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正しい魔法の使い方
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「魔法は何でもできる便利な道具ではないよ」
生真面目な顔をつくり、厳しい声音でそう言ったのは、魔法薬作りの名人として名高い「森の魔女」だ。
話相手は、十にも満たぬ幼い弟子だ。
魔女としての資質に恵まれた幼子に、森の魔女はそれを繰り返し語った。
なんでもかんでも魔法の力に頼り、物事すべてを楽に解決できると思いこむのは危険だ。魔法はそれほど都合のよい力ではない。魔力に善悪はない。だからこそ使う時の心が大事なのだと、森の魔女は幼い弟子に言って聞かせる。幼い弟子は理解がおぼつかないながらも真摯な顔つきで頷いて見せる。理解するよりまず憶えておこうという心構えでいるらしい。
森の魔女の初めての弟子となった少女は、魔法の発現が早かった。三つになるかならないかの時、すでに徴候があったという。幸い、魔法の放出で誰かを傷つけるような事態にはならなかった。だが、自身が軽い怪我を負うことは多かったらしい。
少女がその身に秘めていた魔力は、希有なものだ。今はまだ磨かれぬままの原石であったとしても、やがて美しい光を顕現させる。そのために、森の魔女は光の原石と出逢ったのだ。
今はまだ幼いばかりの少女は、いつの日か「森の魔女」の名を継ぐことになるだろう。
森の魔女は、緑深い森の奥、年端もゆかぬ弟子と小さなネズミの姿の眷属、三人で慎ましやかな隠遁生活を過ごしていた。
人里離れた森の奥で暮らしているが、人間嫌いというわけではない。昔に比べれば森も少しは開墾され、馬車一台がゆうゆうと通れるくらいの道もある。さすがに「森の魔女の家」という矢印付きの看板はないが、道は一本しかなく、その道は緩く曲がりくねりながらも森の魔女の館へ続いている。
森を出ると、そこはもう城下町だ。商店街もあり、常に賑わっている。森の魔女は買い出しによく出かけていて、顔なじみの店も多い。また逆に、森の魔女を訪ねてやってくる町の者もいて、頻繁ではないが他者との交流もそれなりにはあったといえた。
森の魔女を訪ねてくるのは、町の人間だけではない。遠来……たとえば王都や他領地からわざわざやってくる者もいた。そうした客の大半は「おしのび」だ。使いを立ててくる場合がほとんどだが、依頼者自身が来ることも、ないではない。そういった客は、いわゆる身分の高い者や財産家だ。かように、森の魔女の客層は幅広い。魔法薬作りの名人である「森の魔女」名声は、近在近郷に広まっていたのだ。それは、本人の望むことではなかったのだが。何しろ、なぜ名声が広まったのか、本人さえもさっぱり見当がつかないのだ。名が知れるような派手な行いをした覚えはないのだが、と首を捻るばかりだ。
とまれ、薬の依頼には応じていた。幸いなことに、森には薬に必要な植物や鉱物などが豊富にあったのだ。
来客の目的はほとんどが薬の依頼だ。「森の魔女」の作る薬は、良く効くと評判だった。
魔法薬の依頼といっても、大多数は他愛無いものばかりだ。滋養の薬をはじめとして、解熱剤、胃腸薬、鎮痛剤や軟膏など、いたって普通の「薬」だ。だが一方で、不老不死の妙薬や恒久的な惚れ薬に媚薬、死に至らしめる無味無臭の毒薬など、不穏な依頼もある。
古来より、不老不死だの惚れ薬だの、愚かしい依頼がなくなることはない。魔女ならばお手のものだろうとといった調子で、大金をちらつかせて依頼してくるのだ。
そうした愚かな依頼に対し、森の魔女はなるべくカドをたてぬよう慇懃に断っていた。しかし中にはしぶとく迫り、あまつさえ恐喝してくる者もいた。それらの対応も森の魔女は慣れたもので、いちいち相手にはせず、魔法を使って撃退していた。むろん、魔法と気付かれぬように、だが。
いつの時代でも、どこの場所でも、存外人というのは、変わらぬものだ。長く生きて様々な事象を眺めてきた森の魔女は、我ながら可笑しなことに、人間を疎ましくは思えずにいた。いくつかの出逢いが、森の魔女の心を暗がりに落ちこませなかったのだ。
