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羽翼
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前夜の雨もあがり、日が昇る頃には切れ切れに流れていた雲もいまはとうに払われて、眩しいほどの光を地上に注いでいる。晩秋、すでに肌寒い季節だが、それだけに陽射しが心地好い。窓の外、聞こえてくるのは鳥のさえずりだ。空気が澄んでいるからなのか、ひどく耳につく。周りが静かすぎるせいかもしれない。リマリック領の若き領主は朝早くから政務に追われている。
積み上げられた書類を眺めて、セレンは何度目かのため息をついた。
領主の仕事が辛いというのではないし、ここまで仕事を溜めこんでしまったのは自分のせいだという自覚もある。だから仕事に対しての「ため息」ではなかった。
リマリック領はさほど広くない。国境付近の領地なだけに警戒すべき事柄は多いが、いまのところ周辺国で大々的な戦の気配はなく、国境を脅かされる心配も今のところはないといえる。幸い今年は豊作で、冬の蓄えも十分にある。寒さの厳しい地域ではないが、幾日も降雪が続くこともある。畜産が主の地域だから穀物などの蓄えは重要事項だ。
領主の仕事は、やりがいがある。セレンは勤勉な性格だし、努力をいとわない性質だ。見識もあるが、なにぶん若い。ゆえに、家令でもあり執事のハディスが過不足なく補佐し、セレンの経験不足を埋めてくれている。ハディスの力添えもあり、政務が滞ることはない。他にもセレンの下で働く者は多いが、それらの監督もハディスが行っている。
ハディスは、多少融通の利かないところもあるが、その有能さにセレンはいつも助けられている。そのために頭が上がらない、ということもなくはない。ハディスは厳格な人物だが、傲慢無礼な態度をとったことはない。セレンを「主人」として立て、常に礼節をもった態度で仕えている。ましてや越権行為などするはずもない。セレンとハディスの主従関係は良好といっていいだろう。
ハディスが運んできた決算報告書を一通り読み、セレンはまたため息をつく。
根を詰めすぎたのか、疲労感は拭えない。
気晴らしにちょっと出かけたい……と思っているのだが、それをハディスには言えなかった。
先日まで、森の魔女のところに度々足を運んで、ハディスに負担をかけてしまった、という負い目があるのだ。仕事をさぼったつもりはなかったが、遅延した事柄もあったろう。ハディスが調整してくれたおかげで政務に支障は出なかったが、領主としての仕事をすこしばかりおざなりにしてしまったのは否めない。
だから、というのでもないが、ここ数日は城にこもって政務に集中している。
ふと、セレンは窓の外に目をやる。
空は、青々として明るい。落葉している樹木も多く、おかげで空が広く見えた。
魔女の住む森は、はたしてどうだろうか。
通い詰めていた森だから、大きな変化はないだろうと予想はできるが、秋から冬にかけての季節の移り変わりは、森の魔女の表情のようにめまぐるしい。一日ごとに、森の様子は変わっていっているだろう。黄色に染まり始めていた葉は、いまはもう落葉しているかもしれない。まだ青葉が多かった樹木も、いまは真っ赤に染まっているかもしれない。
セレンは立ち上がった。
そして山積みになっている書類をまとめて抱え、執務室を出て、中庭へと向かった。
執務室にこもってばかりいたせいで、気が滅入りかけていた。場所をかえることで気分を変えようと思ったのだ。
――会いにゆきたいが、出かけられそうもない。
愛しい恋人……森の魔女の顔を思い浮かべ、セレンはまたため息をつく。
ほんのわずかな日数でも、会えないと、こんなにも心が暗くなるのか。
思いが通じた今だからこその、他愛無い心細さ、寂しさなのだろう。
――だから、どんなに嬉しかったことか。
「こんにちは、王子。仕事忙しいって聞いて、差し入れ持ってきました」
そう言って、朗らかな笑顔と焼き菓子の香ばしいかおりとともに森の魔女が中庭へ姿を現した時は、喜びに声も出ないほどだった。
