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24.嵐の先触れ
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今日は、ユエル様の“占い”が当たって、照りつける陽射しが素肌に痛いほどの晴天となった。昼過ぎから多少雲が出てきたけれど、雨の気配はない。
高原地の日暮れは早い。降り注ぐ陽光は淡い黄昏色を帯びていたし、落葉樹や針葉樹の梢を揺らす風には夕暮れの気配が匂っていた。
「今日はずいぶん歩いたわねぇ。行きは歩きだったし、いろいろ連れ回しちゃったから……。ミズカちゃん、疲れてない?」
「あ、はい。歩くのは好きですし」
「そう? ユエルと一緒だとあんまり出歩かなさそうだけど、そうでもないのかしら?」
「ユエル様は、基本的には出不精なんですけど、時々は散歩に出て、わたしもそれについていきますから」
「あら、ちょっと意外ね。ユエルってひきこもってばかりいると思ってたわ」
いえ、普段はひきこもりなんです。着替えも億劫がるくらいに。わたしがそう応じると、アリアさんは、「まぁ、夜行性でひきこもりなのは、あたしたちの生態ではあるものね」と笑って答えた。
――たしかに、青空の下を楽しげに闊歩する吸血鬼というのは、なんとなく様にならない。
「億劫だ面倒だと言ってひきこもってばかりいたけど、ミズカちゃんのお陰でユエルも大分外に出ていけるようになったみたいね。いいことだわ」
「今も、わりとひきこもりがちなんですけど……」
「マシになったのよ、あれでも。昔は“冬眠”ばかりしてたから」
「そういえば最近は冬眠しようかとは言わなくなりました」
「あら、それはいい傾向ね」
そんな他愛無い話……タクシーの運転手さんが思わず首をかしげるような、そんな話をしている間にタクシーは屋敷前に到着し、わたし達は大量のショッピングバッグを抱えてタクシーから降りた。アリアさんは「今日の戦利品」を両手に提げ、「荷物持ちにイスラを誘うべきだったわね」と小さく笑った。
たなびく雲の隙間から、黄金色の光が幾筋もこぼれ、地上を眩しく照らしていた。木立を吹き抜ける風は心地よく、日陰に入ると少し肌寒く感じる。
「ミズカちゃん、大丈夫? 呼び鈴鳴らして、イスラかイレクを呼びましょうか? ユエルでもいいけど」
「いえ、このくらい大丈夫です」
わたし達が今仮住まいにしている洋館の正面玄関には、『占いの門』と書かれた看板がさげられている。その看板のすぐ下に、出掛ける時には『OPEN』というプレートがかかっていた。ところが今は裏向けられ、『CLOSED』になっている。
どうやら今日の営業は終了したようだ。ずいぶんと早い閉店時間だけど、営業時間は店主の気まぐれで変わるから、別段珍しいことでもない。人の往来はなく、通り過ぎるのは金色の光を帯びた夕風だけだった。
両腕に幾つものショッピングバッグを抱えたまま、腕と肩をつかって、重い玄関扉を開けた。……と、リビングから話し声が聞こえてきた。ユエル様の声と、聞き慣れた女の声だった。
わたしとアリアさんは顔を見合わせた。アリアさんは小首をかしげ、「客がまだいるのかしら?」と目で訊いてくる。
別に足音をしのばせる必要なんてないはずなのに、なんとなく声もひそめ、物音をたてぬよう、静かにリビングへ近づいた。リビングのドアは半開きになっていて、わたしとアリアさんは首を伸ばし、こっそり中の様子を窺った。
リビングにいたのはユエル様と、常連客の亜矢子さんだった。
後ろ姿でも、その居丈高な態度で亜矢子さんだと分かる。背中を大胆にあけた小花プリントのノースリーブワンピースの派手な色が、落ち着いた色合いにまとめているリビング内で浮き出って見えた。
二人きりで、立ち話をしていた。和やかな雰囲気とはかけ離れた、ピリピリとした空気が漂っている。
「あまり褒められた趣味ではないね」
ユエル様は腕を組み、厳しい面持ちで吐き捨てるように言った。
いったい何事だろう。