そして、森の魔女はふと思う。
この森……フィンコリーの森にやってきて、はたして幾年が過ぎたろうか。
ずいぶんと長くいたような気もするが、瞬く間、というような気もする。
森の魔女は手元にひきとった養い子の成長を見るにつけ、しみじみと、積み重ねてきた月日の和やかさを思う。
――なんと実りある日々であったことか。
すでに老年に至っている森の魔女の今の生き甲斐は、養い子の成長を促し、見守ることだった。
両親を不慮の事故で喪い、孤児となった幼子を引き取ることになったのも、いくつかの偶然が重なってのことだった。孤児となった幼子が、遠くはあるが血縁者の末であることを知ったのも、偶然だった。事故の現場から程近いところに、森の魔女はたまたま出向いていた。そこで馬車の転落事故があったことを知り、救援を依頼され、駆けつけてみると幼児が一人、奇跡的に助かっていた。身元は所持品から知れた。そしてその所持品の中に「森の魔女」宛ての手紙があったのだ。
崖からの転落は、不幸な事故だった。長雨のせいで地盤が緩んで、そのせいで車輪をぬかるみに取られ、馬車ごと崖下に転落した。そういう事件性のない、不幸な事故だった。
その後、森の魔女は孤児を引き取った。どうやら「森の魔女」に引き合わせるための旅路だったらしい。我が子に魔力があると分かり、その相談のためだったようだ。手紙に詳細は書かれていなかったが、森の魔女はそれを察したのだ。遠いとはいえ、血縁者だ。引き取らざるを得ない、そういう義務感も多少はあった。幼子に魔力があるらしいことも確認したから、無碍につきはなすこともできなかった。他に縁戚はいないらしかった。となれば、両親を喪った幼子は、孤児院送りにされるしかないだろう。
天の采配、あるいは宿縁としかいいようがなかった。
幼子を引き取ることに、ためらいがなかったわけではない。だが、物心もまだつかぬ無邪気な幼子を抱いた時、ひどく懐かしいような気持ちがした。温かく、いとおしい。不安もあったが、安堵感もあった。
孤児となった幼子に、あるいは森の魔女は自身を投影していたのかもしれない。
森の魔女ははしばみ色の髪に白いものが増えている事に気づき、苦笑まじりのため息をつく。
「森の魔女」として、長く生きてきた。
はたして、自分はいつから魔女だったのだろうか。
さる高名な魔術師の目にとまり、魔女として生きる道を示されたのは、果たして幾つの時だったろうか。
今、自分を「お師匠さま」と呼んで慕ってくれる弟子より、歳はいっていただろう。十代の前半か、半ばか。
森の魔女の養い子は、好奇心旺盛な気質だったが、師匠の過去を詮索するようなことはなかった。たんに疑問を抱かなかっただけかもしれないが、「家族」について触れるのは、自分自身が辛かったからなりかもしれない。自身の両親がどういういきさつで喪われたかは、師匠から聞かされてはいたが、それについても深く尋ねることはしなかった。
それでも遠慮がちに訊いてくることもある。
「お師匠さまは、ずぅぅっと昔っからこの森住んでたんですか?」
「いいや。生まれたときからここにいるわけではないよ」
そもそも、生まれた土地はここからひどく遠い。かつては様々な地を転々とし、一つ所に落ち着かなかった時期もある。「森」ではなく、「流浪の魔女」という渾名で呼ばれたこともある。
フィンコリーの森は、古くは「水底の森」と呼ばれていた。「水底の森」とは妖精の森の異名でもあり、古代より魔力に満ちた場なのだ、と森の魔女は語る。それゆえに、引き寄せられるように、この地に来たのだと。
「この森はね、今でこそ平穏な森だが、私が住み始めた頃はまだ魔物の出現の多い、危険な森だったんだよ。禁忌の森とさえ呼ばれて、近づく者もいなかった」
「そんな森に、どうして住もうなんて思ったんですか?」
少女は小首を傾げた。長い黒髪がさらりと華奢な肩に流れた。師匠の命ずるままに、髪を長く伸ばしているのだ。
「魔物の出現が多い、それはつまり、魔性の強い土地ということなんだよ。おまえにはまだ分かるまいが、魔力を持つ者は、えてしてこうした地に呼ばれる。危険だが、魔力を持つ者には居心地がいいんだよ。魔力を解放していても、周囲に迷惑をかけることがないからね」
