鍵を拾った、その日から

遥 かずら

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鍵を拾ったその日から

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「アリーズ・ヴェセリー。君との婚約は今日をもって破棄だ」

 公爵家の次男であり婚約者でもあるカミル・ローレンは、突如として婚約破棄を宣言した。
 この場には私の他に、ローレン公爵家の料理人、侍女。そして公爵家の当主ジルド・ローレン。
 
 ――つまり、公爵家の関係者が一堂に集まっている真っただ中を意味する。

 朝食前のお祈りをするほんのわずかな時間の最中さなか、一方的な申し出発言によりこの場にいる誰もが面食らった状態となった。私も急なことで理解が追い付かず、両手を組んだ状態で静止。

 この場にいる彼らからすれば、カミルの宣言は『青天の霹靂』のようで、誰もが動揺を隠しきれずにいる。ローレン家の人たちは普段から私に良くしてくれていて、穏やかな日々を過ごしていた。

 それなのにカミルから発せられたのは『破棄』という二文字。昨日まで仲睦まじい姿をみんなに見せていたはずなのに、今朝になってどうしてこんなことを言い出したのか。

「カミル……? じょ、冗談にしてはあまりに厳しすぎない?」

 ようやく絞り出した言葉。これはいつもの掛け合いの言葉だ。
 この場の誰もがカミルの次の言葉を待っている。

「冗談なんかじゃない。アリーズ……君と僕は初めから釣り合わなかったんだ。仲睦まじくしてくれたことにはもちろん感謝している。だけど僕では駄目なんだ。僕なんかより君にはもっとふさわしい人がいたんだ! だから僕は――この家を出て行く!」

 カミルの言葉には誰もが耳を疑った。自ら婚約破棄を申し出たことにも困惑しているのに、カミル以外でふさわしい人間がいるなどと。

 公爵も言葉を失ったまま動けずにいる。それもそのはずで、私のことをカミルに引き合わせてくれたのは公爵そのものだから。

 当主であり父である公爵にしてみれば、理解に苦しむ発言。どうしてこんなことに。

「ふさわしい人、それは誰のことを言ってるの? ローレン家にはカミル! あなたしかいないじゃない!」
「いいや、いるんだ。もうすぐ騎士訓練を終えてこの家に帰って来る兄が! そうですよね、父上!」

 彼とともに公爵を見た途端、これまで一度も目を逸らされたことが無かったジルド様が、初めて目を逸らした。まさか本当にそんな人が。

 ジルド様の他、侍女たちの反応も「もうすぐ戻られるのね」といった感じで騒ぎだしている。その人のことを知らないのは私だけだ。

「アリーズ。君は落ち着きが無く、いつもせわしない。そして何より、悪女のような気がしてならない。とてもじゃないけど僕では手に負えそうにないんだ……でも、兄なら君を確実に留め置くことが出来る。だから僕との婚約は無かったことにして欲しい!」

 随分と勝手な言い分だった。まさか自分の手に負えない婚約者だから兄に譲るとか。あまりにも身勝手すぎる。カミルにしてみれば自分の兄なら悔しさも無く、潔く身を引ける……なんてことを思ったのだろう。

「あなたのお兄様は私を知らないはずよ? それなのに、私との関係を築けるとでも?」
「それは平気だ。すでに君のことは何度か手紙で伝えてあるし、兄も君のあぶなっかさを気にしていたからね。大丈夫、僕では出来ないことを兄が全てしてくれる!」

 ――これはもう、何を言っても無駄だ。

 ローレン家に来てから確かに落ち着きも無く行動していた。厨房室はもちろん、庭園、それと書庫。常にカミルを心配させていた自覚はあった。それでも彼は嫌な顔一つせず、私を探して追いかけて来てくれた。

 それがまさか重荷になっていただけでなく、悪女呼ばわりをされたうえ彼の意思も弱くしていたなんて。

「……いいわ。申し出を受けるわ。それで、カミル。あなたはここを出て行ってどこへ?」
「別邸に行くよ。僕じゃ君を守りきる自信が無いからね。だけど兄なら君を放っておけないくらい、常に見てくれるはず」