「えっと……、お邪魔……でしたか?」
よもや沈黙で迎えられるとは思わなかった森の魔女は戸惑いがちにセレンの顔を窺った。
「いや、……驚いたものだから」
セレンは微笑み返し、手を差し伸べた。森の魔女はほっとしたように、その手招きに応じた。
トネリコの木の下、陽射しを受けてセレンの亜麻色の髪が金の細波のように光を放っている。美神の恩恵を受けた美貌は艶めいて、煌々しい。
極上の微笑みを向けられて森の魔女の動悸は激しくなる。見慣れた美貌のはずだが、セレンの微笑は以前とは違うように見える。キラキラ具合が何割か増しているような。森の魔女自身の心境の変化ゆえだろうが、それにしてもあんなにも無防備で優しく甘やかな瞳をしていたろうかと、新たな「王子」を見つけ出したような心持なのだ。
「お仕事、大変そうですね、王子」
「書類仕事ばかりだから、外に行く口実を設けられなくて残念だったよ。君に会いに行きたかったのだけどね」
「そ、それは、ダメだと思いますよ、王子」
窘めつつも、森の魔女の頬はほんのり色づいていたし、緩んでもいた。
「分かってるよ。だからこうして真面目に取り組んでるんだ。そうでもしないと、今度こそハディスに外出禁止を言い渡されそうだからね」
「……あまり、ハディスさんに心配かけちゃ、ダメですよ、王子?」
わかってるよと、セレンは微笑む。
森の魔女は本当かしらと、若干の不安を拭えない。王子は根が真面目だから仕事を無責任に放り投げることはしないだろう。そこは、心配していない。
ハディスの、森の魔女に対する態度は軟化していて、今日にしても、ハディスが直接ではないにしても、城に顔をだしてくれないかと、使いをだしてくれたからこそ、こうしてやってきたのだ。
現国王の実子である「王子」であり、且つ領主という地位にあるセレンに、森の魔女は恋人として到底釣り合う人間じゃないだろう。森の魔女自身がそれを一番わかっている。ハディスは、それゆえに森の魔女に対して一時はひどく冷淡だった。それでも、おそらくはセレンが説得してくれたのだろう。ハディスの態度は明らかに変わった。むしろこうして使いを寄越してくれるくらいには、セレンの「恋人」として認めてくれたのだ。表立って態度はさほどかわらないが、眉をひそめるようなことはなくなった。
だから森の魔女としても気を遣わずにはいられないのだ。セレンの評価を下げるようなことだけは、したくない。
「お仕事三昧で疲れてるだろうから、特製のハーブティーを持ってきたんです。あと、王子の好きな焼き菓子も」
キャラウェイシードとドライ苺のクッキーと、蜂蜜入りの焼きパンだ。片手で手軽に食べられるものなら、仕事中に小腹がすいた時にでも手間なく食べられるだろう。ハーブ入りクッキーは王子が好む味にしてある。好き嫌いがほとんどないセレンだから、実のところ好物が何かを、森の魔女は把握していない。訊けば、セレンはなんのてらいもなく「君の作ったものなら、何でも」と答えるのだから、始末に負えない。
「ありがとう、魔女殿。ちょうどひと息いれたいと思っていたところだよ」
「よかった! それじゃわたし、お茶を淹れてきますね!」
「少しの休憩なら咎められないだろうから、君も、一緒に。……ね?」
「……わかり、ました」
とびっきり美しい微笑みを向けられて、森の魔女は一瞬固まってしまう。
あざといんだから! と以前なら文句の一つも言ったかもしれないが、すっかり籠絡されてしまった森の魔女には逆らう術がない。
ともあれ、今は急いでお茶の用意をしなくてはと、森の魔女は踵を返した。紺色のスカートが風をはらんで、弧を描く。
「魔女殿」
「はい?」
呼ばれて、森の魔女は振り返った。
「ありがとう、来てくれて。嬉しいよ、とてもね」
森の魔女の頬に、ぱっと明るい花が咲いたようだった。はにかんだ笑顔が、ゆるゆると開く。
「わ、わたしも会いたかったから。でも、えっと、どういたしまして」
恋人の愛らしい笑顔こそが、セレンを和ませ、疲れを癒させる。
それを口にすれば、はにかみ屋の恋人は恥じらって、
「そういうこと、さらっと言わないでくださいってば!」
