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森の魔女と小さな眷属 2
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ともあれ、早急に結論を出せねばならない事ではない。ひとまず元風属性の精霊だったリフレナスに精霊の身柄を預けて、森の魔女は結界の魔法陣の作成に戻ることにした。日暮れ前までに仕上げなくてはならないのだが、もうあまり時間がない。
と、急いで作業を再開したのだが、ほどなくしてまた中断する羽目になった。
「おいっ! そいつを捕まえてくれ!」
リフレナスの、珍しく慌てた声がし、森の魔女は反射的に振り返った。
同時に。
しゃらんと、涼しげな音が鳴り、それが森の魔女の顔面にぶつかってきた。
「わっ」
痛くはなかったけれど、さすがに驚いて、ぶつかってきたそれを顔から離した。ちょっと湿っぽく柔らかいそれは、さきほど捕まえた精霊だった。
「ちょっ、と……リプ?!」
ネズミの姿のまま、慌てて追いかけて来たらしいリフレナスは森の魔女の足元にいた。
どうやら小さな精霊は、リフレナスのことがお気に召さないようだ。森の魔女の手にぴったりくっついて離れようとしない。しかも何やら水の粒子がぱちぱちと弾いている。警戒しているのかもしれない。
「どうしたの、リプってば」
「知るか。ちっともおとなしくしないから籠の中にでも入れておこうとしたら逃げ出したんだよ」
「怯えちゃってるじゃない」
「一時もじっとしていないんだ。もう俺の手には負えん。おまえが持ってろ」
普段は甲斐甲斐しいといってもいいリフレナスなのだが、自分より小さなものは扱いにくいのだろうか。
「まだ作業中なんだけど。リプってば、臍曲げないでよ」
「知るか。魔法陣もあと少しで完成だろう? 完成したら呼べ」
「ちょっと、リプってば」
すっかり機嫌を損ねたリフレナスは、森の魔女が呼び止めるのも聞かず、文字通り「尻尾を巻いて」逃げ出してしまった。
「もうっ」
しかたなく、森の魔女は精霊を傍においたまま、魔法陣の作成を再開した。
精霊はともかく魔女の傍近くにいたいようで、頭や肩の上にとまっては、楽しそうにきらきらと光を放っていた。
「こらこら。あともう少し、おとなしくしててね。魔法陣がしあがったら、ちゃんと還してあげるから」
還してあげる、といったものの、実はリフレナスの言った言葉が心にひっかかっていた。
精霊と契約を結んで、眷属にする。
リフレナスは、先代の森の魔女から引き継いだ眷属だ。リフレナスの「主」は現在の……二代目の森の魔女だ。リフレナスもそう言ってくれている。
けれど、風の精霊を召喚して、「リフレナス」と名付けて契約を交わしたのは、先代の森の魔女なのだ。それを思うと、少し……本当に少しだけだが、寂しいような気がしてしまう。
じつのところ、自分で精霊を召喚して契約を交わすことに、多少の興味はあったのだ。
眷属を持たない魔女も、いるにはいるらしい。あるいは年数をあらかじめ取り決めておく、期限付きの眷属契約もあるという。
眷属を持つのには様々な理由があるが、魔力の抑制もそのひとつに挙げられる。外部に魔力をよけておく、ということらしい。魔力をひとつの身体に籠めておくより、負担が軽くなるらしい。
師匠からそれらのことを学んだときに、いつか自分も精霊を召喚し、契約を交わす、という行為をしてみたいと、森の魔女は考えていたのだ。「いつか機会があれば」くらいの軽い考えではあった。
その「機会」が訪れた、ということなのかもしれない。
自分で精霊を召喚、はできなかったが……。
「……うーん……どうしようかな……」
楽しそうに光の粉を振り撒いてはしゃいでいる精霊は、時折何かを請うような目をして森の魔女の顔を覗き込んでくる。
一緒に遊んで。そう言っているようにも見える。
それは、無邪気な子供の要求だ。
「…………」
ふと窓の外を見やる。晴れて光が差しているようだが、雨粒はまだ落ちている。雲は風に流されて刻一刻と形を変えている。陽が差したり、翳ったり。めまぐるしい空模様だ。
水の精霊を掌に載せた。ひんやりとして、心地好い。
先ほどよりずっと姿かたちがはっきりして、安定してきたようだ。透明なガラス細工の人形のようでもあるが、表情も出てきていた。
「……小さいね、まだ」
