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6.気紛れな空模様
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うやむやのうちに、アリアさん同様イスラさんイレクくん親子もこの屋敷に滞在することになり、わたしはその準備に追われた。
アリアさんとイスラさんが協力して、寝具やリネン、その他の生活用品を揃えてくださった。その手際の良さというか、行動力の早さには驚かされた。ここに到着してまだ僅かの時間しか経ってないというのに、もういろんなお店を網羅しているみたいだった。「ここに来る前に、ちゃんとガイドブックをチェックしてきたもの」と、アリアさんは朗らかに笑った。「とくにアウトレットなんかのお店はね」
そういえば、普段おっとりと構えている鷹揚なユエル様も、こういった手配は実に素早い。“幻惑術”を駆使して、生活空間をあっという間に整えてしまう。適応能力が高いということなんだろうか。
「人間社会にうまく融け込むために、必然的に身についた能力といえようね」
そんな風にユエル様は述懐していたっけ。
「なし崩しに、僕達までお世話になることになってしまって、すみません」
生真面目で律儀な性格であるらしいイレクくんは改めて謝辞を述べて、それから各人が寝泊まりする部屋を一緒に整えてくれた。
父親のイスラさんとは「できれば別室がいいです」とのことで、イレクくんにも個室を宛がった。イスラさんも「その方がありがたいね」と皮肉げに返していた。
すげない会話をしているイスラさんとイレクくんだけど、仲違してるようではなく、アリアさんなどは「何のかんのといっても仲良し親子よねぇ」とクスクス忍び笑っていた。
俄かに忙しく賑やかになり、おかげで多少は気が紛れた。
けれど、やっぱりどうしても部屋に閉じこもってしまったユエル様のことが気がかりだった。
昼を過ぎても、日が沈んでも、ユエル様は出てきてくれなかった。
一度だけ、お茶を用意しましたとドアの前で声をかけたけど、返事はなかった。暗くなっても明かりがつく様子はなく、おそらくは眠っているのだろうと推察できた。……けれど。
けれど、不安でたまらなかった。
――ユエル様……
わたしはどうしたらいいんですか? ここにこのまま、こうして居ていいんですか?
――成す術もないままで……。
* * *
雨が降りそうなほどの空模様ではないけど、昨日とうってかわっての曇天は、わたしの心を反映しているようで、ちょっと残念なような腹立たしいような奇妙な具合だ。
さらには、昨日とうってかわった態度のユエル様にも、少しばかり腹を立てている。
「君が朝寝坊なんて珍しいね、ミズカ?」
「…………」
にこりと微笑んで、ユエル様はわたしの顔を覗き込んでくる。
昨日の、あの重々しく冷たい態度はいったい何? と思わせるほどの笑顔っぷりだ。
もうっ! だいたい誰のせいで寝過ごしたと思っているんですか。
「イレクがコーヒーを淹れてくれたから、飲んでおいで。今日はちゃんと開店するから、それまでに支度も済ませておかなくてはね」
ユエル様のことが気にかかってなかなか寝つけなかったというのに(といっても、さすがに動き回って疲れたのか、寝つきは悪かったけど気づいたら眠ってて、そして今に至っているわけだけど)、まるで何事もなかったかのような暢気顔は、どういうこと?
「ユエル様、起こしてくださってありがとうございます。……けど」
「けど、なんだい?」
「寝室に忍び込んでくるのは心臓に悪いからできればやめてほしいと、以前から申し上げていたと思うのですけど」
「ああ、そうだったかな? しかしそうすると、ミズカはきっと昼過ぎまで寝こけてしまうに違いないだろう?」
「ユエル様じゃあるまいし、そんなことはありません。寝起きはユエル様よりはいいつもりです」
わたしはまだ寝台から出られずにいる。夜着のままということもあるし、ユエル様が寝台に腰をおろしているからだ。
どうやらわたしが起きるまで、そうしていたらしい。
もう、恥ずかしいったらないんですけど、ユエル様!
きっと間の抜けた寝顔をしていたに違いないもの! 癖のある髪は寝乱れてさらにくしゃくしゃになってたろうし、寝相は……そんなに悪くないはずだけど、もぞもぞ動いてただろうし、……変な寝言とか呟いてなければいいけれど。
ユエル様が以前、
「ミズカは仔猫のような寝方をするね」
と笑ったことがあった。
それって、どんな寝方なんだろう……?
