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幸せな眼差し
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森の魔女は不思議に思っていた。
素朴な疑問といっていい類の、些細な「不思議」だ。
亜麻色の髪と瞳を持つ美貌の青年に膝を貸しているこの状況も不思議といえば不思議なのだが、これに関しては当人から「少し休ませて」とお願いされ、その際に膝枕を所望されて了承してしまったのだから、いまさら「なぜ」とは訊けない。休みたい、と言った理由も分かっている。ひと時の午睡であっても、それでこの青年の心身が休まるなら、膝を貸すくらいは……少しばかり照れくさくはあるが……構わない。
長閑な、春の午後。
お昼寝にはうってつけの、心地好い陽気だ。
麗らかな春の陽射しの下、色とりどりの花が咲き誇る中庭。森の魔女は敷布をひろげてそこに座っているのだが、正直なところ、手持無沙汰だった。
動くわけにはいかない。
森の魔女は嘆息し、亜麻色の髪の青年の寝顔を見やった。心地好さげに寝息を立てていなければ、精巧な石膏人形のようにも見える。皮膚に触れれば、ちゃんと温かい。ふっさりとした睫毛が時折小さく動いている。当たり前なのだけれど、人形でもなければ精霊でもない、彼は人間の青年なのだ。
頬にかかっている亜麻色の髪を、森の魔女はそっと摘まんで、それから引っ張らない程度に己の指に絡ませた。
不思議に思うことは、たくさんある。
たとえば、普段は目にすることのない、けれど確かに存在する精霊たちのこと。森の奥深く、あるいは闇の奥底に潜んで跳梁する機を窺っている魔物たちのこと。神代、はるかに遠い過去に存在していた精霊神たちの影響のこと。人間界と精霊界とが混じり合う精霊祭の日のこと。そして「魔法」そのもののこと。
――そして、森の魔女と呼ばれる、自分自身のこと。
不思議に思うことはたくさんあるけれど、森の魔女はあるがままをそのままに受け入れてきた。好奇心旺盛な性質ではあるから、自身で調べられることは様々に調べてきた。幸い、先代の森の魔女……師匠はたくさんの書物を森の館に残しておいてくれたから、それらを読むのは楽しい。封印されていて、未だ開けない書物や巻物もあるのも、森の魔女には不思議なことのひとつだ。師匠がかけた封印ではないから、いまのところ封印解除の見当もつけられない。
自分自身の魔力の属性についても、よくはわかっていない、「不思議」のひとつなのだ。
不思議と思うことに対して、あるがままを享受しつつも、やはり「どうして」なのかは知りたい。尋ねて、その返答があるものなら、なおのことだ。
問いかけは大事なことだよと、師匠から言い聞かせられていたから、出来る限りのことは知ろうと努力している。
「どうして」なのかと問いかけ、その答えに困らされることも、多々あるのだけれど。
一陣の風が吹きつけた。
瑞々しい緑の葉のつけた梢がなよやかに風に揺れ、葉擦れの音をたてる。
森の魔女は風に誘われるようにして面をあげた。枝と枝の隙間に青い空が見える。花の甘い香りを吸いこむようにして、静かに深呼吸した。
セレンの居城、トイン城の内庭はセレンの気にいりの場所だ。自然光が差し込む中庭は二面を壁に、もう二面を柱と廊下で囲まれた小さな庭だ。ティータイムを過ごせるように大木の下にはテーブルが置かれている。腕のいい園丁に管理させているだけあって、美しい庭園だ。とくに春花が豊富なこの季節は、まさに百花繚乱だ。
森の魔女は薄藍色の敷布の上で、セレンに膝枕をしている。円形の敷布をなぞるようにして、森の魔女の長い黒髪が広がっていた。さながら波紋のようだ。
セレンは寛ぎきって身体を横たえている。森の魔女を膝を枕にして横臥し、身じろぎもしない。
セレンは寝相がいい。ほとんど動かない。あまりに動かないものだから、心配になってしまう。
森の魔女は指に巻きつけていた亜麻色の髪を、なんとはなしに、撫ぜてみる。
絹のような手触りだ。傷んでいる様子も見られない。口元に引き寄せ、そしてちょっと匂いなぞ嗅いでみる。薔薇と陽だまりの匂いがする……気がする。