亜矢子さんに対してあんな険しい顔を見せたことはなかった。いつだって慇懃に対応し、営業用の笑顔を崩さずにいたのに。
「趣味ではありませんけど、これも上流階級の愉しみというものですわ。というよりも、当然の危機管理と言えますわね」
こちらに背を向けているから表情はわからないけれど、亜矢子さんの居丈高な口調は相変わらずに聞こえた。
だけど、いつもと違っている気がした。
媚態をつくり、しなだれかかるようにしてユエル様に迫るいつもの亜矢子さんとは雰囲気が違った。密着しようとするどころか、亜矢子さんの方から踏み込めない距離をユエル様との間に置いている。
「下卑たことをすると軽蔑しておいでのようですけど、よくよくお調べにならなかったユエル様の落ち度、危機管理の甘さのせいですわ」
「…………」
ユエル様は眉間を寄せただけで、言い返しもしなかった。
亜矢子さんは、ユエル様の険しい表情に満足を得ているようだった。足しげく通い、高価な物を贈ってまで媚を売っていた亜矢子さんが、いったいどうしたことだろう。
「でもご安心なさって。今すぐどうこうしようなどとは考えておりませんから」
「…………」
「それに、ユエル様に不利益な話を持ちかける気はありませんわ。これでも私、口は堅い方ですのよ? ――ですから」
亜矢子さんは手に持っていた、銀色の四角い何かをハンドバッグにしまった。
それをユエル様に見せていたようだったけれど、何だったのかが分からない。
折りたたんでバッグにしまった長方形型のそれが何か、ここからではよく見えなかった。片手に乗るサイズで、携帯電話よりは大きくて厚みもあった。
――なんだったのだろう……?
「明日の夜、来てくださいますわね? お待ちしておりますわ」
「行くとは言っていないが」
「いいえ。ユエル様は来て下さいますわ。お一人でいらっしゃらなくても構いませんくてよ?」
傲然とした口ぶりで言い放ってから、亜矢子さんは踵を返した。それと同時に、僅かな隙をつくようにして、ユエル様は組んでいた腕をほどき、亜矢子さんに伸ばしかけた。
「ああ、それから」
亜矢子さんは肩越しに振り返り、ユエル様を牽制した。
慌てるでもなく伸ばしかけた腕を戻し、ユエル様は平静な態度を取り続けている。面持ちは相変わらず厳しく、微笑の欠片もその緑の瞳にはなく、冷たくて鋭かった。
――空気が、異様なほど張り詰めている。
「我が桜町グループのセキュリティーシステムは常に万全を期しておりますわ。もちろん当ホテルも。それから今回のパーティー、招待客は限られた特別な方達のみで、さほど多くはありません。それでも決して少人数とは言えない数ですから、その点もご留意なさってご配慮いただきますよう、あらかじめお願いしておきますわね。迂闊な真似はなさらぬ方が賢明と存じますわ」
亜矢子さんのもったいぶった丁寧な口調はかえって空々しく、脅迫じみて聞こえる。……ううん、実際脅迫しているのだろう。念を押し方が執拗で挑戦的すぎる。
張り詰めた空気に反応して、わたしは体を強張らせ、息を詰めていた。
亜矢子さんがこちらに来るというのに、逃げも隠れもできなかった。
――その結果、
「あら」
リビングから出てきた亜矢子さんと、ばったりと鉢合わせてしまった。
立ち聞きしていたわたしとアリアさんは、さすがにばつが悪くてとっさに言葉も出なかった。そんなわたし達を亜矢子さんは鼻先でフフンと哂った。
一言二言、何か嫌味でも言ってくるだろうと思っていたのに、亜矢子さんはにっこりと作り笑いを浮かべて、わたしにではなくアリアさんに軽く会釈をした。
わたしのことなど眼中にないらしい。挑むようなまなざしでアリアさんを見据えた。
「アリア……さん、でしたわね?」
「…………」
亜矢子さんの不遜な態度に、アリアさんは当然怯まなかった。ぴくりと金色の眉をあげ、亜矢子さんを睨み返した。
アリアさんと亜矢子さんの視線がぶつかって、火花が散る。……本当に、バチバチという音が聞こえてきそうな睨み合いだった。
美女ぶりで言うのならアリアさんの方が断然勝っているけれど、今日の亜矢子さんはいつも以上に高慢で自信ありげで、優勢を誇っているような迫力があった。