一方で、魔力の制御をするための、よい修行場でもあった。
魔性に満ち満ちた土地では、自然、神経が研ぎ澄まされる。四六時中、離れた場所から矢を向けられているようなものさ、何しろ魔物が湧きでてくるような森だからね、とと森の魔女はこともなげに言い、笑った。
黒髪の少女はぱちくりと目を瞬かせた。
「お師匠さまにとってこの森は、居心地のいい所、なんですか?」
魔物がたくさんいるのに? 少女は釈然としない様子だった。
「そうだねぇ。まぁ、いまでは魔物もほとんどいなくなってしまったから、気を張る必要はなくなったね。魔物が少なくなったといっても、魔力に満ちた森であるのは変わらないんだよ。魔女が住むのには、いい森だね。もちろんこの館もね。魔力の残滓が館のいたるところにこびりついているのも、いい」
ただの廃墟だと考えていたのだが、何やらいわくつきだったのかもしれないね、と森の魔女は愉しげに笑う。
「だからまぁ、そうだね。やはりフィンコリーの森もこの館も、魔女にとっては居心地のいい場所なんだ。大事な場所といっていい。おまえも、そのつもりでいておくれ」
森の魔女の言を容れて少女は頷いたものの、ちょっとだけ眉を曇らせて「うーん」と唸った。
「でもお師匠様」
言って、森の魔女の弟子は、後方にある、散らかり放題の棚を指差した。ちなみにいえば、散らかり放題名のは棚だけではなく、部屋全体が散らかり放題だ。机にも床にも、書物や小道具などが散乱してて、辛うじて足の踏み場が何箇所か確保されている、といった具合だ。よくよくみれば、天井の柱にも窓枠にも蜘蛛の巣が張っている。
「大事にするなら、もっとちゃんとお掃除した方がいいと思うんです」
「おや、そうかね」
今、森の魔女と弟子がいる小部屋は、魔法薬の材料などの保管庫の隣で、ちょっとした休憩室として利用している。日当たりのよい部屋ではないが、高いところには採光窓もあり、昼時であればそれなりに明るい部屋だ。しかし山と積まれた書籍や小道具類がいたるところにあって、それらが少女の背丈ほどもある。
「きれいに片付けておく方が、もっと居心地いいと思うんですけどっ! お師匠様、お掃除はこまめにして、道具類も使ったものはちゃんと片付けた方がいいですっ」
「……これはこれで、私は落ち着くんだけどねぇ」
「わたしはちっとも落ち着きませんっ」
いつ本や道具類が雪崩を起こして潰されるのかって、扉を開けるたび緊張の連続なんですよ、と少女の口調は真剣そのものだ。実際、扉を開けるたびに何かしら物が床に落ちて、壊れやしないかとハラハラしていたらしい。
「使ったものはちゃんと元の場所に戻してくださいって、いつも言ってるのにっ。その方が本や道具を探す手間だって省けます」
「そうだけどね」
森の魔女はバツの悪そうな顔をし、肩を竦める。そんな困り顔の師匠を、少女は容赦なく叱りつける。こうなると、もはやどちらが師匠でどちらが弟子なのか、分からない。
「まぁたしかに、おまえの言うことにも一理あるけどね。ある程度散らかってる方が、私は落ち着けるんだよ」
「ある程度じゃないです、この有り様は! 今は乾季でカビとかキノコが生えちゃう心配はないかもですけど、このままじゃ塵が積もって山になって、お師匠様、埃の魔女になっちゃいますよっ!」
「埃の魔女とは、なかなか愉快そうじゃないか」
「もうっ、お師匠様ってば! 笑い事じゃないです! お師匠さまが埃やらカビまみれになったら、困りますっ」
やっと十歳になったばかりの幼い弟子は、ありがたいことに働き者だ。炊事洗濯、掃除を厭わず、てきぱきとこなす。しかも楽しげにそれらを行うのだ。
読み書きなどの国語や算術といった一般教養は森の魔女から習っているが、それ以外は自己習得だ。師匠が無精だから、必然的にやらざるを得ないという心境なのかもしれないが、家事が好きな性分なのだろう。小さな身体であちこち動き回って、まるでコマネズミのようだ。……森の魔女の眷属に、似てしまったらしい。
「整理整頓はとっても大事なんですよ、お師匠さま! その方がこのおうちだって、嬉しいと思います」