掌に載る精霊に、重さはほとんどなかった。
森の魔女が声をかけると、精霊はきょときょとと瞬きをする。声を発することはまだできないようだ。
「まだ、はやいかな……」
言ってから、森の魔女は窓の縁に精霊を座らせた。「もうちょっとだけここにいてね」と声をかけると、分かったような分からないような、けれど精霊はこくんと頷いた。
幸い、日暮れ前までに魔法陣は完成した。最終確認をリフレナスにしてもらい、結界魔法の準備は整った。
魔法陣の四方、東西南北に魔力のこめられた貴石を置く。東に青藍玉、西に白輝石、南に紅玉、北に黒曜石。そして森の魔女は水晶の玉を片手に持って、魔法陣の中央に立つ。
「リプ、準備できたよ」
「いい頃合だな、黄昏時とは」
リフレナスは素早く駆けつけて森の魔女の肩に乗った。
「そういや、その精霊はどうするんだ」
言って、リフレナスは反対側の肩にちゃっかりと腰を据えている精霊に目をやった。キラキラと光を弾かせている精霊は、すっかり森の魔女に懐いたようだ。
「還すよ。結界を張って、空間を整えてから」
「眷属にしなくていいのか?」
「うん。リプがいるし」
リフレナスの長い尻尾が、もの言いたげに揺れている。
「今はまだ、いいの。それにこの子もまだ小さすぎるものね」
「……そうか」
リフレナスはそっけなく応じた。そう答えるだろうことは、予想の範疇だった。「今はまだ」という言葉も。
「さ、急がなきゃ。陽が沈みきっちゃう」
黄昏時は、短い。太陽が沈みきってしまうまでに術を施し、結界魔法を仕上げなければならない。
「東の青石、西の白石、南の紅石、北の黒石、貴石の光もちて、四方を照らし、守りの力を示せ」
呪文は鍵だ。結界魔法の力が開かれ、放出される。
「始祖の光、始祖の闇、我を守り、我を助けよ。我が名は、キラ。この名において、守護の結界陣を敷く。我が住まい、守りの森。光に溢れ、闇の安寧をもたらし、この地に祝福をたれたまえ」
魔方陣の中央から、光と風が巻き起こり、それが渦となって四方に拡がっていく。森の魔女の足元に黒い影が揺らめき、その影も螺旋を描いて魔方陣の外側へ伸び、やがては地に消えた。
森の魔女は光を放つ水晶を掲げた。光が、音となる。
「結界の開封者は、我、キラ。封呪の鍵保持者は、眷属」
「我、リフレナス」
水晶が閃光を放つ。空間が、一瞬白く輝く。光の渦は、森の魔女の掌にある水晶に収束されていった。
森の魔女は目を閉じ、結界が拡がっていく空間を感じ取る。膨張しすぎないよう、自身の力が及ぶ範囲でそれを留める。
光と闇とが、風となって森を駆け抜けていく。それを森の魔女は全身で感じ取る。身体が溶けてなくなりそうな感覚に襲われるが、リフレナスがそれを抑制してくれる。
たった、一瞬。だがまるで永遠のような体感だ。
目を開け、水晶を両手で抱えて、森の魔女は大きくため息をついた。足元を見ると、結界は消えている。四方に置いた貴石だけがその場に残っていた。
どうやらうまくいったようだ。描いた結界陣が消えたことが、成功の証だ。
「光の女神ルシアラに幸いあれ」
ほっとして、森の魔女は息を吐く。
同時に、リフレナスもぶるんと身体を震わせた。そして森の魔女の肩から降りて窓辺へと移った。窓は、開かれている。冷たいほどの風がそこから入りこんでいた。
「さて、お次はあなたね」
言って、森の魔女は水の精霊を片手に乗せた。
「もう、還らなきゃ。ね?」
森の魔女は呼吸を整えた。
結界魔法は魔力の消費が激しい。実のところ頭もふらつくし、身体も気だるい。けれどへたり込んでしまうわけにはいかなかった。
夕闇が空を覆い始めていた。雨もすでに止んでいて、窓辺に差し込む西日がまぶしい。
「眷属になるには、まだちょっと小さいものね。だから、今日はもうお帰り」
森の魔女の掌の上、水の精霊は小首を傾げた。
「けれどせっかくこうして出逢えたんだし、仮の契約を結ぶね?」
やや意外そうに、リフナレスは主を見やった。あっさり還してしまうものだとばかり、思っていた。
「遊びに来たかったら、またおいで。眷属になるお試し期間、みたいな感じかな」
精霊はぴょいっと飛び跳ねる。まるで喜んでいるかのように。まだ言葉を発せられないので承諾の意を受け取ったとは言い難いが、たぶん互いに気持ちは通じただろう。
「そうね……名前。あなたの名前は、サラ」
指先を、水の精霊の頭に触れさせる。そうして、森の魔女は精霊に名を贈った。