亜矢子さんの自信の正体が掴めない分、アリアさんが若干押され気味だった。
「明日の夜、またお会いできそうですわね? それではユエル様、アリアさん、ごきげんよう」
亜矢子さんは甘ったるい香りを振りまくようにして肩にかかる髪を片手で払い、そのまま歩きだし、振り返りもせずに屋敷を出て行った。ほんの一瞬だけ、ちらりと横目を使ってわたしの方を見た。
わたしは半ばぼう然とし、勝者然として去っていった亜矢子さんを見送った。
そして、背水の陣を敷いたらしいユエル様は、いつの間にかわたしのすぐ後ろにいて、不愉快げに顔をしかめていた。
深緑の光を双眸に沈め、表情を消している。振り返り仰ぎ見たわたしをその瞳に捕らえてはくれなかった。わたしもどう声をかけてよいものやら分からず、けれど視線もそらせず、そわそわとユエル様の様子を窺った。
沈黙を破ったのはアリアさんだった。
「ユエル」
アリアさんは怪訝そうにユエル様を見、矢継ぎ早に尋ねた。
「何なの、あの子は? それにいったいどうしてあたしのこと知ってるの? それに明日の夜って何のことなの?」
「あれは客だ。ここの常連で、個人的なパーティーに誘われている」
ユエル様のその返答は簡略しすぎだった。アリアさんは一瞬むっとしたけど、何か思うところがあったらしく、わたしには聞こえないよう、そっとユエル様に耳打ちをした。
それからユエル様の肩を軽く叩き、笑って言った。
「まぁいいわ。とりあえず今日はミズカちゃんをありがとう、ユエル。ちゃんと返しましたからね」
でもアリアさんの目は笑ってなくて、厳しく、子供を窘めるかのようにユエル様を見据えている。
「あんまり口を挟みたくないんだけど、しっかりなさいよ、ユエル」
「……分かっている」
「なら、いいけど。ああもう、イスラの気持ちが分かっちゃうわねぇ」
「…………」
ユエル様はリビングへ戻るべく身を翻した。俯き加減になりため息をついたユエル様の後を、アリアさんが追い、わたしもそれに続いた。
わたしは荷物を抱えたまま、どうしたらよいのやらわからず、ただ一言も発せられずにいた。
何があったんですか。そう問いたかった。
でも、ユエル様の背は質問を拒んでいるように見えた。
空気がまだ重い。
心配で不安で、心が怯え、窮している。
――どうしよう。
こういう時、どうしたらいいんだろう。わたしはどうするべきなんだろう。
おずおずと、わたしはようやく一声を発した。
「あの、ユエル様……」
「ああ、おかえり、ミズカ。疲れたろう。ずいぶんと沢山買い込んできたものだね。――貸しなさい」
立ち止まり、振り向いたユエル様は微笑んで、わたしの腕から大量の荷物を奪うようにして、代わって持ってくださった。
ユエル様の秀麗な面貌は微笑みの形をつくっている。けれど、どこか無機質で硬かった。
「あのっ、すみません、ユエル様、それくらいなら持ってられますから」
「それにしては窮屈そうな顔をしていたよ、ミズカ。大半はアリアの買ったものだろうに」
「あらぁ! ミズカちゃんにも色々と買ってあげたのに、ひどい言いようね」
「しかし六割、いや七割はアリアの物だろう」
「まぁそんなこと……なくもないけど、うーん、どうかしら……? あとでちゃんと中身確かめなくっちゃね」
ユエル様は一番大きなソファーに荷物をどさりと置き、それに倣ってアリアさんも荷物を置いた。
そしてユエル様は再びわたしの方に顔を向けた。
「ミズカ、疲れているところを悪いが、お茶を淹れてきてくれないかな。ああそれと、イレクを呼んできて。キッチンにいるだろうから。――イスラは……出掛けているか。まぁ、ヤツはどうでもいいとして。私とアリア、イレクとミズカの分の茶を用意して。急がなくていいから」
「……はい、分かりました」
わたしはこっくりと頷いた。指示されたその通りにしか動けなかった。
身を翻して、足をリビングの外へと向けた。
「――ミズカ」
足早に立ち去ろうとするわたしを、ユエル様が小声で呼びとめた……気がした。だけど、どんな顔して振り返ったらいいのかわからなくて、聞こえなかったふりをした。