「わかったわかった、おまえの言うとおりだ」
森の魔女は養い子のお小言に苦笑し、それからパチンパチンと指を二度鳴らした。
「とりあえず、ここを片付けようかね」
それが、魔法の合図だった。
空間がパチパチと光を弾き、その直後に本や小道具などが浮き上がり、棚に並べられていく。さらには壁に立てかけてあった箒がひとりでに動き出し、床のゴミをはらって、塵取に集めていく。瞬く間に、室内が片付いていく。
「お師匠さま……っ!」
魔法の顕現に、少女は一瞬「わ、すごい!」と黒眸をキラキラと輝かせたが、すぐに険しい面持ちに戻し、毅然とした口調で師匠を窘めた。
「もうっ、お師匠さまってば! 魔法は便利な道具じゃないって言ったじゃないですか! お掃除くらいは、魔法の力に頼らず、自分で体を動かしてやった方がいいと思いますっ!」
呆れるほど生真面目に、この弟子は自分の教えを守っている。
実に感心なことだが、度を過ぎてしまっては柔軟性を失うことになろう。そうなっては、魔術の会得にも支障が出る。軽佻であれとは言えないが、視野を狭めてはいけない。それを改めて諭さねばなるまい……。
森の魔女はそう思いつつ、結局は「やれやれ、仕方ないね」と肩を竦め、魔法をおさめた。
諭すにしても、時と場を選ぶことが肝要だ。今のこの状況では何を言っても説得力に欠けるだろう。
「時々は身体を動かしたほうが、健康にもいいんですよ、お師匠さま」
「……はいはい」
魔法薬作りの名人というだけでなく、風を操り雨雲を呼んだり、蝗害を防いだり、強力な魔力を持つ「森の魔女」は、しかし養い子であり弟子でもある少女にあっては、かたなしだ。
眩しいものを見るように、森の魔女は目を細めて黒髪の少女を見やる。
「おまえは、良き魔法の使い手となるだろうね。正しい魔法の使い方を、そのまま忘れないでいておくれ」
――ただ時々は、魔法を使って後片付けをするのを許してくれると嬉しいのだけどね。
付け足したその言葉に、少女は「しょうがないなぁ」と微笑みを返した。
今はまだ小さな光だ。けれどかけがえのないその光は、やがて森を守る魔法になるだろう。
風は、光とともに在る。――この先もずっと。
生真面目な顔をつくり、厳しい声音でそう言ったのは、魔法薬作りの名人として名高い「森の魔女」だ。
話相手は、十にも満たぬ幼い弟子だ。
魔女としての資質に恵まれた幼子に、森の魔女はそれを繰り返し語った。
なんでもかんでも魔法の力に頼り、物事すべてを楽に解決できると思いこむのは危険だ。魔法はそれほど都合のよい力ではない。魔力に善悪はない。だからこそ使う時の心が大事なのだと、森の魔女は幼い弟子に言って聞かせる。幼い弟子は理解がおぼつかないながらも真摯な顔つきで頷いて見せる。理解するよりまず憶えておこうという心構えでいるらしい。
森の魔女の初めての弟子となった少女は、魔法の発現が早かった。三つになるかならないかの時、すでに徴候があったという。幸い、魔法の放出で誰かを傷つけるような事態にはならなかった。だが、自身が軽い怪我を負うことは多かったらしい。
少女がその身に秘めていた魔力は、希有なものだ。今はまだ磨かれぬままの原石であったとしても、やがて美しい光を顕現させる。そのために、森の魔女は光の原石と出逢ったのだ。
今はまだ幼いばかりの少女は、いつの日か「森の魔女」の名を継ぐことになるだろう。
森の魔女は、緑深い森の奥、年端もゆかぬ弟子と小さなネズミの姿の眷属、三人で慎ましやかな隠遁生活を過ごしていた。
人里離れた森の奥で暮らしているが、人間嫌いというわけではない。昔に比べれば森も少しは開墾され、馬車一台がゆうゆうと通れるくらいの道もある。さすがに「森の魔女の家」という矢印付きの看板はないが、道は一本しかなく、その道は緩く曲がりくねりながらも森の魔女の館へ続いている。
森を出ると、そこはもう城下町だ。商店街もあり、常に賑わっている。森の魔女は買い出しによく出かけていて、顔なじみの店も多い。また逆に、森の魔女を訪ねてやってくる町の者もいて、頻繁ではないが他者との交流もそれなりにはあったといえた。