落ち着きがないってことなのかな。
ユエル様はからかうように笑って、「見ていて、くすぐったい」と答えた。
どういう意味なのかますます分からず、わたしは首を捻ったものだ。
本当にユエル様は謎めいた言動の多い方だ。気紛れで、不可解で、意味深なところがあって、わたしはいつもそんなユエル様に振り回されてばかりいる。それが嫌だというのではなく、ただ少しばかり困ってしまうのだ。
今朝もまた、わたしを困らせて嬉しげに微笑んでいるユエル様は、とうに着替えを済ませている。ユエル様の本日のお召し物は、内衿に黒サテンがちらりと見えるボタンダウンの白シャツに、ヴィンテージのジーンズ。グリフィン模様の銀のバックルがアクセントになってて、全体的にカジュアルなスタイルだ。ちなみに嵌めている指輪やネックレスといったアクセサリーも、すべて銀。
吸血鬼って、狼男がそうなように、銀が苦手だという設定なはずなんだけど、ユエル様は金より銀を好む。
以前、苦手なのではないですかと確認したことがある。
「銀の弾丸なら、たしかに苦手だね」
ユエル様は悪戯っぽく笑って答えたっけ。
そりゃぁ、弾丸は苦手でしょうとも。
撃たれて当たった経験はないとユエル様はくすくす笑いながら言って、わたしを青ざめたり赤らめたりさせた。
わたしがそんな他愛もないことを思い出したのを察したのかどうなのか、ユエル様は悪戯っぽく微笑んでいる。何か訊きたげにわたしの顔を覗きこみ、肩に流れた銀の髪を軽く後ろへ払った。その何気ない仕草ですら、典雅で美しい。
ユエル様は痩身で上背もあるから、どんなスタイルもとてもよくお似合いで、シンプルにまとめている時でも、安っぽさは全然感じられない。ユエル様自身に高級感が溢れているからなんだろう。
それにしても今日のスタイルは、「占い師」としては、ちょっと神秘性に欠けやしないかしら?
全身黒ずくめにして、仮面をつけたり妙な形の帽子を被ったりするよりはいいのかもしれないけど。
――ううん、そんなことよりっ!
目覚めて、わたしがどれほど驚いたか!
容姿端麗な銀髪の美青年が、間近でじっと覗き込んでたんだもの!
目を開けて、緑の瞳とぶつかった途端、悲鳴こそ上げなかったけど、心臓が口から出そうになって、一気に心拍数があがって息が止まりそうになった。
優しい声音で「おはよう、ミズカ」と囁かれては、硬直したって仕方ないと思うの!
心臓に悪い起こし方はしないでくださって、何度もお願い申し上げているのに!
「親切に起こしにきたというのに文句を言われてしまうとは、やるせないね」
「いかにも嘘っぽくしょんぼりしないでください。――もう、いいです、ユエル様、わたし、着替えますから」
語尾に、寝室の扉を叩く音が重なった。わたしに代わってユエル様が応えた。
「お邪魔します」
入ってきたのは、イレクくんだった。
「お早うございます、ミズカさん。なかなか降りてこられないので、こちらにコーヒーをお持ちしました」
昨日はよそゆきの格好をしていたイレクくんだったけれど、今日はもう少しラフな格好だ。水色の半袖パーカーと半ズボン、そして白いスニーカー。子供らしく、似合っている。けど、「子供」ではないのよね。
「ありがとう……ございます、え、と、イレクく……じゃなくて、イレクさ……」
イレクくんはわたしよりもうんと年上なのだと知って、呼び方を改めようとした。けれどイレクくんは、
「“くん”でいいと、昨日も言ったでしょう? 敬語も必要ないって。見た目十歳前後の僕に“さん”付けは不釣合いですよ」
そう言って、やんわりと“さん”付けを断った。
「え……と、それじゃ、イレクくん。お早う。コーヒー、ありがとう」
イレクくんは懐こく笑って、「どういたしまして」と応えた。
わたしは上半身だけをようやく起こし、差し出されたカップをトレイごと受け取った。それをサイドテーブルに置き、それからこぼさないようゆっくりと慎重に、カップを手に取った。コーヒーの甘くて苦い芳香が、心地よく鼻先をくすぐる。
「私の時とずいぶん態度が違うね、ミズカ? ……なるほどイレク、子供の姿というのは、女性相手に使えるね」
ようやく寝台から離れてくれたユエル様だったけれど、部屋から出て行く気配はない。
ユエル様は眉を僅かにしかめて両腕を組み、如才のないイレクくんを見やる。
「否定はしませんが、ユエル様ほどではないと思いますよ?」