歩きながら、ぽつりとこぼした。
「……ばか」
その一言はわたし自身へ向けたもの。そのはず……だったけれど。
耳に下がっているイヤリングが、空しく揺れていた。
高原地の日暮れは早い。降り注ぐ陽光は淡い黄昏色を帯びていたし、落葉樹や針葉樹の梢を揺らす風には夕暮れの気配が匂っていた。
「今日はずいぶん歩いたわねぇ。行きは歩きだったし、いろいろ連れ回しちゃったから……。ミズカちゃん、疲れてない?」
「あ、はい。歩くのは好きですし」
「そう? ユエルと一緒だとあんまり出歩かなさそうだけど、そうでもないのかしら?」
「ユエル様は、基本的には出不精なんですけど、時々は散歩に出て、わたしもそれについていきますから」
「あら、ちょっと意外ね。ユエルってひきこもってばかりいると思ってたわ」
いえ、普段はひきこもりなんです。着替えも億劫がるくらいに。わたしがそう応じると、アリアさんは、「まぁ、夜行性でひきこもりなのは、あたしたちの生態ではあるものね」と笑って答えた。
――たしかに、青空の下を楽しげに闊歩する吸血鬼というのは、なんとなく様にならない。
「億劫だ面倒だと言ってひきこもってばかりいたけど、ミズカちゃんのお陰でユエルも大分外に出ていけるようになったみたいね。いいことだわ」
「今も、わりとひきこもりがちなんですけど……」
「マシになったのよ、あれでも。昔は“冬眠”ばかりしてたから」
「そういえば最近は冬眠しようかとは言わなくなりました」
「あら、それはいい傾向ね」
そんな他愛無い話……タクシーの運転手さんが思わず首をかしげるような、そんな話をしている間にタクシーは屋敷前に到着し、わたし達は大量のショッピングバッグを抱えてタクシーから降りた。アリアさんは「今日の戦利品」を両手に提げ、「荷物持ちにイスラを誘うべきだったわね」と小さく笑った。
たなびく雲の隙間から、黄金色の光が幾筋もこぼれ、地上を眩しく照らしていた。木立を吹き抜ける風は心地よく、日陰に入ると少し肌寒く感じる。
「ミズカちゃん、大丈夫? 呼び鈴鳴らして、イスラかイレクを呼びましょうか? ユエルでもいいけど」
「いえ、このくらい大丈夫です」
わたし達が今仮住まいにしている洋館の正面玄関には、『占いの門』と書かれた看板がさげられている。その看板のすぐ下に、出掛ける時には『OPEN』というプレートがかかっていた。ところが今は裏向けられ、『CLOSED』になっている。
どうやら今日の営業は終了したようだ。ずいぶんと早い閉店時間だけど、営業時間は店主の気まぐれで変わるから、別段珍しいことでもない。人の往来はなく、通り過ぎるのは金色の光を帯びた夕風だけだった。
両腕に幾つものショッピングバッグを抱えたまま、腕と肩をつかって、重い玄関扉を開けた。……と、リビングから話し声が聞こえてきた。ユエル様の声と、聞き慣れた女の声だった。
わたしとアリアさんは顔を見合わせた。アリアさんは小首をかしげ、「客がまだいるのかしら?」と目で訊いてくる。
別に足音をしのばせる必要なんてないはずなのに、なんとなく声もひそめ、物音をたてぬよう、静かにリビングへ近づいた。リビングのドアは半開きになっていて、わたしとアリアさんは首を伸ばし、こっそり中の様子を窺った。
リビングにいたのはユエル様と、常連客の亜矢子さんだった。
後ろ姿でも、その居丈高な態度で亜矢子さんだと分かる。背中を大胆にあけた小花プリントのノースリーブワンピースの派手な色が、落ち着いた色合いにまとめているリビング内で浮き出って見えた。
二人きりで、立ち話をしていた。和やかな雰囲気とはかけ離れた、ピリピリとした空気が漂っている。
「あまり褒められた趣味ではないね」
ユエル様は腕を組み、厳しい面持ちで吐き捨てるように言った。
いったい何事だろう。
亜矢子さんに対してあんな険しい顔を見せたことはなかった。いつだって慇懃に対応し、営業用の笑顔を崩さずにいたのに。
「趣味ではありませんけど、これも上流階級の愉しみというものですわ。というよりも、当然の危機管理と言えますわね」
