恋愛蜜度のはかり方

るうあ

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甘えて。 ◇◇美鈴視点 (各お題利用)

逃げるな危険 5

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 維月さんの部屋マンションに合鍵を使って入るのは今日が初めてだ。
 夏の終わりに渡されてからずっとキーケースの中で眠っていた合鍵を、まさかこんなに早く使う日がくるなんて、思いもよらなかった。
 わたしのアパートの合鍵も維月さんには渡してあって、それも今まで使われてこなかった。
 合鍵は、緊急事態用の……一種の保険のようなものと思って、わたしの部屋の合鍵は、そういうつもりで維月さんに預けた。心そのものを預けたという感覚もあるには……あるかな。
 だから合鍵を渡した時は少なからずドキドキしたし、維月さんの部屋の鍵を受け取った時はもっとドキドキした。ほんとにわたしなんかに預けていいのって、内心不安にもなった。
 こうして鍵を取り出し、戸を開けた今も、やっぱりドキドキしている。
 不法侵入したわけじゃないのに、なぜか足音を忍ばせてしまう。
 部屋の中は薄暗く、シンとして寒い。
 ――維月さんのいない、維月さんの部屋。
 維月さんの不在は寂しかったけれど、アパートに一人いるより、ずっといい。
 維月さんの残り香に包まれていれば、寂しさも不安も、少しは抑えられると思うから。
 かじかんでいた手を口元にあて、息を吐き出した。室内に入り、息はもう白く見えることはない。寒さのあまり硬くなっていた筋肉も、次第に弛緩していった。
 明かりを点けて、室内を見回す。何度も訪れ、見慣れてきた維月さんの部屋。
 維月さんの部屋って、好きだ。
 インテリアのカラーを茶系とグリーン系でまとめてあるから目にも優しい。時々模様替えをしてるけど、全体の印象は変わらない。きちっとしすぎない程度に整頓されていて、散らかっているところもちょっとある。たとえば、革張りのソファーに放っておかれた洗濯物みたいに。
 出掛ける直前に急いで取り込んだのかな? ハンガーもそのままに投げ出されている。
 たたんでおいてあげよう。シャツにもアイロンをかけて。
 他に何かしておいてあげられることはないかな。そんなことを考えつつ鞄をソファーに置き、ふと思いだして、携帯電話を取り出した。
 新しい着信履歴はない。着歴のトップにあるのは維月さんからのメールだ。一時間以上前、件名はRe:だけ、本文には「美鈴も気をつけて」という短い一文。
 初めにメールを送ったのは、わたしだ。忘年会の会場、田辺さんと別れてからすぐにメールを送った。
 維月さんに会いたくて、一人なりたくなくて、わがままを承知でお願いした。
「今夜、維月さんのマンションにいさせてください」
 理由は書かず、ただそれだけをお願いした。断られることも覚悟の上だったけれど、心のどこかで、維月さんは断らないだろうと確信してた。
 はたして維月さんは、「何時に帰れるかわからないけれど、それでもよければ」と応じてくれた。
「ありがとうございます。勝手を言ってごめんなさい」
 一方的だったと、我ながら思う。それなのに維月さんは理由も聞かず了承してくれた。メールで聞くのはもどかしかったのかもしれない。それに、ゆっくりメールを打ってる状況下にはなかったろうから。
 ――維月さんの優しさに付け込んだ。
 わたしはいつだってそうだ。
 あの時はそんなつもりは全然なくて、維月さんに会いたくてたまらなかったから、ただそれだけの気持ちでメールを送った。だけど、維月さんの優しさや状況に付け込んだとしか言えない、得手勝手な要求だった。
 維月さんは「なるべく早く帰る」とまで言ってくれた。だけどさすがにそこまで負担はかけたくない。せっかくの忘年会だというのに、わたしのために早々と切り上げさせてしまうなんて。
 維月さんは二次会だけじゃなく、きっと三次会まで誘われてるはずだ。「何時に帰れるか分からない」ということは、もう行くことは確定的になってるってことだし。
 去年も、その前の年も、朝帰りだったと言っていた。疲れた、参ったと苦笑しながら、それでも楽しかったんだろうことは表情から窺えた。だから無理に付き合わされるのじゃなくて、維月さん自身も望んでの二次会三次会参加なんだと思う。
 維月さんの楽しみを奪うつもりは毛頭なかったから、
「わたしのことは気にせず、ゆっくりと楽しんできて下さい」
 そう返信した。だけどずいぶん勝手な言い種だって、さすがに維月さんも呆れたかもしれない。けれど「わかった、何かあれば連絡して」という簡素の一文の後に「美鈴も気をつけて」の一言を添えてくれる。そういう気遣いをさり気なくできる人なのだ、維月さんは。
 それなのにわたしときたら、言葉足らずの上、維月さんの気持ちや状況を慮ることもできない。
 維月さんと二人きりになる前に、気持ちを整理する猶予が欲しかったからなんて、一方的で身勝手な都合だ。しかもそれを維月さんには告げないで、本人不在のマンションに居させてほしいと頼み込むなんて、図々しいにも程がある。
 維月さんに話したいことがあるのだといっても、なにも今夜じゃなくたってって思う。だいたいが、どうしても話さなきゃならないことではない。……ううん、もしかしたら話さない方がいいのかもしれない。――過去の話なんて。
 だけど話しておきたかった。その方がいい気もしていたから。でも、維月さんを不快にさせてしまうかもしれない。でも……それでも、話してしまいたい。
 そんな葛藤を抱えたまま、今わたしはこうして維月さんの部屋にいる。
 テレビもつけず、音楽も流さず、深々とした夜のしじまの底に沈んでいる。過去と現在に心を締めつけられながら。