 最悪の朝はあっけなく終わり、カミルとご当主ジルド様も家を出て行く。私と料理長、そして数人の侍女だけが家に残された。

 普段から口数の少ないジルド様が、去り際になってようやく声をかけて来た。

「アリーズ・ヴェセリー。カミルと破棄させたことは申し訳ない。そしてカミルの兄にしてアレとの関係については……アリーズならば何とか出来るやもしれぬ……」

 ご当主ジルド様から頭を下げられてしまった。それはいいとして、長男への言い方が妙に気になる。一方的に婚約破棄して姿を消したカミルのことはともかく、実は面倒事を押し付けられたのでは。

 そして昼を迎える頃、ローレン家の門前に一台の馬車が止まった。
 遠くの地で騎士訓練を終えそのまま来た長男の彼が、騎士鎧のまま姿を見せた。

 家に入るとすぐに私の前に膝をつき、騎士らしく挨拶された。
 立ち上がった彼は端正な顔立ちをしていて、落ち着きのある紳士そのもの。

 カミルと同じ黒髪と碧色の瞳をしていて、私を見るその眼は偽りの無い真っすぐな眼をしている。
 騎士訓練を終えたということは、騎士になったということに違いない。

「お初にお目にかかる。俺はエリゼオ・ローレン。君がアリーズ・ヴェセリーかな?」
「お帰りなさいませ、エリゼオ様」
「……いや、エリゼオでいい。君のことはカミルの手紙で事細かに聞いている。なに、心配いらない。俺が帰って来たからには、君を片時も離さないしどこに行くにも常に近くにいることを約束する!」

 カミルとの手紙のやり取りで、もしかしなくてもエリゼオ様が私のことを――
 ――などと思ったのはこの時まで。
 
 それからひと月も経たないある日のこと。

「冗談じゃないわ!」

 どうして私がこんな目に遭わなければならないの。どこに行くにも鍵、エリゼオ、エリゼオの鍵……。いくら私が落ち着きのない性格だからって、寝室、沐浴、書庫……。

 ローレン家のあらゆる部屋と場所全てに鍵をかけるなんて、正気の沙汰じゃない。その度にエリゼオが鍵を開け、鍵をかけ。私が行く場所には常にエリゼオの目と鍵。

 ここまで神経質にならなくても、私はどこにも行かないというのに。
 彼の目から逃れられる唯一の部屋は厨房のみ。

 ここに逃げ込むたびに、料理長に愚痴を放つのが日常になっていた。

「落ち着きなさいませ、アリーズ様。エリゼオ様は神経質なお方でありまして、悪気は無いのでございます。ご当主様は常々、そのことを気にかけておいででした」

 カミルは落ち着かない私を見限って婚約破棄。それはもうどうでもいいとしても、兄の方がよっぽど問題ありすぎる人間だった。常に私のそばにいる、いすぎる。しかも鍵を持って。

 きっとご当主様はこのことを言っていたに違いない。

「神経質にも限度があるわ! あんなに付き纏われたら、どんなに素敵な騎士様でもうんざりして仕方が無いわよ!」

 カミルが去った後、この家には料理長の他に数人の侍女たちが残っていた。しかし今では、私と料理長のみ。ほとんどが別邸に移って行ってしまった。

 その原因はあまりに不便な移動になったから。エリゼオが全ての鍵を管理。つまり、侍女たちの意思は通用しない。ただし私が動けばその部屋の鍵は開けられる。

「エリゼオ様は幼き頃から鍵をかけることが好きでした。それはもう、家中の部屋に鍵をかけるようになりまして……あの方にとって鍵はとても重要なものでありまして、だからこそ守る騎士を志した――」
「ああ、もういいわ! もう行かないとここにも鍵をかけられそうだわ」
「それがよろしいかと」

 鍵の無い厨房室を出てすぐ、エリゼオは私の姿を見つけて駆け寄って来た。慌てなくてもどこにも出て行かないというのに。

「どこへ行っていた? あまり心配をかけないでくれ、アリーズ」
「……私はどこにも行ったりしないわ。他に行くところなんてないもの。あなたこそ、どこに行っていたの?」
「無論、戸締りだ。鍵のかけ忘れなどあってはならないからな」

 常にそばを離れない。これを最初に聞いた時は、カミルと違って頼りがいのある人だとばかり思っていた。それがまさか鍵付きの束縛男だったなんて。

 守るという意味では確かに騎士そのもの。だけど、片時も鍵を離さずにいるのはひど過ぎる。こんな人と知っていたら、カミルとの婚約破棄をあっさり受け入れて私が先に家を出るべきだった。