と、反発してくるかもしれない。
そんな君が愛らしくて、だからつい、「そういうこと」を言いたくなってしまうのだよ。――笑いを含み、言いたい言葉をあえて飲みこんで、立ち去っていく恋人の背を見送った。
疲労回復の魔法をちょっぴりかけたハーブティーと温めなおした焼きパンを、ふたりでゆったりと楽しんでいたのだが、ふと、森の魔女はテーブルの下に何かを見つけた。
それは、灰白色の羽だった。風きり羽だろう。汚れも傷もなく、きれいな状態だった。
羽を拾い上げた森の魔女はそれを空にかざして見る。森の魔女の人差し指よりちょっと長いくらいの大きさだった。
「鳥の羽根はお守りになるんですよ」
言ってから、森の魔女は何か思いついたように、セレンに顔を向けた。
「王子、ここで魔法を使ってもかまいませんか? たいそうなものじゃないので、周りに影響は出ませんから」
「構わないが」
「すぐに済みますから」
森の魔女は小走りになってテーブルから離れた。セレンは興味深げに森の魔女を見やる。そういえば、森の魔女が魔法を使うところを見るのは、久しい。
森の魔女はきょろきょろとあたりを見回し、やがてまだ背丈の低い桂の傍に立った。一言二言、桂の樹に話しかけているようだ。それから手に持っていた白い羽を空に掲げて、呪文を唱える。光の粒が、きらきらと森の魔女に降り注いでくる。神秘的な光景だった。
森の魔女は羽を持っていない方の右手もあげて、まるで光の粒を掬うようにゆっくりと動かす。光が、弾く。小さな光の粒がキラキラと光を弾かせながら森の魔女の周りを舞っている。光の螺旋が森の魔女を包み、やがて薄らぎ、消えていった。消えた瞬間に、森の魔女の足元から風が起こり、長い黒髪がふわりと浮き、揺らめいた。
セレンはほとんど無意識に立ち上がり、そして森の魔女のもとへと駆け寄っていた。
風がやむ。同時に、セレンは森の魔女を背後から抱きしめていた。
「お、王子?」
「…………」
いきなり背中から抱きしめられ、森の魔女はうろたえた。
「えっ、あのっ、な、なんですか、王子?」
セレンは黒髪に顔をうずめた。抱きしめる腕の力はきつく、森の魔女を放すまいとする。
「……君の……」
「え?」
抑えられたセレンの声は、どこか苦しげだった。
「……君の背に、もし羽根があったなら、きっと私はそれをもぎ取ってしまうだろうな。――君を、飛び立たせないように」
語尾に、苦笑が重なった。愚かしいことを言っていると、自嘲しているようにも聞こえた。
森の魔女は力を抜き、セレンに抱き締められるままになった。
「……王子……わたし、どこにも行ったりしませんよ?」
「…………」
セレンの心情を察したのか、森の魔女は真摯な口調で応えた。
私を置いて、どこにも行かないでくれ。そう言われた気がしたのだ。
――置いていかないで。
その気持ち、その怖れを、森の魔女も知っている。
だからセレンの気持ちは痛いほどに分かる。そしてそれは、森の魔女もセレンに願うことなのだ。
――傍にいて欲しい。どこにもいかないで。
それはきっと贅沢な願いだ。でもそれを、セレンも同じように想っていてくれたのが、森の魔女には切なくなるほど嬉しかった。
セレンの不安を拭うように、森の魔女は言い添える。
「もしも飛ぶのなら、……王子と一緒に、です。いつまでも王子と一緒、ですから」
「……キラ」
セレンは恋人の名をささやく。森の魔女の秘された名。その愛しい名を。
腕の力を少し緩め、セレンはキラの黒絹の髪に唇を落とした。ゆっくりと伝うように滑らせ、耳朶へ、そしてうなじへ、口吻を当てる。息を吹きかけ、すこしだけ舌を這わせた。
「――っ、ひゃぁっ!!」
セレンの熱い息がかかった瞬間、キラは空へ飛んでいくどころか、地に落下した。がくんと膝が折れ、声を上げたと同時にその場にへたり込んでしまった。
「……あぁ、ごめん」
セレンはいたずらっぽく笑い、その場に座り込んでしまったキラに手を差し伸べた。
「そこ、敏感なんだね、魔女殿?」
セレンはキラが手で押さえているうなじを見やり、笑い含みに言う。
「もうっ、王子ってば!」
「立てるかい? 立てないようなら抱き上げて」