 本当は維月さんが帰ってくるまで、起きて待っているつもりだった。けれどシャワーを借りて体を温めたら、次第に瞼が重くなってきて、結局眠気に負けてしまった。
 明かりを落とし、布団にもぐりこみまどろんでから、どのくらい時間がたったのだろう。
 寝返りをうった時に、ふと、人の気配を感じ、同時にひそめられた優しい声が耳に届いて、意識が浮上した。
「美鈴」
 ささやきが耳朶に落ちた。吐息がかかるほどに、その声が近い。
 髪を撫ぜられて、それに体が反応した。
「……ん……」
 程良く温まっている布団の中でもぞもぞと小さく身じろいで、体を仰向けにした。薄く瞼を上げたけれど、室内が薄暗いせいもあって、視界はまだぼやけていた。
「ただいま、美鈴」
「…………」
 額かかる髪を指先でそっと払われた。何度か瞬いて、声の主を確かめる。
「……っ」
 維月さんが、わたしの寝顔を覗きこんでいた。片手を枕元に置き、もう片方の手でわたしの髪を撫でている。維月さんの手は温かく、触れていない部分からも温もりが伝わってきた。
「起こして、悪かった?」
「…………」
 首を横に振って応えた。まだ少し朦朧としていて、声が出ない。
 よく見てみれば、ベッドの端に腰かけている維月さんはすでに着替えを済ませていて、夜着姿になっていた。シャワーも済ませてきたらしく、髪も、僅かだけど湿ってるように見えた。維月さんはいつにもまして官能的な香りをまとっている。お風呂上がりだからというだけじゃなく、お酒のせいもあると思う。維月さん自体が蒸留酒になってるみたいだ。――強くて、甘い……。
 布団の端を掴み、維月さんを上目遣いに見やった。
 ――維月さんが傍にいる。
 ただそれだけで、胸のときめきが抑えられないほどに高まっていく。
 寝起きのせいで頭はまだ薄らぼんやりとしていたけれど、まばたきを繰り返すうち、次第に覚醒していった。
「……今、……――」
 何時なのか訊こうとしたものの、声がかすれて音になりきらなかった。
 維月さんはわたしの意を得て、答えてくれた。
「二時を少し回ったところ。……遅くなってごめん」
「…………」
 わたしはまた首を振る。それからようやく、「おかえりなさい」の一言を告げた。
「水、飲む?」
 訊かれて、こくんと頷いた。
 ジャンケンが異常に強い維月さんは、やっぱり読心術でも会得してるんじゃないだろうかと思う。だってこんなにもさりげなく、口に出さない思いや願いをこともなげに察してくれ、叶えてくれるんだもの。
 維月さんって、本当に不思議な人だ。……どきどきするけど寛げる、心地のいい人。
 わたしが頷いたのを確認し、維月さんは立ち上がり、キッチンへ向かった。そのすらりと細い背を見送りながらわたしもようやく上半身を起こし、それからサイドテーブルに置いておいた携帯電話を掴み取って時刻を確かめた。
 もう、二時半近い。