 だけどもう遅い。外に出ることもままならず、彼の鍵によって私の自由は完全に奪われた。
 たったひと月しか経っていないのに、もう何年も閉じ込められているようなそんな状態。

 いくら頼りがいのある男性でも、これはどうにもならない。

「エリゼオ。そろそろ寝室に行きたいのだけれど……」
「む、そうか。では行こう」
「ええ……お願い」

 彼とは寝室では一緒に寝ている……とはいえ、熟睡し起こしても起きない時だけは寝室の鍵は開けられる。他の部屋は鍵がかかっているので、出入りは出来ないけれど。

 どこに行くにもエリゼオがいる――というのが当たり前な日常だった。
 ――少なくともこの日までは。

 エリゼオは私を寝室に送った後、日課として全ての鍵付き部屋を見て回る。それが済み次第、朝にはすっかり隣のベッドで眠っている……の繰り返し。

 気を付けていても生理現象ばかりは止められない。そしてその度に「行くなら俺を起こしてくれていい」なんてことを言い放つ。そばを離れないという意味ではありがたいものの、トイレの外にまで鍵はつけないで欲しい。

 ――ということもあり、トイレだけは鍵を開放してもらえた。
 
 そしてとある日の深夜。起こしても起きる気配の無い彼をそのままにしてトイレを済ませ廊下を歩いていると、床と床の隙間に何かの塊が挟まって落ちかけていることに気付く。

「……これは――鍵の束?」

 持ち上げると何ともずっしりとした感触。間違いない、これはエリゼオが常に持ち歩いている鍵の束。音をなるべく立てないようにそっと両手で抱えて、そのまま何事もなかったかのように寝室に戻った。

 この日のエリゼオはすぐに目を覚まさなかったので、私もそのまま眠ることにした。
 翌朝、私が目覚める前に彼の方から起こされた。

「アリーズ、アリーズ! 頼む、起きてくれ! 大変なんだ!!」

 いつもの彼とは打って変わって、妙に焦りのある声をさせている。何かあったのだろうか。

「……ん、どうしたの?」

 私を起こした後も、エリゼオはおろおろしながら部屋中の床や棚の中を開けたり閉めたりしている。その慌てぶりはいつもの冷静さを失っているどころか、弱気な表情にまでなっていた。

「な、無いんだ!」
「何が?」
「か、鍵だよ! いつも目にしているはずの鍵の束! き、君も探してくれ!! 昨夜までは確かにあったんだ。それなのに、どこにも見当たらなくて……俺はどうすれば――」

 鍵の束……そういえば拾ってそのまま枕元に隠した気が。このまま彼に返してしまうのは勿体ない。鍵さえあれば、今度は逆の立場にだってなれる。そう考えた時点で、大人しく返す気持ちは失せた。

「――鍵ってこれのこと?」

 わざとらしく、ジャラジャラとした音を立ててエリゼオの前に見せつけた。鍵を見るなり、彼はすぐに飛び込んで来そうな眼差しを私に向けて来た。

 やはりそうだ。彼は私ではなく、鍵の束しか見えていない。こうなったら――

「そ、それだ! アリーズ。今すぐそれを……」
「それは出来ないわ。この鍵の束は私が拾ったものだもの。名前が書いてるわけでも無いし、誰のものでも無いはずよ? これがあなたの鍵という証拠はあるの?」
「そんなものはない。し、しかし、君はいつも見ているじゃないか! 俺が手にした鍵が無ければ――」
「鍵は私が手にしているわ。この鍵をどう使おうと、私の勝手なのではなくて?」

 優位に立っていたエリゼオが、鍵の束を失くした途端に気弱な男と化した。これを返せばまた自信に満ち溢れた騎士に戻るのだろう。けれど、鍵の存在で人を留め置くなんてことはいい加減やめさせたい。

「ど、どうすればいいんだ……? どうすれば君を俺のそばに留められるっていうんだ……」
「鍵が無くても私はどこにも行かないわ。あなたが鍵をかけて私を繋ぎ止めなくてもね」

 鍵を拾ったその日から彼と私の立場は逆転。
 すぐにでも返してあげようと思ったけれど、今はまだ……エリゼオを自由にしてあげない。

 そのうち鍵なんか無くても良くなるその時まで。
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