「立てますってば!」
「たっ、立てますってば!」
キラはセレンの手を掴み、慌てて立ち上がった。セレンはというと、「それは残念」と笑っている。
「もう王子ってば、わざとでしょっ!?」
キラは真っ赤になった顔をそのままに、頬を膨らませる。
「王子、もう休憩時間はおしまいです! 仕事に戻ってください! じゃないとわたし、今日はもう帰りますからねっ」
いたずらっ子を窘めるかのように、キラは言葉尻をきつくあげてセレンを叱りつけた。
「それは、困るな」
仕事に戻るとするよ、とセレンは言うが、掴んだままのキラの手を放そうとしない。
「怒ってる?」
「怒ってません、けど」
もうからかうのは無しですよ、とキラはちょっと拗ねたような顔だ。
セレンは「悪かった」と謝罪するが、失笑を堪えている様がありありとわかる。キラは大きなため息をつき、「ちゃんと仕事に戻ってくださいね」と念を押した。
「うん。君を帰したくはないからね」
「…………」
結局、キラに勝ち目はないのだ。
甘やかに微笑まれて、キラは己の負けを認める。セレンには一生敵わないだろう、と。
同じことをセレンも思っているとは、知る由もなく。
気を取り直し、キラは「お茶を淹れなおしてきます」と、セレンに告げた。
「あ、そうそう、これ」
キラは白い羽根を、セレンに差し出した。
「守護術が施されてますから、ちょっとしたお守りになります。本の栞にでも使ってください」
「もらっていいのかな?」
「もらってほしいんです、王……セレンに」
キラははにかんだ笑顔を見せた。笑ったり怒ったり拗ねたり。キラの表情はくるくると変わって、陽の光そのもののようだ。セレンの心を光で満たし、和ませてくれる。
セレンに羽根を手渡すと、新しいお茶を淹れ直すため、キラは小走りになって中庭を出ていった。
「……ありがとう、キラ」
受け取った羽根に口づけて、セレンは呟く。
浅ましいとすら言える私の願いさえ、魔女殿にあっては、かたなしだね。
無垢な魔女の魔法が、セレンの心に安らかさを浸してゆく。
それでも、滾る想いは消えることがない。
光を放つ森の魔女を、自分という籠の中に閉じ込め、自分だけのものにしたいという、その恋情は―――
積み上げられた書類を眺めて、セレンは何度目かのため息をついた。
領主の仕事が辛いというのではないし、ここまで仕事を溜めこんでしまったのは自分のせいだという自覚もある。だから仕事に対しての「ため息」ではなかった。
リマリック領はさほど広くない。国境付近の領地なだけに警戒すべき事柄は多いが、いまのところ周辺国で大々的な戦の気配はなく、国境を脅かされる心配も今のところはないといえる。幸い今年は豊作で、冬の蓄えも十分にある。寒さの厳しい地域ではないが、幾日も降雪が続くこともある。畜産が主の地域だから穀物などの蓄えは重要事項だ。
領主の仕事は、やりがいがある。セレンは勤勉な性格だし、努力をいとわない性質だ。見識もあるが、なにぶん若い。ゆえに、家令でもあり執事のハディスが過不足なく補佐し、セレンの経験不足を埋めてくれている。ハディスの力添えもあり、政務が滞ることはない。他にもセレンの下で働く者は多いが、それらの監督もハディスが行っている。
ハディスは、多少融通の利かないところもあるが、その有能さにセレンはいつも助けられている。そのために頭が上がらない、ということもなくはない。ハディスは厳格な人物だが、傲慢無礼な態度をとったことはない。セレンを「主人」として立て、常に礼節をもった態度で仕えている。ましてや越権行為などするはずもない。セレンとハディスの主従関係は良好といっていいだろう。
ハディスが運んできた決算報告書を一通り読み、セレンはまたため息をつく。
根を詰めすぎたのか、疲労感は拭えない。
気晴らしにちょっと出かけたい……と思っているのだが、それをハディスには言えなかった。
先日まで、森の魔女のところに度々足を運んで、ハディスに負担をかけてしまった、という負い目があるのだ。仕事をさぼったつもりはなかったが、遅延した事柄もあったろう。ハディスが調整してくれたおかげで政務に支障は出なかったが、領主としての仕事をすこしばかりおざなりにしてしまったのは否めない。