リフレナスは失笑した。単純な主らしい名付けだ。
おそらく水の精霊のたてる「しゃらしゃら」という涼やかな音からの連想だろう。自分の名とも似させたかったのかもしれない。ともあれ、ふさわしい名ではある。その名はきっと初めから決まっていた。
「サラ。あなたの名は、サラ、だよ」
「……サ、ラ……?」
初めて、精霊は口をきいた。
姿形がよりいっそうはっきりとしてくる。
名を与えられたことによって姿を保つことができ、存在が固定されたものとなった。それが、つまり「契約」だ。
「そう、サラ、だよ。そしてわたしは、キラ、というの。……憶えててね」
仮の契約と森の魔女は言ったが、命名し、さらに己の名を告げた時点で、眷属として迎え入れたに等しい。
サラと名付けられた精霊はふわりと浮き、名付け親となった森の魔女の鼻先に、軽くキスをした。それから窓辺へと移り、リフレナスの傍に寄る。そして物おじせず、リフレナスの耳にもキスをした。リフレナスもそれを甘んじて受けた。
「じゃぁ、またね、サラ」
頷いて、水の精霊サラは窓辺から飛び立った。名残惜しそうに何度かキラの方を振り返ったが、舞い戻ってくることはなかった。空へと飛んでゆき、やがてその姿は見えなくなった。
「リプ、見て」
キラは空を指差した。
雨、ではない。ちいさな光の粒子がきらきらと光っていた。夕日に反射して、虹色に輝いていた。
「綺麗だね」
「そうだな」
暫時、キラとリフレナスは空を眺めていた。夕空は瞬く間に藍色に染まっていく。その一瞬一瞬が見とれるほどに美しい。
ひときわ明るい星が西の空に瞬いているのを見つけ、それを合図にリフレナスは窓辺から離れた。
「ともあれ、ご苦労だったな、キラ」
「うん」
「そろそろ飯にしよう。さすがに腹が減った。作り置きがいくつかあるんだろ?」
「うん、あるけど。温めなきゃ」
「今夜はちゃんと食って、ちゃんと休め。いいな?」
「うん、そうする」
「行くぞ」
リフレナスはキッチンへ向かって駆けて行き、キラは慌ててそれを追う。
「リプってば、待ってよ!」
「待つほどの距離じゃない」
つれないんだから、とキラは笑みをこぼす。
そして、キラはふと気付く。
今さらだけれど、リフレナスはちゃんと「今の」森の魔女の眷属なのだ。先代の森の魔女から惰性で眷属になったのではない。そこにはちゃんと、リフレナスの意思がある。
リフレナスの「主」は、「わたし」なんだ……――
本当に今更だ。今更だけど、それを自覚した。
――リプは、ずっとそれを自覚していたのに、わたしだけが無自覚だったんだ。
たわいない呼びかけと、そっけない返事。
「リプ」と呼ぶたびに、文句をつけながらでもちゃんと振り返ってくれていた。
「ねえ、リプってば」
呼びかければ、応えてくれるのだ。
「リフレナスだと、何度言ったらわかるんだ」
と、いつもそうであるように、ちょっと呆れ、ちょっと諦めたかのように。
と、急いで作業を再開したのだが、ほどなくしてまた中断する羽目になった。
「おいっ! そいつを捕まえてくれ!」
リフレナスの、珍しく慌てた声がし、森の魔女は反射的に振り返った。
同時に。
しゃらんと、涼しげな音が鳴り、それが森の魔女の顔面にぶつかってきた。
「わっ」
痛くはなかったけれど、さすがに驚いて、ぶつかってきたそれを顔から離した。ちょっと湿っぽく柔らかいそれは、さきほど捕まえた精霊だった。
「ちょっ、と……リプ?!」
ネズミの姿のまま、慌てて追いかけて来たらしいリフレナスは森の魔女の足元にいた。
どうやら小さな精霊は、リフレナスのことがお気に召さないようだ。森の魔女の手にぴったりくっついて離れようとしない。しかも何やら水の粒子がぱちぱちと弾いている。警戒しているのかもしれない。
「どうしたの、リプってば」
「知るか。ちっともおとなしくしないから籠の中にでも入れておこうとしたら逃げ出したんだよ」
「怯えちゃってるじゃない」
「一時もじっとしていないんだ。もう俺の手には負えん。おまえが持ってろ」
普段は甲斐甲斐しいといってもいいリフレナスなのだが、自分より小さなものは扱いにくいのだろうか。
「まだ作業中なんだけど。リプってば、臍曲げないでよ」
「知るか。魔法陣もあと少しで完成だろう? 完成したら呼べ」
「ちょっと、リプってば」
すっかり機嫌を損ねたリフレナスは、森の魔女が呼び止めるのも聞かず、文字通り「尻尾を巻いて」逃げ出してしまった。