森の魔女を訪ねてくるのは、町の人間だけではない。遠来……たとえば王都や他領地からわざわざやってくる者もいた。そうした客の大半は「おしのび」だ。使いを立ててくる場合がほとんどだが、依頼者自身が来ることも、ないではない。そういった客は、いわゆる身分の高い者や財産家だ。かように、森の魔女の客層は幅広い。魔法薬作りの名人である「森の魔女」名声は、近在近郷に広まっていたのだ。それは、本人の望むことではなかったのだが。何しろ、なぜ名声が広まったのか、本人さえもさっぱり見当がつかないのだ。名が知れるような派手な行いをした覚えはないのだが、と首を捻るばかりだ。
とまれ、薬の依頼には応じていた。幸いなことに、森には薬に必要な植物や鉱物などが豊富にあったのだ。
来客の目的はほとんどが薬の依頼だ。「森の魔女」の作る薬は、良く効くと評判だった。
魔法薬の依頼といっても、大多数は他愛無いものばかりだ。滋養の薬をはじめとして、解熱剤、胃腸薬、鎮痛剤や軟膏など、いたって普通の「薬」だ。だが一方で、不老不死の妙薬や恒久的な惚れ薬に媚薬、死に至らしめる無味無臭の毒薬など、不穏な依頼もある。
古来より、不老不死だの惚れ薬だの、愚かしい依頼がなくなることはない。魔女ならばお手のものだろうとといった調子で、大金をちらつかせて依頼してくるのだ。
そうした愚かな依頼に対し、森の魔女はなるべくカドをたてぬよう慇懃に断っていた。しかし中にはしぶとく迫り、あまつさえ恐喝してくる者もいた。それらの対応も森の魔女は慣れたもので、いちいち相手にはせず、魔法を使って撃退していた。むろん、魔法と気付かれぬように、だが。
いつの時代でも、どこの場所でも、存外人というのは、変わらぬものだ。長く生きて様々な事象を眺めてきた森の魔女は、我ながら可笑しなことに、人間を疎ましくは思えずにいた。いくつかの出逢いが、森の魔女の心を暗がりに落ちこませなかったのだ。
そして、森の魔女はふと思う。
この森……フィンコリーの森にやってきて、はたして幾年が過ぎたろうか。
ずいぶんと長くいたような気もするが、瞬く間、というような気もする。
森の魔女は手元にひきとった養い子の成長を見るにつけ、しみじみと、積み重ねてきた月日の和やかさを思う。
――なんと実りある日々であったことか。
すでに老年に至っている森の魔女の今の生き甲斐は、養い子の成長を促し、見守ることだった。
両親を不慮の事故で喪い、孤児となった幼子を引き取ることになったのも、いくつかの偶然が重なってのことだった。孤児となった幼子が、遠くはあるが血縁者の末であることを知ったのも、偶然だった。事故の現場から程近いところに、森の魔女はたまたま出向いていた。そこで馬車の転落事故があったことを知り、救援を依頼され、駆けつけてみると幼児が一人、奇跡的に助かっていた。身元は所持品から知れた。そしてその所持品の中に「森の魔女」宛ての手紙があったのだ。
崖からの転落は、不幸な事故だった。長雨のせいで地盤が緩んで、そのせいで車輪をぬかるみに取られ、馬車ごと崖下に転落した。そういう事件性のない、不幸な事故だった。
その後、森の魔女は孤児を引き取った。どうやら「森の魔女」に引き合わせるための旅路だったらしい。我が子に魔力があると分かり、その相談のためだったようだ。手紙に詳細は書かれていなかったが、森の魔女はそれを察したのだ。遠いとはいえ、血縁者だ。引き取らざるを得ない、そういう義務感も多少はあった。幼子に魔力があるらしいことも確認したから、無碍につきはなすこともできなかった。他に縁戚はいないらしかった。となれば、両親を喪った幼子は、孤児院送りにされるしかないだろう。
天の采配、あるいは宿縁としかいいようがなかった。
幼子を引き取ることに、ためらいがなかったわけではない。だが、物心もまだつかぬ無邪気な幼子を抱いた時、ひどく懐かしいような気持ちがした。温かく、いとおしい。不安もあったが、安堵感もあった。
孤児となった幼子に、あるいは森の魔女は自身を投影していたのかもしれない。
森の魔女ははしばみ色の髪に白いものが増えている事に気づき、苦笑まじりのため息をつく。
「森の魔女」として、長く生きてきた。
はたして、自分はいつから魔女だったのだろうか。