「……魔女殿」
セレンの睫毛が動き、ゆるりと瞼が持ちあがった。僅かに身じろいで、しかし身体は起こさない。セレンはやわらかな声音で森の魔女を呼んだ。
森の魔女は慌てて指に巻きつけたままの髪を放した。
「すみません、王子。起こしちゃいましたか?」
「……いや」
セレンは二、三度ゆっくりと目を瞬かせ、そうしてじっと森の魔女を見つめた。亜麻色のまなざしにぶつかって、森の魔女はどきりとしてしまう。まだ眠気の残っている亜麻色の瞳の、なんと甘やかで艶めいているのだろう。まるで蜜のようだ。舌にぴりりとくる、あま刺激的な甘さ。その瞳で見つめられると、どうしたって平常心ではいられなくなる。みるみるうちに、森の魔女の頬が朱に染まっていく。
「…………」
セレンは端正な容貌に優しい微笑みを湛えて、まじろぎもせずに森の魔女を見つめる。夢にまどろんでいるかのようだった。
ややあって、セレンは手を伸ばして森の魔女の黒髪をそっと摘まんだ。感触を楽しむように、親指の腹で撫ぜている。
「あの……王子……?」
「うん?」
セレンはまだ夢見心地のようだ。
沈黙が落ちかかる。重くも苦しくもない、甘いとすら言っていい沈黙だ。
森の魔女の鼓動が次第に速まってくる。無理からぬことだ。目にもまぶしい、煌煌しいほどの美貌の持ち主である美青年に見つめられたとあっては。そしてその見目麗しい青年は、森の魔女の恋人なのだ。恋しく想う人に見つめられてときめかないわけがない。しかもその恋人の微笑たるや、甘やかに艶めいて、愛の女神をも虜にしそうなまなざしなのだ。森の魔女はセレンのこの微笑にいつだって弱い。
一方のセレンもまた、似たようなことを森の魔女に対して思っていた。森の魔女の瞳は、濡れた黒曜石のようだ。明澄な双眸だが、時に底知れなさも感じる。純、というものはそういうものなのだろう。触れることを躊躇わせるような純粋な黒を、セレンは森の魔女の瞳に感じている。魔女ゆえの神秘性かもしれない。
セレンは恋人の黒髪を指に絡ませて、その指を紅潮している頬に触れさせた。森の魔女は一瞬身体を強張らせたが、セレンに触れられることを拒みはしない。ちょっと困ったように微笑んでセレンを見つめ返す。セレンはいまだ森の魔女の膝に頭をあずけたまま横たわっている。
「……王子って、髪に触るの好きですよね」
それが、森の魔女が思う「不思議」のことのひとつだ。
「触る、っていうか、……口づけるの、好きですよね?」
森の魔女の、思わず零したであろう、たわいない問い。
セレンは思わず目を瞬かせ、まじまじと恋人の顔を見つめ返した。なんの意図もなさそうな、本当にそれだけを不思議に思っているような、「問い」だ。
なんとも愛らしい問いかけを零してくるものだ。
セレンは相変わらず森の魔女の髪の感触を指先で楽しんでいる。
「私に触れられるのは、嫌?」
「そんなこと言ってないですってば」
少々意地悪なセレンの問い返しに、森の魔女はむっとして柳眉を逆立てた。
「嫌では、ない?」
「当たり前じゃないですかっ」
――当たり前。その言葉にセレンは小さく笑った。
セレンの期待する答えよりもさらに好ましいことを、森の魔女は言葉にしてくれる。それがセレンには嬉しく、いとおしさも増すのだ。本当に、可愛らしい。その想いで胸がほのぼのと温かくなる。
「ただ王子って、よくわたしの髪に触れてくるから、何か理由があるのかなぁって、ちょっと疑問というか不思議だったんです」
「不思議?」
「だってわたしの髪って、黒くてまっすぐなだけで、触って気持ちのいいものじゃないかなって。王子の髪の方がよっぽど綺麗で、触り心地いいもの」
自分の髪をみっともないと思っているわけではない。きちんと洗髪もしているし、櫛も通している。けれど、烏の羽みたいにただ黒くて、板みたいにすとんとまっすぐしてるだけだ。それよりも、セレンの亜麻色の髪の方が、よほど綺麗だ。やわらかく緩やかに波うっていて、光を含んだような明るい黄の色だ。陽にあたると黄金の漣のようにも見える。磨いた銅のような色を弾かせる時もあれば、透けるような黄金の輝きを見せる時もある。触り心地だって極上の絹のようだ。
たぶん、羨望もあるのだろう。