「もうっ」
しかたなく、森の魔女は精霊を傍においたまま、魔法陣の作成を再開した。
精霊はともかく魔女の傍近くにいたいようで、頭や肩の上にとまっては、楽しそうにきらきらと光を放っていた。
「こらこら。あともう少し、おとなしくしててね。魔法陣がしあがったら、ちゃんと還してあげるから」
還してあげる、といったものの、実はリフレナスの言った言葉が心にひっかかっていた。
精霊と契約を結んで、眷属にする。
リフレナスは、先代の森の魔女から引き継いだ眷属だ。リフレナスの「主」は現在の……二代目の森の魔女だ。リフレナスもそう言ってくれている。
けれど、風の精霊を召喚して、「リフレナス」と名付けて契約を交わしたのは、先代の森の魔女なのだ。それを思うと、少し……本当に少しだけだが、寂しいような気がしてしまう。
じつのところ、自分で精霊を召喚して契約を交わすことに、多少の興味はあったのだ。
眷属を持たない魔女も、いるにはいるらしい。あるいは年数をあらかじめ取り決めておく、期限付きの眷属契約もあるという。
眷属を持つのには様々な理由があるが、魔力の抑制もそのひとつに挙げられる。外部に魔力をよけておく、ということらしい。魔力をひとつの身体に籠めておくより、負担が軽くなるらしい。
師匠からそれらのことを学んだときに、いつか自分も精霊を召喚し、契約を交わす、という行為をしてみたいと、森の魔女は考えていたのだ。「いつか機会があれば」くらいの軽い考えではあった。
その「機会」が訪れた、ということなのかもしれない。
自分で精霊を召喚、はできなかったが……。
「……うーん……どうしようかな……」
楽しそうに光の粉を振り撒いてはしゃいでいる精霊は、時折何かを請うような目をして森の魔女の顔を覗き込んでくる。
一緒に遊んで。そう言っているようにも見える。
それは、無邪気な子供の要求だ。
「…………」
ふと窓の外を見やる。晴れて光が差しているようだが、雨粒はまだ落ちている。雲は風に流されて刻一刻と形を変えている。陽が差したり、翳ったり。めまぐるしい空模様だ。
水の精霊を掌に載せた。ひんやりとして、心地好い。
先ほどよりずっと姿かたちがはっきりして、安定してきたようだ。透明なガラス細工の人形のようでもあるが、表情も出てきていた。
「……小さいね、まだ」
掌に載る精霊に、重さはほとんどなかった。
森の魔女が声をかけると、精霊はきょときょとと瞬きをする。声を発することはまだできないようだ。
「まだ、はやいかな……」
言ってから、森の魔女は窓の縁に精霊を座らせた。「もうちょっとだけここにいてね」と声をかけると、分かったような分からないような、けれど精霊はこくんと頷いた。
幸い、日暮れ前までに魔法陣は完成した。最終確認をリフレナスにしてもらい、結界魔法の準備は整った。
魔法陣の四方、東西南北に魔力のこめられた貴石を置く。東に青藍玉、西に白輝石、南に紅玉、北に黒曜石。そして森の魔女は水晶の玉を片手に持って、魔法陣の中央に立つ。
「リプ、準備できたよ」
「いい頃合だな、黄昏時とは」
リフレナスは素早く駆けつけて森の魔女の肩に乗った。
「そういや、その精霊はどうするんだ」
言って、リフレナスは反対側の肩にちゃっかりと腰を据えている精霊に目をやった。キラキラと光を弾かせている精霊は、すっかり森の魔女に懐いたようだ。
「還すよ。結界を張って、空間を整えてから」
「眷属にしなくていいのか?」
「うん。リプがいるし」
リフレナスの長い尻尾が、もの言いたげに揺れている。
「今はまだ、いいの。それにこの子もまだ小さすぎるものね」
「……そうか」
リフレナスはそっけなく応じた。そう答えるだろうことは、予想の範疇だった。「今はまだ」という言葉も。
「さ、急がなきゃ。陽が沈みきっちゃう」
黄昏時は、短い。太陽が沈みきってしまうまでに術を施し、結界魔法を仕上げなければならない。
「東の青石、西の白石、南の紅石、北の黒石、貴石の光もちて、四方を照らし、守りの力を示せ」
呪文は鍵だ。結界魔法の力が開かれ、放出される。
「始祖の光、始祖の闇、我を守り、我を助けよ。我が名は、キラ。この名において、守護の結界陣を敷く。我が住まい、守りの森。光に溢れ、闇の安寧をもたらし、この地に祝福をたれたまえ」
魔方陣の中央から、光と風が巻き起こり、それが渦となって四方に拡がっていく。森の魔女の足元に黒い影が揺らめき、その影も螺旋を描いて魔方陣の外側へ伸び、やがては地に消えた。