さる高名な魔術師の目にとまり、魔女として生きる道を示されたのは、果たして幾つの時だったろうか。
今、自分を「お師匠さま」と呼んで慕ってくれる弟子より、歳はいっていただろう。十代の前半か、半ばか。
森の魔女の養い子は、好奇心旺盛な気質だったが、師匠の過去を詮索するようなことはなかった。たんに疑問を抱かなかっただけかもしれないが、「家族」について触れるのは、自分自身が辛かったからなりかもしれない。自身の両親がどういういきさつで喪われたかは、師匠から聞かされてはいたが、それについても深く尋ねることはしなかった。
それでも遠慮がちに訊いてくることもある。
「お師匠さまは、ずぅぅっと昔っからこの森住んでたんですか?」
「いいや。生まれたときからここにいるわけではないよ」
そもそも、生まれた土地はここからひどく遠い。かつては様々な地を転々とし、一つ所に落ち着かなかった時期もある。「森」ではなく、「流浪の魔女」という渾名で呼ばれたこともある。
フィンコリーの森は、古くは「水底の森」と呼ばれていた。「水底の森」とは妖精の森の異名でもあり、古代より魔力に満ちた場なのだ、と森の魔女は語る。それゆえに、引き寄せられるように、この地に来たのだと。
「この森はね、今でこそ平穏な森だが、私が住み始めた頃はまだ魔物の出現の多い、危険な森だったんだよ。禁忌の森とさえ呼ばれて、近づく者もいなかった」
「そんな森に、どうして住もうなんて思ったんですか?」
少女は小首を傾げた。長い黒髪がさらりと華奢な肩に流れた。師匠の命ずるままに、髪を長く伸ばしているのだ。
「魔物の出現が多い、それはつまり、魔性の強い土地ということなんだよ。おまえにはまだ分かるまいが、魔力を持つ者は、えてしてこうした地に呼ばれる。危険だが、魔力を持つ者には居心地がいいんだよ。魔力を解放していても、周囲に迷惑をかけることがないからね」
一方で、魔力の制御をするための、よい修行場でもあった。
魔性に満ち満ちた土地では、自然、神経が研ぎ澄まされる。四六時中、離れた場所から矢を向けられているようなものさ、何しろ魔物が湧きでてくるような森だからね、とと森の魔女はこともなげに言い、笑った。
黒髪の少女はぱちくりと目を瞬かせた。
「お師匠さまにとってこの森は、居心地のいい所、なんですか?」
魔物がたくさんいるのに? 少女は釈然としない様子だった。
「そうだねぇ。まぁ、いまでは魔物もほとんどいなくなってしまったから、気を張る必要はなくなったね。魔物が少なくなったといっても、魔力に満ちた森であるのは変わらないんだよ。魔女が住むのには、いい森だね。もちろんこの館もね。魔力の残滓が館のいたるところにこびりついているのも、いい」
ただの廃墟だと考えていたのだが、何やらいわくつきだったのかもしれないね、と森の魔女は愉しげに笑う。
「だからまぁ、そうだね。やはりフィンコリーの森もこの館も、魔女にとっては居心地のいい場所なんだ。大事な場所といっていい。おまえも、そのつもりでいておくれ」
森の魔女の言を容れて少女は頷いたものの、ちょっとだけ眉を曇らせて「うーん」と唸った。
「でもお師匠様」
言って、森の魔女の弟子は、後方にある、散らかり放題の棚を指差した。ちなみにいえば、散らかり放題名のは棚だけではなく、部屋全体が散らかり放題だ。机にも床にも、書物や小道具などが散乱してて、辛うじて足の踏み場が何箇所か確保されている、といった具合だ。よくよくみれば、天井の柱にも窓枠にも蜘蛛の巣が張っている。
「大事にするなら、もっとちゃんとお掃除した方がいいと思うんです」
「おや、そうかね」
今、森の魔女と弟子がいる小部屋は、魔法薬の材料などの保管庫の隣で、ちょっとした休憩室として利用している。日当たりのよい部屋ではないが、高いところには採光窓もあり、昼時であればそれなりに明るい部屋だ。しかし山と積まれた書籍や小道具類がいたるところにあって、それらが少女の背丈ほどもある。
「きれいに片付けておく方が、もっと居心地いいと思うんですけどっ! お師匠様、お掃除はこまめにして、道具類も使ったものはちゃんと片付けた方がいいですっ」