「私ほどの美貌の持ち主はそうはいないだろうからね。意図して“使って”いるわけではないが」
「ユエル様は、父……イスラから聞いていた通りの方ですね。イスラとよく似ています。類は友を呼ぶということでしょうか」
「心外だね、イスラと似ているなど。侮辱以外の何ものでもないな」
「そうですか? でも同じようなことを言っていましたよ。俺はアレほど酷くない、と」
イレクくんは愛想良く笑いながら、しれっと言い放つ。ユエル様は鼻白み、苦虫を奥歯で噛み潰したような顔になっていた。
イレクくんって、なんだかすごい。
それにイレクくんの話を通して、ユエル様とイスラさんの関係がどんなものかも、なんとなく分かってきた。
やっぱりお友達なのかなって。二人して断固否定するだろうけど。
「それはそうと、ユエル様。実はお願いがあるのですが。ミズカさんにも」
「何?」と、わたしの方が先に聞き返した。
イレクくんは、店の手伝いをしたいと申し出た。店……つまり「占いの門」の。「占い」はできないから、せめて受付や客の接待などを手伝わせてくれ、と。
断る理由もなかったし、わたしもユエル様も快く承諾した。
イレクくんも生気を吸わなくてはならない、その理由もあってのことだ。
父親であるイスラさんはどうしたのかと訊くと、とうに出かけたと返ってきた。避暑地はかっこうのナンパ場所だから、生気を得るには困らないでしょうねと呆れたようにイレクくんは言う。
アリアさんもとっくに出かけたと、ユエル様が付け加えた。さっそく乗馬クラブにもぐりこむべく、行動を開始したらしい。
人間の生気は、体内に溜めておけるから毎日飲む必要はないのだけど、できれば「飲めるときには飲んでおきたい」のだという。
「とくにユエル様は、今は渇きやすいのでしょう? 期間中はとくに渇きやすいのだと聞きました」
イレクくんは意味ありげに笑って、ユエル様に問いかけた。けれどユエル様は黙して答えない。
ユエル様の表情が僅かに硬くなった気がしたけど、昨日のように剣呑な雰囲気にはならなくて、ほっとした。相手にもよるのかもしれない。
「長距離の移動で、さすがに僕も渇き気味なので、お店を手伝わせていただければ助かります。ユエル様、ミズカさん、宜しくお願いします」
イレクくんは軽くお辞儀をする。
わたしは「こちらこそ」と応えてから、
「そろそろ着替えたいのですけど。……お二人とも、出て行ってもらえませんか?」
ようやくその一言を、口にした。
アリアさんとイスラさんが協力して、寝具やリネン、その他の生活用品を揃えてくださった。その手際の良さというか、行動力の早さには驚かされた。ここに到着してまだ僅かの時間しか経ってないというのに、もういろんなお店を網羅しているみたいだった。「ここに来る前に、ちゃんとガイドブックをチェックしてきたもの」と、アリアさんは朗らかに笑った。「とくにアウトレットなんかのお店はね」
そういえば、普段おっとりと構えている鷹揚なユエル様も、こういった手配は実に素早い。“幻惑術”を駆使して、生活空間をあっという間に整えてしまう。適応能力が高いということなんだろうか。
「人間社会にうまく融け込むために、必然的に身についた能力といえようね」
そんな風にユエル様は述懐していたっけ。
「なし崩しに、僕達までお世話になることになってしまって、すみません」
生真面目で律儀な性格であるらしいイレクくんは改めて謝辞を述べて、それから各人が寝泊まりする部屋を一緒に整えてくれた。
父親のイスラさんとは「できれば別室がいいです」とのことで、イレクくんにも個室を宛がった。イスラさんも「その方がありがたいね」と皮肉げに返していた。
すげない会話をしているイスラさんとイレクくんだけど、仲違してるようではなく、アリアさんなどは「何のかんのといっても仲良し親子よねぇ」とクスクス忍び笑っていた。
俄かに忙しく賑やかになり、おかげで多少は気が紛れた。
けれど、やっぱりどうしても部屋に閉じこもってしまったユエル様のことが気がかりだった。
昼を過ぎても、日が沈んでも、ユエル様は出てきてくれなかった。
一度だけ、お茶を用意しましたとドアの前で声をかけたけど、返事はなかった。暗くなっても明かりがつく様子はなく、おそらくは眠っているのだろうと推察できた。……けれど。
けれど、不安でたまらなかった。
――ユエル様……
わたしはどうしたらいいんですか? ここにこのまま、こうして居ていいんですか?