だから、というのでもないが、ここ数日は城にこもって政務に集中している。
ふと、セレンは窓の外に目をやる。
空は、青々として明るい。落葉している樹木も多く、おかげで空が広く見えた。
魔女の住む森は、はたしてどうだろうか。
通い詰めていた森だから、大きな変化はないだろうと予想はできるが、秋から冬にかけての季節の移り変わりは、森の魔女の表情のようにめまぐるしい。一日ごとに、森の様子は変わっていっているだろう。黄色に染まり始めていた葉は、いまはもう落葉しているかもしれない。まだ青葉が多かった樹木も、いまは真っ赤に染まっているかもしれない。
セレンは立ち上がった。
そして山積みになっている書類をまとめて抱え、執務室を出て、中庭へと向かった。
執務室にこもってばかりいたせいで、気が滅入りかけていた。場所をかえることで気分を変えようと思ったのだ。
――会いにゆきたいが、出かけられそうもない。
愛しい恋人……森の魔女の顔を思い浮かべ、セレンはまたため息をつく。
ほんのわずかな日数でも、会えないと、こんなにも心が暗くなるのか。
思いが通じた今だからこその、他愛無い心細さ、寂しさなのだろう。
――だから、どんなに嬉しかったことか。
「こんにちは、王子。仕事忙しいって聞いて、差し入れ持ってきました」
そう言って、朗らかな笑顔と焼き菓子の香ばしいかおりとともに森の魔女が中庭へ姿を現した時は、喜びに声も出ないほどだった。
「えっと……、お邪魔……でしたか?」
よもや沈黙で迎えられるとは思わなかった森の魔女は戸惑いがちにセレンの顔を窺った。
「いや、……驚いたものだから」
セレンは微笑み返し、手を差し伸べた。森の魔女はほっとしたように、その手招きに応じた。
トネリコの木の下、陽射しを受けてセレンの亜麻色の髪が金の細波のように光を放っている。美神の恩恵を受けた美貌は艶めいて、煌々しい。
極上の微笑みを向けられて森の魔女の動悸は激しくなる。見慣れた美貌のはずだが、セレンの微笑は以前とは違うように見える。キラキラ具合が何割か増しているような。森の魔女自身の心境の変化ゆえだろうが、それにしてもあんなにも無防備で優しく甘やかな瞳をしていたろうかと、新たな「王子」を見つけ出したような心持なのだ。
「お仕事、大変そうですね、王子」
「書類仕事ばかりだから、外に行く口実を設けられなくて残念だったよ。君に会いに行きたかったのだけどね」
「そ、それは、ダメだと思いますよ、王子」
窘めつつも、森の魔女の頬はほんのり色づいていたし、緩んでもいた。
「分かってるよ。だからこうして真面目に取り組んでるんだ。そうでもしないと、今度こそハディスに外出禁止を言い渡されそうだからね」
「……あまり、ハディスさんに心配かけちゃ、ダメですよ、王子?」
わかってるよと、セレンは微笑む。
森の魔女は本当かしらと、若干の不安を拭えない。王子は根が真面目だから仕事を無責任に放り投げることはしないだろう。そこは、心配していない。
ハディスの、森の魔女に対する態度は軟化していて、今日にしても、ハディスが直接ではないにしても、城に顔をだしてくれないかと、使いをだしてくれたからこそ、こうしてやってきたのだ。
現国王の実子である「王子」であり、且つ領主という地位にあるセレンに、森の魔女は恋人として到底釣り合う人間じゃないだろう。森の魔女自身がそれを一番わかっている。ハディスは、それゆえに森の魔女に対して一時はひどく冷淡だった。それでも、おそらくはセレンが説得してくれたのだろう。ハディスの態度は明らかに変わった。むしろこうして使いを寄越してくれるくらいには、セレンの「恋人」として認めてくれたのだ。表立って態度はさほどかわらないが、眉をひそめるようなことはなくなった。
だから森の魔女としても気を遣わずにはいられないのだ。セレンの評価を下げるようなことだけは、したくない。
「お仕事三昧で疲れてるだろうから、特製のハーブティーを持ってきたんです。あと、王子の好きな焼き菓子も」
