって行った。私は、眼下に広がる街をただ眺めていた。
「ああ、そうか。そうなんだな……」
私は今まで何を意地になっていたんだろうか。自分の言う通り、私の心にはもう新しい花が根を下ろしているのだ。口にして言ってみてはじめてそのことが自覚できた気がした。だからもう一言。自分に言い聞かせるように、私は口を開いた。
「私は、シルキィ君を愛しているんだ」
聞き間違いだろうか。私を再び里へ迎え入れると言ったような気がするのだが。
「親のないあなたがなぜ里長の嫡流のわたくしと婚姻を結べたか。それはあなたの祖父がわたくしの祖父と懇意であったからです。あなたやわたくしが産まれた時にはもう鬼籍に入られていたそうなので面識はないでしょうが……。もしあなたがわたくしに懸想していなくとも、ゆくゆくはわたくしたち二人は夫婦になることになっていたそうです。あなたはあなた個人の性格が原因で同胞に冷たく接せられたと思っているのでしょうけど、突然現れたあなたが将来の里長の後継者になるであろうことに嫉妬している者も少なからず居たせいなのですよ」
そうだったのか。嫌悪以外のエルフの感情表現はあまりに起伏が乏しくてわからなかったし、私は自分の親類があの里にいたかどうかすらも教えてもらったことはなかったのだが。
「あなたが里長と話を通すこともなく書置き一つで出て行ってしまったため、わたくしは未だ里ではあなたの妻であるという扱いのまま発情期を迎えることになるのです。今回、あなたがここにいるかもしれないとわかって、あなたと話をするようにと里長から言いつけられ、わたくしはここに来ました。あなたは里に帰るつもりがあるのか、わたくしと婚姻を続ける気があるのか。それともどちらもないのか。わたくし自身がその答えを聞いてくるようにと」
私は昨日のツブラさんとの話を思い出してきた。その時私はシルキィ君のことしか考えずに聞いていたが、今まで逃げ続けて来たツケを清算するチャンスを逃さないように生きろと言われたその言葉のとおりになるのがこんなにすぐだったとは。
もし水仙の娘が私を訪ねて来たのが育ての親のロスアスタ氏に会う前だったら。私はどう思っただろうか。シルキィ君に打ち明けた通り、心のどこかで尋常のエルフとして再び里に受け入れられたいという思いは燻っていた。それに決着をつけた今になって、その願いが叶えられるかもしれないと。
「わたくしには里長の血を引く嫡子を産む義務があります。あの時のわたくしはまだ少女で、取り乱しはしましたけれど、里長になる予定のあなたがあれ以上身の置き場のなくなるようなことにならないように里長や古老たちで話し合う手はずになっていたはずなのです。そうなれば、わたくしも時間をかけてあなたを受け入れていったでしょう。その結論が出る前にあなたは出て行ってしまいましたが」
「そうだったのですか……」
もし今、私がエルフの里に戻ったとして、私はそこでやっていけるだろうか。否だ。出て行ってすぐだったらもしかしたらなんとかなっていたかもしれない。しかしローパーに呑まれ、狂化を植え付けられた今の私があそこでやって行けるはずがない。狂おしい欲望の炎に焼かれ、暴れだし、行く末は幽閉が関の山だろう。水仙の娘の言葉は魅力的に聞こえるが、そこには里の都合ばかりで、私が自分らしく生きられる道ではないと思う。
「聞かせてください、暁の子。あなたは、どうするのですか?」
行けるわけもない。水仙の娘がこの街で窒息しそうになっているのと同様、私もあそこでは呼吸ができないのだから。だが、それよりも、なによりも、私は……。
「申し訳ありません。私は里に戻る気はありません。あなたの夫であることも、放棄します。あなたの時間を徒に奪ってしまって、本当にごめんなさい」
風の精霊が騒いで空気の流れを起こし、私と彼女の髪を揺らした。面白がっているのだ。彼らはいつでも面白がっている。他のエルフより揺れやすい心を持った私が面白いから、いつも力を貸してくれているのだ。里を出ても森の中と同じ威力で精霊魔法が使えるのはそのせいなのでいつもはありがたいと思うが、今ばかりは黙っていて欲しいと思った。
「……理由を。聞かせてもらってもよいでしょうか。その権利がわたくしにはあるはずです」