森の魔女はちょっとだけむくれたような表情をしていた。含羞に頬を赤らめているその顔は、子供っぽくもあるが、しかし眉のひそみには、恋を知る娘らしい仄かな翳が隠されている。以前の森の魔女にはなかったろう、その翳。
「……無意識にしていたことだからね、君が満足できるような明確な答えは出せないのだけれど」
セレンはようやく上体を起こし、森の魔女と向き合った。
「君の髪に触れるのは、やはり好きだからだよ。君の髪ほど美しい髪を、私は他に見たことがない」
セレンに断言されて、森の魔女は絶句した。ますます頬が赤くなる。
「そっ、それはちょっと言い過ぎなんじゃ……っ」
「私はただ、想うことを口にしているだけだよ」
「贔屓の引き倒し……だと思いますけど」
「押し倒しならば、いつでも望むことだけれど」
「なっ、何言ってるんですか、王子ってば!」
セレンの甘い軽口に、森の魔女は頭が沸騰しそうになっていた。
「まぁ……そうだね、ひとつ理由があるといえば、あるかな」
「……知らなくてもいいような気がしてきました」
セレンはにこりと微笑んで先を続ける。森の魔女は半ば観念した様子だった。
「君を抱きしめたいのだけど、君は存外逃げ足が速いからね。必死で捕まえようとして、それで髪を引いてしまうんだ」
「捕まえてって……」
「それと、口づけるのは君の瞳を見たいから、というのもあるかな。君の幸せな瞳……まなざしを確認したいんだ」
言ってから、セレンは森の魔女の黒髪をひと房、その手に取った。そして恭しく口づけて、上目遣いに恋人の顔を覗きこみ、微笑む。言ったことを、実践して見せたのだ。
「もうっ、王子ってば!!」
森の魔女は大仰に恥ずかしがって、セレンの手をぺちぺちと叩いた。セレンの手には相変わらず黒髪が握られている。
森の魔女は顔を真っ赤にして、口づけられたところから火が出そう、などと口にする。漏れた言葉があまりにも可愛らしく、セレンは笑みを深める。照れくさがる恋人を見るのがセレンの愉しみなのだ。
「どうしてと言うから、答えたのに」
「そういうの、答えじゃないですからっ」
「そう?」
「口説き文句って言うんです、そういうのはっ」
「なるほど」
セレンは楽しげにくすくす笑っている。
恥ずかしがって怒っているのか、それとも本心は喜んでいるのか。森の魔女は照れくさがりだから、嬉しいという思いを隠してしまいがちだ。それでもセレンの気持ちを受け取ってはくれるのだ。「口説かれている」という自覚も、ちゃんとあるようだから。
自然な成り行きだった。セレンは森の魔女をその腕に閉じ込めていた。
「もう……」
セレンの腕の中、森の魔女はちょっとだけ身を硬くしつつも、素直に身体を委ねた。
――逃げ足が速いなんてこと、全然ないから! と、森の魔女は心中で呟いていた。だって、こうしていとも容易くセレンに捕まっているではないか。
不思議に思っていたこととはいえ、迂闊に尋ねてはいけなかったと、森の魔女はほんの少しだけ後悔していた。しかしそれを問わずとも、この状態に持っていかれることは容易に想像できた。それに、結局のところ森の魔女もまたセレンの抱擁を望んでいたのだ。得られた答えに、ひとまず満足しておくことにしよう……――
まんまと森の魔女を腕の中に閉じ込めることに成功したセレンは、黒髪に頬を寄せて、その感触を存分に堪能した。陽にあたっていたせいか、魔女の髪はとても温かく、花の香もする。
「……もう少しこのまま、休ませてくれる?」
請われて、森の魔女は小声で応じた。しかたないですね、という声は呆れたように装っているけれど、森の魔女はおずおずとセレンの背に二の腕を回してくれた。
恥ずかしがり屋だけれど、とても優しく甘いのだ、森の魔女は。
セレンは、胸にある想いをそっと囁く。
「好きだよ、キラ」
君の、長くつややかな黒髪も、清純な黒眸も、好奇心旺盛でちょっと無鉄砲で、けれどとても照れ屋で、初心で。そんな君の全て。いとおしいから、口づけずにはいられない。
セレンの告白に、森の魔女……キラは体中を熱らせる。
セレンはキラの顎を指にのせ、顔をあげさせる。春の陽射しのような、あたたかくて甘い亜麻色の瞳がキラを捕える。逃げ出すなんて、無理だ。
キラは抵抗せず、「もう……」と呟いて、ゆっくりと瞼を落とした。