こちらに背を向けているから表情はわからないけれど、亜矢子さんの居丈高な口調は相変わらずに聞こえた。
だけど、いつもと違っている気がした。
媚態をつくり、しなだれかかるようにしてユエル様に迫るいつもの亜矢子さんとは雰囲気が違った。密着しようとするどころか、亜矢子さんの方から踏み込めない距離をユエル様との間に置いている。
「下卑たことをすると軽蔑しておいでのようですけど、よくよくお調べにならなかったユエル様の落ち度、危機管理の甘さのせいですわ」
「…………」
ユエル様は眉間を寄せただけで、言い返しもしなかった。
亜矢子さんは、ユエル様の険しい表情に満足を得ているようだった。足しげく通い、高価な物を贈ってまで媚を売っていた亜矢子さんが、いったいどうしたことだろう。
「でもご安心なさって。今すぐどうこうしようなどとは考えておりませんから」
「…………」
「それに、ユエル様に不利益な話を持ちかける気はありませんわ。これでも私、口は堅い方ですのよ? ――ですから」
亜矢子さんは手に持っていた、銀色の四角い何かをハンドバッグにしまった。
それをユエル様に見せていたようだったけれど、何だったのかが分からない。
折りたたんでバッグにしまった長方形型のそれが何か、ここからではよく見えなかった。片手に乗るサイズで、携帯電話よりは大きくて厚みもあった。
――なんだったのだろう……?
「明日の夜、来てくださいますわね? お待ちしておりますわ」
「行くとは言っていないが」
「いいえ。ユエル様は来て下さいますわ。お一人でいらっしゃらなくても構いませんくてよ?」
傲然とした口ぶりで言い放ってから、亜矢子さんは踵を返した。それと同時に、僅かな隙をつくようにして、ユエル様は組んでいた腕をほどき、亜矢子さんに伸ばしかけた。
「ああ、それから」
亜矢子さんは肩越しに振り返り、ユエル様を牽制した。
慌てるでもなく伸ばしかけた腕を戻し、ユエル様は平静な態度を取り続けている。面持ちは相変わらず厳しく、微笑の欠片もその緑の瞳にはなく、冷たくて鋭かった。
――空気が、異様なほど張り詰めている。
「我が桜町グループのセキュリティーシステムは常に万全を期しておりますわ。もちろん当ホテルも。それから今回のパーティー、招待客は限られた特別な方達のみで、さほど多くはありません。それでも決して少人数とは言えない数ですから、その点もご留意なさってご配慮いただきますよう、あらかじめお願いしておきますわね。迂闊な真似はなさらぬ方が賢明と存じますわ」
亜矢子さんのもったいぶった丁寧な口調はかえって空々しく、脅迫じみて聞こえる。……ううん、実際脅迫しているのだろう。念を押し方が執拗で挑戦的すぎる。
張り詰めた空気に反応して、わたしは体を強張らせ、息を詰めていた。
亜矢子さんがこちらに来るというのに、逃げも隠れもできなかった。
――その結果、
「あら」
リビングから出てきた亜矢子さんと、ばったりと鉢合わせてしまった。
立ち聞きしていたわたしとアリアさんは、さすがにばつが悪くてとっさに言葉も出なかった。そんなわたし達を亜矢子さんは鼻先でフフンと哂った。
一言二言、何か嫌味でも言ってくるだろうと思っていたのに、亜矢子さんはにっこりと作り笑いを浮かべて、わたしにではなくアリアさんに軽く会釈をした。
わたしのことなど眼中にないらしい。挑むようなまなざしでアリアさんを見据えた。
「アリア……さん、でしたわね?」
「…………」
亜矢子さんの不遜な態度に、アリアさんは当然怯まなかった。ぴくりと金色の眉をあげ、亜矢子さんを睨み返した。
アリアさんと亜矢子さんの視線がぶつかって、火花が散る。……本当に、バチバチという音が聞こえてきそうな睨み合いだった。
美女ぶりで言うのならアリアさんの方が断然勝っているけれど、今日の亜矢子さんはいつも以上に高慢で自信ありげで、優勢を誇っているような迫力があった。
亜矢子さんの自信の正体が掴めない分、アリアさんが若干押され気味だった。