 維月さんはいつの間に帰って来たんだろう? ドアが開く音にもシャワーの音にも全然気付かなかった。不覚にも熟睡してしまってたんだ……。
「美鈴、――はい」
 キッチンから戻った維月さんは部屋の明かりも点けないまま、再びベッドの端に腰を下ろした。間接照明の仄かな光が室内を照らしている。室温は若干低いけれど、寒いというほどでもない。
 維月さんはわたしに水の入ったグラスを寄越し、自分はペットボトルから直接ミネラルウォーターを口に運んだ。
 真夜中らしい静寂があたりを浸し、布の擦れる音や鼓動や息遣い、水を嚥下するかすかな音ですら耳につく。
「…………」
 ――維月さんに話さなくちゃ。
 水を飲み干し、空になったグラスを両手で包み持って、膝の上におろした。
 話さなくちゃ。――そう思うのに、どう切り出せばいいのか分からず、黙りこくって、顔を俯かせてしまった。
 このまま黙りこんでちゃいけないって思うのに、何からどう話せばいいのか整理がつかなくて、頭の中がぐるぐるしてる。
 ――どうしよう。ちゃんと話そうって決めたのに、このままじゃ挫けそう……。
「美鈴」
 やおら、維月さんがわたしの手からグラスを取り、持っていたペットボトルと一緒にサイドテーブルに置いた。それからすぐ、わたしの肩に腕を回して抱き寄せ、唇を重ねてきた。
「…………」
 ――なんて……なんて優しい、キス。
 押し当てられた維月さんの唇はすぐに離れてしまったけれど、感触は消えずに残ってる。
 怖じていた心を温め、緩めてくれるような、そんな優しいキスだった。泣き出してしまいたくなるような……。
 どうして。どうして維月さんはこんなに優しいの? こんなにもわたしをいつくしんでくれるの?
 どうしよう。こんなにも好きになって。維月さんが、恋しすぎて。苦しさすら嬉しくて。想いが溢れてとまらない。
 心が波立って、泣きそうになった。
 耐えられず、維月さんの胸元をぎゅっと掴んで顔をうずめ、「維月さん」と呼びかけた。声がくぐもって聞こえなかったかもしれない。もう一度、今度は顔を上げて、「維月さん」と声を発した。
「何?」
「あの、維月さん、わたし……」
「うん?」
「わたし、今日、い…維月さん、に……」
 上手く言葉が紡げず言い淀むわたしを急かしたりはせず、維月さんはさりげなく水を向けてくれた。
「もしかして、何か困るようなことでもあった? 忘年会で、何か」
「……あの、……」
 息を整え、わたしはようやく切り出した。
「今日、田辺さんに声をかけられたんです」
「……田辺?」
 維月さんが怪訝そうな声で訊き返してきた。頷き、わたしは維月さんに身を委ねたまま、語を継いだ。
「田辺さんに訊かれたんです。……わたしに、その……、彼氏いるのって」
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