幸せな色をしたまなざしを、いまだけはと、隠して。
素朴な疑問といっていい類の、些細な「不思議」だ。
亜麻色の髪と瞳を持つ美貌の青年に膝を貸しているこの状況も不思議といえば不思議なのだが、これに関しては当人から「少し休ませて」とお願いされ、その際に膝枕を所望されて了承してしまったのだから、いまさら「なぜ」とは訊けない。休みたい、と言った理由も分かっている。ひと時の午睡であっても、それでこの青年の心身が休まるなら、膝を貸すくらいは……少しばかり照れくさくはあるが……構わない。
長閑な、春の午後。
お昼寝にはうってつけの、心地好い陽気だ。
麗らかな春の陽射しの下、色とりどりの花が咲き誇る中庭。森の魔女は敷布をひろげてそこに座っているのだが、正直なところ、手持無沙汰だった。
動くわけにはいかない。
森の魔女は嘆息し、亜麻色の髪の青年の寝顔を見やった。心地好さげに寝息を立てていなければ、精巧な石膏人形のようにも見える。皮膚に触れれば、ちゃんと温かい。ふっさりとした睫毛が時折小さく動いている。当たり前なのだけれど、人形でもなければ精霊でもない、彼は人間の青年なのだ。
頬にかかっている亜麻色の髪を、森の魔女はそっと摘まんで、それから引っ張らない程度に己の指に絡ませた。
不思議に思うことは、たくさんある。
たとえば、普段は目にすることのない、けれど確かに存在する精霊たちのこと。森の奥深く、あるいは闇の奥底に潜んで跳梁する機を窺っている魔物たちのこと。神代、はるかに遠い過去に存在していた精霊神たちの影響のこと。人間界と精霊界とが混じり合う精霊祭の日のこと。そして「魔法」そのもののこと。
――そして、森の魔女と呼ばれる、自分自身のこと。
不思議に思うことはたくさんあるけれど、森の魔女はあるがままをそのままに受け入れてきた。好奇心旺盛な性質ではあるから、自身で調べられることは様々に調べてきた。幸い、先代の森の魔女……師匠はたくさんの書物を森の館に残しておいてくれたから、それらを読むのは楽しい。封印されていて、未だ開けない書物や巻物もあるのも、森の魔女には不思議なことのひとつだ。師匠がかけた封印ではないから、いまのところ封印解除の見当もつけられない。
自分自身の魔力の属性についても、よくはわかっていない、「不思議」のひとつなのだ。
不思議と思うことに対して、あるがままを享受しつつも、やはり「どうして」なのかは知りたい。尋ねて、その返答があるものなら、なおのことだ。
問いかけは大事なことだよと、師匠から言い聞かせられていたから、出来る限りのことは知ろうと努力している。
「どうして」なのかと問いかけ、その答えに困らされることも、多々あるのだけれど。
一陣の風が吹きつけた。
瑞々しい緑の葉のつけた梢がなよやかに風に揺れ、葉擦れの音をたてる。
森の魔女は風に誘われるようにして面をあげた。枝と枝の隙間に青い空が見える。花の甘い香りを吸いこむようにして、静かに深呼吸した。
セレンの居城、トイン城の内庭はセレンの気にいりの場所だ。自然光が差し込む中庭は二面を壁に、もう二面を柱と廊下で囲まれた小さな庭だ。ティータイムを過ごせるように大木の下にはテーブルが置かれている。腕のいい園丁に管理させているだけあって、美しい庭園だ。とくに春花が豊富なこの季節は、まさに百花繚乱だ。
森の魔女は薄藍色の敷布の上で、セレンに膝枕をしている。円形の敷布をなぞるようにして、森の魔女の長い黒髪が広がっていた。さながら波紋のようだ。
セレンは寛ぎきって身体を横たえている。森の魔女を膝を枕にして横臥し、身じろぎもしない。
セレンは寝相がいい。ほとんど動かない。あまりに動かないものだから、心配になってしまう。
森の魔女は指に巻きつけていた亜麻色の髪を、なんとはなしに、撫ぜてみる。
絹のような手触りだ。傷んでいる様子も見られない。口元に引き寄せ、そしてちょっと匂いなぞ嗅いでみる。薔薇と陽だまりの匂いがする……気がする。
「……魔女殿」
セレンの睫毛が動き、ゆるりと瞼が持ちあがった。僅かに身じろいで、しかし身体は起こさない。セレンはやわらかな声音で森の魔女を呼んだ。
森の魔女は慌てて指に巻きつけたままの髪を放した。