キャラウェイシードとドライ苺のクッキーと、蜂蜜入りの焼きパンだ。片手で手軽に食べられるものなら、仕事中に小腹がすいた時にでも手間なく食べられるだろう。ハーブ入りクッキーは王子が好む味にしてある。好き嫌いがほとんどないセレンだから、実のところ好物が何かを、森の魔女は把握していない。訊けば、セレンはなんのてらいもなく「君の作ったものなら、何でも」と答えるのだから、始末に負えない。
「ありがとう、魔女殿。ちょうどひと息いれたいと思っていたところだよ」
「よかった! それじゃわたし、お茶を淹れてきますね!」
「少しの休憩なら咎められないだろうから、君も、一緒に。……ね?」
「……わかり、ました」
とびっきり美しい微笑みを向けられて、森の魔女は一瞬固まってしまう。
あざといんだから! と以前なら文句の一つも言ったかもしれないが、すっかり籠絡されてしまった森の魔女には逆らう術がない。
ともあれ、今は急いでお茶の用意をしなくてはと、森の魔女は踵を返した。紺色のスカートが風をはらんで、弧を描く。
「魔女殿」
「はい?」
呼ばれて、森の魔女は振り返った。
「ありがとう、来てくれて。嬉しいよ、とてもね」
森の魔女の頬に、ぱっと明るい花が咲いたようだった。はにかんだ笑顔が、ゆるゆると開く。
「わ、わたしも会いたかったから。でも、えっと、どういたしまして」
恋人の愛らしい笑顔こそが、セレンを和ませ、疲れを癒させる。
それを口にすれば、はにかみ屋の恋人は恥じらって、
「そういうこと、さらっと言わないでくださいってば!」
と、反発してくるかもしれない。
そんな君が愛らしくて、だからつい、「そういうこと」を言いたくなってしまうのだよ。――笑いを含み、言いたい言葉をあえて飲みこんで、立ち去っていく恋人の背を見送った。
疲労回復の魔法をちょっぴりかけたハーブティーと温めなおした焼きパンを、ふたりでゆったりと楽しんでいたのだが、ふと、森の魔女はテーブルの下に何かを見つけた。
それは、灰白色の羽だった。風きり羽だろう。汚れも傷もなく、きれいな状態だった。
羽を拾い上げた森の魔女はそれを空にかざして見る。森の魔女の人差し指よりちょっと長いくらいの大きさだった。
「鳥の羽根はお守りになるんですよ」
言ってから、森の魔女は何か思いついたように、セレンに顔を向けた。
「王子、ここで魔法を使ってもかまいませんか? たいそうなものじゃないので、周りに影響は出ませんから」
「構わないが」
「すぐに済みますから」
森の魔女は小走りになってテーブルから離れた。セレンは興味深げに森の魔女を見やる。そういえば、森の魔女が魔法を使うところを見るのは、久しい。
森の魔女はきょろきょろとあたりを見回し、やがてまだ背丈の低い桂の傍に立った。一言二言、桂の樹に話しかけているようだ。それから手に持っていた白い羽を空に掲げて、呪文を唱える。光の粒が、きらきらと森の魔女に降り注いでくる。神秘的な光景だった。
森の魔女は羽を持っていない方の右手もあげて、まるで光の粒を掬うようにゆっくりと動かす。光が、弾く。小さな光の粒がキラキラと光を弾かせながら森の魔女の周りを舞っている。光の螺旋が森の魔女を包み、やがて薄らぎ、消えていった。消えた瞬間に、森の魔女の足元から風が起こり、長い黒髪がふわりと浮き、揺らめいた。
セレンはほとんど無意識に立ち上がり、そして森の魔女のもとへと駆け寄っていた。
風がやむ。同時に、セレンは森の魔女を背後から抱きしめていた。
「お、王子?」
「…………」
いきなり背中から抱きしめられ、森の魔女はうろたえた。
「えっ、あのっ、な、なんですか、王子?」
セレンは黒髪に顔をうずめた。抱きしめる腕の力はきつく、森の魔女を放すまいとする。
「……君の……」
「え?」
抑えられたセレンの声は、どこか苦しげだった。
「……君の背に、もし羽根があったなら、きっと私はそれをもぎ取ってしまうだろうな。――君を、飛び立たせないように」
語尾に、苦笑が重なった。愚かしいことを言っていると、自嘲しているようにも聞こえた。
森の魔女は力を抜き、セレンに抱き締められるままになった。
「……王子……わたし、どこにも行ったりしませんよ?」