「明日の夜、またお会いできそうですわね? それではユエル様、アリアさん、ごきげんよう」
亜矢子さんは甘ったるい香りを振りまくようにして肩にかかる髪を片手で払い、そのまま歩きだし、振り返りもせずに屋敷を出て行った。ほんの一瞬だけ、ちらりと横目を使ってわたしの方を見た。
わたしは半ばぼう然とし、勝者然として去っていった亜矢子さんを見送った。
そして、背水の陣を敷いたらしいユエル様は、いつの間にかわたしのすぐ後ろにいて、不愉快げに顔をしかめていた。
深緑の光を双眸に沈め、表情を消している。振り返り仰ぎ見たわたしをその瞳に捕らえてはくれなかった。わたしもどう声をかけてよいものやら分からず、けれど視線もそらせず、そわそわとユエル様の様子を窺った。
沈黙を破ったのはアリアさんだった。
「ユエル」
アリアさんは怪訝そうにユエル様を見、矢継ぎ早に尋ねた。
「何なの、あの子は? それにいったいどうしてあたしのこと知ってるの? それに明日の夜って何のことなの?」
「あれは客だ。ここの常連で、個人的なパーティーに誘われている」
ユエル様のその返答は簡略しすぎだった。アリアさんは一瞬むっとしたけど、何か思うところがあったらしく、わたしには聞こえないよう、そっとユエル様に耳打ちをした。
それからユエル様の肩を軽く叩き、笑って言った。
「まぁいいわ。とりあえず今日はミズカちゃんをありがとう、ユエル。ちゃんと返しましたからね」
でもアリアさんの目は笑ってなくて、厳しく、子供を窘めるかのようにユエル様を見据えている。
「あんまり口を挟みたくないんだけど、しっかりなさいよ、ユエル」
「……分かっている」
「なら、いいけど。ああもう、イスラの気持ちが分かっちゃうわねぇ」
「…………」
ユエル様はリビングへ戻るべく身を翻した。俯き加減になりため息をついたユエル様の後を、アリアさんが追い、わたしもそれに続いた。
わたしは荷物を抱えたまま、どうしたらよいのやらわからず、ただ一言も発せられずにいた。
何があったんですか。そう問いたかった。
でも、ユエル様の背は質問を拒んでいるように見えた。
空気がまだ重い。
心配で不安で、心が怯え、窮している。
――どうしよう。
こういう時、どうしたらいいんだろう。わたしはどうするべきなんだろう。
おずおずと、わたしはようやく一声を発した。
「あの、ユエル様……」
「ああ、おかえり、ミズカ。疲れたろう。ずいぶんと沢山買い込んできたものだね。――貸しなさい」
立ち止まり、振り向いたユエル様は微笑んで、わたしの腕から大量の荷物を奪うようにして、代わって持ってくださった。
ユエル様の秀麗な面貌は微笑みの形をつくっている。けれど、どこか無機質で硬かった。
「あのっ、すみません、ユエル様、それくらいなら持ってられますから」
「それにしては窮屈そうな顔をしていたよ、ミズカ。大半はアリアの買ったものだろうに」
「あらぁ! ミズカちゃんにも色々と買ってあげたのに、ひどい言いようね」
「しかし六割、いや七割はアリアの物だろう」
「まぁそんなこと……なくもないけど、うーん、どうかしら……? あとでちゃんと中身確かめなくっちゃね」
ユエル様は一番大きなソファーに荷物をどさりと置き、それに倣ってアリアさんも荷物を置いた。
そしてユエル様は再びわたしの方に顔を向けた。
「ミズカ、疲れているところを悪いが、お茶を淹れてきてくれないかな。ああそれと、イレクを呼んできて。キッチンにいるだろうから。――イスラは……出掛けているか。まぁ、ヤツはどうでもいいとして。私とアリア、イレクとミズカの分の茶を用意して。急がなくていいから」
「……はい、分かりました」
わたしはこっくりと頷いた。指示されたその通りにしか動けなかった。
身を翻して、足をリビングの外へと向けた。
「――ミズカ」
足早に立ち去ろうとするわたしを、ユエル様が小声で呼びとめた……気がした。だけど、どんな顔して振り返ったらいいのかわからなくて、聞こえなかったふりをした。
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