――成す術もないままで……。
* * *
雨が降りそうなほどの空模様ではないけど、昨日とうってかわっての曇天は、わたしの心を反映しているようで、ちょっと残念なような腹立たしいような奇妙な具合だ。
さらには、昨日とうってかわった態度のユエル様にも、少しばかり腹を立てている。
「君が朝寝坊なんて珍しいね、ミズカ?」
「…………」
にこりと微笑んで、ユエル様はわたしの顔を覗き込んでくる。
昨日の、あの重々しく冷たい態度はいったい何? と思わせるほどの笑顔っぷりだ。
もうっ! だいたい誰のせいで寝過ごしたと思っているんですか。
「イレクがコーヒーを淹れてくれたから、飲んでおいで。今日はちゃんと開店するから、それまでに支度も済ませておかなくてはね」
ユエル様のことが気にかかってなかなか寝つけなかったというのに(といっても、さすがに動き回って疲れたのか、寝つきは悪かったけど気づいたら眠ってて、そして今に至っているわけだけど)、まるで何事もなかったかのような暢気顔は、どういうこと?
「ユエル様、起こしてくださってありがとうございます。……けど」
「けど、なんだい?」
「寝室に忍び込んでくるのは心臓に悪いからできればやめてほしいと、以前から申し上げていたと思うのですけど」
「ああ、そうだったかな? しかしそうすると、ミズカはきっと昼過ぎまで寝こけてしまうに違いないだろう?」
「ユエル様じゃあるまいし、そんなことはありません。寝起きはユエル様よりはいいつもりです」
わたしはまだ寝台から出られずにいる。夜着のままということもあるし、ユエル様が寝台に腰をおろしているからだ。
どうやらわたしが起きるまで、そうしていたらしい。
もう、恥ずかしいったらないんですけど、ユエル様!
きっと間の抜けた寝顔をしていたに違いないもの! 癖のある髪は寝乱れてさらにくしゃくしゃになってたろうし、寝相は……そんなに悪くないはずだけど、もぞもぞ動いてただろうし、……変な寝言とか呟いてなければいいけれど。
ユエル様が以前、
「ミズカは仔猫のような寝方をするね」
と笑ったことがあった。
それって、どんな寝方なんだろう……?
落ち着きがないってことなのかな。
ユエル様はからかうように笑って、「見ていて、くすぐったい」と答えた。
どういう意味なのかますます分からず、わたしは首を捻ったものだ。
本当にユエル様は謎めいた言動の多い方だ。気紛れで、不可解で、意味深なところがあって、わたしはいつもそんなユエル様に振り回されてばかりいる。それが嫌だというのではなく、ただ少しばかり困ってしまうのだ。
今朝もまた、わたしを困らせて嬉しげに微笑んでいるユエル様は、とうに着替えを済ませている。ユエル様の本日のお召し物は、内衿に黒サテンがちらりと見えるボタンダウンの白シャツに、ヴィンテージのジーンズ。グリフィン模様の銀のバックルがアクセントになってて、全体的にカジュアルなスタイルだ。ちなみに嵌めている指輪やネックレスといったアクセサリーも、すべて銀。
吸血鬼って、狼男がそうなように、銀が苦手だという設定なはずなんだけど、ユエル様は金より銀を好む。
以前、苦手なのではないですかと確認したことがある。
「銀の弾丸なら、たしかに苦手だね」
ユエル様は悪戯っぽく笑って答えたっけ。
そりゃぁ、弾丸は苦手でしょうとも。
撃たれて当たった経験はないとユエル様はくすくす笑いながら言って、わたしを青ざめたり赤らめたりさせた。
わたしがそんな他愛もないことを思い出したのを察したのかどうなのか、ユエル様は悪戯っぽく微笑んでいる。何か訊きたげにわたしの顔を覗きこみ、肩に流れた銀の髪を軽く後ろへ払った。その何気ない仕草ですら、典雅で美しい。
ユエル様は痩身で上背もあるから、どんなスタイルもとてもよくお似合いで、シンプルにまとめている時でも、安っぽさは全然感じられない。ユエル様自身に高級感が溢れているからなんだろう。
それにしても今日のスタイルは、「占い師」としては、ちょっと神秘性に欠けやしないかしら?
全身黒ずくめにして、仮面をつけたり妙な形の帽子を被ったりするよりはいいのかもしれないけど。
――ううん、そんなことよりっ!
目覚めて、わたしがどれほど驚いたか!
容姿端麗な銀髪の美青年が、間近でじっと覗き込んでたんだもの!
目を開けて、緑の瞳とぶつかった途端、悲鳴こそ上げなかったけど、心臓が口から出そうになって、一気に心拍数があがって息が止まりそうになった。
優しい声音で「おはよう、ミズカ」と囁かれては、硬直したって仕方ないと思うの!