「…………」
セレンの心情を察したのか、森の魔女は真摯な口調で応えた。
私を置いて、どこにも行かないでくれ。そう言われた気がしたのだ。
――置いていかないで。
その気持ち、その怖れを、森の魔女も知っている。
だからセレンの気持ちは痛いほどに分かる。そしてそれは、森の魔女もセレンに願うことなのだ。
――傍にいて欲しい。どこにもいかないで。
それはきっと贅沢な願いだ。でもそれを、セレンも同じように想っていてくれたのが、森の魔女には切なくなるほど嬉しかった。
セレンの不安を拭うように、森の魔女は言い添える。
「もしも飛ぶのなら、……王子と一緒に、です。いつまでも王子と一緒、ですから」
「……キラ」
セレンは恋人の名をささやく。森の魔女の秘された名。その愛しい名を。
腕の力を少し緩め、セレンはキラの黒絹の髪に唇を落とした。ゆっくりと伝うように滑らせ、耳朶へ、そしてうなじへ、口吻を当てる。息を吹きかけ、すこしだけ舌を這わせた。
「――っ、ひゃぁっ!!」
セレンの熱い息がかかった瞬間、キラは空へ飛んでいくどころか、地に落下した。がくんと膝が折れ、声を上げたと同時にその場にへたり込んでしまった。
「……あぁ、ごめん」
セレンはいたずらっぽく笑い、その場に座り込んでしまったキラに手を差し伸べた。
「そこ、敏感なんだね、魔女殿?」
セレンはキラが手で押さえているうなじを見やり、笑い含みに言う。
「もうっ、王子ってば!」
「立てるかい? 立てないようなら抱き上げて」
「立てますってば!」
「たっ、立てますってば!」
キラはセレンの手を掴み、慌てて立ち上がった。セレンはというと、「それは残念」と笑っている。
「もう王子ってば、わざとでしょっ!?」
キラは真っ赤になった顔をそのままに、頬を膨らませる。
「王子、もう休憩時間はおしまいです! 仕事に戻ってください! じゃないとわたし、今日はもう帰りますからねっ」
いたずらっ子を窘めるかのように、キラは言葉尻をきつくあげてセレンを叱りつけた。
「それは、困るな」
仕事に戻るとするよ、とセレンは言うが、掴んだままのキラの手を放そうとしない。
「怒ってる?」
「怒ってません、けど」
もうからかうのは無しですよ、とキラはちょっと拗ねたような顔だ。
セレンは「悪かった」と謝罪するが、失笑を堪えている様がありありとわかる。キラは大きなため息をつき、「ちゃんと仕事に戻ってくださいね」と念を押した。
「うん。君を帰したくはないからね」
「…………」
結局、キラに勝ち目はないのだ。
甘やかに微笑まれて、キラは己の負けを認める。セレンには一生敵わないだろう、と。
同じことをセレンも思っているとは、知る由もなく。
気を取り直し、キラは「お茶を淹れなおしてきます」と、セレンに告げた。
「あ、そうそう、これ」
キラは白い羽根を、セレンに差し出した。
「守護術が施されてますから、ちょっとしたお守りになります。本の栞にでも使ってください」
「もらっていいのかな?」
「もらってほしいんです、王……セレンに」
キラははにかんだ笑顔を見せた。笑ったり怒ったり拗ねたり。キラの表情はくるくると変わって、陽の光そのもののようだ。セレンの心を光で満たし、和ませてくれる。
セレンに羽根を手渡すと、新しいお茶を淹れ直すため、キラは小走りになって中庭を出ていった。
「……ありがとう、キラ」
受け取った羽根に口づけて、セレンは呟く。
浅ましいとすら言える私の願いさえ、魔女殿にあっては、かたなしだね。
無垢な魔女の魔法が、セレンの心に安らかさを浸してゆく。
それでも、滾る想いは消えることがない。
光を放つ森の魔女を、自分という籠の中に閉じ込め、自分だけのものにしたいという、その恋情は―――
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✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
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