「……これはこれで、私は落ち着くんだけどねぇ」
「わたしはちっとも落ち着きませんっ」
いつ本や道具類が雪崩を起こして潰されるのかって、扉を開けるたび緊張の連続なんですよ、と少女の口調は真剣そのものだ。実際、扉を開けるたびに何かしら物が床に落ちて、壊れやしないかとハラハラしていたらしい。
「使ったものはちゃんと元の場所に戻してくださいって、いつも言ってるのにっ。その方が本や道具を探す手間だって省けます」
「そうだけどね」
森の魔女はバツの悪そうな顔をし、肩を竦める。そんな困り顔の師匠を、少女は容赦なく叱りつける。こうなると、もはやどちらが師匠でどちらが弟子なのか、分からない。
「まぁたしかに、おまえの言うことにも一理あるけどね。ある程度散らかってる方が、私は落ち着けるんだよ」
「ある程度じゃないです、この有り様は! 今は乾季でカビとかキノコが生えちゃう心配はないかもですけど、このままじゃ塵が積もって山になって、お師匠様、埃の魔女になっちゃいますよっ!」
「埃の魔女とは、なかなか愉快そうじゃないか」
「もうっ、お師匠様ってば! 笑い事じゃないです! お師匠さまが埃やらカビまみれになったら、困りますっ」
やっと十歳になったばかりの幼い弟子は、ありがたいことに働き者だ。炊事洗濯、掃除を厭わず、てきぱきとこなす。しかも楽しげにそれらを行うのだ。
読み書きなどの国語や算術といった一般教養は森の魔女から習っているが、それ以外は自己習得だ。師匠が無精だから、必然的にやらざるを得ないという心境なのかもしれないが、家事が好きな性分なのだろう。小さな身体であちこち動き回って、まるでコマネズミのようだ。……森の魔女の眷属に、似てしまったらしい。
「整理整頓はとっても大事なんですよ、お師匠さま! その方がこのおうちだって、嬉しいと思います」
「わかったわかった、おまえの言うとおりだ」
森の魔女は養い子のお小言に苦笑し、それからパチンパチンと指を二度鳴らした。
「とりあえず、ここを片付けようかね」
それが、魔法の合図だった。
空間がパチパチと光を弾き、その直後に本や小道具などが浮き上がり、棚に並べられていく。さらには壁に立てかけてあった箒がひとりでに動き出し、床のゴミをはらって、塵取に集めていく。瞬く間に、室内が片付いていく。
「お師匠さま……っ!」
魔法の顕現に、少女は一瞬「わ、すごい!」と黒眸をキラキラと輝かせたが、すぐに険しい面持ちに戻し、毅然とした口調で師匠を窘めた。
「もうっ、お師匠さまってば! 魔法は便利な道具じゃないって言ったじゃないですか! お掃除くらいは、魔法の力に頼らず、自分で体を動かしてやった方がいいと思いますっ!」
呆れるほど生真面目に、この弟子は自分の教えを守っている。
実に感心なことだが、度を過ぎてしまっては柔軟性を失うことになろう。そうなっては、魔術の会得にも支障が出る。軽佻であれとは言えないが、視野を狭めてはいけない。それを改めて諭さねばなるまい……。
森の魔女はそう思いつつ、結局は「やれやれ、仕方ないね」と肩を竦め、魔法をおさめた。
諭すにしても、時と場を選ぶことが肝要だ。今のこの状況では何を言っても説得力に欠けるだろう。
「時々は身体を動かしたほうが、健康にもいいんですよ、お師匠さま」
「……はいはい」
魔法薬作りの名人というだけでなく、風を操り雨雲を呼んだり、蝗害を防いだり、強力な魔力を持つ「森の魔女」は、しかし養い子であり弟子でもある少女にあっては、かたなしだ。
眩しいものを見るように、森の魔女は目を細めて黒髪の少女を見やる。
「おまえは、良き魔法の使い手となるだろうね。正しい魔法の使い方を、そのまま忘れないでいておくれ」
――ただ時々は、魔法を使って後片付けをするのを許してくれると嬉しいのだけどね。
付け足したその言葉に、少女は「しょうがないなぁ」と微笑みを返した。
今はまだ小さな光だ。けれどかけがえのないその光は、やがて森を守る魔法になるだろう。
風は、光とともに在る。――この先もずっと。
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