心臓に悪い起こし方はしないでくださって、何度もお願い申し上げているのに!
「親切に起こしにきたというのに文句を言われてしまうとは、やるせないね」
「いかにも嘘っぽくしょんぼりしないでください。――もう、いいです、ユエル様、わたし、着替えますから」
語尾に、寝室の扉を叩く音が重なった。わたしに代わってユエル様が応えた。
「お邪魔します」
入ってきたのは、イレクくんだった。
「お早うございます、ミズカさん。なかなか降りてこられないので、こちらにコーヒーをお持ちしました」
昨日はよそゆきの格好をしていたイレクくんだったけれど、今日はもう少しラフな格好だ。水色の半袖パーカーと半ズボン、そして白いスニーカー。子供らしく、似合っている。けど、「子供」ではないのよね。
「ありがとう……ございます、え、と、イレクく……じゃなくて、イレクさ……」
イレクくんはわたしよりもうんと年上なのだと知って、呼び方を改めようとした。けれどイレクくんは、
「“くん”でいいと、昨日も言ったでしょう? 敬語も必要ないって。見た目十歳前後の僕に“さん”付けは不釣合いですよ」
そう言って、やんわりと“さん”付けを断った。
「え……と、それじゃ、イレクくん。お早う。コーヒー、ありがとう」
イレクくんは懐こく笑って、「どういたしまして」と応えた。
わたしは上半身だけをようやく起こし、差し出されたカップをトレイごと受け取った。それをサイドテーブルに置き、それからこぼさないようゆっくりと慎重に、カップを手に取った。コーヒーの甘くて苦い芳香が、心地よく鼻先をくすぐる。
「私の時とずいぶん態度が違うね、ミズカ? ……なるほどイレク、子供の姿というのは、女性相手に使えるね」
ようやく寝台から離れてくれたユエル様だったけれど、部屋から出て行く気配はない。
ユエル様は眉を僅かにしかめて両腕を組み、如才のないイレクくんを見やる。
「否定はしませんが、ユエル様ほどではないと思いますよ?」
「私ほどの美貌の持ち主はそうはいないだろうからね。意図して“使って”いるわけではないが」
「ユエル様は、父……イスラから聞いていた通りの方ですね。イスラとよく似ています。類は友を呼ぶということでしょうか」
「心外だね、イスラと似ているなど。侮辱以外の何ものでもないな」
「そうですか? でも同じようなことを言っていましたよ。俺はアレほど酷くない、と」
イレクくんは愛想良く笑いながら、しれっと言い放つ。ユエル様は鼻白み、苦虫を奥歯で噛み潰したような顔になっていた。
イレクくんって、なんだかすごい。
それにイレクくんの話を通して、ユエル様とイスラさんの関係がどんなものかも、なんとなく分かってきた。
やっぱりお友達なのかなって。二人して断固否定するだろうけど。
「それはそうと、ユエル様。実はお願いがあるのですが。ミズカさんにも」
「何?」と、わたしの方が先に聞き返した。
イレクくんは、店の手伝いをしたいと申し出た。店……つまり「占いの門」の。「占い」はできないから、せめて受付や客の接待などを手伝わせてくれ、と。
断る理由もなかったし、わたしもユエル様も快く承諾した。
イレクくんも生気を吸わなくてはならない、その理由もあってのことだ。
父親であるイスラさんはどうしたのかと訊くと、とうに出かけたと返ってきた。避暑地はかっこうのナンパ場所だから、生気を得るには困らないでしょうねと呆れたようにイレクくんは言う。
アリアさんもとっくに出かけたと、ユエル様が付け加えた。さっそく乗馬クラブにもぐりこむべく、行動を開始したらしい。
人間の生気は、体内に溜めておけるから毎日飲む必要はないのだけど、できれば「飲めるときには飲んでおきたい」のだという。
「とくにユエル様は、今は渇きやすいのでしょう? 期間中はとくに渇きやすいのだと聞きました」
イレクくんは意味ありげに笑って、ユエル様に問いかけた。けれどユエル様は黙して答えない。
ユエル様の表情が僅かに硬くなった気がしたけど、昨日のように剣呑な雰囲気にはならなくて、ほっとした。相手にもよるのかもしれない。
「長距離の移動で、さすがに僕も渇き気味なので、お店を手伝わせていただければ助かります。ユエル様、ミズカさん、宜しくお願いします」
イレクくんは軽くお辞儀をする。
わたしは「こちらこそ」と応えてから、
「そろそろ着替えたいのですけど。……お二人とも、出て行ってもらえませんか?」
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