森の魔女は光を放つ水晶を掲げた。光が、音となる。
「結界の開封者は、我、キラ。封呪の鍵保持者は、眷属」
「我、リフレナス」
水晶が閃光を放つ。空間が、一瞬白く輝く。光の渦は、森の魔女の掌にある水晶に収束されていった。
森の魔女は目を閉じ、結界が拡がっていく空間を感じ取る。膨張しすぎないよう、自身の力が及ぶ範囲でそれを留める。
光と闇とが、風となって森を駆け抜けていく。それを森の魔女は全身で感じ取る。身体が溶けてなくなりそうな感覚に襲われるが、リフレナスがそれを抑制してくれる。
たった、一瞬。だがまるで永遠のような体感だ。
目を開け、水晶を両手で抱えて、森の魔女は大きくため息をついた。足元を見ると、結界は消えている。四方に置いた貴石だけがその場に残っていた。
どうやらうまくいったようだ。描いた結界陣が消えたことが、成功の証だ。
「光の女神ルシアラに幸いあれ」
ほっとして、森の魔女は息を吐く。
同時に、リフレナスもぶるんと身体を震わせた。そして森の魔女の肩から降りて窓辺へと移った。窓は、開かれている。冷たいほどの風がそこから入りこんでいた。
「さて、お次はあなたね」
言って、森の魔女は水の精霊を片手に乗せた。
「もう、還らなきゃ。ね?」
森の魔女は呼吸を整えた。
結界魔法は魔力の消費が激しい。実のところ頭もふらつくし、身体も気だるい。けれどへたり込んでしまうわけにはいかなかった。
夕闇が空を覆い始めていた。雨もすでに止んでいて、窓辺に差し込む西日がまぶしい。
「眷属になるには、まだちょっと小さいものね。だから、今日はもうお帰り」
森の魔女の掌の上、水の精霊は小首を傾げた。
「けれどせっかくこうして出逢えたんだし、仮の契約を結ぶね?」
やや意外そうに、リフナレスは主を見やった。あっさり還してしまうものだとばかり、思っていた。
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「……サ、ラ……?」
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名を与えられたことによって姿を保つことができ、存在が固定されたものとなった。それが、つまり「契約」だ。
「そう、サラ、だよ。そしてわたしは、キラ、というの。……憶えててね」
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頷いて、水の精霊サラは窓辺から飛び立った。名残惜しそうに何度かキラの方を振り返ったが、舞い戻ってくることはなかった。空へと飛んでゆき、やがてその姿は見えなくなった。
「リプ、見て」
キラは空を指差した。
雨、ではない。ちいさな光の粒子がきらきらと光っていた。夕日に反射して、虹色に輝いていた。
「綺麗だね」
「そうだな」
暫時、キラとリフレナスは空を眺めていた。夕空は瞬く間に藍色に染まっていく。その一瞬一瞬が見とれるほどに美しい。
ひときわ明るい星が西の空に瞬いているのを見つけ、それを合図にリフレナスは窓辺から離れた。
「ともあれ、ご苦労だったな、キラ」
「うん」
「そろそろ飯にしよう。さすがに腹が減った。作り置きがいくつかあるんだろ?」
「うん、あるけど。温めなきゃ」
「今夜はちゃんと食って、ちゃんと休め。いいな?」
「うん、そうする」
「行くぞ」
リフレナスはキッチンへ向かって駆けて行き、キラは慌ててそれを追う。
「リプってば、待ってよ!」
「待つほどの距離じゃない」
つれないんだから、とキラは笑みをこぼす。
そして、キラはふと気付く。
今さらだけれど、リフレナスはちゃんと「今の」森の魔女の眷属なのだ。先代の森の魔女から惰性で眷属になったのではない。そこにはちゃんと、リフレナスの意思がある。
リフレナスの「主」は、「わたし」なんだ……――
本当に今更だ。今更だけど、それを自覚した。
――リプは、ずっとそれを自覚していたのに、わたしだけが無自覚だったんだ。
たわいない呼びかけと、そっけない返事。
「リプ」と呼ぶたびに、文句をつけながらでもちゃんと振り返ってくれていた。
「ねえ、リプってば」
呼びかければ、応えてくれるのだ。
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