「すみません、王子。起こしちゃいましたか?」
「……いや」
セレンは二、三度ゆっくりと目を瞬かせ、そうしてじっと森の魔女を見つめた。亜麻色のまなざしにぶつかって、森の魔女はどきりとしてしまう。まだ眠気の残っている亜麻色の瞳の、なんと甘やかで艶めいているのだろう。まるで蜜のようだ。舌にぴりりとくる、あま刺激的な甘さ。その瞳で見つめられると、どうしたって平常心ではいられなくなる。みるみるうちに、森の魔女の頬が朱に染まっていく。
「…………」
セレンは端正な容貌に優しい微笑みを湛えて、まじろぎもせずに森の魔女を見つめる。夢にまどろんでいるかのようだった。
ややあって、セレンは手を伸ばして森の魔女の黒髪をそっと摘まんだ。感触を楽しむように、親指の腹で撫ぜている。
「あの……王子……?」
「うん?」
セレンはまだ夢見心地のようだ。
沈黙が落ちかかる。重くも苦しくもない、甘いとすら言っていい沈黙だ。
森の魔女の鼓動が次第に速まってくる。無理からぬことだ。目にもまぶしい、煌煌しいほどの美貌の持ち主である美青年に見つめられたとあっては。そしてその見目麗しい青年は、森の魔女の恋人なのだ。恋しく想う人に見つめられてときめかないわけがない。しかもその恋人の微笑たるや、甘やかに艶めいて、愛の女神をも虜にしそうなまなざしなのだ。森の魔女はセレンのこの微笑にいつだって弱い。
一方のセレンもまた、似たようなことを森の魔女に対して思っていた。森の魔女の瞳は、濡れた黒曜石のようだ。明澄な双眸だが、時に底知れなさも感じる。純、というものはそういうものなのだろう。触れることを躊躇わせるような純粋な黒を、セレンは森の魔女の瞳に感じている。魔女ゆえの神秘性かもしれない。
セレンは恋人の黒髪を指に絡ませて、その指を紅潮している頬に触れさせた。森の魔女は一瞬身体を強張らせたが、セレンに触れられることを拒みはしない。ちょっと困ったように微笑んでセレンを見つめ返す。セレンはいまだ森の魔女の膝に頭をあずけたまま横たわっている。
「……王子って、髪に触るの好きですよね」
それが、森の魔女が思う「不思議」のことのひとつだ。
「触る、っていうか、……口づけるの、好きですよね?」
森の魔女の、思わず零したであろう、たわいない問い。
セレンは思わず目を瞬かせ、まじまじと恋人の顔を見つめ返した。なんの意図もなさそうな、本当にそれだけを不思議に思っているような、「問い」だ。
なんとも愛らしい問いかけを零してくるものだ。
セレンは相変わらず森の魔女の髪の感触を指先で楽しんでいる。
「私に触れられるのは、嫌?」
「そんなこと言ってないですってば」
少々意地悪なセレンの問い返しに、森の魔女はむっとして柳眉を逆立てた。
「嫌では、ない?」
「当たり前じゃないですかっ」
――当たり前。その言葉にセレンは小さく笑った。
セレンの期待する答えよりもさらに好ましいことを、森の魔女は言葉にしてくれる。それがセレンには嬉しく、いとおしさも増すのだ。本当に、可愛らしい。その想いで胸がほのぼのと温かくなる。
「ただ王子って、よくわたしの髪に触れてくるから、何か理由があるのかなぁって、ちょっと疑問というか不思議だったんです」
「不思議?」
「だってわたしの髪って、黒くてまっすぐなだけで、触って気持ちのいいものじゃないかなって。王子の髪の方がよっぽど綺麗で、触り心地いいもの」
自分の髪をみっともないと思っているわけではない。きちんと洗髪もしているし、櫛も通している。けれど、烏の羽みたいにただ黒くて、板みたいにすとんとまっすぐしてるだけだ。それよりも、セレンの亜麻色の髪の方が、よほど綺麗だ。やわらかく緩やかに波うっていて、光を含んだような明るい黄の色だ。陽にあたると黄金の漣のようにも見える。磨いた銅のような色を弾かせる時もあれば、透けるような黄金の輝きを見せる時もある。触り心地だって極上の絹のようだ。
たぶん、羨望もあるのだろう。
森の魔女はちょっとだけむくれたような表情をしていた。含羞に頬を赤らめているその顔は、子供っぽくもあるが、しかし眉のひそみには、恋を知る娘らしい仄かな翳が隠されている。以前の森の魔女にはなかったろう、その翳。