私の欲望や、呼吸の話をしても彼女は納得できないだろうと思った。それが理解できていれば、私は里を出ることはなかったのだろうから。それに、私にとってもその理由は大きなものではあるけれど、二の次でもあるからだ。私は……、私は……、そうだ。
「私の胸の水仙はもはや咲いてはいません。そこには今、野茨の花が蕾をつけています。私はこの花を見守っていきたいのです。それが理由です」
エルフは、植物に例えて愛を囁くことが多い。彼女も生粋のエルフなら、人間のように率直に告げるよりもこの言い方のほうが伝わると思った。
「あなた……あなたが。あなたが自分で水仙の花を抜いたというのに、あなたは何をそんなに夢見るような瞳をしているのですか。それではまるで、わたくしがあなたを全く愛していなかったとでも言うようではないですか」
水仙の娘は眉根を微かに寄せて、私のことを責めるように見上げていた。いや、実際責めているのだ。そして、私はそれをまっすぐ受け入れるべきだ。私がエルフたちを勝手だと思うように、彼女にしてみれば私も随分と勝手なことを言っていると思うから。
「周りになじめず一人で泣いていたあなたに寄り添っていたのはわたくしです。シロツメクサの冠を作った日を覚えていますか。テントウムシを指先から飛び立たせた日を忘れてしまいましたか。あなたを想って流した涙がひとしずくもなかったと思っているのですか」
無表情に見える彼女の目には悲しみと怒りが確かに湛えられていた。彼女の言うことはわかる。しかし、三十五年はエルフにとっても、一瞬とは言えない。花が枯れるのには十分すぎる時間だった。私を想っているだけで、時が来るまで待っているだけで蘇る花などないのもまた、変えられない事実だ。
「水仙の娘。私には……今。一緒に歩いて行きたい人がいるのです。それはあなたではない。わかってください」
しっかりと相手の目を見据えて、今度は人間らしく告げた。水仙の娘の顔からは表情が消え去り、怒っているのか悲しんでいるのか、私には読み取ることができなかった。彼女は私の隣から立ち上がり、私を見下ろす。
「こんな……侮辱を受けたのは初めてです。暁の子」
「申し訳ありません。詫びならいくらでも入れましょう。それでも、私は戻ることはありません」
「それでは……二人を祝福してくれた精霊に謝ってください……。土の精霊だけでよいです……。地面に口づけて……詫びてください」
精霊に詫びるのは、エルフ流のけじめのつけ方の一つだ。土の精霊に詫びるのは、屈辱をそそぐ意味があり、最も重いものだ。それでも、それで彼女が納得するのならいくらでも口づけよう。私は膝をつき、口づけをするために背を折り曲げ、唇を地面に近づけた。
「……やめて」
小さな手が、私の肩に置かれ、私の体を止めた。
「やめて、やめなさい」
「……水仙の娘?」
彼女は震える声で、絞り出すように言う。
「やめてよ。私がみじめに見えるじゃない……! どうして断らないの」
朝露のように光る涙が、青い双眸からみるみる溢れて、私の額にぽたぽたと降り注いだ。自分以外のエルフが泣くところを初めて見た。とても不思議なものを見たような気がした。
「……ここにいたのは別の里のエルフだったことにします……その人から、暁の子は土に還ったと……そう聞いたと。あなたには会えなかったということにします。それで、それでいいのですよね?」
「ええ。そうしてください……ありがとうございます」
泣いている彼女に私がかけていい言葉などありはしないと、そう思った。だから、忘れてくれることに対しての礼だけを告げる。
「さようなら。もう二度と会うことはないと思うけれど。幸せになってくれるといいと思います。暁の子」
「さようなら。あなたもどうか幸せに。水仙の娘」
彼女の足音は、私の横を静かに通り過ぎて、やがて足早に遠ざかって行った。私は、眼下に広がる街をただ眺めていた。
「ああ、そうか。そうなんだな……」
私は今まで何を意地になっていたんだろうか。自分の言う通り、私の心にはもう新しい花が根を下ろしているのだ。口にして言ってみてはじめてそのことが自覚できた気がした。だからもう一言。自分に言い聞かせるように、私は口を開いた。
「私は、シルキィ君を愛しているんだ」
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