「……無意識にしていたことだからね、君が満足できるような明確な答えは出せないのだけれど」
セレンはようやく上体を起こし、森の魔女と向き合った。
「君の髪に触れるのは、やはり好きだからだよ。君の髪ほど美しい髪を、私は他に見たことがない」
セレンに断言されて、森の魔女は絶句した。ますます頬が赤くなる。
「そっ、それはちょっと言い過ぎなんじゃ……っ」
「私はただ、想うことを口にしているだけだよ」
「贔屓の引き倒し……だと思いますけど」
「押し倒しならば、いつでも望むことだけれど」
「なっ、何言ってるんですか、王子ってば!」
セレンの甘い軽口に、森の魔女は頭が沸騰しそうになっていた。
「まぁ……そうだね、ひとつ理由があるといえば、あるかな」
「……知らなくてもいいような気がしてきました」
セレンはにこりと微笑んで先を続ける。森の魔女は半ば観念した様子だった。
「君を抱きしめたいのだけど、君は存外逃げ足が速いからね。必死で捕まえようとして、それで髪を引いてしまうんだ」
「捕まえてって……」
「それと、口づけるのは君の瞳を見たいから、というのもあるかな。君の幸せな瞳……まなざしを確認したいんだ」
言ってから、セレンは森の魔女の黒髪をひと房、その手に取った。そして恭しく口づけて、上目遣いに恋人の顔を覗きこみ、微笑む。言ったことを、実践して見せたのだ。
「もうっ、王子ってば!!」
森の魔女は大仰に恥ずかしがって、セレンの手をぺちぺちと叩いた。セレンの手には相変わらず黒髪が握られている。
森の魔女は顔を真っ赤にして、口づけられたところから火が出そう、などと口にする。漏れた言葉があまりにも可愛らしく、セレンは笑みを深める。照れくさがる恋人を見るのがセレンの愉しみなのだ。
「どうしてと言うから、答えたのに」
「そういうの、答えじゃないですからっ」
「そう?」
「口説き文句って言うんです、そういうのはっ」
「なるほど」
セレンは楽しげにくすくす笑っている。
恥ずかしがって怒っているのか、それとも本心は喜んでいるのか。森の魔女は照れくさがりだから、嬉しいという思いを隠してしまいがちだ。それでもセレンの気持ちを受け取ってはくれるのだ。「口説かれている」という自覚も、ちゃんとあるようだから。
自然な成り行きだった。セレンは森の魔女をその腕に閉じ込めていた。
「もう……」
セレンの腕の中、森の魔女はちょっとだけ身を硬くしつつも、素直に身体を委ねた。
――逃げ足が速いなんてこと、全然ないから! と、森の魔女は心中で呟いていた。だって、こうしていとも容易くセレンに捕まっているではないか。
不思議に思っていたこととはいえ、迂闊に尋ねてはいけなかったと、森の魔女はほんの少しだけ後悔していた。しかしそれを問わずとも、この状態に持っていかれることは容易に想像できた。それに、結局のところ森の魔女もまたセレンの抱擁を望んでいたのだ。得られた答えに、ひとまず満足しておくことにしよう……――
まんまと森の魔女を腕の中に閉じ込めることに成功したセレンは、黒髪に頬を寄せて、その感触を存分に堪能した。陽にあたっていたせいか、魔女の髪はとても温かく、花の香もする。
「……もう少しこのまま、休ませてくれる?」
請われて、森の魔女は小声で応じた。しかたないですね、という声は呆れたように装っているけれど、森の魔女はおずおずとセレンの背に二の腕を回してくれた。
恥ずかしがり屋だけれど、とても優しく甘いのだ、森の魔女は。
セレンは、胸にある想いをそっと囁く。
「好きだよ、キラ」
君の、長くつややかな黒髪も、清純な黒眸も、好奇心旺盛でちょっと無鉄砲で、けれどとても照れ屋で、初心で。そんな君の全て。いとおしいから、口づけずにはいられない。
セレンの告白に、森の魔女……キラは体中を熱らせる。
セレンはキラの顎を指にのせ、顔をあげさせる。春の陽射しのような、あたたかくて甘い亜麻色の瞳がキラを捕える。逃げ出すなんて、無理だ。
キラは抵抗せず、「もう……」と呟いて、ゆっくりと瞼を落とした。
幸せな色をしたまなざしを、いまだけはと、隠して。
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